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ゲーム・オタクへの心配--心理、教育、社会性の発達(13)

2005/10/31
ゲーム・オタクへの心配--心理、教育、社会性の発達(13)

一つ前の記事で、「もう一つのパンチドランカー/ゲーム・オタクへの心配」を書いた。
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/10/12_e1cc.html
この中で、「システム開発の現場には、"頭の壊れた人が多い"といわれた」と、書いた。
パンチドランカーという職業病である。因果関係を証明しにくいので、労災認定は受けにくいだろうが、関係者ならば(あえて、口にはしないが)良く知っている職業に起因する病気である。
実は、どうやら、「システム開発の現場・・・」ばかりではなく、学校の教室にも、パンチドランカーがいるのである。パンチドランカーは、キーボードを叩いていないと寝てしまうか、不安で落ち着かない。お行儀良くしていると血行が悪く表情に乏しい。キーを叩き始めると一時的に顔に赤みがさして、表情が明るくなるが、授業に集中できない。饒舌になってお隣さんの迷惑も顧みずにしゃべり続けたりする。深い思考はできなくなっているので、キータッチだけは速いのに、情報系の成績は必ずしも良くない。禁断症状があり、キーを叩かなければ陰鬱になったり、不快感でやたらと怒りっぽくなっている。無駄にキーを叩く傾向があり、早打ち文字入力ソフト(ゲーム仕立てのタイプ練習ソフト)を常時持参して叩き続ける者も少なくない。他人の話などは耳に入らない。指先に激しい連続した打撃を与え続けることで脳内麻薬(βーエンドルフィン)は、本人を陶然とさせてしまっている。教師が注意したところで、何を言われているのかほとんど理解できない。倫理感が低下しているのである。別の言い方をすれば鈍感になっているのである。本人にしてみれば「キーを叩かなければ正気でいられないんだ。分かってくれよ。止めたら教室から出て行ってやる」というくらいの意識しか生まれてこない。
学習困難は、症状のどれかに該当する者は90%に達すると書いた。
「気がつけば全般的学習困難と学習障害--心理、教育、社会性の発達(10)」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/10/10_737c.html
そうは言っても、1つくらいに該当していても学習ができないことはない。複数の症状が重なると学習はいよいよ困難になってくる。ほうっておけば、普通の授業にはついてゆけないに違いない複合的な症状を見せる学生は、いろいろな大学を取り混ぜると、3割-4割程度いる。大学の教師らは、涙ぐましい努力で、何とか「こっちの世界」に目を開かせようと悪戦苦闘している。それでも成功と失敗は、残念ながらあい半ばしているといわざるを得ない。耳は聞こえているのに教師の言葉は理解できない、や、授業中かたときもジッとしていられず、注視しているものが次々に変動するような学生もいる。これらに混じって、パンチドランカーもまた学習困難者の一画を占めている。無駄にキーを叩いていないと目覚めていられないし、キーを打ち始めると陶然としてしまって、思考が停滞する。学習できる状態ではないのである。キータッチ中毒は3割-4割程度いる学習困難者の2割程度である。
パンチドランカーに似た言葉に「ゲーム脳」というものがあるが、この言葉を初めて使用した人は、ゲームおたくたちの脳の一部が壊れているという現象の一部を捉えたが、原因や機作を頓珍漢に解釈している。論拠もあやふやである。むしろ「ゲーム脳」なとという新語を作ってくれたおかげで、昔からあるパンチドランカーというれっきとした病気を多くの人が見逃す煙幕を作り上げたことになってしまった。「ハード・ゲーマ」が陥るのは「ゲーム脳」ではなくて、「パンチドランカー」である。
学校では病気になるほどキーを叩くような授業はない。その寸前くらいまででもやれば、大いに教育効果はあるだろうけれど、授業時間数の制約などから、その100の一ほどもキーを叩く授業はできないのが実情である。どこで、彼らはその病を得ているのだろうか。
それは、「ゲーム」である。大人たちは子供たちの社会性を育てる援助をする代わりに一人遊びを喜んでいる。親も保育士も小学校の教員も、一人遊びは歓迎である。自分たちの手がかからないからである。生身の子供が将来困ろうがお構いなしである。だって、偉い幼児教育の先生も「一人遊びは個性を伸ばす(というウソ)」を言っているじゃないですか、というわけである。子供同士の交流への意欲も技能も身に着けられなかった子供はますますひとり遊びにはまってゆく。一人遊びは没個性と没人間性を作り出すのである。没交渉を固定し、ニートを生み出しているのである。携帯用のゲーム機に魅入られたように一人遊びする入学前児童、小学生、は、大人たちの不作為の作為の結果であり、社会性の欠落ゆえに社会からの脱落が約束されてゆくことになるのである。その不幸な子供たちのさらに何割かは、重篤なパンチドランカーになってゆくのである。
誤解のないように、言うが、ニートの原因のすべてがゲームにあるのではない。ニートの主たる原因は、社会性を発達させない、親、教師、社会の失敗にある。パンチドランカーの発生も同根であるが、その一部の枝に過ぎない。手抜きのために一人遊びを美化した結果の一つが「ゲームおたく」の大量発生であり、結果としての電子ゲーム起因性パンチドランカーである。

