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鍵を握る単位組織=擬似家族--情報社会学、予見と戦略(4)

2006/7/28
鍵を握る単位組織=擬似家族--情報社会学、予見と戦略(4)

「地球社会」または「人類社会」の成立は、もうまもなくであると私がいうと、「もうすでになっている」とか「ありえない」とかいう内容の両極端な反論がある。

(1)「もうすでになっている」について
「もうすでになっている」という人々は、「人の行き来は、海を越え、国境を越えて可能になり、交易も資本の移動もほとんど自由になっているし、情報にいたってはインターネットによって世界は結び付けられている、2010年ころを境に何が違ってくるのかわからない」というのであろう。
確かに古来人は命がけで海を渡り、山を越えて地上に広がった。しかし、経済活動も行政活動も市民の生活も人種・民族・地域を基盤に成立していた。近年は国民国家の時代になってはいるが、その国民国家の枠をはずすことができない。
現在の制約は、マクロに見れば国民国家の枠である。この枠を超えたメタ型の市民組織、行政組織、経済組織は存在しない。これらの組織はすべて国民国家に統合されている。国境を超える組織は基本的にはネットワーク型の組織だけである。国内であれば、ネットワークが先行してメタ型組織が後追いで形成されることがしばしばあるが、国境を越えてメタ組織になることはきわめてまれである。
ミクロにフォーカスすれば、人の単位組織が国境を越えて成立しにくいという事情が存在しているのである。人の組織は「一人とその他大勢」では成立しない。一人は単位組織(3~7人)に参加して初めて組織に参加したことになるのである。多くの社会組織は複数の単位組織の複合体を組織内に抱えて成立しているのである
単位組織は、人類が「家族」の人類史的経験を元に血縁の外に作り上げた「擬似家族」である。軍隊の最小単位である小隊、企業における班やグループ、オーケストラのセッションなど、すべての組織には擬似大家族の基になる擬似小家族がある。擬似家族は、本物の家族をまねて作られるので、衣食住を極力共にし、行動を共にすることが必要で、同位置性が要求される。地域や建物を共にして息遣いが感じられる位置関係で協調行動がされることが必須の条件である。同位置性の制約を免れないので、単位組織は成立地域が特定され、いずれかの国民国家に属していることになるのである。単位組織に多様な人種や民族が混在していても事情は変わらない。その組織が存在する場所が中国であれば、中国という国家に所属している。直接でなくとも、その単位組織の上部組織が企業であれば、その企業の国籍がある。無国籍企業や多国籍企業というのは実は(合法の範囲では)存在しない。それぞれに国籍のある企業が国境を超えて資本のネットワークを構成しているだけのことである。それぞれの企業に含まれる単位組織は数千もあるだろうに国境をまたがる単位組織はオーナ家族などほんの少数に限られているはずである。
人類が「家族」のまま進化したものがネアンデルタール人などの古いタイプの人類であった。5-6万年ほど前に彼らと別れたらしいホモサピエンスは、実の家族(血縁を基礎とする家族)とは別に、これを離れた擬似家族を複合的に構成し、多数の実家族を横断する組織を複合的に作ることに成功した。その結果、血縁によって分かれている大家族の相互の結束も可能になり、社会の萌芽が生まれたのである。屈強だが大家族を超えられずに多数の結集が弱かったネアンデルタール人と大家族同士をも結集することに成功して多数の結束を生み出したクロマニヨン型のホモサピエンスでは、どちらが強かったかは容易に想像ができる。軍略家の一族に生まれた私には両者の争いの様子が手に取るように感じられてしまう。しかし、ホモサピエンスが手にした「擬似家族」は密接さを担保するために家族と同様な同位置性を必須としていた。擬似家族が「小隊」や「班」、「セッション」などとスマートに呼ばれるようになっても、この性質は変わっていない。そこには家族類似の粘着質の人間関係が生ずる。飲食を共にしたり、仕事を離れた宴会やパーティ、泊りがけの旅行なども折に触れて必須である。これらの擬似家族を私は「単位組織」と呼ぶことにしたのである。
いま、人類史上に特筆すべきもうひとつの変化が生まれている。同位置性の制約を超えた単位組織の成立の予感である。擬似家族に必要だった「互いの息遣いが直接聞こえる距離にいる」という制約が超えられようとしているのである。その単位組織の中にいるメンバー同士の結合は電子的通信によって補強されて行われるのである。
今までの社会は単位組織が同位置性を備えていたことに対比して、これからの社会の単位組織は同位置性を超えてゆく傾向を有するのである。
社会はその単位組織というミクロな部分が変貌を遂げ、同位置性を超える単位組織の数が徐々に増えてゆく。その変化は静かでそう目立ったものではない。人々は今そのことに驚いたり騒然となっているわけではない。しかし、ある日、その数が社会のある比率を超えると突然大きな変動を起こしてゆくことになる。新しい秩序ができる前には古い秩序が壊される。混乱は国家を超えて発生するので、当然軍事的衝突も発生するだろう。何がおきているのかわからぬままに政治家も軍人もしゃにむに戦争をやりたがる時期がやってくるだろう。たとえば、国家を超えたNPO法人のような軍隊(ボランティアで支えられた軍事機構)が現れたりするだろう。これは国家の軍隊からすれば許しがたい存在であるに違いない。各国の軍隊はそれらを撲滅しようとして躍起になるに違いない。それを何というのかわからないが、「現秩序を破壊するものとの戦い」であることは間違いない。その混乱に誘発されて国家間の戦争も続発するに違いない。これらも新しい時代が生まれるための産みの苦しみである。「戦後60年」とよく言うが、われわれは、今、「戦後」ではなくもはや「新しい戦争の時代の前夜=戦前=」にいるのであると思う。
これから始まるであろう「戦争の時代」を人類がたくみに生き延びることができれば、その先には新しい社会「地球社会」または「人類社会」が成立しているだろうと私は思う。目前の「戦争の時代」に人類破滅の核戦争へと突入したりするようなおろかなことがあってはならないし、人類はそこまでおろかではないと信じたい。

