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個性と社会性--心理、教育、社会性の発達(5)

2005/08/29
個性と社会性--心理、教育、社会性の発達(5)

「社会性」と「個性」と言うものは、しばしば二律背反する概念のように考えられてきたのではないだろうか。個性のある者は社会性に欠如し、社会性の発達している者は没個性であるという具合である。
しかし、これは本当だろうか。
私たちが直面している日本の社会的現象は、そのように単純なものでないように感じられる。社会性に富んだ人物ほど個性的であることにいつも驚かされる。広範な知識を持って人格円満な方ほど、他人の追随することのできない技芸に通じていたり、クラシック音楽や文人画に明るい一面を盛っていたりする。高尚な趣味と言うわけではないが、ひとかどの人物といわれる人はその道で突出してすぐれた能力を発揮している。一つでよいが、何かすぐれた点がなければ、社会はその人を受け入れないのではないだろうか。社会性を獲得するとは、とりもなおさず、身近な社会的集団(身近な組織)がその人格を受け入れるということによって磨かれて鍛えられ、そして、ついには証明されるものである。
一方、身近な社会的集団(身近な組織)にすでに存在するすべての個性を上回る能力を満遍なく持っている若者がやってきたら、どうだろう。その集団は果たしてその若者を受け入れるだろうか。きっと反発し、いやな奴が来たとばかりに仲間に入れることを嫌うに違いない。どんぐりの背比べの仲良し少年草野球チームに、プロの養成を目指す野球教室の優等生が突然やってきたようなものである。少なくともひと悶着は避けられない。それまでの組織のリーダと陰に陽に一戦交えるか平和的交代を模索する必要がある。それまでのリーダよりもぬきん出てすぐれていれば、平和的交代が可能であるが、大差がなければひと悶着が起こる。これを女性の地位向上に生涯をかけた市川房江女史は「出る杭はうたれるが、出すぎた杭は打たれない」と表現した。新たに参入する若者がそれほどはすぐれてはいないが、その少年が持ち合わせている一つ二つの個性と才能が既存の集団の中でバッティングしそうなライバルとなりそうな同等の人物がいたらどうだろう。よほど、うまくそのライバルと仲良くなる以外にその集団の中に溶け込むのは難しい。いずれにしても、少年たちにとって、組織に馴染むためには、ひと悶着が避けられない。これを切り抜けてこそ、社会性を獲得するのである。これは、どうやら、少年たちに鮮烈な体験を強いる発達のためのイベントらしい。私もその体験をしてきたが、多くの大人の男性にとってもそうだったに違いない。「青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの 青春時代の真ん中は 胸に 刺 ( とげ ) さすことばかり」というフォークソングがあったが、「胸に 刺 ( とげ ) さすこと」の大半は、仲間と親密になりたいと思えば対立し激しく争わなければならないことだったのではないだろうか。たまたま、その少年のもつ才能が既存の集団の中でバッティングしないし、必要としているものであれば、集団は「面白い」とか「役に立つぞ」とか言って、難なく、受け入れるに違いない。しかし、集団の規模が大きくなるとどうなるだろうか。衝突する個性が多くなり、トラブルは避けられなくなる。少年たちはそのトラブルに正面から立ち向かい、解決のためにいろいろな知恵を絞り、切り抜けてゆくのである。こうして、少年は周囲の空気が読めるようになり、社会性を獲得してゆくのである。
それでは、個性を持たない少年は、どうなるのだろうか。周囲の大人が、上手に(選択的に善良な少年の集団に)誘導しない限り少年たちの集団に「役立つ人」でも「面白い奴」でもないので、仲間に誘われることはない。少年は集団に入ってその中で社会性を磨くのである。まだ集団に入る前にはも社会性を獲得していないので、進んで仲間に入ることができない。大人たちの誘導で一度は仲間に入っても、個性のない子はやがて集団から脱落してしまう。集団に入れば、その集団の中での役割を求められる。多くの場合は、他のメンバーが持っていない何かの力を発揮しなければならないのである。個性が求められるのである。他のメンバーが持っていない何かの力を発揮したとき、初めてその少年はその集団の一員として公認されるのである。個性は集団参加への一歩をいざない、集団に参加することによって個性は育つのである。社会性の発達と個性の発達は表裏の関係である。
ここでは「少年」に限ってのべたが、少女たちの場合は、少年たちとはまた異なる複雑性を見せる。それは、別の機会に述べたい。少女たちは、少年よりも早く個性を獲得し、このことが集団への参加の仕方をより複雑にしているように見られる。
そこで、大人たちは悪意ある集団(たとえばいじめの獲物を虎視眈々と狙う陰湿ないじめ集団、万引きや親父狩りの犯罪集団など)を敢然として排斥し、善良な集団にわが子や教え子を上手に誘導し仲間にしてもらおうと腐心するのである。これは大変に手間のかかる仕事である。昔の親は、「すいませんね。うちの子をお仲間にしてあげてください」と近所の子供たちとその親たちに頭を下げて歩いたものである。この仕事の多くは、良し悪しは別として、かつては家庭にいる母親の仕事だった。教師も教室の子供たちの(休み時間の)行動を観察して、善良な小集団をうまく育てることに心を砕いてくださったものである。現代の親は、両親ともに忙しい。今は、「すいませんね。うちの子をお仲間にしてあげてくださいね」と言って歩く親はほとんどいないのである。教師も善良な小集団をうまく育てるなどと言うことは、指導要領には書かれていないし、大学の教職でも教えられてはいない。まして、休み時間に子供たちを観察するなんていうのは劣悪労働以外の何者でもないではないか、教師だって休憩したいと思ってしまうのである。それに、多くの教師にとっては自身の体験にもないことなのである。特に女性教師は幼年少女青年期を女性差別の時代に育てられているので、不幸なことに「社会性の育成」の対象外におかれてきたのである。男性教師よりは大きなハンディを負わされている。
忘れてはならないことは、少年や少女は、社会性を獲得するために個性を育ててゆく。それぞれの個性を育てるために、仲間を集うのである。

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ところで、この「鐘の声」ブログから、特定のテーマのものを抜粋して、「特集」が作られている。私の会社のスタッフが作ってくれたものである。
http://www.sciencehouse.jp/company/presblog.html
この中には、「社長の条件」「妻が車に撥ねられる」があったが、最近「心理、教育、社会性の発達」が加わったようだ。
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特集1 社長の条件
http://www.sciencehouse.jp/materials/blog2.pdf
次期社長候補に期待する社長の独白がこれであり、いくつかの記事は2005年の早い時期に執筆された。執筆してブログに掲載されるとたちまち評判になった。いまも書き続けられている。

特集2 妻が車に撥ねられる
http://www.sciencehouse.jp/materials/blog1.pdf
事故の瞬間から、生死をさ迷う奥さんに付き添い、ありとあらゆる交渉ごとをこなした社長の、ある意味で男としての生き様の記録である。

特集3 心理、教育、社会性の発達
http://www.sciencehouse.jp/materials/blog3.pdf
この記事が記載され始めると、社長の個人ブログ「鐘の声」は、数千の「祇園精舎」ブログをものともせずに、googleのトップページに登場した。
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ブログ「鐘の声」の「心理、教育、社会性の発達」が、評判になったからという理由らしい。なんだかこそばゆいが、大学教育ばかりではなく、社員教育にも直結するので、まぁいいかな、と思っている。

◎2009/02.15 注記◎
その後、別サイトに「鐘の声 ブログ」を整理するページが出現したので、「特集」は取りやめになった。データは残っているようだが更新されていない。
「特集」のページに当たるものは、次のタイトルで公開されている。
 個人ブログの紹介
http://heartland.geocities.jp/mori_biwa/my_blog/my_blog.htm
「特集1」「特集2」「特集3」に当たるのは、次のページである。
個人ブログ: 「社長の条件」シリーズ
http://heartland.geocities.jp/mori_biwa/my_blog/my_blog_shya01.htm
個人ブログ: 「妻が、車に撥ねられる」シリーズ
http://heartland.geocities.jp/mori_biwa/my_blog/my_blog_tsuma01.htm
個人ブログ: 「心理、教育、社会性の発達」シリーズ
http://heartland.geocities.jp/mori_biwa/my_blog/my_blog_shin01.htm

△次の記事: 心理、教育、社会性の発達(6)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/09/6_9cb7.html
▽前の記事: 心理、教育、社会性の発達(4)
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琵琶

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若者の自立と意欲に拍手--心理、教育、社会性の発達(4)

2005/08/22
若者の自立と意欲に拍手--心理、教育、社会性の発達(4)

1.若者自立塾記念講演会
8月21日(昨日)、船橋商工会議所で開かれた「若者自立塾記念講演会」に行った。厚生労働省と千葉県の事業のひとつである。
http://99521633.at.webry.info/200508/article_3.html
お目当ての放送大学の宮本みち子教授(元千葉大学教授)の講演は、さすがに網羅的で調査の実際にそった分厚いものだった。わかってはいたが、「ニート、中退、不登校は、同根の問題」と言うことが強調された。懇親会では早速名刺を交換させていただいた。
さて、宮本先生の講演はさておいて、面白かったのは、その他の関係者(若者自立塾で指導員となる皆さん)のお話だった。
1)ニートは、金も学歴もなく、社会に出てゆく自信もないヒトであるという定義に、演劇集団銅鑼の代表者は、"まるで自分たちのことのようだが、そんな自分たちが他人に感動を与えるという明確な目的意識で、生き生きと活動している。若者と一緒に感動を作り出すことが出来ればこの塾は成功ではないか"と語って会場の拍手を獲得していた。生身のヒトとの交流を避けているニートが、ヒトと交わる大きな機会がおとづれることが期待された。
2)千葉大教育学部の体育教師の徳山教授は年間半分は海外遠征をしているロッククライマ(フリークライマ)が定職にはつけない実態を語って、お金よりも彼らにとって「あの壁を登りたい」ということが目標なのです、若者には多様な目的を認めてあげる必要があるのではないだろうかと述べた。
3)ジェフ市川の専任コーチ(事実上のマネージャ)氏は、"直近1年間で約4万人の小学生と会って握手した。挨拶をして握手する。子供たちはそのとき感動してくれるだけではない。サッカーの会場に来ても、大声で(選手名ではなく)私の名前を叫んでくれるのである。逆に言えば、そんな単純な交流でさえ今の小学校ではされていない。第一に自分が呼ばれていった小学校で、私から「おはようございます」と声をかけても、返事をしないかったり、逃げていってしまう教師さえいる、これでは挨拶の出来る子が育たなくて当然ではないのか"と、語ったときにはさすがに会場はシンとなってしまった。教師が「社会性を育む」どころではなく、教師自身が社会性を身に着けていないのである。
4)最後に登場したシンガーソングライタ(千葉大学修士課程在学)は、プライドを忘れず、"負けまいとしてここまでやってきました、もう辞めろという圧力は、今の若者にかけないでください"と訴えて、自分の歌を2曲歌った。2
つ目の曲は、元の彼女と長い時間をかけてやっと普通に話が出来るようになったという長い心の変遷をつづった「パラレル」という歌である。恋は苦しくとも若者の社会性を美しく磨き上げるのである。