パンチドランカーの怖いのは、精神科病院に入れるほどではないが、脳の一部がすでに物理的に壊れていることである。口頭での注意や説得、グループ活動への誘導などだけではなかなか改善が進まない。重篤な学習困難が見られる。社会生活にも相応の支障があるに違いない。単なる社会性の発達不全ではない。この種の子供たちに対しては麻薬中毒やタバコ中毒に対処するいろいろな手法が役立つ可能性があるものの通常の教育の範囲を超えている。心理学の特定の分野であるいわゆる「行動療法」が役立つかも知れない。
しかし、すぐに精神科の医師にゆだねるのは躊躇される。この種の学生は寝坊、陰鬱などの症状を強めるので、親も心配する。キーを叩いていないと鬱状態に近い外見となるのであるから精神科に子供をつれてゆこうとする親も多い。この種の学生を精神科に連れて行って相談したら、すぐに入院投薬となったケースがあった。2か月後、退院してきた本人に会って仰天した。想像を絶する彼がそこにはいた。鬱様の症状は消えたが、人格は破壊され、騒々しく誇大妄想的な話題をところ構わず息せき切って語りかけ同意を求め続けるパラノイアの症状を激しく見せていた。正常な判断力はもはやなかった。ハード・ゲーマの生活も続けていた。本人の話し相手になりながら、この子をこんなにまで破壊した責任は誰にあるのか、と激しい怒りが内心をおおった。半年後にも面会したが、この症状は変わっていなかった。精神科の医師は、鬱と診断して、抗鬱のための投薬治療をしたのに違いない。医師にも言い分はあるだろう。「鬱は直した」という自信と誇りもあるだろう。しかし、残っていた大半の判断力を崩壊させ、人格を破壊し、パラノイア(妄想性障害)にした責任は医師にもないのだろうか。これは例外的なケアケースなのだろうか。精神科に入院していた短い期間に医師起因性ではない別の発症が見られたのか。遺伝性疾患(ある種の言語障害がある)の子供たちの治療と研究に取り組む親しい医師が、雑談の中で、「精神科の医師は××××を作りますから、子供たちを預けるわけには行きません」と私に真剣なまなざしで語ったことが思い出される。この医師にも、よほど腹に据えかねることがあったのだろう。
ところで、誤解を避けるためにあえて付記するが、社会性の発達阻害を受けた若者がすべてパンチドランカーと言うわけではないということである。マスコミなどではすべてが「ゲーム脳」で片付けられてしまうときもあるが、これは事実に反している。社会性の発達不全と見られる学生は3-4割、教師が奮闘努力して10数パーセントに押しとどめられる範囲である。きわめて多人数なのだ。このうち、社会に出て、現実の仕事と仕事仲間にもまれているうちに改善される若者も多い。ミスマッチ退職-再就職困難となって、ニートとなる者は若者全体の2%程度だろう。統計はは採っていないが、実感としては、社会性発達不全学生/全学生=3-4割 のうちの30人に一人程度がおそらくゲーム起因性のパンチドランカーである。グレーゾーンにいるボーダー君を合わせればその3倍程度だろう。ボーダー君らを入れると100人位のクラスならば7-8人いる勘定である。無駄にキーを叩いていないと意識が維持できない程度に重篤な者は数%で、100人くらいの教室では2-3名である。ひどい状態だが、現実である。この種の学生は深い思考が出来ないので、私の授業の単位はかろうじて取れても他の厳しい先生の授業の単位を取得することは難しい。2年生になると大半が自主退学してしまうため、ぐっと少なくなっている。退学後は、たぶん引きこもりか良くてもフリータなのだろうと推測される。驚くことに大学を退学した者をフォローしている公的機関や人はいないので、だれもその実態を正確には知らないのである。
一方、パンチドランカーではないが社会性の発達不全に陥っている若者は、もっと多いのである。彼らは、何とか、「お情け」で大学を卒業してゆき、「異星人」「新人類」などとちょっとおどけて言われて社会の迷惑となりながら、多くは本人も苦しみながら自分の社会性を改善する。残りは、社会の迷惑になったまま、自分では改善の方法も思いつかず、挫折と自己嫌悪を抱いて若くして社会からリタイアする。いわゆる「ミスマッチ退職」にならざるを得ないのである。ニートの大量発生は、社会環境と教育に「社会性の発達阻害」の原因がある。ゲーム起因性のパンチドランカーはその重篤な一部の現れ表れに過ぎない。

ゲームオタクのみなさん、あなたはパンチドランカーにかかっていませんか。
キーを叩いていないと明るい心が持続できないと感じたら、かなり危ない状況です。
学生相談室(または学習支援室、大学によって呼び名が異なる)のドアをノックしてください。そこで、「たぶん、ゲーム起因性のパンチドランカーです」と告げて見てください。現代の青年の生態と心理を熟知している担当者が、よく話を聞いてくれるはずです。

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琵琶

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家族を救え--我が家の愛犬様(8)

2005/10/30
家族を救え--我が家の愛犬様(8)

「我が家の愛犬様」と題して、我が家の元気者の紹介を記事にしたところ、なぜか、会う人が、皆、ニコニコと接近してくるようになったような気がする。これも愛犬様のおかげだ。感謝、感謝。
ところで、愛犬様の記事は、家族にもおおむね好評なのだが、最近、小さなクレームがあった。「かわいそうだよ、お父さんはあいつの情けないところばかり書いてるじゃないか」「そうね、いいとこも書いてあげなくちゃ」と言うわけである。私は、あやつのいいところを書いたつもりなのだが、私と息子や家内では評価の基準が違うらしい。

そういえば、愛犬様は見かけによらず、家族思いなのである。家族を気遣うところは、ヒト以上である。いや、ヒトが発達する現代文明の中で自然な家族思いの感情を忘れかけているだけのことで、自然児である愛犬様は生き物として当然の感情を持続しているだけなのかも知れない。
息子が愛犬様のお散歩当番のときは、息子と愛犬様のふたり(一人と一匹?)で出かける。私や家内が当番のときは、愛犬様と私のふたり(一人と一匹?)、または愛犬様と家内のふたり(一人と一匹?)で出かける。たまに、私と家内と愛犬様のさんにん(二人と一匹?)で出かけることもある。家内は、もともと運動が苦手である。ましてや、車に撥ねられて(「妻が、車に撥ねられる(1)」http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2005/01/1.html)からと言うもの、走ったりするのは楽ではない。愛犬様と家内のふたり(一人と一匹?)で出かけるときは、愛犬様がソリを引くの犬のごとく、ひき綱を目一杯ピンと張りつめるので、家内ははや足にひきづられるように歩き続けることになる。私は、老いてはいるものの、まだ、少しは走れるので、手綱が緩んでいることのほうが多い。愛犬様が本気で走れば私もとうてい追いつかないが、我慢できる程度には愛犬様も手加減してくれる。
さて、問題は、お散歩のとき、私と家内が一緒の場合だ。私が手綱を握るとこうなってしまう。道の曲がり角から次の角までは、一気に駆け進む。愛犬様は曲がり角では自分のテリトリを誇示するためにオス犬らしく猛々しく放×すると、すぐさま、次の角に向かって突進してゆく。家内は取り残されて、後方を彼女としては精一杯の速度で走ってくる。愛犬様は、突然、立ち止まって後ろを振り返る。「あれっ、オカアサンがいない。しょうがないな、待ってやるか」と言うように、後ろを振り返ったり、進行方向や左右を忙しく観察しながら待っているのである。家内が追いつけば、また一気に駆け出す。愛犬様は、疾走と放×の快感に浸って、時々、家内を待つことを忘れて、振り返りもせずに角を曲がって次の角へと疾走してしまうこともある。そんなとき、私が「あれっ、オカアサンは?」と問いかける。愛犬様は眉間に深いしわを寄せて、あわてて、後ろを振り返る。「あっ、お母さんが来ていないぞ」と突然、不安げな顔になる。不安なときは、首を下げ、上目遣いに周囲をうかがうのでそれとすぐに分かる。不安げに待つこと1-2分、「オカアさん」が到着すると、頭をもたげて、嬉しそうな表情をすると、嬉々としてまた歩き始める。犬は群で生活する習慣を持っている。一緒に行動する群の仲間が一匹(一人)でも欠ければ、犬としては不安になるのだろう。
ところで、10月の上旬に震度4強を記録する地震があった。茨城県沖が震源地である。休日だったが、私は仕事仲間との打ち合わせと一杯のために出かけていた。都心に向かう地下鉄の中でその地震に遭遇した。電車は長いトンネルの半ばで突然ブレーキを踏んで停止した。しばらく、車内アナウンスもない。乗客は、不安げに周囲を見回す。誰しも無言だ。私は、ここから地下を歩くと次の駅も前の駅もかなり遠いな、どの方向に歩いたほうがいいのか、と一瞬考えた。そのとき、車内アナウンスは、「地震発生のため、列車は自動停止しました。しばらく停車します。そのままお待ちください」と告げた。そうか地震か、電車に乗っている私たちには感じなかったが、たぶん大きな地震だったのだろう。私の家族はどうしているか、とやや心配になる。家内は別件で出かけると言っていた。やはり列車の中だろうか。隣に住む老母はどうか、息子(老母の孫)がそばにいるから何かあっても対応するだろうなどと思い巡らせた。携帯電話は電波が届かないようで、つながらない。
ちょうどそのころ、息子は愛犬様とお散歩に出かけたところだったそうだ。出かけるとすぐに家内に追いついた。家内は近くのバス停でバスを待っていたそうだ。愛犬様は、「あっ、オカアサンだ」と急いで駆け寄って、前足をそろえて高く挙げ家内に差し出す。家内は、二つの足を両手で受け止めてから、頭をなでる。愛犬様は満足して、前足を下ろす。いつもの行動である。愛犬様は家内に挨拶を済ませると、またお散歩の足を進めて、家内のいるバス停を後にした。息子も一緒である。愛犬様は元気に走る。息子も走る。その先の角を回って、さらに進んで、さらにその先の角を左に曲がったあたりで、愛犬様は、突然、ガバッと向きを変えると気が狂ったように暴れだしたそうである。手綱を自分の口にくわえて、奪おうとするかのように激しく左右に振る。何事がおこったのかと、息子が綱をたぐり寄せようとすると、愛犬様は2度3度と宙を舞って、激しく抵抗する。綱は愛犬様の体に巻きついてしまう。そのまま、強く綱を引くと、窒息してしまいそうなので、息子がやや手を緩めると、愛犬様はいま来た道を逆方向に一目散に走り始める。息子も全力疾走だ。愛犬様は、耳を伏せ、歯を食いしばり、全力で息子を引きずるように走る。角を2度曲がって、バス停までの直線コースに入ったところで、とうとう、手綱は息子の手を離れて、愛犬様の体の後に宙を舞ってゆく有様だった。愛犬様は、家内の姿を見つけると、いっそう力をこめて飛ぶようにやってきて、遠くから、一気に飛んで、家内に飛びつく。家内は愛犬を受け止めようとよろけた。愛犬様は、耳をぴったりと後ろにつけたまま、家内の手や顔をぺろぺろとなめた。
実は、散歩の途中に愛犬様がガハッと向きを変えた瞬間、地震があったのだ。息子は走っていたので気づかなかった。しかし、自然児愛犬様は、走っていても、この異変に気づいたのである。愛犬様は、とっさに、いささか運動能力に問題のあるオカアサンが心配になったのだ。何事かあってはならじと、なりふり構わぬ行動に出たのである。バス停で無傷の家内に再会した愛犬様の喜びようは尋常ではなかったようだった。息子は遅れてバス停に到着して、家内から、たった今大きな地震があったんだよ、と聞かされて、なるほどと合点がいったようである。
お前は、ほんとうにいい奴だよ。お母さんを心配してくれてありがとう、私はこの話を聞かされて、愛犬様に感謝した。しかし、お前のおとうさん(私)も、その頃、地下鉄に閉じ込められて、不安な時間を過ごしていたんだけどな、と一瞬、妬みたい気分にもなった。まぁ、知る由もなかっただろうし、群のボス(私のこと)は強くて当たり前と思っているのだろうと自分を慰めた。本当に、愛犬様は、家族思いで、弱いものをかばおうという今どきの人間様にはないような男の子らしい精神の持ち主である。

