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若者の自立と意欲に拍手--心理、教育、社会性の発達(4)

2005/08/22
若者の自立と意欲に拍手--心理、教育、社会性の発達(4)

1.若者自立塾記念講演会
8月21日(昨日)、船橋商工会議所で開かれた「若者自立塾記念講演会」に行った。厚生労働省と千葉県の事業のひとつである。
http://99521633.at.webry.info/200508/article_3.html
お目当ての放送大学の宮本みち子教授(元千葉大学教授)の講演は、さすがに網羅的で調査の実際にそった分厚いものだった。わかってはいたが、「ニート、中退、不登校は、同根の問題」と言うことが強調された。懇親会では早速名刺を交換させていただいた。
さて、宮本先生の講演はさておいて、面白かったのは、その他の関係者(若者自立塾で指導員となる皆さん)のお話だった。
1)ニートは、金も学歴もなく、社会に出てゆく自信もないヒトであるという定義に、演劇集団銅鑼の代表者は、"まるで自分たちのことのようだが、そんな自分たちが他人に感動を与えるという明確な目的意識で、生き生きと活動している。若者と一緒に感動を作り出すことが出来ればこの塾は成功ではないか"と語って会場の拍手を獲得していた。生身のヒトとの交流を避けているニートが、ヒトと交わる大きな機会がおとづれることが期待された。
2)千葉大教育学部の体育教師の徳山教授は年間半分は海外遠征をしているロッククライマ(フリークライマ)が定職にはつけない実態を語って、お金よりも彼らにとって「あの壁を登りたい」ということが目標なのです、若者には多様な目的を認めてあげる必要があるのではないだろうかと述べた。
3)ジェフ市川の専任コーチ(事実上のマネージャ)氏は、"直近1年間で約4万人の小学生と会って握手した。挨拶をして握手する。子供たちはそのとき感動してくれるだけではない。サッカーの会場に来ても、大声で(選手名ではなく)私の名前を叫んでくれるのである。逆に言えば、そんな単純な交流でさえ今の小学校ではされていない。第一に自分が呼ばれていった小学校で、私から「おはようございます」と声をかけても、返事をしないかったり、逃げていってしまう教師さえいる、これでは挨拶の出来る子が育たなくて当然ではないのか"と、語ったときにはさすがに会場はシンとなってしまった。教師が「社会性を育む」どころではなく、教師自身が社会性を身に着けていないのである。
4)最後に登場したシンガーソングライタ(千葉大学修士課程在学)は、プライドを忘れず、"負けまいとしてここまでやってきました、もう辞めろという圧力は、今の若者にかけないでください"と訴えて、自分の歌を2曲歌った。2
つ目の曲は、元の彼女と長い時間をかけてやっと普通に話が出来るようになったという長い心の変遷をつづった「パラレル」という歌である。恋は苦しくとも若者の社会性を美しく磨き上げるのである。

これらの発言を聞きながら、人はパンのみにて生きるにあらず、と言う言葉を思い起こしながら、もう一つのことを考えていた。
若者は、いつの時代も、トンガって生きていた。誰にも認めてもらえない渇きに耐えながら、いつか見ていろ、他人か認めてくれる自分になってみせる、と思っていたに違いない。
30年前や40年前の自分もそうだった。トンガって生きて、ぶつかって傷ついても、精一杯ぶつかった結果なら傷のいえるのが早かった。他人に言われてやってみて傷ついたのなら、もう、勧められても、立ち上がる気がしなかっただろう。無鉄砲が若者の特権である。
トンガってやってみるとは、とりもなおさず、個性(パーソナリティ)を確立する過程ということではないのかと思う。
若者の諸君よ、トンガってやってみることはいいことだ。他人に迷惑をかけない限りは、やってみろ、徹底的にやってみろ、やって傷ついて考えて、一歩たくましくなって立ち上がる。そうして若者は大人になってゆくのではないのか。
家庭も学校も企業も社会も、もっと若者にトンガることを許容し、「若いんだから、やってみたらいい」と、昔のようにおおらかに言って上げられたら、社会性を育むいい機会になるのではないのかとおもった。
楽観的に過ぎるかも知れないが、ちょっと感動を感じながら、講演を聞いていた。