(2)「ありえない」について
前回述べた「予兆」には、同位置性を越えた単位組織の結束の萌芽形態が書かれている。これらは氷山の一角である。たとえば前回は取り上げなかったが、サイバースペースの友人関係を論じた学生の研究発表もある。
俵木裕毅、「サイバースペースにおける新しい友人関係の可能性」、情報コミュニケーション学会第3回全国大会、CIS2006(2006.2.25~2.26)
「秘匿」と「匿顔」に焦点を当てたもので、大変興味深いものである。この学生は、今年3年生であるが、今年2月に開催された情報コミュニケーション学会でも私と同席し、その後私の講義も履修してくれた。
この発表で取り上げられている「ミドル友達」とは、まさしく単位組織成立と同根の友達関係成立が「秘匿」と「匿顔」でも成立しうる可能性を示しているもので、単位組織の成立が同位置性を越える可能性を別の角度から示しているように私には思われる。
「ありえない」ことはないのである。

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琵琶

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人類社会成立の予兆、ミクシィ・WEB2.0など--情報社会学、予見と戦略(3)

2006/7/17
人類社会成立の予兆、ミクシィ・WEB2.0など--情報社会学、予見と戦略(3)

直前の記事で私は、「地球社会」または「人類社会」の到来を予告した。
単位組織の非局在性(社会の単位組織が同一場所を共有することを前提としない成立を見ること)によって、地域や国民国家を越えた上部機関が成立し、国民国家が相対的に非力化されると予言した。国民国家は当面の間なくならないとしても結果として国民国家ではない地球規模または人類規模の上部組織の成立の可能性にもふれた。