これらの発言を聞きながら、人はパンのみにて生きるにあらず、と言う言葉を思い起こしながら、もう一つのことを考えていた。
若者は、いつの時代も、トンガって生きていた。誰にも認めてもらえない渇きに耐えながら、いつか見ていろ、他人か認めてくれる自分になってみせる、と思っていたに違いない。
30年前や40年前の自分もそうだった。トンガって生きて、ぶつかって傷ついても、精一杯ぶつかった結果なら傷のいえるのが早かった。他人に言われてやってみて傷ついたのなら、もう、勧められても、立ち上がる気がしなかっただろう。無鉄砲が若者の特権である。
トンガってやってみるとは、とりもなおさず、個性(パーソナリティ)を確立する過程ということではないのかと思う。
若者の諸君よ、トンガってやってみることはいいことだ。他人に迷惑をかけない限りは、やってみろ、徹底的にやってみろ、やって傷ついて考えて、一歩たくましくなって立ち上がる。そうして若者は大人になってゆくのではないのか。
家庭も学校も企業も社会も、もっと若者にトンガることを許容し、「若いんだから、やってみたらいい」と、昔のようにおおらかに言って上げられたら、社会性を育むいい機会になるのではないのかとおもった。
楽観的に過ぎるかも知れないが、ちょっと感動を感じながら、講演を聞いていた。

2.アイデンティティの欠如とその原因
実は、長年教育の現場にいた私の父が2年前に亡くなる数か月前に、「今の若者にはアイデンティティが欠如している。ここに問題があるな」と、親殺しのニュースや荒れる学校、ニートなどのニュースを見ながら口にした。てっきり、父親はボケたに違いないと思った。しかし、父がなくなった後の2年間、この親父の言葉をかみしめた。青年たちが社会性を獲得できないことと、アイデンティティが確立できないことには、同じ原因が潜んでいるに違いないと思えるようになってきた。親父はきっとボケてはいなかったのである。
若者は、社会性を獲得する過程で、アイデンティティを確立しようともがき苦しむ。しかし、現代日本の多くの若者はその努力が報われないか、努力すらくじかれてしまうのである。若者がアイデンティティを確立しようともがき苦しむのは自然なことである。だれも一人前として認めてくれない少年・少女の時期を経て、ひとかどのヒトとして誰からも認めてもらえるようになりたい、と願うのは、社会の一員として自分が他のヒトにはない何かを提供できることを訴えたいからである。この訴えに成功すれば、「面白い奴だ(周囲を明るくする)」とか「頭がいいね(知能で社会の人を助けてくれる)」とか「英語がうまい(英語で役立つぞ)」とかいうように自分が社会に受け入れてもらえる大きなチャンスがやってくるのである。それが、いくつかの理由で、大きく阻害されているのが、日本の現状なのである。
教職課程の「教育心理学」に問題があるということはすでに指摘した。社会性のない教師が子供たちの社会性を育てないという問題である。原因は同じかも知れないが、子供たちは教室で強い斉一性圧力にさらされているのである。私の息子は、高校生のときに教師から他の生徒たちの面前で「なぜ君は国語の成績が他の生徒より、飛び切りいいんですが? こういうことはみんなの迷惑ですからやめてください」といわれたそうである。息子は「ボクが悪かったんだ。先生にもクラスのみんなにも悪いことをした」と言って、しょげていた。そして父親である私に救いを求めていた。私は、息子の学校での進路相談の機会に担任の教師にこの件の考えを思い切って切り出してみた。担任の教師は国語の担当ではない。学生時代は全国大会にも出場した陸上選手だったという。体育会系であることに私は賭けたのである。「先生、この話についてどうお考えですか? 競技会で優勝した子供には、よくやったとほめるのではないでしょうか。うちの子は、全般に成績優秀とはいえませんが、小学校時代から言語能力だけは突出しており国語の成績だけはよいのです。そこしかとりえのない子です。国語の成績が他の生徒より成績がよかったら、ほめられずに、くさされてしまう、というのはどうにも納得が行きません。ほめてくれないまでも、黙っていてくれてもよかったのではないでしょうか(私)」担任の若い女性は、父兄の思わぬ発言に、しばらく黙り、そして「私の場合、競技には子供たちを勝たせたくて送り出します。生徒が勝ては本人も私もうれしいです。教科でも同じだと私は思います。職員室での話題にしたいと思います」と言った。私はあわてた。「いや、うかつに取り上げられて、子供がまた攻撃の対象になるのはごめんです。体育会系の先生以外にはわかりにくいお話でしょう」と私。しばらく、教師は私を観察していて、「あの~、失礼ですが、教育関係の方でしょうか」と聞いてきた。"小学校や中学の運動会で一等賞になる子供がいることに反対する教員が多くて、子供たちに手をつながせて、一斉にゴールさせ、「みんな一等賞ね」という学校も多いのだ"と教員は憤慨して話した。"自分はあなたと同じ意見なのだから、同調してほしい。あなたは、もしかして、そんな変な平等主義がはびこる教育現場に疑問を抱く教育関係者なのではないか"と、はやる気持ちが伝わってくる。「いえ、大学の非常勤講師をしていますが、教育関係者といえるほどのものではありません」と私。このままでは、息子が、学内で多数を占めるはずの斉一性圧力の原因教員たちの餌食になると、私はますますあわてた。ええい、ままよ、「たまたま私の兄弟がこの学校で教員をしていますが」と防戦する。「えっ、どなたですか。男性ですよね」と教師。「いえ、姉です。嫁に行って苗字が変わっていますが」と私。「誰ですか」と教師。「申し訳ありません。これ以上は勘弁してください」と私。実際、私の姉は、たまたまこの時期にこの高校で世界史の教師をしていた。何度も押し問答をしたが、議論はこれで終わった。
その後の様子では、このやり取りが効いたのか、息子が教師からいじめに会うことはもうなかったようだ。しばらくたって、年齢から割り出して、結局、私の姉が誰かをこの教員は突き止め、私の姉に事の顛末を語ったようである。
学校教育の現場での斉一性圧力はぬぐいがたくきわめて重いものがある。社会性を持たない教師たちの身を守る方略が斉一性圧力なのである。個性的な子供たちをそれぞれに受け入れることなど、個性の複雑な組み合わせで出来ている社会の成り立つを理解しない人格=教師には対処しようのない仕事である。子供たちの個性(よいところ)を認めないという、とんでもない教育現場なのである。個性は育たないどころか、教師によってくじかれてしまうのである。
教師による児童・生徒に対する斉一性圧力と期を一にしているものに「いじめ」がある。子供たちのいじめの遠因を作るものは、教師特有のビリーフ性に基づく欲望の抑止と斉一性圧力(社会性が欠落したままに実行される)だろうとは私がにらんでいるところである。
学生たちに「正直なロバは疲弊する」という話をしたところ、どの大学でも約30%の学生が、自分が「正直なロバ」にされた経験があると回顧している。成長の過程で子供たちは身近な集団に加わることによって社会性を獲得してゆくのであるが、集団に居場所を見出すにはその集団に何がしかの貢献が求められる。社会性の未熟な純真な子供はすれっからしの集団のボスや兄貴分のワナにはまっていいように使われてしまう。「俺たちが好きなんだろう。やって来いよ。じゃなければ、もう仲間にしてやらないからな」と万引きなどの悪事を命じられたり、「俺たち友達だよな、小遣いを貸してくれよ」とお金をせびられたり、そこまで行かなくともバシリになってしまうことがしばしば生じているのである。マスコミで報じられたとおり、それに従順にしたがって、ついには自殺してしまった子供たちもたくさんいた。一方で、その理不尽さに気づいて、一切の集団に参加することをあきらめてしまう子供たちも多いのである。社会性が育つ機会がないのである。ましてや、自分が目立って、いじめ集団の餌食になるのは真っ平なので、トンガって個性を主張することなど到底ありえないのである。おとなしいが積極性のない子供たちばかりが増えてゆく。
つくづくと、"その集団が善良であれば存在を許され、善良でなけば存在が許されない"という事実を子供たちが目の当たりにする機会が多ければ、子供たちの心に"善良な集団を選択する"という方略が芽生えるであろうに、と思う。われわれの子供のころの学校では、悪がきの集団は教師の拳骨の嵐を見舞われ、地域では大人たちの厳しい監視下に置かれた。年長の子供たちがズルをしてまじめな小さな子に負担がかかりすぎていれば、そのグループに分け入って厳しく指導した。多くの純情で幼い子供たちは、善良な集団がどこにあるかをすぐに知ることが出来、ここに加わることで社会性を獲得していった。善良でない集団を見分けるすべも次第に身に着けた。現在の教師にはそれらを指導するだけの時間はあっても能力がないのである。勘所が分からないので時間を費やしたところで解決できないのである。地域の親たちにもその習慣がなくなっている。