2.アイデンティティの欠如とその原因
実は、長年教育の現場にいた私の父が2年前に亡くなる数か月前に、「今の若者にはアイデンティティが欠如している。ここに問題があるな」と、親殺しのニュースや荒れる学校、ニートなどのニュースを見ながら口にした。てっきり、父親はボケたに違いないと思った。しかし、父がなくなった後の2年間、この親父の言葉をかみしめた。青年たちが社会性を獲得できないことと、アイデンティティが確立できないことには、同じ原因が潜んでいるに違いないと思えるようになってきた。親父はきっとボケてはいなかったのである。
若者は、社会性を獲得する過程で、アイデンティティを確立しようともがき苦しむ。しかし、現代日本の多くの若者はその努力が報われないか、努力すらくじかれてしまうのである。若者がアイデンティティを確立しようともがき苦しむのは自然なことである。だれも一人前として認めてくれない少年・少女の時期を経て、ひとかどのヒトとして誰からも認めてもらえるようになりたい、と願うのは、社会の一員として自分が他のヒトにはない何かを提供できることを訴えたいからである。この訴えに成功すれば、「面白い奴だ(周囲を明るくする)」とか「頭がいいね(知能で社会の人を助けてくれる)」とか「英語がうまい(英語で役立つぞ)」とかいうように自分が社会に受け入れてもらえる大きなチャンスがやってくるのである。それが、いくつかの理由で、大きく阻害されているのが、日本の現状なのである。
教職課程の「教育心理学」に問題があるということはすでに指摘した。社会性のない教師が子供たちの社会性を育てないという問題である。原因は同じかも知れないが、子供たちは教室で強い斉一性圧力にさらされているのである。私の息子は、高校生のときに教師から他の生徒たちの面前で「なぜ君は国語の成績が他の生徒より、飛び切りいいんですが? こういうことはみんなの迷惑ですからやめてください」といわれたそうである。息子は「ボクが悪かったんだ。先生にもクラスのみんなにも悪いことをした」と言って、しょげていた。そして父親である私に救いを求めていた。私は、息子の学校での進路相談の機会に担任の教師にこの件の考えを思い切って切り出してみた。担任の教師は国語の担当ではない。学生時代は全国大会にも出場した陸上選手だったという。体育会系であることに私は賭けたのである。「先生、この話についてどうお考えですか? 競技会で優勝した子供には、よくやったとほめるのではないでしょうか。うちの子は、全般に成績優秀とはいえませんが、小学校時代から言語能力だけは突出しており国語の成績だけはよいのです。そこしかとりえのない子です。国語の成績が他の生徒より成績がよかったら、ほめられずに、くさされてしまう、というのはどうにも納得が行きません。ほめてくれないまでも、黙っていてくれてもよかったのではないでしょうか(私)」担任の若い女性は、父兄の思わぬ発言に、しばらく黙り、そして「私の場合、競技には子供たちを勝たせたくて送り出します。生徒が勝ては本人も私もうれしいです。教科でも同じだと私は思います。職員室での話題にしたいと思います」と言った。私はあわてた。「いや、うかつに取り上げられて、子供がまた攻撃の対象になるのはごめんです。体育会系の先生以外にはわかりにくいお話でしょう」と私。しばらく、教師は私を観察していて、「あの~、失礼ですが、教育関係の方でしょうか」と聞いてきた。"小学校や中学の運動会で一等賞になる子供がいることに反対する教員が多くて、子供たちに手をつながせて、一斉にゴールさせ、「みんな一等賞ね」という学校も多いのだ"と教員は憤慨して話した。"自分はあなたと同じ意見なのだから、同調してほしい。あなたは、もしかして、そんな変な平等主義がはびこる教育現場に疑問を抱く教育関係者なのではないか"と、はやる気持ちが伝わってくる。