このようなことを言う根拠はといえば、なるほどきわめて脆弱である。社会の情報システムの動向をじっと観察し、行く末を見据えてきた老人の目には、その先の未来も見えてくるのだと言うしかないのかも知れない。
私は、かつて、中小企業大学校で技術研修と経営研修の講師だったが、1989年の秋、教室の中で、私は「東ドイツの鎖国政策は終わりを告げる。東西ドイツの境は取り払われ、ベルリンの壁が撤去される日も近いだろう」と述べた。当時、始まったばかりのインターネットを介した国際的情報のトラフィックは急激な増加を見せていた。ルーマニアなどの東欧に逃れた東ドイツの人々が大挙して西欧に脱出する状況もメールには流れてきた。「ハンガリーから昨日脱出した東ドイツの市民は5万人だったが、今日は10数万人に達した可能性がある」などの臨場感あふれる生の情報が流れてきた。市民は、東ドイツのエリートがひそかに流す脱出ルートの情報を手に東欧に向かっていた。東ドイツのエリートの多くは東ドイツの現状に絶望していた。ソビエト軍の駐留だけが社会の暴発を抑止していた。それもいつまで持つのかわからなかった。東ドイツの情報閉鎖と国境での銃撃だけでは、もはや人々が国境を越えるのを阻止することは不可能だろうと思われた。私は東欧圏の専門家でもなかったが、ネットを通じて聞こえてくる膨大な情報の洪水に耳を傾けていると、不思議にそこには時代の新しい動きの核心に触れる何かがはっきりとしてきたのである。「インターネットの成立によって、情報操作だけで国家を維持できる時代は本質的に終わった。まもなく、事態が動くだろう」と私は確信していた。東ドイツの一般市民はまだインターネットに無縁だったが、エリートたちはインターネットを介した西欧との交信に命を削っていた。西欧の脱出支援ボランティアもさまざまな支援の手を差し伸べていた。
1989年11月9日に東ベルリンの壁は若者たちの手によってハンマーなどで壊され始めた。警備兵の銃弾は数発に過ぎなかったと言われている。それまでは、壁を越えようとしたたくさんの市民が高圧電流に手足を焼かれ、次々に銃弾に倒れたその地は歓喜の声を上げる膨大な市民によって埋め尽くされていた。西欧のメディアは、「まったく予想もしなかった事態が、今、目の前で起きています」と絶叫した。日本のテレビクルーは、西欧のテレビクルーよりも20時間は遅れを取って現場に到着しただろう。
私の講義に出席していた当時の通産技官や通産事務官の何人かは、あわてふためいて、私のところに電話をかけてきた。「どんな情報があったんですか」「なぜ知っていたんですか」・・・。私は「いえ、特に情報を握っていたわけではありません。社会が動くとき、情報も動くのです。特に情報システムが動くときには社会も動くときなのです」と回答したのである。

ここでは17年前の出来事を振り返るのが目的ではない。今、私は、4-5年後に始まるであろう人類史的変動について予想して述べているのである。情報システムに半端でなく取り組み、命がけでかかわってきて、今も激しく取り組んでいる自称「システム棟梁」の爺の目には、紛れもなく、その変動が見えてくるのである。だれも予想しなかったベルリンの壁が倒れるのを予見したときのように。