(息子さん、奥さん、こんな紹介でいいですか。・・・?) 

閑話休題。

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琵琶

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もう一つのパンチドランカー/ゲーム・オタクへの心配--心理、教育、社会性の発達(12)

2005/10/22
もう一つのパンチドランカー/ゲーム・オタクへの心配--心理、教育、社会性の発達(12)

2002年の冬季オリンピックで、聖火台に向かって点火ロケットに着火した人物は、ボクシング界の英雄モハメッド・アリ(カシアス・クレイ)だった。それはパーキンソン病と戦う痛々しくも勇気あるアリの姿だった。彼のパーキンソン病は、長年のボクシング人生で、頭部を強打され続けた結果生じた「パンチドランカー」によって引き起こされたものと推測された。
「パンチドランカー」--頭部を強打されることが繰り返された結果生まれた脳損傷をこう呼ぶのである。左右の平衡感覚を失ったり、若いうちでもしばしば軽い脳震盪を起こしたりする。年をとるとさらに重篤な症状を現して、あのアリのようになる人も少なくないそうである。

さて、今、私が問題にしたいのは、もう一つの「パンチドランカー」である。現代の青年の脳に損傷を与えていると思われるからだ。
タイピストや入力オペレータ(キーパンチャ)が女性の花形職種だった頃、「パンチドランカー」という現象がいろいろな人から取り上げられた。タイプライタやキーボードのキーを眼にも留まらぬ速度で打ち続けるオペレータは、いかにも時代の先端に立つ女神のように見えた。しかし、この職業に2-3年勤務した"ベテラン"の女性の多くは体を壊して職を辞して行った。結婚して幸せな生活に転換していった方も大いには違いないが、何人かは「頸肩腕症候群(キーパンチャ病)」と呼ばれる病いに一生悩まされることになった。一部は廃人同様になり、一部は発狂して、一部の女性は自殺した。「頸肩腕症候群(キーパンチャ病)」は一時期大きな社会問題となった。その後、連続してキーパンチする時間を制約するなどの法的な整備が進んで、発生する患者も減り、昔ほどは騒がれなくなった。
私も、職業柄、その種の痛ましい患者に遭遇する機会も多く、また職業病に詳しい医師からお話を聞く機会も多かった。
キーパンチャ病は、まず、キータッチ・ハイから始まる。キーボードをすばやく打つためには、固定姿勢で、腕の無駄な動きを少なくして、呼吸によって重心移動が起こらないように工夫する。指の伸びる範囲は指を伸ばすだけで届くようにしたほうがすばやい。素人っぽく腕を動かしているようでは遅くなってしまう。初めは息苦しいいくらいに感ずるが、キーを打ち続けているとだんだんに気持ちよくなってくる。マラソンランナーが体験する「ランナーズ・ハイ」という現象と同じ「キーパンチャーズ・ハイ」である。脳内からはアヘン様物質が大量に供給され、気持ちがよくなってくる。キーボードを間断なく、すばやく、もっと速くと打てば打つほど、気持ちがよくなる。あまり気持ちがよくて、息をしなくとも苦しくはない。そのほうが重心移動が起こりにくく、仕事が進む。そのうち、ほとんど息を止めてキーボードを打ち続けることになる。実際は本人の体内は慢性的な酸欠状態が続いていることになるのだが、気持ちがよくてその事実に自覚はない。気がつくとキータッチする指の速度が落ち、意識は朦朧としている。ヘンだなと思うと、トイレに立ったりタバコに手を伸ばすことになる。必要な酸素補給と比べれば、不足しているはずだが、スピードを競うキーパンチャに十分酸素を補給する余裕などはない。すぐに指先は、また激しくも華麗なキータッチを再開する。機関銃のような音がとどまるところを知らぬかのように鳴り響き続く。やがて、また、指の速度が落ち、意識は朦朧としてくる。オペレータさんは、一瞬だけ呼吸すると、また、キーを叩き続ける。まるで、深い海の底から貴重な魚介類を引き上げてくる海女のように、一瞬だけ呼吸するとまた深いキータッチ夢中の世界に入ってゆく。
こうして、酸欠が繰り返され、長期間酸欠に晒されると、指先を宙に浮かせるために固定している腕と、その腕を支える首と肩の筋肉細胞が生存条件の限界に達して固く収縮し一部の筋肉繊維はまだらにボロボロと死んでゆく。自覚症状としては肩こり(および首こり)がひどく、肩の筋力が著しく低下したことを感ずる。実は、この時点ですでに危ないのである。酸欠によってダメージを受けているのは、肩や首、腕の筋肉細胞だけではない。脳細胞も同様にダメージを受けているのである。この時期には、パンチ・ドランカー初期の症状を示す。立ちくらみ(脳震盪)、左右の平衡感覚の低下、意欲の減退などである。
これが「頸肩腕症候群」の始まりである。この症状になると、意欲が減退し、朝が辛く寝坊や遅刻・欠勤がちになる。動作が不正確になり、物忘れがひどく、集中力が働かなくなる。周囲からは「怠け病」といわれ、本人は、心がずたずたに傷つきながら、もっと集中して、もっとがんばらねばと自分に言い聞かせ焦りが募る。周囲の冷たい視線の中で、無口になり、まじめなオペレータさんほど、さらに病いは進んでゆく。
さらに、肩の筋肉が固く収縮することによって、血管が締め付けられて、頭部をめぐる血流を阻害する。脳はますます酸欠に晒される。その結果、脳細胞の小さな部分があちこちとランダムに壊死し、思考力の低下、著しい意欲の減退、記憶障害、認知障害などの症状を現す者も出てくる。激しい耳鳴りや耐え難い偏頭痛に絶望して、「いっそのこと」と自殺してしまう人も出てくるのである。激しい幻覚のために他人に攻撃的になったり、人格が破綻して日常生活ができなくなる者もいる。これはパンチ・ドランカーの進んだ状態である。「頸肩腕症候群」の末期である。医師に「精神分裂病(当時の呼び名、現在は統合失調症と呼ばれる)」を疑われて、投薬治療が行われたり、精神科病院に強制入院されたりもした。