「いえ、大学の非常勤講師をしていますが、教育関係者といえるほどのものではありません」と私。このままでは、息子が、学内で多数を占めるはずの斉一性圧力の原因教員たちの餌食になると、私はますますあわてた。ええい、ままよ、「たまたま私の兄弟がこの学校で教員をしていますが」と防戦する。「えっ、どなたですか。男性ですよね」と教師。「いえ、姉です。嫁に行って苗字が変わっていますが」と私。「誰ですか」と教師。「申し訳ありません。これ以上は勘弁してください」と私。実際、私の姉は、たまたまこの時期にこの高校で世界史の教師をしていた。何度も押し問答をしたが、議論はこれで終わった。
その後の様子では、このやり取りが効いたのか、息子が教師からいじめに会うことはもうなかったようだ。しばらくたって、年齢から割り出して、結局、私の姉が誰かをこの教員は突き止め、私の姉に事の顛末を語ったようである。
学校教育の現場での斉一性圧力はぬぐいがたくきわめて重いものがある。社会性を持たない教師たちの身を守る方略が斉一性圧力なのである。個性的な子供たちをそれぞれに受け入れることなど、個性の複雑な組み合わせで出来ている社会の成り立つを理解しない人格=教師には対処しようのない仕事である。子供たちの個性(よいところ)を認めないという、とんでもない教育現場なのである。個性は育たないどころか、教師によってくじかれてしまうのである。
教師による児童・生徒に対する斉一性圧力と期を一にしているものに「いじめ」がある。子供たちのいじめの遠因を作るものは、教師特有のビリーフ性に基づく欲望の抑止と斉一性圧力(社会性が欠落したままに実行される)だろうとは私がにらんでいるところである。
学生たちに「正直なロバは疲弊する」という話をしたところ、どの大学でも約30%の学生が、自分が「正直なロバ」にされた経験があると回顧している。成長の過程で子供たちは身近な集団に加わることによって社会性を獲得してゆくのであるが、集団に居場所を見出すにはその集団に何がしかの貢献が求められる。社会性の未熟な純真な子供はすれっからしの集団のボスや兄貴分のワナにはまっていいように使われてしまう。「俺たちが好きなんだろう。やって来いよ。じゃなければ、もう仲間にしてやらないからな」と万引きなどの悪事を命じられたり、「俺たち友達だよな、小遣いを貸してくれよ」とお金をせびられたり、そこまで行かなくともバシリになってしまうことがしばしば生じているのである。マスコミで報じられたとおり、それに従順にしたがって、ついには自殺してしまった子供たちもたくさんいた。一方で、その理不尽さに気づいて、一切の集団に参加することをあきらめてしまう子供たちも多いのである。社会性が育つ機会がないのである。ましてや、自分が目立って、いじめ集団の餌食になるのは真っ平なので、トンガって個性を主張することなど到底ありえないのである。おとなしいが積極性のない子供たちばかりが増えてゆく。
つくづくと、"その集団が善良であれば存在を許され、善良でなけば存在が許されない"という事実を子供たちが目の当たりにする機会が多ければ、子供たちの心に"善良な集団を選択する"という方略が芽生えるであろうに、と思う。われわれの子供のころの学校では、悪がきの集団は教師の拳骨の嵐を見舞われ、地域では大人たちの厳しい監視下に置かれた。年長の子供たちがズルをしてまじめな小さな子に負担がかかりすぎていれば、そのグループに分け入って厳しく指導した。多くの純情で幼い子供たちは、善良な集団がどこにあるかをすぐに知ることが出来、ここに加わることで社会性を獲得していった。善良でない集団を見分けるすべも次第に身に着けた。現在の教師にはそれらを指導するだけの時間はあっても能力がないのである。勘所が分からないので時間を費やしたところで解決できないのである。地域の親たちにもその習慣がなくなっている。