「地球社会」または「人類社会」の到来の予兆のいくつかはすでに現れている。
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1)ミクシィ(mixi)が2チャンネルを越えた。
 http://www.networkworld.com/news/2006/062806-sns-google.html
 2006年/06月27日
 http://www.asahi.com/business/update/0628/135.html
 2006年06月28日19時16分
2)WEB2.0は人類の協調分散を支援する。
 http://blogs.itmedia.co.jp/web15/2005/08/web20_8a41.html
 http://www.sophia-it.com/category/web2.0.jsp
3)アジャイルソフトウエア開発・オープンソフトウエア開発
4)「世界政府というものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは、すべてGoogle社で作る。それがGoogle開発陣に与えられたミッションなのだよ。」伝グーグルの幹部)
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1)mixiが2チャンネルを越えた
このニュースは、関係者の間に衝撃を与えた。「2チャンネル」という毒々しくも甘美なアングラ世界は、いったんその地位を確立してしまうとそう簡単に突き崩せないと考えられていた。いわば「悪貨は良貨を駆逐する。その逆は困難だ」と思われていたのである。
引用した報告やニュースを見ても、また関係者の多くも、「参加条件限定型の SNSの躍進」という捕らえ方をしていて、私から見れば大いに不満だった。彼らはWEBビジネスの「いいネタ探し」という話題の範囲を超えていないかった。
このニュースは、日本のユーザがWEBサイトに滞在する時間の総数を比較したもので、トップはヤフー、2番は楽天、3番目に「参加条件限定型の SNSのミクシィ」が登場した、というものである。昨年の統計では、ミクシィは10位前後だったので、確かにこれは大躍進である。このこと自体に驚異を覚えても、それは正当というものではある。
しかし、私は、この中に、それだけでは済まないある種の予兆を見出しているのである。
「2チャンネル」というのは、セックス産業といういわばアンダーグラウンドビジネスの支持と資金援助を受けて成立した巨大な情報ビジネスであった。「2チャンネル」は情報産業の保守性、権力の秘密主義に大きな風穴を開けてくれた。ウソもホントも大量に存在するさまざまな「板(ボード、スレッド、話題別の掲示板)」から、行政の腐敗や教授の不正を嗅ぎ取った人も多かった。一方、根も葉もない悪口の流布によって被害を受けた人たちもいる。裁判も多数起こされて、いわば満身創痍状態とも言われている。
新しい秩序の前には、古い秩序が壊されるプロセスがある。旧秩序の破壊と新秩序の創造が同時に進行すればハッピーだが、時として破壊が先行する。岡留氏の雑誌「うわさの真相」と「2チャンネル」は、よくも悪くも華々しく旧秩序の破壊をやってのけた時代の先駆者である。
岡留氏の「うわさの真相」は廃刊となり、「2チャンネル」だけが残っている。「2チャンネル」は、従来の社会の区分を無視し自由な発言空間を提供してユーザの支持を獲得した。社会の単位組織とその上部構造という社会の成り立ちを一切無視したところに破壊者としての面目があった。その代わり、悪意あるものも自由に入り込むことができ、2チャンネラと呼ばれるこの世界に精通する常連以外の発言は袋叩きになることが多かった。これを理不尽と思う人もいるわけで、多くの良識ある市民は敬遠した。また、「2チャンネル」は、時に犯罪にも利用されたり、特定の人々の意と利益に副わないという理由だけで善良な人を血祭りにする「マツリ」が起こったりもした。身の安全に気を使わざるを得ない女性の発言は極端に少なく、殺伐とした言葉のやり取りが多かったように思う。
ミクシィは紹介者なしには参加できない仕組みをもち、情報開示の範囲を「友達の範囲」や「友達と友達の範囲」などに限定することができる。社会の仕組みを完全に映したものではないが、身元や人柄の知れた「友人」の範囲などに情報共有を限ることができるという大きな特徴を持っている。男たちも、そして女の子たちもこぞって「安全な2チャンネル」といわれるミクシィに参加していった。1987年ころから始まって大盛況を続けていた日本の女の子たちのWEB日記も、今年の2月ころから日記サイトやブログサービスからめっきり少なくなり、ミクシィへの大移動が観測されていた。
「2チャンネル」から「ミクシィ」へのユーザの移動は、「単位組織を持たないフラットな巨大情報空間」から「曲がりなりにも(安全な)単位組織をもつ複合的情報構造空間」への移動である。
これは、社会構造を映すバーチャル空間がやがて本格的に成立する予兆であると私にはみえるのである。人と人の結合(社会の最小単位である単位組織=家族や職場のグループ、趣味のサークルなどの最小単位)が、同位置性(局在性)を越える可能性を見せたのである。同位置にいない人同士であっても、身元が保証されていて人柄もある程度わかっている人同士であれば、人は結合してある種の単位組織を構成しうるということである。その基盤はまだ脆弱である。どうすれば磐石足りうるかについては、別の機会に述べるつもりたが、その結合の可能性を示しただけで、人々の心は動き、行動を開始したのである。
これから見えてくることは、これからの時代は人と人の結合が同位置性(局在性)を越える社会成立の時代となる、ということである。