3.グループ学習活動
私は、かなり以前から、大学の教育にグループ学習を取り入れている。授業時間になると学生たちが黙って教室に入ってきて、いすに座り、授業が終わると、黙って教室を出てゆく、大人しい学生が多いことに気がついたからである。"彼らに、大学で友人がいるのだろうか""授業で聞いた話題を侃々諤々友人と議論することなどないのではないのか"と心配や不安が高まった。
まず私が始めたのは、授業のはじめに大声で挨拶することだった。朝でも昼でも夕刻でも、私は授業の冒頭に大声で「おはようございます!」と叫ぶ。学生らの返す声は小さい。あまりに小さいともう一度挨拶をやり直す。学生らは照れくさそうにクスクスと笑う。この照れ笑いこそ教師と学生のぬくもりのあるコミュニケーションの第一歩である。挨拶をするようになってから、授業後、教壇に立ち寄って質問してゆく学生が増えた。シメたと思った。
つぎに私がはじめたのは、グループ学習である。学校によって、とてもうまくゆくところとそうでない学校がある。地方出身者の比率が高い教室では成功率が高く、都会の子供たちばかりの教室はうまく行かない傾向がある。地方ではまだ社会性を育てる環境が残っているが、マンションやアパート暮らしの都会では近隣との交流もほとんどないので社会性の萌芽さえ育っていないようである。
グループ学習には批判もある。実習でもないのにグループ活動はないではないか、とか、グループ学習にすると各自が勉強せず誰かが犠牲になってしまう(正直なロバは疲弊する)、などというものである。批判にもめげずに、頑固にグループ学習を進めている。私はグループ課題を発表するときには、「他人任せにすると、一人の勘違いでグループ全員が悪い成績になるぞ。それも自分の責任だぞ。自分が安心できるまでお互いに点検したから提出しろよ」と毎回怒鳴る。学生たちは"あっ、ホントだ。たいへん"とやっと感づいて、放課後に皆で集まる相談を始めたりしている。グループで課題に取り組むのは楽ではない。連絡を取り合って、休日や昼休み、放課後に集まっては相談する。一人でやるよりも3倍も4倍も時間がかかる。最初は不平たらたらである。それでも、学期の最後には、「グループの課題は楽しかったです」「グループ学習のおかげで、大学で初めて友達が出来ました」「グループで討議すると一人では気づかなかったことに、気づかされたことが多かったです」というような、感想が聞かれるようになる。学生らは小学校のお遊戯くらいしか、グループ活動の記憶がないというのである。社会性を獲得できる10歳手前くらいには教師の指導を受けるグループ活動はなくなっているのである。いじめや学級崩壊は、教育実践としてのグループ活動がないところに起こっているのではないだろうかと私は愚慮している。
そして、さらに私には、社会性が育たないところではヒトの知恵は育たない、と確かに思われるのである。
「記憶」の社会性--心理、教育、社会性の発達(3)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/08/3_e921.html
情報システムは、社会や社会的組織の仕組みがわからなければ理解できないし、ましてや作成などおぼつかない。プログラマは階層構造をなすソフトウエアの完成形を予見して、多くの場合はそれを下位から上方に向けて記述してゆく。場合によっては上部から下位に向かって記述する。階層は数個から数万に及ぶ場合もある。階層構造の思考方法に習熟しない限り、SEやプログラマには決してなれない。文法を丸暗記してもプログラマにはなれないのである。その意味で社会性の獲得は私の授業の必須条件である。グループ活動は、座学中心の私の授業の不可欠な要素なのである。
グループ活動の大家と言われる方は別に多くいることは知られているとおりである。しかし、システム工学、情報社会学、情報組織学、情報デザインを教える私にとっては、やむにやまれぬ授業プログラムの一環なのである。

4.ブログ作成指導と組織論講義
今年、受け持った三大学4クラスの学生は合計すると春学期の半期だけで約200名になる。例年よりもやや少なめである。クラスごとに新しい試みは当然異なるが、全クラスに共通して今年に限ってはじめたことは、2つある。ブログ作成指導と組織論講義である。
(1)ブログ作成指導
かなり勇気の要る決断だったが、学生らにブログの作成に取り組ませた。学生たちに、思いっきりトンガってもらおうと決心した。
しかし、社会性は著しく低いままに大学に来てしまった若者たちのことである。いろいろと気遣うことは多い。まず、社会性が低いことは学生も自身で感じていて、何よりも引け目を感じている。「いいんだ、社会性が低いのは君たちのせいではなくて、君たちに社会性を育てる機会を与えなかった大人たちが悪いのだ」と言ってあげるのである。学生たちはホッとした表情になる。ネチケットを教えるふりをして、ヒトは被害者になったり加害者になったりしないように細心の注意を払って生きてゆかなければならないということを繰り返し教える。「道徳」とか「倫理」とか言う言葉は禁句である。とたんに学生らは耳を閉ざしてしまう。「道徳」とか「倫理」を教えた中学・高校の教師は、もっとも教育スキル低い教師たちであったことを彼らは知っているのである。数学や理科、国語や歴史など専門性の高い教科を教える教師は高い教育スキルが要求される。これらの専門科目を教えるスキルが十分にはない教師が「道徳」や「倫理」に割り当てられている。馬鹿が教える「道徳」「倫理」、という観念が学生の耳をふさがせてしまう。せめて「情報倫理」などと目新しい言葉に置き換えて教える。ネット上での特殊性もそのついでに教える。自分の個人情報はネットに書き込まないこと、他人を名指しで批判することはネット上では禁止であることも教える。著作権も教える。そしてやっと個人のブログの立ち上げにいたるのである。
学生は、歓喜の声を上げて喜ぶ。"やった、これでトンガって自分の書きたいことが何でもネット上でかけるぞ"と浮き足立つのである。私は、待てと叫ぶ。「君たちの親や兄弟は、君のブログを読むかも知れないぞ」「他の教科の先生たちにも私のクラスのみんなのブログは教えるつもりなので、他の先生たちも君たちのブログを読むに違いない」と説明する。学生たちは、し~んとなって真剣なまなざしになる。加えて「もちろん、クラスメイトも読むだろう」と私は続ける。学生はお互いに顔を見合わせる。私はここぞとばかりに語気を強めて、「それだけじゃない、元カレや元カノジョも読んでいるかも知れないんだぞ」というと、教室内からは「ひぇー」というような悲鳴さえ聞こえる。社会性の獲得は、恋愛の感情ときわめて密接な関係にあるのである。
かくして、学生たちのブログは、普段のあの学生たちなのか、と思うほど、すばらしい哲学に満ちた記述が行われるのである。私は、thought leader's opnionとしてのブログの記述を推奨している。たまには勘違いして、thought leader's opnionであるはずのブログをWEB日記にしてしまって、テレビで見たアイドルがかわいかった、などと言うような記事ばかり書く者もいるが、メールで、元カノジョが読んでいるかもよ、と警告を伝えると、あわてて、幼い記述を消して、哲学的になってゆくのである。カノジョやカレの前ではお行儀がよくなり、互いに預言者のように哲学的な自分を見せたいというのが恋する若者の心情なのである。トンガってみたいのは、誰からも認めてもらいたいから、という矛盾したハザマに若者はいて、見事に社会性をみがくのである。
ブログは社会性を磨く時宜にあったよいツールであると思っている。以前はホームページ制作がこれに該当したかも知れないが、ブログのほうが自己発現にとってより直裁的である。
(2)組織論講義
どの大学も今年初めて行ったもののひとつは組織論の講義である。
「戦略的情報組織学(再論)--社長の条件(8)」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/08/8_600d.html
「社会は組織によって成り立っている」こと、「組織は定常流的実在でコンクリートで固めたようなものではない」こと、「組織はネットワークと階層構造という横軸と縦軸によって支えられ、また絡めとられている」こと、「ヒトは組織に貢献することによって対価と安全を保障されている」こと。「組織もまた所属するネットワークや上部組織に貢献することによって存在を保証されている」こと、「どんな組織にも理念や目的がある」こと、「その理念や目的が反社会的なものであれば、所属するネットワークや上部組織に守られることがないので、競争に敗れてやがて消滅する」こと、などを述べた。つまるところ、社会に貢献する活動を主たる目的とする組織以外は社会から排除されるのであり、ヒトは社会に貢献する活動に参加することによって生かされているのであると言う説明である。
学生たちは、寡黙になり、下を向いたり、天を仰いで話に聞き入っていた。授業の後には「これからの人生が金のためだけかと思うと社会に出たくなかったが、そうではないことがわかって、気分が晴れた」とか「金ばかりが人生ではないとわかって、思わず涙がこぼれた」とかいう感想が寄せられた。これらのことを自分のブログに書いているのである。若者はパンのみにて生きることのむなしさを感じており、金でつられて生きるおろかさを知っているのである。
某金満家がテレビ局の買収に失敗したのは、関係者の私利私欲を社会貢献と言い換えたために社会の反発を買って支持を失ったからなのだという例話もした。一部の金満家ファンの学生も含めて学生らの同意は得られたようだ。社会貢献しない活動や提案は社会の支持が得られないということである。
「社会に貢献するとは何か」の答えの仮説としては、「(多くの哲学者が言うように)ヒトは安全で健康に恵まれて文化的に生活が送れて、ヒトの子孫が繁栄すること(LOHAS)を究極の目的にしている。これを"生の維持と生の再生産"と言う」としてある。"これは私の仮説だから、別の考えがあっても良い、反論は大いに結構"と話すことにしている。
トンガって、トンガって、若者よ、もっとトンガって生きてみよう。社会に迷惑をかけるようならやめればよいが、迷惑なことでなければ、徹底してやってみよう。誰かが、君を認めてくれるだろう。その人は、未来の君の最良の伴侶かも知れないし、君の将来の雇い主かも知れない。周囲で認めてくれる友人が本当の友達だろう。少なくとも、私という君たちの教師の一人は、いつも、君たちのトンガりに拍手を送っていることを忘れないでほしい。

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琵琶

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「記憶」の社会性--心理、教育、社会性の発達(3)

2005/08/21
「記憶」の社会性--心理、教育、社会性の発達(3)

7/16、「学生は変わったか--心理、教育、社会性の発達(1)」という記事を書いた。
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/07/post_e5f7.html
この中で、「手続き型記憶」や「エピソード型記憶」という言葉を使った。深い意味ではなく、会場で他の発表者が使った言葉を、発表者が使用した意味で使用したに過ぎない。
ここでは、ヒトの「記憶」とコンピュータの「記憶」を対比しながら、社会性の獲得と「記憶」の構造の変化について述べたい。
本日のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、「記憶」はスクワイア(ラリー・スクワイア著「記憶と脳、心理学と神経科学の統合」(医学書院) など)によって、基本的な3つ分類(感覚記憶、短期記憶、長期記憶)が提案されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6#.E6.84.9F.E8.A6.9A.E8.A8.98.E6.86.B6
ウィキペディアのこの記事では、その後の知見も含めて、分類をもう少し増やしている。
ウィキペディアのこの記事の目次を見ると、下記のようになっている。