さて、システム開発の現場には、「頭の壊れた人が多い」といわれた。
ウインドウ、マウス、カーソルの登場の以前は、キーパンチが作業の中心であり、キーパンチャほどではないものの、やはりパンチドランカーが発生した。ウインドウ、マウス、カーソルが登場しても、しばらくの間は、開発の現場はキータッチが中心であった。今はかなり軽減されたが、一般ユーザのパソコン操作に比べればまだキータッチに傾いている。マウスとキーボードを頻繁に行き来するのがわずらわしいと感ずる技術者も多く、この作業スタイルは完全にはなくならない。それでもずいぶんと良くなったのだ。
かつてのシステム開発の現場では、優秀な若者がいつの間にか、意欲減退と遅刻欠勤の常習者になり、キーボードは相変わらず打つものの無駄なタッチを繰り返していることが多くなってくる。パンチ・ドランカーはキータッチの禁断症状があるのである。キータッチしていないと胸が苦しく、偏頭痛がしたり、気分も重苦しい。顔も暗くて気分も晴れない。仕事が進まないことも鬱に似た症状を誘発する。無駄に激しくキータッチすれば、脳内麻薬は供給され、気分が良くなってくる。キーを打つ音は激しくとも仕事をしているのではなくて、脳内麻薬を求めているだけなので、仕事は進まない。こんなときは、キータッチ型のゲームに熱中している場合が多い。あんなまじめな青年だったはずなのに、職務中に、なぜ・・・、と管理者は唖然とし、いぶかるのである。確かに脳がすでに一部壊れているのである。本来システム技術者は、要求仕様を基に高次化したシステム概念を構成し、高度に構造化した概念記憶を維持し、その記憶を基にトップダウンに設計書を書き、今度は逆に下位概念から上位概念に向かって順次プログラムに書き上げてゆかなければならない。作業の途中で記憶が薄れたり、概念構成があいまいになったり、何よりもまず概念構成を作り上げる能力に減退が生じたりすれば、この世界の仕事はとたんに不可能になる。本人は、以前と同じに「できるつもり」でいる。気分が晴れないから、気分回復のためにゲームなどで無駄なキーをしばらく打ってから仕事に取り掛かろうと思うのだろうか、注意すると「すぐに仕事に取り掛かります、ちょっと待ってください」と言ってゲームをやめなかったり、「いいだろうがぁ、ほっといてくれ!」などと怒鳴り散らす者まで出てくる。明らかな職務規律違反である。注意3回、警告2回、退職勧告1回を経て、事実上の懲戒解雇、というコースになる。そこまで行かなくとも、周囲と折り合いがつかなくなって自己都合で退職するものが多かった。
私がシステムハウスを立ち上げた約25年前から、しばらくの間は、このようにして退職した「経験者」が再就職先を求めて頻繁にやってきた。最初の何人かは知らずに雇ってしまった。経歴は立派で、業務履歴は申し分ない。しかし、いざ仕事となるとどこかおかしいのである。集中力に欠いており、いっぱしのことを言う割りに、目的に沿った具体的な発言がない。半年もすると、他の「正常な」青年を誘ってさぼりグループを形成するようになったりする。自分だけが仕事が進まないのは耐えられないので、年下の青年たちを"長時間タバコ"や"秘密ゲーム大会"のサボリに誘うのである。壊れてしまった者がいつの間にか身に着けた生活の知恵である。「赤信号、みんなでわたれば怖くない(?)」とばかりに、処罰をも恐れぬ行動に出てくるのである。本人にしてみれば、そうしなければ、身も心も苦しくて居ても立ってもいられない。しかも本人の障害に起因するものだとは知らないので、職場環境に原因があるのだと勘違いが募る。その勘違いも含めて「みんなもそうだろう。だから誘ってやったんだ」と英雄気取りである。職場の生産性はとたんにわるくなるので、職場環境の改善に神経を尖らせている管理者はあわてて、原因を探り、環境や手行手順に問題はないかと事態の改善に努めるが、改善の兆しがない。しばらくするとサボリグループの存在が発覚する。メンバーの大半は注意すれば改善するが、さぼりグループの事実上のリーダは、一向に改善しない。しかも転職してきたときの立派な経歴書ゆえに、プロジェクトリーダに任命していたりすることもあるので、始末におえないことになる。追及のの仕方によっては人権侵害として訴えられることもあるだろうと管理者は躊躇し、混乱はしばらく続くことになる。数は減ったが、今も、この業界には時々聞く話である。

さて、ゲームに熱中して幼稚園・小学校・中学・高校を過ごしてきた青年たちは、どうだろうか。心配がないとはいえないのではないだろうか。
今回は、職業病としてのパンチドランカーを取り上げたが、回を改めて、ケーム少年の問題は取り上げたい。

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琵琶

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無駄なことにも価値がある--社長の条件(10)

2005/10/21
無駄なことにも価値がある--社長の条件(10)