2)WEB2.0は人類の協調分散を支援する
WEB2.0という言葉は、昨年に続いて今年も情報システムの世界ではもっとも有名な流行語だろう。
佐藤匡彦, 「Web2.0とは?」, http://blogs.itmedia.co.jp/web15/2005/08/web20_8a41.html(2006.07.17)の説明に沿って見てゆくことにする。
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Web1.0
Web1.0と言うのはめったに更新されないスタティックなHTMLで作られたWebだと言う話です。静的で、ちょうど図書館の書棚の様なイメージです。
Web1.5
Web1.5ではコンテンツマネジメントシステムを利用して、いつも変化がある、ダイナミックなWebと定義されています。Web1.0と比較すると極端に動的なWebだと言う事ができるでしょう。また、付け加えるのであれば、サイト内で完結したサービスが多く、多大な投資を行う事で成立しているWebと言う事ができます。ドットコムバブル時代のサイトがまさにこの種類のWebサイトになるでしょう。
Web2.0
まだまだWeb2.0そのものの定義は曖昧な様ですが、大枠の意味合いとしては、Web1.0の静的なWebであったり、Web1.5のサイトの独立性が高いダイナミックなWebとは異なり、サーバやコンテンツ同士がシームレスに連動され、インターネットが社会的なネットワークとして動作すると言う様な意味合いです。
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なるほど、定義は曖昧な様で、何を言っているのか良くわからない。しかし、これが正常な認識と言うものである。
Tim O'reilly氏,「What is Web 2.0」などによれば、Web 1.0とWeb 2.0の違いを特徴付けるものは下記のようなものであるという。「特集 ―― Web 2.0とは」,IT用語辞典,http://www.sophia-it.com/category/web2.0.jsp(2006.07.17)より。
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Web 1.0 --> Web 2.0
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DoubleClick --> Google AdSense
Ofoto --> Flickr
Akamai --> BitTorrent
mp3.com --> Napster
Britannica Online --> Wikipedia
個人のウェブサイト --> ブログ
evite --> upcoming.org and EVDB
ドメイン名の投機 --> SEO(検索エンジンへの最適化)
ページビュー --> クリック単価
スクリーン・スクレイピング --> ウェブサービス
パブリッシング --> 参加
コンテンツ管理システム --> wikis
ディレクトリ
(分類学) --> タグ付け(人々による分類"folksonomy")
スティッキネス(個々のサイトへの顧客の忠誠度)
 --> シンジケーション(サイトの垣根を越えた連携)
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たしかに、新しいWEBのサービスを指摘はしているが、だから何なのか、本質的に何がおきているのか、O'reilly氏もわかっていないに違いない。O'reilly氏の言う、7つの特徴をやはり上記の特集記事の解説に沿って記述すると下記のようになるらしい。各項目下の例示は私の書き込みである。