表1 目次
----------------------------------
1 感覚記憶
2 短期記憶(STM)
3 作動記憶
 3.1 中央制御系
 3.2 音韻ループ
 3.3 視空間スケッチパッド
4 長期記憶(LTM)
 4.1 陳述記憶
  4.1.1 エピソード記憶
  4.1.2 意味記憶
 4.2 非陳述記憶
  4.2.1 手続き記憶
  4.2.2 プライミング
5 自伝的記憶
6 展望的記憶
7 記憶の階層
8 記憶の過程
8.1 記銘(符号化)
8.2 保持(貯蔵)
8.3 想起(検索)
9 関連項目
----------------------------------

記憶の分類という意味では、次の種類を取り上げればよいだろう。

表2 記憶の分類 
----------------------------------
1 感覚記憶
 ☆視覚では1秒間弱、聴覚では約4秒間保持される。保持される情報はかなり多い。残像のような記憶。
2 短期記憶(STM)
 ☆短期間保持される記憶である。 約20秒間保持される。7±2まで(5から9)の情報しか保持できない。
3 作動記憶
 ☆作動記憶は短期的な情報の保存だけでなく、認知的な情報処理も含めた概念である
 3.1 中央制御系
  ☆音韻ループと視空間スケッチパッドを制御し、長期記憶と情報をやりとりするシステムである。
 3.2 音韻ループ
  ☆言語を理解したり、推論を行うための音韻情報を保存するシステムである。
 3.3 視空間スケッチパッド
  ☆視覚的・空間的なイメージを操作したり、保存したりするシステムである。
4 長期記憶(LTM)
 ☆長期間保持される記憶である。 忘却しない限り、死ぬまで保持される。 長期記憶を蓄える貯蔵庫を長期記憶貯蔵(LTS)と呼ぶ。
 4.1 陳述記憶
  ☆言葉で表現できる記憶である。 宣言的記憶とも呼ばれる。
  4.1.1 エピソード記憶
   ☆個人的体験や出来事についての記憶である。
  4.1.2 意味記憶
   ☆意味記憶とは言葉の意味や世界のあり方についての記憶である。
 4.2 非陳述記憶
  ☆言葉で表現できない記憶である。 非宣言的記憶とも呼ばれる。
  4.2.1 手続き記憶
   ☆物事を行うときの手続きについての記憶である。 いわゆる体で覚える記憶がこれにあたる。
  4.2.2 プライミング
   ☆先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える状況を指して「プライミングの効果(または”プライミング効果”)があった」と称される。
5 自伝的記憶
 ☆自分自身の来歴に関する事柄についての記憶である。
6 展望的記憶
----------------------------------

さて、これらの知見は、大脳生理学や精神分析学、心理学の成果だけによっているのではないということに注意を払いたい。実は、コンピュータにおける「記憶」の技術のアナロジーに発しているところがたぶんに存在する。
ところで、私は、人工知能の研究やその応用技術の開発に長く従事してきたので、大脳生理学や精神分析学、心理学よりも、認知工学や知識記述法に親しみがある。大脳生理学や精神分析学、心理学の人々が何と言うかは別にして、実はこの人々が手本に取り上げている知識記述法(「記憶」の方法)は、システム技術者が内省的に発見した「記憶の心理学」なのである。「ヒトはこのように理解し、記憶しているに違いない」という仮定の上に、知識記述法(「記憶」の方法)を作り上げてきたのである。いわば勝手に考え出された多数の知識記述法(「記憶」の方法)は、「うまくゆく、ゆかない」というような研究者から見れば実にくだらない理由で淘汰され、おおむねうまく行くものだけが残ってきた。つまり、残っているものの多くは職人の目で淘汰され選択された方法である。
大脳生理学や精神分析学、心理学の人々の側にあるラリー・スクワイアらの分類をコンピュータ分野の知識記述法(「記憶」の方法)と比較してみたのが、次の表である。
ちなみに、コンピュータ技術者の言うデータ・情報・知識とは次のようなものであると、私は長く主張してきた。
・データ ヒトが受け取った刺激を記号や数字に変えて記録したもの
・情報 データをヒトが理解しやすくするために加工したもの。(代表値の抽出、比較、例示、など)
・知識 情報に条件分岐を付属させて、問い合わせに適切に応えられるようにしたもの

表3 ヒトの記憶とコンピュータの記憶
-------------------------------------------------
1 感覚記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・データ以前のヒトの記憶
2 短期記憶(STM) ・・・・・・・・・・・・・データ直前のヒトの記憶
3 作動記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・データ化作業中のヒトの記憶
 3.1 中央制御系
 3.2 音韻ループ
 3.3 視空間スケッチパッド
4 長期記憶(LTM) ・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報・知識、プログラム
 4.1 陳述記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報・知識
  4.1.1 エピソード記憶 ・・・・・・・・事例ベース
  4.1.2 意味記憶 ・・・・・・・・・・・・意味ネットワーク
 ◎4.1.3 構造化(メタ化)記憶・・・・フレーム
 4.2 非陳述記憶 ・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のプログラム
  4.2.1 手続き記憶 ・・・・・・・・・・・プロダクション・ルール
  4.2.2 プライミング ・・・・・・・・・・・ZigZag(意味ネットのノードが事例または
                      知識ユニット)
 ◎4.2.3 社会的配慮(連合記憶)・予期駆動型フレーム
5 自伝的記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・文書ファイル
6 展望的記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・文書ファイル
-------------------------------------------------
こうしてみると、コンピュータ上の「記憶」については、「長期記憶」に対応する部分だけが発展しており、その前後は対応していないことが判明する。「ヒトとコンピュータはどちらのほうがすぐれているのか」という愚問は今でもよく聞くが、ヒトに決まっているのである。上表をみても、ヒトに出来て、コンピュータに出来ない「記憶」は多い。ヒトがすぐれているのは、そのせいだけではないのは言うまでもないが。
ところで、「長期記憶」に対応する部分だけが発展したコンピュータ上の「記憶」についてよく見ると、ラリー・スクワイアらの分類にはないものがある。表の左部分には◎を付けて他と区別してある。この項目は、表2にはなくて、表3に追加したものである。
ときに、コンピュータシステムの大半は「情報システム」というものである。「情報システム」は作られる組織の運営のルールを支援するものであり、ここに使用される「記憶」は、組織というものの社会性を紛れもなく反映している。ヒトの「記憶」の中に社会性を発見するよりも早く、コンピュータのシステムは組織の社会性をコンピュータの中に記憶しなければならなかったのである。コンピュータのシステムが、万一組織の社会性をコンピュータの中に記憶することが出来なかったならば、「情報システム」は成立せず、コンピュータは今でも無用の長物であったに違いない。
一方、そのコンピュータの「記憶」の大切な一分野に対応するヒトの「記憶」が存在しないはずはないのである。ヒトはコンピュータよりもすぐれているのであるから、ヒトの中にないものはたぶんコンピュータでは実現できないのである。実際、(私のような、ロートルの)コンピュータ技術者は、ヒトや組織の振る舞いをジッと観察して、コンピュータシステムを作ることに習熟したきたのである。ヒトや組織こそ、コンピュータシステムのお手本であった。しかし、表2に◎の部分がないというのは、ラリー・スクワイアら大脳生理学や精神分析学、心理学などの分野の人々が、単に見落として発見できなかったものに過ぎないに違いない。ヒトにないものをコンピュータ技術者がまねるはずはない。ヒトにないはずはないのである。

表4 長期記憶の分類の拡充
-------------------------------------
4 長期記憶(LTM) ・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報・知識、プログラム
 4.1 陳述記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報・知識
  4.1.1 エピソード記憶 ・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報
  4.1.2 意味記憶 ・・・・・・・・・・・・意味ネットワーク(コンピュータ上の知識の一つ)
 ◎4.1.3 構造化(メタ化)記憶・・・・フレーム(コンピュータ上の知識の一つ)
 4.2 非陳述記憶 ・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のプログラム
  4.2.1 手続き記憶 ・・・・・・・・・・・データ処理プログラム(コンピュータ上のプログラ
                     ム)
  4.2.2 プライミング ・・・・・・・・・・・シーケンス制御、フィードバック制御、フィードフォワ
                     ード制御プロク゜ラム(コンピュータ上のプログラム)
 ◎4.2.3 社会的配慮・・・・・・・・・・予期駆動型フレーム(コンピュータ上のプログラム)
-------------------------------------
長期記憶の部分だけを取り出したのが、上表(表4)である。
◎の項目は2つある。いずれも「フレーム」と関係がある。
フレームとはコンピュータ科学における「フレーム理論」によって作成されるものである。これは知識の要素(宣言的知識、要素の名称とその単数または複数の属性や振る舞いを記述したまとまり、これを知識ユニットと呼ぶことがある)を記述しておくだけではなく、知識の要素間(ユニット間)を階層化してつなぐ記述法なのである。たとえば、サルとイヌは哺乳類である。哺乳類や節足動物などを合わせると「動物」という概念に行き着く。「動物」と「植物」と「菌類」をあわせれば「生物」という概念にいたる。ヒトの知識は抽象化と階層化によって構築されているものが多い。近代社会学や政治学、哲学などで、「構造主義」がもてはやされた時代があり、「メタ知識」「メタ概念」が叫ばれた時代がある。今では、当たり前のこととして騒がれたりはしないが、ヒトの認識には確かに階層的な部分があるのである。これらの階層化をコンピュータシステムの上に記述できるのが唯一フレームなのである。フレームは現在知られているものの中ではコンピュータ上で階層型の知識を記述する最も強力な手法である。
意味ネットワークも「名称」を相互に結んでゆくことが出来るが、名称のもつ属性や機能を一つのユニットの中に記述できない点や何よりも階層化できないという点で「フレーム」とは根本的に異なるものである。現代の社会的な組織は、「理念や目的」を持つヒトの集団であり、「自己責任」を前提に「貢献と見返り」「コミュニケーションと対等」を担保にして成立し、組織同士が結合しどこまでも横に広がるネットワークと上方統合を目指す階層構造を持つ定常流的実在である。ネットワークと階層構造はいわば社会の横軸と縦軸のように絡み合っている。2つがともになければ社会は成立しない。意味セットワークは、横に広がる社会的組織のネットワークを手本にした概念であり、フレームは社会的組織の階層構造を手本にした概念である。横に広がるネットワークだけでは現代社会は理解できない。社会的ネットワークにとどまらず、たえず流動し生成発展消滅する階層構造を理解しなければ社会を理解したとはいえない。
意味ネットワークはヒトの抽象的な記憶を「関係」という記述方式で表すことが出来たが、それ以上の力はないのである。階層構造を記述することはできない。世の中には、階層化され整理された知識を持たないまま、どこまでもダラダラとつながる知識の連鎖を網の広がりのように持っている人格もないとはいえない。一見すぐれた知恵者のように見えて、少しも知識が整理されずに、どこまでも考えが収束しない、特異な人格の持ち主である。時々、すぐれたヒトと勘違いされて、大学や研究所の要職についていたりするが、部下も、組織を協力して運営しなければならない他の者にとってもたいへんに迷惑な人格である。階層性社会に関する認識が完全に抜け落ちているのである。抜け落ちたというよりも構成できない人格なのである。ネットワークの理解も社会性の認識の一部であり、その第一歩には違いないが、概念を階層化出来ない限り、階層化の縦軸とネットワークの横軸から成立する社会の全体構造がまったく理解できないのである。