今日(10/21)のヤフーニュースには「ネット発信する郷土――コスプレも農家もこなす41歳女社長」という元気おばさん(女社長)の記事が載った。このおばさんは桁外れの元気さだ。
http://www.bcac.jp/company/index.html
記事冒頭の紹介では、「岩手県のローカル情報をまったりと紹介するストリーミング番組「ガチャダラポン」。銀髪カツラと派手な衣装で踊るキャスターの「ノンナちゃん」の“中の人”、畠山さゆりさん(41)は、女医やウエイトレスの格好でNHK盛岡の番組に出たこともあり、なんちゃってアイドルとしてDVD出演の経験もある2児の母。しかしただのコスプレイヤーではない。」と書かれている。「ガチャダラポン」や「ノンナちゃん」は岩手人ではない私にはさっぱりだが、とにかく目立つ存在なのだろう。
http://www.bcac.jp/company/index.html
この中に彼女の心意気の一端が紹介されていた。これは、なかなか感動的である。

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 「盛岡じゃないと無理」「せめて大通り沿いに会社を作らないと」――花巻の田舎の農家での独立は、誰もが成功を疑った。「でも『作れば来る』と思ったんです。自分が本当に必要とされているなら、ここまで来てくれる人もいるだろうと。“実験クン”でした」
 実験クンは見事に成功。次々に生んだ「お金にならない無駄なもの」が広告代わりになった。
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次々に生んだ「お金にならない無駄なもの」が、客に花巻まで足を運ばせる原動力になったというのである。

もちろん、本当に無駄なものならば、人も寄ってこないが、人を楽しませ、新しい時代の息吹を伝え、ネットの威力を教えたのがこの人のやってきた「お金にならないもの」だった。確かに、これで稼ぐことは出来ないが、これをしていたから客が来たのである。そして、事業も成功したのだ。

次の社長を引き受けてくれるだろう若者が学ぶものがここにあると私は言いたい。
経営や営業の現場では、「無駄なこと」が「成功の母」になることは、枚挙にいとまがないほどである。
今取引が成功しなくとも、交渉の場に呼んでくれたお客さんは、次の機会に本当に発注してくれる可能性が高まる。実感で言えば、他の新規顧客の10倍は可能性が高い。
今、お金がいただけないからといって、ふてくされたり、不遜な態度をとったり、「発注しないんなら、客じゃねぇ」などという態度や暴言を吐いたら、一生涯、そのお客さんからは口もきいてもらえないだろう。無駄に見える商談も「あきずにやる」のが「商い(あきない)」なのである。最初は断られて当たり前、次の機会に続くように、何かのよい思いを互いに残すように、終わる交渉ならば、なおのこと、何なく出来なければならないのである。
さて、開発の現場はいつも忙しい。新しい技術とITトレンドを試す実験システムを作る作業は滞りがちである。いつものスタッフだけでは手が足りなくなるので、腕の立つ他社の技術者やフリーランサを雇うこともある。これを「無駄な給料を払う」と言うなかれ。花巻の元気おばさん社長がやった「実験クン」とはまさしくこのことなのである。もちろん、お金を払って新しい技術とITトレンドを試す実験システムを作りたいという顧客がいれば、大変幸せなことである。予算を確保して実験ができる。しかし、新しい試みであればあるほど、意欲的なシステムであればあるほど、われわれが成功を強く確信していても、顧客は警戒して寄っては来ない。出来上がった「実験クン」を見て、「うんまぁ、すばらし。オレらもやってみんべ」となるはずなのである。人は聞いただけでは同意しない。見て、触って、動かしてみて、やっと納得するのである。
かつて、Web-DBシステムというものを発案し、顧客に説明に回ったころを思い出して見てほしい。図を描いて、文章で説明して、パワーポイントで説明しても、顧客たちは「それって、HPビルダーとどこが違うの?」と真剣に聞いてくる始末だった。やむなく、当時の優れものの中国人技術者L君に頼んで、お客さんのホームページをお借りして改造を加えて3日でサンプルを作った。顧客のホームページのトップの文字を、手元からデータ入力するだけで書き換えるデモをやって見せた。実際、そのサンプルシステムではその部分のテキストが一行分書き換わるだけだったが、顧客は目をむいてびっくりした。「えっ、HTMLライタに頼まなくともホームページの修正が可能なの?」---それから、われわれの受注は急拡大した。何事にも最初はあったのである。その最初は、あくまでも「実験クン」だったのだ。ホームページの自動書き換え処理などは、Web-DBシステムの能力の小さな一部に過ぎないが、画期的なパワーをデモンストレーションするには格好の「無駄なもの」だった。これに要した予算は標準的な派遣社員の3人日分だけである。その後の繁忙を考えればずいぶん効率的な投資だった。
今は一時のブームこそ去ったが、安定した顧客の何割かは、わが社にこのWeb-DBシステムを頼りにしてやってきたお客様である。
一時のブームが去れば、また、新しい時代の風をつかんで、新しい「無駄」に取り組まなければならない。「実験クン」を、自分たちこそ、やってやらねば、誰がやる、と思わねばならない。新しい時代の風をつかんでいれば、「無駄なもの」は、決して「無駄」にはならない。
社長は、資金繰りなどで明らかなように、今をしっかり生きていなければならないことは明らかだが、近未来のための「無駄なもの」にも果敢に挑戦していなければならないのである。
新しい時代の風をつかんでいない、トンチンカンな挑戦はしてはならない。周囲の「必ず儲かるから」などの甘言に踊らされてはならない。まずは、花巻の元気おばさん社長のように「時代の風」、すなわち「時代の潜在的要請」をいち早くつかむことである。そして、狙いが定まれば、一気に、果敢に挑戦するのである。
「時代の風」、すなわち「時代の潜在的要請」をいち早くつかむことの出来るものは社長になる可能性が高い。「無駄なもの」を無駄にはしないからである。「時代の風」、すなわち「時代の潜在的要請」を正しくつかむことが出来ない者は、価値を生まない無駄をしているのである。このような人は社長になってはならないのである。
次期社長になる人たちよ、「無駄」にはならない「無駄なもの」に大いに取り組んでほしい。また、仲間たちの「無駄にはならないはずの無駄なもの」を大いに推奨してほしい。これを「無駄」と毛嫌いする者は社長にはふさわしくない。

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琵琶

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「出された課題に正解が書いてない」(?!)--心理、教育、社会性の発達(11)

2005/10/21
「出された課題に正解が書いてない」(?!)--心理、教育、社会性の発達(11)