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(1)ユーザーの手による情報の自由な整理
 例: はてなのソーシャルブックマーク/各種マイポータル
(2)リッチなユーザー体験
 上の対象表参照
(3)貢献者としてのユーザー
 例: AmazonのレビューやGoogleのPageRankなど
(4)ロングテイル
 例:従来大手企業しか顧客になることが無かった広告業界において、個人のレベルまでを取り込むことに成功したGoogle Adsenseなどを挙げることができる。
(5)ユーザ参加
 例: 情報提供側と提供される側との間の境界線がなくなり、プログやSNSが広がった。
(6)根本的な信頼
 例: Wikipediaやオープンソースなどが
(7)分散性
 WEBを介した広域分散協調システム
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WEB2.0の話はぐちゃぐちゃしていて、私は嫌いである。頭の悪い人が、何かを見つけたのは良いとして、理解も説明もできていないのではないかと口の悪い私は言いたくなってしまう。彼は現象を捉えた。その点はえらい。大いにほめるべきである。しかし、彼もその信奉者たちもその現象の背後にある本質がわかっていないのだ。この混乱した説明はワーマンの5つの帽子掛けのお話と好一対である。彼らやその信奉者たちが語る言葉は、ぐちゃぐちゃで首尾一貫せず、説明になっていないところが神秘的でいいのかも知れない。神秘主義に酔いしれたい人たちは彼らをいつまでも担いでいれば良いと思う。そうこうしているうちに、2010年はすぐにやってくる。時代は大きく転換する。そのとき慌てふためく側にいるのか、心の準備万端にその時代に立ち向かうことができる側にいるのか、の岐路にわれわれは立っているのである。
WEB2.0はWEBサイトの変化のことだけを取りざたしているが、実は地球規模で社会そのものが地殻変動を起こしているのである。地域や国民国家にとらわれない地球社会または人類社会が成立しようとしているのだ。WEBに多少の変化が現れてもそのくらいは当然である。彼らには、大きな地球規模で社会変動を見ることなしに、目先のWEB商売のことばかり追いかけている皮相な視点が見え隠れする。現象に目を奪われて、本質が見えていない、単なる騒乱屋のように私には思えてしまう。
失礼。言いすぎは十分承知しています。まことに申し訳ありません。
彼らには現象を捉えただけで十分な価値はあった。しかし、それまでであった。今は、それ以降のもっと深い洞察が必要なのだと申し上げておきたい。
社会はWEBの発展を願い、WEBの発展は社会を発展させる。
彼らが指摘していることを、私なりに解説すれば、WEBが社会の成り立ちを反映して社会性を帯びている(単位組織からなる階層やネットワークなどの複合的構成を取り入れる)ことを意味しているのである。このことによって単位組織の同位置性(局在性)が越えられるので、ロングテイルなどとぶしつけな呼び名で呼ばれている日陰の人々も国を越えて結束するだろうし、巨大な市場として姿を明確にしてくるだろう。すでに参加型市民社会の時代に突入しているのであるから、WEB構築や情報システムの構築、これらを使用したサービスにまで人々が参加するのは当然と言うことになる。
本質がわかれば、「WEB2.0」の神秘主義的な呪文が解けて、リアルでごつごつしたなまめかしい人類史の本当の姿が見えてくる。