さて、社会性の獲得によって獲得できる「記憶」が何かといえば、次の4種類である。
  4.1.2 意味記憶 ・・・・・・・・・・・意味ネットワーク(コンピュータ上の知識の一つ)
 ◎4.1.3 構造化(メタ化)記憶・・・フレーム(コンピュータ上の知識の一つ)
  4.2.2 プライミング ・・・・・・・・・・シーケンス制御、フィードバック制御、フィードフォ
                   ワード制御プロク゜ラム(コンピュータ上のプログラム)
 ◎4.2.3 社会的配慮・・・・・・・・・予期駆動型フレーム(コンピュータ上のプログラム)
ヒトは、6歳から10歳くらいまでの間に「社会性」を獲得する。つまり、男の子が女の子を意識し、女の子が男の子を意識するときまでには、ひと通りの社会性を獲得していなければ、恋も出来なければ、両性がそれぞれに所属する集団の社会的承認の下に新しい家族として出発することなど出来ないからである。恋をはじめる年齢と結婚する年齢は、古代には現代ほどの隔たりはなかったはずであり、人類生存の必須条件であったに違いない。
社会性を獲得する以前の幼児や児童は、次のような記憶が優勢であり、抽象化された知識の獲得は弱い。
  4.1.1 エピソード記憶 ・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報
  4.2.1 手続き記憶 ・・・・・・・・・・・データ処理プログラム(コンピュータ上のプログラム)
しかし、社会性を獲得した後の児童や生徒、学生らの記憶としては、これらエピソード記憶や手続き記憶のような記憶力は減退して、ネットワーク型とフレーム型の「記憶」が優勢となるのである。とりわけ、階層化知識(フレーム型の知識)は、具体的な事例の上に抽象化された法則性やルールという上位概念が構成できる基礎となるので、この能力が成長しているのといないのでは大変な違いが生ずる。組織への理解の脆弱性から不登校、社会的引きこもり、ニートが生じているのもここに共通の理由がある。この子供たちは社会性を獲得する機会に恵まれなかったのである。また、十分な社会性を獲得できなかったために階層化されたフレーム型の知識(「記憶」)が構築できないので、物理学も暗記で切り抜けようという理学部、工学部の学生が発生してしまうのである。フレーム型の知識(「記憶」)が構築できなければ、具体的事例の上に抽象化した法則的知識を構築できないのである。具体的事例の丸暗記で切り抜けるしか、その人格には対応が出来ないのである。抽象化した法則的知識を構築できない物理学者や理科の教師が我が物顔で社会に出てくるとしたら、考えるだけで恐ろしい光景であるが、すでにそうなってしまってるというのが今時なのである。

私が、声を大にして言いたいのは、教育に「社会性を育む」力を復活させ、子供たちに階層化した深い理解を喜びとともに体験させたいということである。「深い理解」とは、もともと階層化した知識であることを意味していたはずであるが、いつの間にか、関連知識をたくさん平板にならぺている状態をさす言葉に堕してしまっているように思う。階層化(メタ化)していない平板な知識の広がりは、決してヒトの知恵の完成品ではない。へそがどこにあるのかもさっぱり分からない、単なる横並びデータの広がりだけである。

心理、教育と「社会性」は、かくして、強固なつながりのあることが明らかになった。--、と私は思う。
専門家の皆さんにも、非専門家の皆さんにも、たくさんの議論を期待したい。

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琵琶

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「教育心理学」の限界と希望--心理、教育、社会性の発達(2)

2005/08/20
「教育心理学」の限界と希望--心理、教育、社会性の発達(2)

7月17日、「学生は変わったか--心理、教育、社会性の発達(1)」という記事を書いた。
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/07/post_e5f7.html
その後も、いろいろと考えさせられることが多く、ゼミの学生向けのブログにも「「日本人の社会性の喪失」を考える」(http://99521633.at.webry.info/200508/article_1.html)や「 「日本人の社会性の喪失」を考える。 -その2- 」(http://99521633.at.webry.info/200508/article_2.html)も書いた。
思うところが多々あるので、順次、述べてゆきたい。

さて、7月16日の某研究会こと、大学における教員養成の教育課程に問題があるのではないかと、私は無鉄砲にも発言した。その趣旨は、教員養成の教育課程で必修とされる「教育心理学」には時代が教育に要請しているある大切な部分が欠落しているということである。つまり、幼児-児童-生徒-青年の成長の過程に「社会の成り立ちへの認知発達」を一切含んでいないといういささか荒っぽい指摘だった。
この研究会には文部科学省の関係者も参加していたが、直後に発表された施策は、「複数学年同居の合宿で社会性を獲得」と言うもので、研究会の活動の成果を示しているのかもしれない。

さて、現在の多くの大学の「教育心理学」は、ピアジェ(1896-1980)の発達心理学に依存していること、その後の学問的発展に追随していなことに私は苛立ちを感じていた。ピアジェが人の初期の認知発達の様子(発生的認識論)を心理学の立場から明らかにして、児童-生徒の学校教育の方法(学年制教育法)を正当化することに役立ったことは広く知られており、その功績は大きい。しかし、彼は、大きな間違いを2つ犯していた。1つは、人は必ずしも自然年齢の刻みだけで認知発達が進むのではないことに無頓着だった。もう一つは、子供たちがあるとき社会の成り立ちに強い関心を抱き、社会性を大きく発達させる心(認知)の発展を遂げる時期がある、ということを無視していることである。前者については、「学年制教育制度に対する批判」と言う形で広く語られるようになっているので、私の専売特許と言うわけではない。他方の後者についてはどうだろうか、心ある人の筋の通った見解を聞いたことがない。学校教育の担い手である教員の多くが「ヒトの社会性の発達」を知らないまま、教壇に立っているのである。これほど恐ろしい現実があるだろうか。もっとも現役の教員自体も「社会性の発達」を促す教育を受けてこなかった世代が圧倒的である。社会性を十分身に着けているとはいえない学校教師が現場で「社会性の発達」を自分たちが教えないことに何の疑問も持たないのは当然である。本人らは責められても、何を言われているのかさえ見当がつかないはずである。
しかし、私がその研究会の会場からこれを指摘するイレギュラ発言をしたときには、私にその確信があったわけではない。漠然とした恐れと懸念に過ぎなかった。発言しながら、一方では、本当に大学における教員養成のための「教育心理学」が社会性の発達を無視しているのか、を知りたかった。証拠(evidence)がほしかった。
帰宅してから早速アマゾン(日本)で「教育心理学」を検索してみた。336件の該当の書籍があった。売れ行き順に検索結果を表示した。この中には、大学の教科書と思われるものとそうでなさそうな本が混在している。すべての本を買って精査するほどの時間もお金もないので、10位以内に入っている教職課程の教科書とみなせるものに絞って購入した。次の4冊である。
石隈利紀,「学校心理学」,誠信書房(1999)--1位(☆5.0個)
下山晴彦,「教育心理学(2)」,東京大学出版会(1998)--3位(☆3.5個)
大村彰道,「教育心理学(1)」,東京大学出版会(1996)--4位(☆4.0個)
多鹿秀継,「教育心理学」,サイエンス社(2001)--7位(☆4.0個)
2位、5位、6位、8位、9位、10位の本は、一般人向けの読み物だったり、荒れる学校対策の実践本だったりするようだった。教育課程の教科書とは見えなかったのでそれらは省いた。
該当する4冊のどれを見てもヒトの心理的発達において、「社会性の獲得・発展」は存在しないようである。仔細に読めば本文のどこかに社会性に触れているところが皆無ではないのかも知れないが、少なくとも章や節に堂々と取り上げているものはない。そのようなことを書けば、異端としてこの学問の世界からは排斥されるのだろうかと心配になってしまう。私の危惧は的中していたのである。
とはいえ、"大村彰道,「教育心理学(1)」,東京大学出版会(1996)--4位(☆4.0個)"は、東大の教育心理学の定番テキストのようだが、ここにはさすがに「4.2 社会的認識の学習と社会科学習」という節がある。さすがに東大ともなれば、「社会的認識」の必要性を無視したわけではないということである。しかし、「第1章 認知の発達」「第2章 言語の発達」「第3章 数概念の発達と算数・数学の学習」「第4章 科学的認識・社会的認識と教育」・・・のような章立てを見れば分かるように、ヒトの自然な発達の中に「社会的認識の獲得」は位置づけられてはいない。「算数・数学の学習」までは「(数概念の)発達」が必要とされているが、「社会的認識の獲得」はわずかに銀行の役割の理解など、金銭的な現象に対する認知と結び付けられて説明されているに過ぎない。「社会性の発達」についても他人の学説が幾分紹介されているが、筆者の確信としては語られていない。学生たちが「金だけが人生の目的か」と絶望的になるのも止むをえないのである。主として、社会科教育のために利用する教材の例として社会の制度が語られているにとどまっているとしか見えない。ヒトの心理的発達において、お金関係以外に「社会性の獲得・発展」の時期はないのだろうか。「社会的認識」の前提として「心の社会性の獲得」がなければ、社会への関心が生まれないだろうし理解も不十分だろう。他の3冊にいたっては、社会科教育の教材としてさえ社会性の獲得の扱いはないのである。
いや、ご専門の方からは、そんなことはとうに織り込み済みであり、教員養成にそんな些細なことまで教えないだけなのだという反論が聞こえてきそうである。しかし、「社会性はヒトの成長とともに育くまれ、獲得され、成長するもっとも大切で基本的な人格の一つの側面なのではないのだろうか。社会科や理科は暗記物として、教師が叩き込めばいいのだろうか。心の発達を伴わない社会科や理科が果たして身につくのだろうか。それでも、「ヒトの社会性の心を育むのは些細なことに過ぎない」なのだろうか。「教員養成にそんな些細なことまで教えない」とすれば、現場に立つ学校教師たちは(教育を受けていないのだから)、知らずに教育現場の悲劇の再生産に加担していることになるのではないだろうか。教師たちこそ、いい面の皮である。