内心は、怒りで一杯だが、これが現実というものである。
昨日、ひとりの学生からのメールを受け取った。おそらく、これは氷山の一角であろう。むしろ、堂々と質問してくれたことを感謝しなければならないのかも知れない。他の何人かの学生は、陰でこそこそと「先生は、課題の正解も教えてくれない」などとうわさしているだけなのだろうと思う。実際に、それぞれの大学で出回っている「裏シラバス」や「学生評価」(匿名)の自由記述欄には、そう書かれていることが多い。
これらの学生の言い分は、「まず、正解を教えろ。それが分かれば課題に丸写しする」というものである。なるほどそれならば満点間違いなしである。昔は、たとえ、内心でそう思ったとしても、そう思う自分が情けなくて恥ずかしくなったものだった。しかし、今の大学の1割程度の学生は、「課題を出すときには、正解を教えてくれ」というのである。しかも、そのことに少なくとも罪の意識はないようだ。「恥」と言うものがないかのようである。オイ、コラ、正解や解答例は、課題の提出後に提示されるものではないのかな?、ン?
「丸暗記」「丸写し」のどこが悪いというのか、と言わんばかりである。本人たちに悪いことをしているという感覚はまったくないのである。
もちろん9割の学生はそんなことをしない。立派な学生が多いのはもちろんである。1割程度の少数派の学生が「正解を見せないで課題を出すなんてひどい」というのである。
学生の名誉のために、この学生のメールはここに引用しない。この学生は、他の数人の仲間が聞きにくそうにしているので、「勇気を持って」「(理由は分からないが、たぶん怒られるから)叱られるのを覚悟で」、代表して質問したに違いない。本人には、勇気ある行為はほめてあげよう、しかし、その考えは間違っている、と返信した。
その後、そのクラスの学生全員に、そのやり取りを隠して、次のようなメールを出した。私の苦悩が学生たちに伝わるのか・・・? でも、彼らを信頼して、真実を直裁に語ることにしよう、と私は考えたのである。


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琵琶クラスの皆さん
                 琵琶先生から

創造的知性へ
--「知性なき丸暗記」「考えなしの丸写し」からの脱却

琵琶先生の講義録を見ると、今出ている課題の答えは書いてありません。
このことを説明しておきます。
不思議に思った人はいますか。---「当たり前!」と思う人が多数派のようですが、「ひどい!」と思う人もいるかもしれません。
皆さんは、もう高校生ではありません。立派な大学生です。「丸暗記」だけでこれからやってゆくことはできません。正解をチラリと見て丸暗記したり、そこにある「正解」を丸写しするだけで済んだ時代は終わりです。
これからも、当然、丸暗記が必要になるときはありますが、正解を探し出して発見する能力、要素的な知識を組み立てて、目的のためにより大きな概念構成物を作ったり、大きな手順を編み出したりする力を自分で育てる必要があります。その力こそ、大人の知性です。
「簡単に丸写しすればできる」ような課題は、私の授業にはありません。もちろん、丸写しは不可です(零点です)。

たとえば、・・・

(後略)
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やれやれ、これは、戦いである。根の要る、息の長い戦いになるだろう。


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琵琶


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メス犬大好き--我が家の愛犬様(7)

2005/10/16
メス犬大好き--我が家の愛犬様(7)

我が家の愛犬様はオスなので、メス犬が大好きである。大変健全でけっこうなことであるが、いろいろと問題が発生する。
人間様が決めているお散歩ルートはどんなときもたいてい気に入らない。もっとたくさん歩きたいのに、人間様は何でこうも安直なのか、この山を越えてゆけば、もって素敵な友達も広場も待っているというのに、といつもご不満である。私が散歩しているときは少し抵抗して見せるものの「ちぇ、しょうがねぇ、付きあってやるよ」と一応従うが、息子や女房のときはそうは行かないらしい。激しく格闘して帰って来るらしく、毎度愛犬様との綱引きの報告がされる。「今日はね、たいへんだったんだよ。~、~」と、話題に事欠かない。
発情期になるともっと大変なことが起こる。散歩の途中、人間様の様子をそ知らぬ顔でうかがっていて、突然の「縄抜け」をやってくれるのである。信じられないことに、かなりきつく締め付けてあるはずのハーネスがそのときばかりはユルユルになって、前足をちょいと上げて激しく後ずさりすると、愛犬様の体がスルリと抜けてしまうのである。その間、1秒とかからない。油断は大敵である。「骨はずしの術」を体得している忍者犬なのかとあきれてしまう。しかし、あきれたり、関心したりしている暇はない。愛犬様は、1メートル以上いっしゅんで飛びずさると、口を開け舌を大きくたらしてヘヘッとばかり勝ち誇った表情をすると、一目散に走りだす。目指すは、そのときに気に入っているメス犬のお宅である。さあ、たいへん、メスのワンちゃんのいるお宅がパニックになるのは眼に見えている。「おい、待て」と追いかけることになる。呼べども立ち止まることなどありやしない。追いかけても追いかけても、走り行く。その距離、約300メートル。次の道の角では、後ろを振り向いて飼い主様がついてきていることを確認している。近づけばまた走り出す。次の角ではまた待っている。飼い主がついてきていないと少しは心配らしい。まぁ、「俺について来い」ということかも知れない。完全に愛犬様の主導権の下で、私は走らされているのである。
目指す、ワンちゃんのお宅に到達すると、塀の外で、まずは行ったり来たり、セレナーデを奏でるわけではないが、その恋心全開で全身でそのキモチを表している。門の扉が開いていたりしようものならば、もっと大変である。私が50メートルほどの距離に近づくのを待って、いきなり突入する。「あぁ~あ、やってくれたよ」と私は眼を覆いたくなる。メス犬が庭に出ていれば、鼻先で互いにご挨拶をしているころ、私も到着。お宅の方への挨拶もそこそこに、庭に私も駆け込む。愛犬様はこのときはご主人様よりもメス犬のほうが大切である。私に向かって低くうなり声を上げ、首だけを後ろに回して歯を剥いて構える。ここで、うっかり手を出すと本当に噛み付かれて大怪我をするはめになる。ほうっておけば少なくとも愛犬様の家宅侵入罪は免れない。ヘタをすれば乱暴狼藉の罪に問われかねない。メス犬の飼い主によっては、箒の柄で殴りつけてきたりする。これはかえって危険な行為だ。愛犬様を本気で怒らせると反撃が半端ではない。ここは猛犬使いの私の腕の見せどころである。2.5メートルほどの位置に私は立ち止まる。「おい、おい、ダメじゃないか。こっちにおいで」と腰を低くして手を斜め下に広げる。「ダッコ」のポーズだ。愛犬様はかすかに尻尾を振る。シメタ、関心をもったぞ。私は一歩前に進む。またうなり声を上げて歯を剥く。私は立ち上がって、大きく手を広げる。襲い掛かるぞ、のポーズである。愛犬様は、あわてて腰を落として、頭を低くする。半分は服従のポーズだ。それでもうなり声をあげる。私はもう半歩前にでる。愛犬様は、さらにあわてて伏せの姿勢になる。こうなってもまだ安心はできない。まだうなり声は上げている。イヤイヤの服従だ。手を出すとまだ咬みつかれる危険がある。私は「こらっ」と声を上げて、一気に一歩近づく、愛犬様はぎょっとしたように、ハラを見せてひっくり返る。完全な服従の姿勢である。こうなれば私の完全勝利である。「よしよし」と言ってゆっくりと抱き上げればよいのである。しかし、こうなっても急ぎすぎたりすれば、腕をかまれたり、腕をすり抜けてしまうこともある。愛犬様を抱き上げてしまえば、お邪魔したお宅の方に「申し訳ありません。すいません」とひたすら謝る。なぜか、このところ仕事以外でも謝る回数が増えた気がする。
その間、約20分、汗はびっしょりである。
最近では、同年代(3-4歳)のメス犬を好んでいるようだが、半年ほど前までは、メスの老犬(10歳以上-15歳くらい)ばかり追いかけていた。動物界では経験の浅いオスは子育ての経験豊かと思われる年長のメスを尊重するのだそうである。愛犬様もいたって自然な成長を遂げているので、老メス犬を好んだ。最初に愛犬様が恋したのは田中さん(仮名1)のお宅の14歳(当時)、その後に恋したのは佐藤さん(仮名2)のお宅の13歳(当時)だった。今でも、息子が愛犬様を連れて出るときには、田中さんのお宅や佐藤さんのお宅の前は散歩コースに組み入れられている。愛犬様は浮気なやつで、あちこちに恋人がいるのである。必ず立ち寄って、しばし、においをかいでいる。田中さんのお宅のメス様は現在16歳で、生きているのが不思議なくらいに足腰がすでに弱っている。お宅は私の散歩コースからは外れているが、散歩の途中でよくお目にかかる。このメス犬様は端正な顔立ちで若い頃はさぞかし美人(美犬?)だっただろう。ご主人も老夫婦で、おばあちゃんやおじいちゃんが老犬を連れてゆっくり、ゆっくりと散歩する姿はほほえましい。我が家の愛犬様は、それでも彼女(メス犬様)に駆け寄ってゆく。このメス様は気位が高く、本当の意味で一貫して愛犬様を寄せ付けない。鼻を寄せて挨拶するのには応ずるが、愛犬様が図に乗って、やや横に回ったり後ろに回り込もうというそぶりを見せると、激しく鼻先で愛犬様を突き飛ばす。愛犬様はメス犬様に対しては、ほえることがあっても反撃したりはしない。ぱっとその場を飛びのくと悲しそうな表情を見せる。2-3度そんなことを繰り返すと、愛犬様は、やむなく私の顔をチラリと見て、「もう、~、帰る~、~、、、」というかのようにその場を立ち去るのである。一方の佐藤さんのお宅のワンちゃんは、先月、亡くなってしまった。享年15歳、ガンだったそうである。亡くなったとは知らずに息子が愛犬様に連れられて佐藤さんのお宅の前に到着するとしばらくにおいを嗅いたあと、愛犬様が家の中に向かって2-3度ほえた。「どうして出てきてくれないんだ」とじれたかのようだ。佐藤さんの奥様が出てきて、ワンちゃんが亡くなったことを告げ、残ったそのワンちゃんのエサをくれた。こんなに好いてくれた犬に食べてもらえればうちの仔も本望でしょう、と奥さんは言ったそうである。いただいたエサは、高級な缶詰タイプのもので、我が家では買ってあげたくとも買えないようなものである。たくさんいただいてしまった。亡くなったワンちゃんにはお礼のしようもないが、時には愛犬様に食べてもらうことにしようとおもう。
おや、今、息子が愛犬様の散歩の準備を始めた。
そんなことがあっても、わが愛犬様は、なお、佐藤さんのお宅の前に、今日も勇んでゆくのである。悲しくも、熱心な行動である。