3.グループ学習活動
私は、かなり以前から、大学の教育にグループ学習を取り入れている。授業時間になると学生たちが黙って教室に入ってきて、いすに座り、授業が終わると、黙って教室を出てゆく、大人しい学生が多いことに気がついたからである。"彼らに、大学で友人がいるのだろうか""授業で聞いた話題を侃々諤々友人と議論することなどないのではないのか"と心配や不安が高まった。
まず私が始めたのは、授業のはじめに大声で挨拶することだった。朝でも昼でも夕刻でも、私は授業の冒頭に大声で「おはようございます!」と叫ぶ。学生らの返す声は小さい。あまりに小さいともう一度挨拶をやり直す。学生らは照れくさそうにクスクスと笑う。この照れ笑いこそ教師と学生のぬくもりのあるコミュニケーションの第一歩である。挨拶をするようになってから、授業後、教壇に立ち寄って質問してゆく学生が増えた。シメたと思った。
つぎに私がはじめたのは、グループ学習である。学校によって、とてもうまくゆくところとそうでない学校がある。地方出身者の比率が高い教室では成功率が高く、都会の子供たちばかりの教室はうまく行かない傾向がある。地方ではまだ社会性を育てる環境が残っているが、マンションやアパート暮らしの都会では近隣との交流もほとんどないので社会性の萌芽さえ育っていないようである。
グループ学習には批判もある。実習でもないのにグループ活動はないではないか、とか、グループ学習にすると各自が勉強せず誰かが犠牲になってしまう(正直なロバは疲弊する)、などというものである。批判にもめげずに、頑固にグループ学習を進めている。私はグループ課題を発表するときには、「他人任せにすると、一人の勘違いでグループ全員が悪い成績になるぞ。それも自分の責任だぞ。自分が安心できるまでお互いに点検したから提出しろよ」と毎回怒鳴る。学生たちは"あっ、ホントだ。たいへん"とやっと感づいて、放課後に皆で集まる相談を始めたりしている。グループで課題に取り組むのは楽ではない。連絡を取り合って、休日や昼休み、放課後に集まっては相談する。一人でやるよりも3倍も4倍も時間がかかる。最初は不平たらたらである。それでも、学期の最後には、「グループの課題は楽しかったです」「グループ学習のおかげで、大学で初めて友達が出来ました」「グループで討議すると一人では気づかなかったことに、気づかされたことが多かったです」というような、感想が聞かれるようになる。学生らは小学校のお遊戯くらいしか、グループ活動の記憶がないというのである。社会性を獲得できる10歳手前くらいには教師の指導を受けるグループ活動はなくなっているのである。いじめや学級崩壊は、教育実践としてのグループ活動がないところに起こっているのではないだろうかと私は愚慮している。
そして、さらに私には、社会性が育たないところではヒトの知恵は育たない、と確かに思われるのである。
「記憶」の社会性--心理、教育、社会性の発達(3)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/08/3_e921.html
情報システムは、社会や社会的組織の仕組みがわからなければ理解できないし、ましてや作成などおぼつかない。プログラマは階層構造をなすソフトウエアの完成形を予見して、多くの場合はそれを下位から上方に向けて記述してゆく。場合によっては上部から下位に向かって記述する。階層は数個から数万に及ぶ場合もある。階層構造の思考方法に習熟しない限り、SEやプログラマには決してなれない。文法を丸暗記してもプログラマにはなれないのである。その意味で社会性の獲得は私の授業の必須条件である。グループ活動は、座学中心の私の授業の不可欠な要素なのである。
グループ活動の大家と言われる方は別に多くいることは知られているとおりである。しかし、システム工学、情報社会学、情報組織学、情報デザインを教える私にとっては、やむにやまれぬ授業プログラムの一環なのである。