では、「社会性を育む」教育を進めるテキストはまったくないのかといえば、アマゾンの上位には見出せなかったが、次のようなテキストがあった。大半の教職課程の「教育心理学」とは違っている。これは希望である。
桜井茂男編,「たのしく学べる最新教育心理学」,図書文化(2004)
「第9章 社会性を育む」があり、全体で19ページを割いている。その中の節として「I 向社会的行動」「II 道徳性」「III 親子関係の発達」「IV 仲間関係」がある。それぞれの節は多数の項目に分かれて詳細な議論を展開している。欲を言えば、社会性の獲得には、恋愛の心の働きが極めて大きく作用するはずであるがこれに触れていない点だけだろう。編者は、これより先に、次のような本の翻訳をしているが、前述の本には次の本の原著からの影響が見られるようだ。
桜井茂男訳,「人を伸ばす力」,新潮社(1999)
章のタイトルを引用するが、なかなか示唆に富んでいる。
第1章 権威と服従
第I部 自律性と有能感がなぜ大切なのか
第2章 お金だけが目的さ
第3章 自律を求めて
第4章 内発的動機づけと外発的動機づけ
第5章 有能感をもって世界とかかわる
第II部 人との絆がもつ役割
第6章 発達の内なる力
第7章 社会の一員になるとき
第8章 社会のなかの自己
第9章 病める社会のなかで
第III部 どうしたらうまくいくか
第10章 いかに自律を促進するか
第11章 健康な行動を促進する
第12章 統制されても自律的に生きる
第IV部 この本で言いたかったこと
第13章 自由の意味

私の組織論(http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/08/8_600d.htmlなど)の授業を聞いて、「人生はお金だけではなかった、と安心して、思わず涙がこぼれてしまった」と語った学生がいた。いかに現代の教育が子供たちの素朴な心を縛りつけ傷つけていたのかと私のほうも、思わず眼が潤む思いだった。
上記の本の「第2章 お金だけが目的さ」では、お金で釣って何かをさせようとすることのおろかさを心理学の実験の成果を示しながら、完膚なきまでに暴いている。「社会性を育む」とは、「金をチラつかせる」こととは違うのである。

大学の教職の授業で「社会性の発達」を教えている先生はいないのだろうかと、インターネットを探ってみたところ、シラバスで見る限りは大阪府立大学の人間教育学科岡本真彦先生などが授業で「社会性の発達」を教えていらっしゃるようだ。
http://wwwhs.cias.osakafu-u.ac.jp/psy/DocJ/class.html#education
もちろん面識はないし、見当違いかもしれないが、私にとっては希望の持てる先生のお一人ような気がしている。
そのほかにも、いろいな先生方がいらっしゃる。
千葉大学の林洋一先生
http://www.l.chiba-u.ac.jp/Syllabus/undergraduate/2005/1st/intensive/824/
宇都宮大学橘川真彦先生
http://www.zuisousha.co.jp/book2/4-88748-015-6.htm
江戸川大学柴田良一先生
http://syllabus.edogawa-u.ac.jp/detail.php?oh_code=1270&nendo=2005
大正大学柴田良一先生
http://www.tais.ac.jp/syllabus/syllabus/3271.html
他にも何人もの方がいらっしゃるようだ。
これらの先生方の努力は、まことに時代に合致するものであり、心強いものを感ずる。大半の「教育心理学」の嘆かわしい現状はともかく、これらの意欲的な研究者・大学人の活躍を希望を持って見つめていたいと思う。

ところで、余計なことだが、心理学の世界は、主要な学派だけでも40くらいに上るらしい。どの学派がどのような主義主張なのか門外漢の私にはよく分からない。資格制度をめぐって利権の争奪戦もあるのだという。政治家と結びついて政治運動をする学派もあるらしい。華道やお茶の世界と似て、どの学派にいるかによって、考え方も行動も違うようである。組織論の立場から見ると、学問的知見の流通が阻害され、学問の発達にはなはだよろしくないように思うのは私だけだろうか。統一した学会または連合会があるといいと思う。

△次の記事: 心理、教育、社会性の発達(3)
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琵琶

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戦略的情報組織学(再論)--社長の条件(8)

2005/08/10
戦略的情報組織学(再論)--社長の条件(8)