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気がつけば全般的学習困難と学習障害--心理、教育、社会性の発達(10)

2005/10/15
気がつけば全般的学習困難と学習障害--心理、教育、社会性の発達(10)

今は、出かける直前の時間を利用して、この記事を書いている。
本日(10月15日)は、某大学で「情報教育担当者交流会」が開かれる予定である。この交流会は、事実上、「情報教育」に携わる教師たちの教育実践技能の向上を目指す研修会というおもむきなのだが、この大学が「情報教育」に取り組み始めてから、ずうっと続いている。
私も2人いる発表者の一人である。私の担当テーマは「Blogを使った実践」という内容である。情報教育におけるブログの活用という内容である。会の趣旨からすれば、教育技能の経験交流が主たる目的だが、副題には「社会性の獲得と情報教育」と付けた。問題意識の一端を示しておきたかったからである。
他人は、私にそのような問題意識を期待していないだろうが、万一質疑の中で、触れられるチャンスがあればいくらか詳しく説明することにしよう。私は、一介のシステム屋の親父で、実用技術に関する経験知識を期待してたまたま非常勤を頼んでいるというのが、関係者の偽らざる考えだろう。残念だが、学生たちの心の問題や将来を心配する普通の教師の一人であることはあまり期待されていないに違いない。

25年前、電算機学校の卒研指導員、通産省関連の技官たちや経営指導員に対する情報教育を頼まれた。そして9年ほど前からは大学の教壇に立っている。若い学生たちと交流することは楽しくて、嬉しくて夢中に過ごしてきたと言ってよいだろう。現在通っている大学は3つ。4つの種類の講座を合計6コマ担当している。来年は6種類8コマになる。巡ってきた大学は都合5大学になる。楽しく過ごしているうちに、昨年あたりりから、ふと気がついた。いままで見過ごしてきただけだろうか。それとも現実のそんな学生が徐々に増えたのだろうか。おそらく、その両方なのだろうと思う。
気がつけば学生たちに広がる全般的学習困難の大海であった。はじめ、某M大学の情報基礎の学生たちにその傾向があることに気がついた。T大学の学生にも違った現れ方をしているものの同じ問題を発見した。H大学やK大学にも少数派であるものの同じ問題を抱える学生がいることに気づいた。振り返ってM美大の学生たちは、その傾向が顕著だった。現れ方の違いやその強弱については、それぞれの事情が加わっているが、じわじわとその範囲が広がっていることが感じられる。学生個々のその姿はまさしく学習障害様lerning disorder(LD) likeである。

学習障害lerning disorder(LD)は定義から見ると先天的脳疾患の一種であり、1%未満の子供が該当するものである。学生たちが陥っている学習困難は、症状は学習障害にきわめて類似しているにも関わらず、きわめて多数存在している。今、ざっと思いめぐらせてみれば、私が抱えている約400名/年程度の学生たちの90%程度が何らかの問題に該当する。これは、先天的なものではあるまい、と私は思う。後天的なもので、それぞれの学生の一生においては一時的な現象、いわば「仮性の」「学習障害」なのではあるまいかと思う。本来の学習障害と区別するために、仮性の学習障害と言う意味で、私はあえてここで「学習困難」という言葉を使用することにする。

本来の学習障害がもつ特徴は以下の通りである。
現在の学生の多く(おそらく90%程度)は、酷似する特徴のいずれか一つは持っている。
わたぼうし、"学習障害",音楽の部屋,http://www009.upp.so-net.ne.jp/melody/learning.htm(電子媒体、20051015現在)
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学習障害の特徴