4.ブログ作成指導と組織論講義
今年、受け持った三大学4クラスの学生は合計すると春学期の半期だけで約200名になる。例年よりもやや少なめである。クラスごとに新しい試みは当然異なるが、全クラスに共通して今年に限ってはじめたことは、2つある。ブログ作成指導と組織論講義である。
(1)ブログ作成指導
かなり勇気の要る決断だったが、学生らにブログの作成に取り組ませた。学生たちに、思いっきりトンガってもらおうと決心した。
しかし、社会性は著しく低いままに大学に来てしまった若者たちのことである。いろいろと気遣うことは多い。まず、社会性が低いことは学生も自身で感じていて、何よりも引け目を感じている。「いいんだ、社会性が低いのは君たちのせいではなくて、君たちに社会性を育てる機会を与えなかった大人たちが悪いのだ」と言ってあげるのである。学生たちはホッとした表情になる。ネチケットを教えるふりをして、ヒトは被害者になったり加害者になったりしないように細心の注意を払って生きてゆかなければならないということを繰り返し教える。「道徳」とか「倫理」とか言う言葉は禁句である。とたんに学生らは耳を閉ざしてしまう。「道徳」とか「倫理」を教えた中学・高校の教師は、もっとも教育スキル低い教師たちであったことを彼らは知っているのである。数学や理科、国語や歴史など専門性の高い教科を教える教師は高い教育スキルが要求される。これらの専門科目を教えるスキルが十分にはない教師が「道徳」や「倫理」に割り当てられている。馬鹿が教える「道徳」「倫理」、という観念が学生の耳をふさがせてしまう。せめて「情報倫理」などと目新しい言葉に置き換えて教える。ネット上での特殊性もそのついでに教える。自分の個人情報はネットに書き込まないこと、他人を名指しで批判することはネット上では禁止であることも教える。著作権も教える。そしてやっと個人のブログの立ち上げにいたるのである。
学生は、歓喜の声を上げて喜ぶ。"やった、これでトンガって自分の書きたいことが何でもネット上でかけるぞ"と浮き足立つのである。私は、待てと叫ぶ。「君たちの親や兄弟は、君のブログを読むかも知れないぞ」「他の教科の先生たちにも私のクラスのみんなのブログは教えるつもりなので、他の先生たちも君たちのブログを読むに違いない」と説明する。学生たちは、し~んとなって真剣なまなざしになる。加えて「もちろん、クラスメイトも読むだろう」と私は続ける。学生はお互いに顔を見合わせる。私はここぞとばかりに語気を強めて、「それだけじゃない、元カレや元カノジョも読んでいるかも知れないんだぞ」というと、教室内からは「ひぇー」というような悲鳴さえ聞こえる。社会性の獲得は、恋愛の感情ときわめて密接な関係にあるのである。
かくして、学生たちのブログは、普段のあの学生たちなのか、と思うほど、すばらしい哲学に満ちた記述が行われるのである。私は、thought leader's opnionとしてのブログの記述を推奨している。たまには勘違いして、thought leader's opnionであるはずのブログをWEB日記にしてしまって、テレビで見たアイドルがかわいかった、などと言うような記事ばかり書く者もいるが、メールで、元カノジョが読んでいるかもよ、と警告を伝えると、あわてて、幼い記述を消して、哲学的になってゆくのである。カノジョやカレの前ではお行儀がよくなり、互いに預言者のように哲学的な自分を見せたいというのが恋する若者の心情なのである。トンガってみたいのは、誰からも認めてもらいたいから、という矛盾したハザマに若者はいて、見事に社会性をみがくのである。
ブログは社会性を磨く時宜にあったよいツールであると思っている。以前はホームページ制作がこれに該当したかも知れないが、ブログのほうが自己発現にとってより直裁的である。
(2)組織論講義
どの大学も今年初めて行ったもののひとつは組織論の講義である。
「戦略的情報組織学(再論)--社長の条件(8)」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/08/8_600d.html
「社会は組織によって成り立っている」こと、「組織は定常流的実在でコンクリートで固めたようなものではない」こと、「組織はネットワークと階層構造という横軸と縦軸によって支えられ、また絡めとられている」こと、「ヒトは組織に貢献することによって対価と安全を保障されている」こと。「組織もまた所属するネットワークや上部組織に貢献することによって存在を保証されている」こと、「どんな組織にも理念や目的がある」こと、「その理念や目的が反社会的なものであれば、所属するネットワークや上部組織に守られることがないので、競争に敗れてやがて消滅する」こと、などを述べた。つまるところ、社会に貢献する活動を主たる目的とする組織以外は社会から排除されるのであり、ヒトは社会に貢献する活動に参加することによって生かされているのであると言う説明である。
学生たちは、寡黙になり、下を向いたり、天を仰いで話に聞き入っていた。授業の後には「これからの人生が金のためだけかと思うと社会に出たくなかったが、そうではないことがわかって、気分が晴れた」とか「金ばかりが人生ではないとわかって、思わず涙がこぼれた」とかいう感想が寄せられた。これらのことを自分のブログに書いているのである。若者はパンのみにて生きることのむなしさを感じており、金でつられて生きるおろかさを知っているのである。
某金満家がテレビ局の買収に失敗したのは、関係者の私利私欲を社会貢献と言い換えたために社会の反発を買って支持を失ったからなのだという例話もした。一部の金満家ファンの学生も含めて学生らの同意は得られたようだ。社会貢献しない活動や提案は社会の支持が得られないということである。
「社会に貢献するとは何か」の答えの仮説としては、「(多くの哲学者が言うように)ヒトは安全で健康に恵まれて文化的に生活が送れて、ヒトの子孫が繁栄すること(LOHAS)を究極の目的にしている。これを"生の維持と生の再生産"と言う」としてある。"これは私の仮説だから、別の考えがあっても良い、反論は大いに結構"と話すことにしている。
トンガって、トンガって、若者よ、もっとトンガって生きてみよう。社会に迷惑をかけるようならやめればよいが、迷惑なことでなければ、徹底してやってみよう。誰かが、君を認めてくれるだろう。その人は、未来の君の最良の伴侶かも知れないし、君の将来の雇い主かも知れない。周囲で認めてくれる友人が本当の友達だろう。少なくとも、私という君たちの教師の一人は、いつも、君たちのトンガりに拍手を送っていることを忘れないでほしい。

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琵琶

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私は障がいを持つ方の福祉施設職員です。障がいを持つ方が就職に向けた訓練として施設で作業を行っております。私は支援を行う立場でありますが、どうしたら社会性を育むことができるかを悩んでおります。社会性を伴わない就労は続かないという思いから先生のブログにたどり着きました。障がいを持つ方だけでなく、地域社会のつながりの衰退による孤立化や生活への不安感などが広がっている様子も目の当たりにしております。このような状況を打開するため、先生のブログがよい刺激となり社会性について勉強させていただいております。私には内容が難しいのでじっくり読ませていただいております。ご活躍をお祈り申し上げます。

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