社長の条件(6)で、「組織を活かす力、改革する力」について述べた。しかし、これは、少し抽象論に偏りすぎたようである。この記事に先立って、私は4月23日にSH情報文化研究会で「戦略的情報組織学」という演題で講演している。
http://www.sciencehouse.jp/research/20050423strategy_info.pdf
同じ内容をいくつかの大学でも話したが、目的意識が鮮明だったせいもあって、学生らの大きな反響を呼んだ。
「戦略的情報組織学」の講演内容に沿って社長の条件(6)で述べた「組織を活かす力、改革する力」を再論してみたい。
-------------------------
戦略的情報組織学
組織と戦略
-------------------------
目 次
1.問題意識
 1-1.「組織」の不思議
 1-2.組織の破綻と問題意識
 1-3.イノベーションを阻むもの
2.戦略的情報組織学のすすめ
 2-1.人は、組織なくして生存なし
 2-2.組織の内在的引力と運動
 2-3.組織の基礎的存在様式
 2-4.メタ組織関係とバリューネット
 2-5.戦略的情報組織の点検項目
3.組織の存立を脅かすもの
 3-1.「社会貢献と見返り」の陥穽
 3-2.情報共有の陥穽
 3-3.戦略プロセス共有化の陥穽
 3-4.行動様式学習の陥穽
 3-5. 誇りと希望の陥穽
 3-6.メタ組織関係の陥穽
 3-7.バリューネットワークの陥穽
4.解決の一般原則
 4-1.組織内の問題について
 4-2.メタ組織関係とバリューネットワークの問題について
5.解決の原則
 <1>哲学の力
 <2>情報機会=学習機会
 <3>学習の力
 <4>組織の正当性と組織心理学の力
 <5>メタ組織関係
 <6>バリューネットワーク
6.引用文献
--------------------------------
1.問題意識
1-1.「組織」の不思議
一人の人は、たくさんの組織に属することが出来る。一つの組織には、たくさんの人がいるが、必ずしも固定メンバーとは限らない。組織とは、捕らえればその姿を失う水面の波、水の流れや滝のような、定常流的実在である。組織とは、過去から未来へと姿を変える一瞬をつなぎとめる相互関係の集積である。
1-2.組織の破綻と問題意識
問題は分かっているはずだ。だが、行政組織は自己変革に失敗し、企業は倒産する。
秀吉の武将群がなぜ自己破滅的「朝鮮出兵」に至ったか。--予定される領地分配を前提条件に常に現状の財力を超える兵力を抱える組織戦略が、秀吉の全国統一によって意味を 失った。しかし、武将間の力学バランスを維持するためには、過剰な兵士を減らすことが出来なかったのである。部分の合理性は全体の合理性を裏切っていたのである。部分の最適化が全体の最適化に通ずる(見えざる神の手の仕業がある)という近代社会と経済の楽観論は、しばじば裏切られるのである。
国鉄は、国家権力による解体にいたるまで、なぜ改革が出来なかったのか。--改革は当事者の痛みを不可欠としていた。当事者の快適は、国民の不快だった。部分の最適化が全体の最適化に通ずる(見えざる神の手の仕業がある)という近代社会と経済の楽観論は、しばじば裏切られるのである。
イノベーションに成功する企業と失敗する企業があるのはなぜか。--企業内各部門間の利害が必ずしも一致しないこと、部分の最適化が全体の最適化に通ずる(見えざる神の手の仕業がある)という近代社会と経済の楽観論が裏切られている現実がある。学習伝播が、部門間の壁や派閥の壁、馬鹿の壁に阻まれて、限りなく阻害されて、イノベーション速度が環境の変化に間に合わなくなって経営の失敗、ひいては破綻にいたるのである。
道路公団や社会保険庁はなぜ自己改革が出来ないのか。--改革は当事者の痛みを不可欠としている。国民の不快は、当事者の快適である。部分の最適化が全体の最適化に反しているのである。
1-3.イノベーションを阻むもの
部分的最適化は全体的最適化につながるという神話--部分的最適化はしばしば全体的最適化を裏切る。
現代の腐敗の病理は下記のような部分にある。
1)戦略的意思統一徹底への力不足? 負の補償圧力がある
2)情報共有化の遅れ、学習能力の不足、「舵の舵」を切る能力の不足
3)社会心理学の限界、哲学の限界、教育の限界
4)社会性の不足とコミュニケーションデザインの不足
詳しくは後に述べる。
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2.戦略的情報組織学のすすめ
2-1.人は、組織なくして生存なし
1)人は、おおむね社会を離れては生存しない。ロビンソンクルーソーの思考実験をみよ。
2)社会は、無数の社会的組織の複合体によって成立している。家族、地域団体、行政、国家、学校、企業、NPO、・・・。
3)人は、組織に貢献することによって組織から安全と生存に必要な対価を得ている。人は、組織に属することなくして、おおむね人は働くことも生きてゆくこともできない。
4)組織は、社会に貢献することによって、社会に存在を許されて、保護される。社会に貢献することのない組織は、保護されず、競争に敗れて消滅する。
2-2.組織の内在的引力と運動
水面に波が生まれるように、人の群の中に組織が生まれるには、水分子間に互いに引き合う力が作用するのと同じように、人々が引き合う引力がある。寄せれば引き、引けば寄せる。よいことをすれば、ずうずうしい他人が平衡を保とうと「補償」する。正直なロバは疲弊する。
組織は、他の組織と連携しまたは争い、競争し、干渉しあい、構成メンバーは絶えず入れ替わる。場合によって、争いに負け、競争に敗れ、頑なために社会に不適合を起こして、危機に瀕する。危機を自己変革によって乗り切れる組織と敗れ去る組織がある。一つの組織がよいことをすれば、ずうずうしい他の組織が平衡を保とうと「補償」する。正直なロバ組織は疲弊する。
2-3.組織の基礎的存在様式
組織の存立の基礎的条件はかきのとおりである。
1)組織は社会貢献の理念と目標を持っている。構成員には、その社会貢献の見返りが期待できる。
2)組織を取り巻く社会的経済的環境(前方+組織内+後方)の情報を共有している。
3)理念と目標を実現する戦略と手順に関する理解が共有されていて、そのプロセスについての予見が共有されている。
4)戦略と手順を実現する行動様式が構成員の各自の身についている。暗黙の内に互いに他を補完する習慣が成長している。
5)組織の拠って来たる由来と現在に誇りがあり、未来に希望がある。
2-4.メタ組織関係とバリューネット--有用性と阻害性
メタ組織関係とバリューネットワークは、組織の存続には必要だが、イノベーションの阻害要因でもある。
1)組織は、他の組織と干渉しあい、互いに補完しあって、よりよく存在しようとする傾向がある。一つの組織の新しい行動は、社会秩序や経済秩序を乱すものとして反撃に合い、周囲の個別組織やメタ組織(行政指導、業界団体、NPO連合、企業の組合など)によって押し戻される。社会の安定には役立つが、イノベーションは裏切られる。
2)バリューネットワークの成立と相互維持が成立する。「コスト最小&利益最大」の企業と組織のネットワークが成立している。組織の新しい行動は、 「コスト最小&利益最大」を一度は裏切るので、周囲からも組織内からも大きな反撃にあう。経済秩序は安定するが、経済イノベーションは阻害される。
☆部分の最適化は全体の最適化に一時的に違反する。
☆全体の最適化は、一時的に部分的最適化全体の抵抗にあう。
2-5.戦略的情報組織の点検項目
<1>組織内の問題
(1)「社会貢献とその見返り」が、その組織にあるか。
(2)「情報共有の機会とその学習能力」が、その組織にあるか。
(3)「戦略プロセス共通理解の機会と学習能力」が、その組織にあるか。
(4)「各員の行動様式を発見して相互に理解しうる学習能力」が、その組織にあるか。
(5)「組織についての誇りと未来に対する誇り」が、その組織にはあるか。
<2>メタ組織関係とバリューネットワークの問題
(1)一つの組織の変化は、既存のメタ組織の枠に収まるか、それを超えられるか。
(2)新しい事業は、バリューネットワークの枠内で実現できるか、既存のバリューネットワークの外でのみ可能か。
 補足: いわゆる「系列」とは、バリューネットワークを門閥と資本関係で結合したものである。
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3.組織の存立を脅かすもの
3-1.「社会貢献と見返り」の陥穽
「社会貢献と見返り」は組織存立の重要条件である。
(例1)「日本放送の経済価値を上げる」+「株主利益」は、 「社会貢献とその見返り」か。 「日本放送の経済価値を上げる」は関係者だけの部分的最適化で、社会的最適化ではない。つまり、「日本放送の経済価値を上げる」+「株主利益」は、「社会貢献とその見返り」のように見えて、「見返りと見返り」だけなので、社会的存立が拒絶にあう。
面白い事件で、ある意味で期待もしたが、不首尾に終わった。それにはわけがあったというべきである。
(例2)「システム販売(マルチ商法)」はすべての参加者が儲かる仕組みなので、社会に貢献している。主催者や幹部が儲けてなぜ悪い、か。マルチの網の目の末端には、幹部に上納しただけで、その先のカモを得られない端境に悲惨なカモが大量に発生する。幹部たちの部分的最適化は公共的最適化を裏切っているのである。社会的被害は大きい。刑事罰によって処罰される。
☆通常の企業活動、行政の行動は、社会に富やサービスを提供して、人々の快適な生存と子孫の繁栄を支援する。その社会にある他の組織と個人はこぞってこれらの担い手である企業や行政を支えて、その対価を支払うのである。社会を裏切る組織は社会によって裁かれる。
3-2.情報共有の陥穽
1)情報機会は、ますます増加しているが、学ばない人は学ばない。バカの壁は厚い。
2)学ぶ人がいても、学習は不均質に始まり、組織内に行き当たるまでに時間がかかる。
3)組織にはそのテーマと組織の体質によって最適な学習速度(学習伝播速度の壁)がある。
4)最適な学習速度以上に学習を強要すると学習に対する拒否反応を引き起こして、組織は内部分裂を起こし、派閥争いが誘発される。派閥争いは、学習伝播を派閥間で遮断する。
5)自己にとって最適な学習速度では、環境の変化に遅れをとり、自己保持能力の崩壊を招く。倒産や組織破綻にいたる。
6)学習と努力、情報共有化支援システムだけでは組織の破綻を救済することは出来ない。
7)イノベーションが起こる前に組織が持たなくなる。
3-3.戦略プロセス共有化の陥穽
1)ここには、前項と同じ学習の問題がある。学習伝播速度の壁である。
2)戦略と手順に関する理解が共有されていて、そのプロセスの予見が共有されていれば、人々は一心に働くが、その逆ならば疑心暗鬼となり、心も醒め、手も止まってしまう。派閥抗争が激化する。
3)理解と予見が共有できるためには、学習する組織であることが必須である。しかし、学習には、学習伝播速度の壁がある。無理な学習の強要は、組織の破綻を招く。
3-4.行動様式学習の陥穽
1)新たな戦略的プロセスが理解されても、各自の行動様式が追いつかないことがある。ここにも、「学習伝播速度の壁」の問題がある。
2)「理屈が分かっても、体がついてゆかない」現象が生ずる。行動様式は、理解だけでは身につかない。
3)個人の習慣となり、周囲も協調的動作が保たれなければ、新しい行動様式は身に着かない。
4)組織では、暗黙の内に互いに他を補完する習慣が成長している。一人が学んでも周囲がそれを押し戻す。各自の行動様式は、容易には変化しない。
5)大きな組織は変化しにくい。変化しかけても復元力が働く。
6)斬新的進化は出来ても、イノベーションは事実上拒絶される。
7)イノベーションの前に、組織は社会に見捨てられ、競争相手に敗北して破綻する。イノベーションの速度が環境の変化の速度にまにあわないからである。
3-5. 誇りと希望の陥穽
1)人は、パンのみにて生きるにあらず。
2)組織の拠って来たる由来と現在に誇りがあり、未来に希望がある、でなければ人は力が出ない。組織としての集中力と問題解決能力を失う。
3) 誇りと希望がなければ、問題は発見されても、解決の努力は放置される。
3-6.メタ組織関係の陥穽
1)組織の行動を変化させるとメタ組織に押し戻される。
2)規制や指導がある。
3)既存のメタ組織の中では、イノベーションが不能である。
3-7.バリューネットワークの陥穽
1)企業は、「最小コストで最大利益」を他社との取引の中で築くために、よい関係を互いに築いてきた。
2)他に変えがたい、利益の相互関係が多方面に階層的に構築される。これがバリューネットワークである。
3)バリューネットワークを離れれば、市場性のない製品やサービスを提供せざるを得なくなり、競争に敗北する。
4)新商品や新サービスは、企業の利益を一時的に損なうので、組織の下から提案があっても、上に行くにしたがって古い落とされて、消されてゆく。
5)既存のバリューネットワークの中ではイノベーションは実現できない。
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4.解決の一般原則
4-1.組織内の問題について
1)組織の理念と目標が人類の究極の目標に合致しているか、の点検能力(哲学の力)が必要である。
2)情報機会=学習機会を組織内平等に強化する必要がある。
3)学習する組織であり続ける必要がある。
4)理念と目標に向かって、各員の心の満足が得られる組織能力(組織の正当性と組織心理学の力)が必要である。
5)これらの満足は必要条件ではあるが十分条件ではない。これらを満足しても、イノベーションは成功しない。次項参照。
4-2.メタ組織関係とバリューネットワークの問題について
<1>メタ組織関係の問題
(1)メタ組織(所属する社会分野、業界など)からいつでも出る勇気と見識があるか。単純に出れば、自滅の危険は避けられない。
(2)メタ組織の歴史的意義と限界、発生と成熟、衰退と消滅の歴史観があるか。行政指導、業界団体、NPO連合、企業の組合などの消長観が必要である。発生と成長期には協力し、成熟期には距離をおき、衰退と消滅の時期には離れるというスタンスを忘れるべきではない。
(3)イノベーションには、新しいメタ組織に移行するか、これを創造する力が必要である。
<2>バリューネットワークの問題
(1)現在のバリューネットワークから出る勇気があるか。単純に出れば、自滅の危険は避けられない。
(2)バリューネットワークの消長観が必要である。発生と成長期には協力し、成熟期には距離をおき、衰退と消滅の時期には離れるというスタンスを忘れるべきではない。
(3)イノベーションには、新しいバリューネットワークに移行するか、これを創造する力が必要である。
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5.解決の原則
<1>哲学の力
(1)ギリシャの哲学は都市国家の市民生活の指針と国家の運動原理を説くものであった。
(2)ヘーゲルを境に、哲学は政治運動と個人の思索哲学に分裂した。
(3)現代の哲学は、個人の思索の方法に矮小化されている。
(4)個人の思索哲学に加えて、社会哲学と国家哲学、人類(共生)哲学の開発発展が求められている。(私見)
<2>情報機会=学習機会
(1)組織の内外
1)日々の戦略には、組織の内外(周辺)情報が必要である。
2)前方情報(市場情報)、組織内情報(良し悪しを含む)、後方情報(協力会社など)の情報収集能力とメンバーへのあくなき配信努力が必要。
3)電子的情報システムの援用も必要。
(2)組織と一見無関係の世界を学習する機会の強化
1)イノベーションのためには、人類の究極の目標に関わる情報が必要である。
2)学術、政治、国際情報を収集し、未来を予測しやすくする。
3)電子的情報システムの援用も必要。(私見)
<3>学習の力
組織の存続とイノベーションの成功のためには、学習の力が必要である。
(1)システム思考
(2)自己マスタリー
(3)メンタル・モデルの克服
(4)共通ビジョンの構築
(5)チーム学習
(ピーター・M・センゲ{1})
<4>組織の正当性と組織心理学の力
(1)組織の発生と歴史的正当性、未来に対する確信を点検する能力が必要である。歴史的正当性や未来に対する確信がなければ、組織は自滅する。
(2)正当性と確信があっても、メンバー個人の社会性が欠落していれば、組織の力は発揮できない。
(3)現代心理学の限界
 1)フロイトの発達段階説(性欲偏重心理学)
  --口唇期(Oral Stage):0~1.5歳、肛門期(Anal Stage):1.5~3歳、男根期(Phallic Stage):3~6.5歳、潜伏期(Latency Period):6.5~11.5歳、性器期(Genital Phase):11.5歳以降--
 2)マズローの欲求の五段階発展説の限界からインド哲学を経て超人格(トランスパーソナル)理論へ
  --生理的欲求,安全の欲求,親和の欲求,自我の欲求,自己実現の欲求--/--「死の欲望」の発見といびつな心理学へ--
 3)ピアジェの「発達段階説」から、新ピアジェ派の登場へ
  --感覚運動段階(Sensory-Motor Stage):0~2歳、前操作段階(Preoperational Stage):2~7、8歳、具体的操作段階(Concrete Operation Stage)7、8歳~11、12歳、形式的操作段階(Formal Operation Stage):12歳以降--/--弁証法的認知発展--
☆現代心理学は、欲望と個人の人格に矮小化されている。個人の欲望と公教育の入り口までを解明したが、個人が学習によって獲得する社会性を解明していない。社会性獲得の心理学が必要である。(私見)
<5>メタ組織関係
(1)メタ組織を客観的に観察する能力が必要である。電子的情報システムが支援する場合もある。
(2)メタ組織が歴史的使命を終えるときを、いち早く予見する力が必要である。
(3)組織を変えるにはメタ組織も変えなければ、押し戻される。メタ組織を出れば、存続が危うい。
(4)別のメタ組織(新たに作ってでも)の中に、小さい別の組織を作ることが成功確率を上げる。現行組織内に別組織を作ると組織内圧力に敗北して、イノベーションは成功しない。(私見)
<6>バリューネットワーク
(1)既存のバリューネットワークを客観的に観察する能力が必要である。電子的情報システムが支援する場合もある。
(2)バリューネットワークが歴史的使命を終えるときを、いち早く予見する力が必要である。
(3)組織を変えるにはバリューネットワークも変えなければ、押し戻される。バリューネットワークを出れば、存続が危うい。
(4)別のバリューネットワーク(新たに作ってでも)の中に、小さい別の会社を作ることが成功確率を上げる。現行組織内に別組織を作ると組織内圧力に敗北して、イノベーションは成功しない。
(クレイトン・クリステンセン[2])
補足
◎ビールゲーム(流通在庫の変動圧力)の教訓
  ピーター・M・センゲ
 1)構造が行動を決定する。
  人を替えても、構造が変わらなければ同じおろかさを繰り返す。
 2)人間組織の構造は複雑微妙である。
  情報収集/意思決定/実行
 3)考え方を変えることが改善につながる。
  部分最適化の考えをやめて、全体最適化を考える。
◎システム思考の法則
  ピーター・M・センゲ[1]
 1)今日の問題は昨日の「解決策」から来る。
  問題は拡大する。
 2)システムは押せば押すほど強く押し返す。
  均衡を保とうとする。悪の「補償行動」が起こる。
 3)状況は一端好転したから悪化する。
  思いつきの解決は一時的好転をもたらす。
 4)安易な出口は通常元に戻る。
 5)治療薬が病気そのものよりも問題であることがある。
 6)急がば回れ。
  最適学習速度
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6. 参考文献
{1}ピーター・M ・センゲ著、守部信之訳、「最強組織の法則」、徳間書店(1995 )
{2}クレイトン・クリステンセン著、伊豆原弓訳、「イノベーションのジレンマ」、SHOEISHA (2001 )
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琵琶