●話すことの難しさ
話を聞いて理解することが困難です。
「いつ・だれが・どこで・なにを・どうした」などの文脈構成上の基本的な要素が欠落し、人が聞いてわかりやすいように話をすることが困難です。
(事柄や順序を整理して話すことが苦手です。自分の経験を説明することが苦手です。)
聞きもらしが多く、会話も一方的で話題がとびやすいことがあります。
●読むことの難しさ
文字や文章を正確に(意味をとらえて)読むことが困難なことがあります。
本を読んでいるときに、どこを読んでいるのかわからなくなる。
問題なく話せるのに、似た文字の弁別にとまどったり、行をとばして読んだり重複読みをしたりします。(勝手に語尾を読み替える)。
●書くことの難しさ
字を読んで理解できるのに、書字能力が困難な場合があります。
ひらがな、カタカナ、漢字が、左右、上下が反転することがあります。(鏡文字)
漢字に誤字が多いこともあります。作文や日記など、考えて書くことが苦手です。
学童期には、板書が苦手で、自分で書いた内容が理解できません。
●聞くことの難しさ
集団の中での指示が理解できません。(指示を忘れて何度も聞き返します。)
2つ以上の指示は困難です。
話を聞く時の「注意の集中」が持続しません。(話言葉中心の一斉授業の内容が聞き取れません)。
(因果関係など)複雑な会話は理解困難です。
●計算や推論の難しさ
数の概念が身につかず、数系列の規則性などが困難です。
学童期では、足し算や引き算、くり上がりの計算などが苦手です。(短期記憶の障害のため、くり上がった数を忘れるために起こります)。
筆算の桁がずれる間違いも多いです。
文章問題も苦手です。(問題を理解して論理的に解決する力が乏しいために起こります)。
図形の特徴や概念がつかめない。(地図の見方が理解できない)
時計や単位が理解しにくい。
移動教室や、ロッカーの場所が、なかなか覚えられない。
●運動動作の難しさ
はさみの使用やボタン、ひも結びなど、手先が不器用なため、細かい作業が苦手です。
手足の動きが不自然なことがあります。(バランスが悪く転びやすいこともあります)。
縄跳びのような前進の協応動作が困難です。
音楽の拍子をとるのが苦手です。
●行動の自己調整の難しさ
学童期には、授業中に立ち歩く、ぼんやりする、私語が多く、話が聞けない...ことがあります。
順番を待つこともが苦手です。
気に入らないことがあると我慢できず、乱暴な行動をとることがあります。
一つの話題にこだわり、同じ質問、同じ話題を繰り返します。
表情が乏しく、人見知りしてその場の環境になかなかなじめません。
●対人関係の難しさ
相手の思いや感情を考えて、行動することが困難です。(人の嫌がることを言ったり、わがままを言ったりするため、自分勝手だと思われがちです)。状況判断が苦手です。
人と関わる時の基本的な挨拶や礼儀が身についていないことがあります。(これは、場面理解困難のために起こります)
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※1 「学習」というと「学力」を思いがちですが、私は「学力」に限定せず、「生活していく上で必要な技能を習得していく力」と考えた方がいいと思い ます。
※2 学習障害の診断で間違えやすいのが、軽度の自閉症、アスペルガー症候群、軽度の知的障害です。これらの障害は「学習障害」とは指導方針がまったく違うため、慎重な鑑別が必要です。また、学習障害と密接な関係にあるものに「注意欠陥多動性障害(ADHD)」があります。注意の集中を続けることが難しい障害です。学習障害の子どもたちのおよそ半数以上は同時にADHDを持っているともいわれています。障害の鑑別も必要ですが、目の前の子どもたちにまず気を配ってあげることを忘れずに...。子どもたちがどのような援助を必要としているのかを重要視してください。そして、具体的な援助方法を考え、実施していくことが最も大切でしょう。
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これらの特徴のいずれか1つを持つ学生が広範(90%程度)に存在することは紛れもない事実である。しかし、それほど多くの若者のすべてがこの種の疾患をもって生まれてきたとは考えにくい。大部分は後天的なものであろう。
10年ほど前、現代の若者が、階層的な概念構成を不得意としていることに気がついた。メタ論理がせいぜい2-3階層しか構成できないし、理解できないのである。
一方、システム開発の現場では、プロといわれるためには訓練によって最低でも1000階層程度の多層化構想のある概念構成物を自らの脳内に構築できなければならない。さもなければ、システムの設計もプログラミングもできない。多くの技術者は2-3000階層をもっている。スーパープログラマと呼ばれる人たちは約10000階層の階層構造を持つ。トップダウンに作り上げられた階層構造を下から積み上げるように(逆順に)プログラムは書かなければならない。一番下の階層から書き始めて一番上の階層を書き上げる作業は、一気に行われる。これに対応する概念構成物があいまいであったり、記憶が途中で薄れてしまえば、書き上げることはできなくなる。概念構成物のしっかりした記憶を持ち続けるということは、まず必要な概念構成物を作り上げることができなければならない。
以前の若者は、それをわけなく習得し、有能なプログラマに育っていった。しかし、個人的観察の範囲では、10年ほど前から、そのような概念構成物を作り上げることもそれを記憶しておくこともできない若者が過半を越えたのである。物事を並列に並べてみることはできるが、階層化してしまうととたんに理解できなくなる、もちろん記憶することなどできないという若者である。これらの若者は、思考が浅くて、知恵が働かない、言われたことを反射的に実行することはできても、先を見込んで作業手順を組み立てることができない、などの困難が伴っていた。私は、これらの若者たちの有様を「一種の記憶障害」と呼んでいた。いま、気づいてみれば、その姿は、もっと大規模で困難の領域は広い。単なる記憶障害だけではない。学習困難、いや認知困難なのである。
システム開発の現場や教育の現場では「計算や推論の困難」は目立つが、こればかりではない。聞こえているのに理解できない「聴覚認知障害様困難」や見えているのに理解できない「視覚認知障害様困難」もある。たとえば、「6ページ目を開いてください」などの簡単な説明も教師の口から出るものについてはまったく理解できない学生がいる。文字や絵で示されたものは理解する。文字や絵ですまない場合は、いちいち、隣の学生が、教師の口真似をしてその学生に伝える。隣の学生が教師の口ぶりをオウム返しにすれば、よくわかるのである。小中高で彼が体験した何かを原因として、壇上に立つ人物すべてに対する心理的防御反応がおきているのかも知れない。(教師の斉一性への圧力への心理的防衛反応だろう)

これまで、私は、「社会性の未発達」ということを問題にしてきた。「社会性の未発達」ならば、大学でも発達支援ができるだろうという思いもあってのことである。しかし、そのほかの発達不全についても対策を強化しなければならないのである。
ブログの書き方、学生への教え方に習熟することももちろん大切であるが、大学の教師が教科を超えて、手を結び、学習困難者にたいする支援が必要である。

文部科学省は、学習困難と学習障害をややあいまいにかつ包括的に取り扱い、定義し、対策を述べている。
文部科学省,"小・中学校におけるLD(学習障害),ADHD(注意欠陥/多動性障害),高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のためのガイドライン(試案)", http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/01/04013002.htm(電子媒体、2005/10/15現在)
なかなか見るべところも多いが、私は、小・中学校ばかりではなく、高校でも大学でも、その成長に段階に応じた対処を実践すべきであると考える。
先天性か後天性かなどの区別も必要である。90%もの児童生徒学生を特別学級に入れることはできない。普通教育で行われるべき対策が必要である。大学では、これまで、それらの対策か必要とは思われてこなかった(「小学生ではあるまいものを」など)。しかし、今は、(小学校では対処してくれないので)小学校の分まで対処が必要な時代なのではないだろうか。
機会があれば、どこかで存分に語ってみたいという衝動に駆られているところである。

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