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部下の教育指導--社長の条件(7)

2005/08/04
部下の教育指導--社長の条件(7)

企業経営者にOBの皆さんに、「先輩は会社で何に注力してきましたか」とうかがうと、たいていは「社員の教育」という答えが返ってくる。確かに企業活動に社員の教育や指導に割り当てらける時間や労力は大きい。
「戦略的情報組織論」(http://www.sciencehouse.jp/research/20050423strategy_info.pdf)でも述べたように、厳しい環境であればこそ、「学習する組織」以外は生き残れない。優れた経営者は優れた教育者であることが多い。
最近では、教育界で経済界から教員をリクルートしようとする動きが活発である。よい教師が経済界にはいる、という推測による行為である。期待は時には裏切られることもないとはいえないが、期待以上の逸材に出会うこともある。経営者や管理職は日々「教育」の自己技能を向上させなければならない環境におかれているのである。教育指導の能力は、明らかに「社長の条件」の一つである。

以下には、私の部下A君と私の仮想的な交信の記録を取り上げる。社長になるための条件の大切な一つが教育指導が出来るということである。今、A君は、入社希望で現在は当社で研修をしている女子アルバイト学生Bさん(北京出身)の教育指導に手を焼いている。A君は、きわめて熱心な役職者なのだが、まだ部下の育成と言う意味では実績がない。

琵琶>
これら(Bさんの提出資料)を見ると、未完成ではあるものの、それなりに作業している痕跡は見ることが出来ます。これらの資料を基に、Bさんに対する指導方法を考案することもある程度出来たかも知れません。
A君>
出来れば、もう少しましな報告書をお見せしたかったのすが、琵琶さんがこれでもそれなりの作業と思われたのなら、自分の判断ミスです、少しBさんを庇いすぎました、すみませんでした。よろしくお願い致します。
琵琶>
そのときの、A君の判断や対応も、普通に言えば80点で、十分合格です。
しかし、いまひとつ、抜けきれぬ「壁」がありますね。その壁はA君自身が感じているのではないでしょうか。指導者になるための、ある種の「壁」です。
ここで、A君が、将来100点とはいえないまでも、98点はとれる指導者となるためにあえて次のような説明をしておきます。私が、君に文句を言っているのでないことをご理解ください。私が、そのようなことを今まで十分に教えなかったことを反省しているのです。他の社員さんたちにも教えていませんし、・・・、責任を痛感しています。以下の説明は、周囲の社員さんたちにも伝えておいてください。
残りの20点には、なにがあるかといえば、次のような諸点です。
1)山本五十六風に言えば、「手本を示して、、、」の「手本」を示していない。
2)「学習性無力感」を誘発する危険性を冒している。
1)は比較的簡単なことですが、労力が大きいことを覚悟しなければなりません。まず、教える側が、同じ技をやってみせると言うことです。教師は、まず黒板で問題を解いてその解説をして見せます。それから「次の問題は自分でやってごらん」といいます。君に足りないところの一つは、「自分ならば、この資料をこう書くよ」と言って、結果を示して手本とすることです。格下の相手に何かを先に出させるのは、教育の際には指導者のやることではありません。手本どおりに、書き直させたら、よく点検して、よく出来ている点を「ほめ」なければなりません。ここで「ほめ」ないと初心者は「学習性無力感」に陥ります。さらに修正点があればそれを指示して訂正させます。訂正できたら、「ほめ」まくります。
2)の「学習性無力感」とは、少し専門的で難しい話ですが、上記の「ほめ」の必要性の説明で、少し分かっていただいたかもしれません。要は「~はダメ、~はだめ」と言っていると、言われている側は、最初はフラストレーションをためて反発したり、発奮したりしますが、ある限界を超えると、まったく努力する気力を失ってしまう心理現象を引き起こすことが知られています。本人は「やらないことは悪いことだ」という罪悪感にさい悩まされながら、どうしても金縛りにあったように何も出来なくなってしまうのです。これは心理学的な病理現象ですから、病気にかかった人の責任ではありません。指導者(であろうとする人)が、もっとも責任が問われて、困難な課題がここにあります。古くから知られている「囚人のアパシー」「捕虜の鬱症」などは、すべてこの学習性無力感の延長線上にあります。現在のニートや社会的引きこもりも学校教師起因性の学習性無力感が原因の大半を占めているに違いないと私はにらんでいます。世間では「教育するときは、ほめて教えろ」といいます。この言い方は安易過ぎますが、少なくとも「学習性無力感」に陥らないようにするという、大原則を少し間違えて表現しているのです。正しくは、「手本を見せて、言って聞かせて、やらせてみて、"ほめ"てやらねば、人は動かじ」というように、一連の手順の中で「ほめ」てやらなければならないということです。いずれにしても「ほめ」ることは必要です。
手本も示さずに「ほめ」てばかりいれば、指導者は、馬鹿にされますね。やらせてみて「ほめ」なければ、やらされたほうはやる気になりません。手本も示さずに批判ばかりすると、指導を受ける側は「学習性無力感」に陥ります。
「手本を見せて、言って聞かせて、やらせてみて、"ほめ"てやらねば、…」なのです。
http://www.sciencehouse.jp/materials/kokoroe.pdf
「手本を見せること」「そしてしばしば"ほめ"ること」に気を遣えば、指導者としての現在の壁を突破できると思います。指導しようという意欲やそのためのA君の多大な努力は、高く評価しています。もう少し深く考えて、もう一歩前に出てくれることを期待しています。力ずくでなくて、勘所を押さえれば、案外うまく行きます。教員としては優秀といわれる私の言うことをだまされたと思って聞いてみてください。
会って話したほうがいいと思いましたが、とりあえず、メールで許してください。
別途、顔を合わせてお話したいと思っています。

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