3)アジャイルソフトウエア開発・オープンソフトウエア開発
これらは、私にとってきわめて卑近な例であるが、システム開発の現場にいれば、ごく当たり前になっているものたちである。
しかし、大手の元請けシステムハウスと一緒に仕事をすると、これらは禁句でさえある。古いウォーターフォール型の開発をだれかれかまわず要求する。その要求をしている担当者もウォーターフォール型の開発がまったく非生産的で、品質をほとんど保証しないばかりか実際には行われてもいないと知っているのであるが、下請けの開発技術者たちを軍隊の兵士のように管理するにはこの方法しかないのである。
実際の現場では、古くてばかばかしいウォータフォール型の開発は実は採用されないのである。まずはアジャイルソフトウエア開発を紹介しよう。
ユーザの要求を理解する技術者だけが、会社や都市、場合によっては国家を超えて集まってくる。機密を強く要求される仕事では、ひとつのビル内に終結する。普通に要求される程度であれば、それぞれ会社、都市、国にいるまま、統一の開発プロジェクトに参加する。このチームは、すでに開発チームの単位組織の局在性をハナから無視して成立している。開発は古いウォーターフォール型のように順次進行のようなことにはならない。分散協調型に作業は進み、しばしば中間作品のバージョンがアップしてゆく。バージョンアップも参加者が自発的に行うことが多いので、誤って古いソースプログラムを書き込んでしまったり、思い違いの結果、前回の中間作品よりも品質が劣化してしまうこともまま発生する。そんなときは直ちに元に戻せるようなバージョン管理用の支援ツールも完備されているのである。
ウォータフォールモデルとの違いは、次の3つで言い表せるかもしれない。
・開発者はユーザと文化と教養を共通にするものだけに
 よって構成される。ユーザと文化と教養を共有しないコ
 ンピュータの専門馬鹿は排除される。
 したがって、開発者は手近なところからだけではそろえ
 られないので、地球上の広くから人材が捜し求められ
 る。
・要求仕様書を書いた人が開発にも参加している。
・開発チームの中でも、チームと発注主との間でもスパイ
 ラル開発が進められ、思い違いや失敗は途中で速やか
 に発見できるようになっている。よいアイディアがあれば
 仲間から直ちに助言が寄せられる。
 開発者各自の作業は、その途中でも仲間にすべて公
 開されているので、それぞれのエンジニアには心地よ
 い緊張が続く。
必要に迫られて成立した開発スタイルなので、理論的ではないが、実際なかなか快適な開発スタイルである。ネットを介して、オーストラリアとフィンランドと日本の3箇所の開発現場をつないで作業したこともあるが、まったく問題はなかった。むしろ、飛び切りよい結果であったと思う。ここで注意しなければならないのは、その結合がネットだけだったかといえばうそになる。開発のはじめと中間と最後には、関係者が日本に集まって食事をして(飲んで酔っ払って)それぞれの家族や恋人の話を共有したり、互いのくせや趣味を理解しあうことが成功の背景には存在した。「バーチャルな組織がすでに成立する」という主張をする人もいるが、必ずしも完全にはまだそうなっていないことは十分認識すべきである。今は、そうなるべき前夜であって、そうなってしまったわけではない。そうなるに違いない予兆のひとつがアジャイルソフトウエア開発のスタイルであるということを指摘しておきたい。ソフトウエア開発のプロジェクトチームが地域や国家を越えて成立するためには、まだ「合宿」や「食事」、「アルコール」などの力が必要である。これからも、多分しばらくの間は必要だろう。
オープンソフトウエア開発でも事情は似ている。実はオープンソフトウエア開発の場合、ユーザそのものがシステム開発の同業者であることが多い。アジャイルソフトウエア開発の場合の開発技術者とユーザが溶け合ってしまっているような状態を想像すればよいだろう。コアの開発チームがいることが多いのだが、このことを明言する人は少ない。コアな開発チームを仔細に分析すれば、実はアジャイルソフトウエア開発のチームとほとんど変わらないことがわかる。しかし、オープンソフトウエア開発では、ギャラりーに同業者でかつユーザの人たちがネットを介してたくさん存在しているのである。このギャラリーにも開発の途中の状況は公開されているので、アイディアを集めやすく、間違いは発見されやすく、開発者の緊張も続くのである。
コアな開発チームは寝食を共にしたり、共に飲んで騒いだりすることもあるし、そもそも同じ大学の同級生だったりもする。オープンソフトウエア開発にも、地域や国家を越えた単位組織成立の予兆はある。しかし、まだ予兆を感じさせる範囲に過ぎないともいえるのである。

4)「世界政府というものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは、すべてGoogle社で作る。それがGoogle開発陣に与えられたミッションなのだよ。」
これは、グーグルの幹部の言葉として伝えられるものである。「WEB進化論」という本に書かれているらしいのだが、私はまだ読んでいない。
グーグルの幹部は、どこまで理解しているのか不明ではあるが、おそらく私の予言に近い見通しを持って彼らのビジネスに取り組んでいるのではあるまいかと思う。彼らは周辺ギャラリーから「WEB2.0の開祖」のようにはやし立てられている。しかし、彼らは慎重に自分たちのビジネスがWEB2.0と同じものであるという言明は避けているようである。おそらく、腹のそこではWEB2.0などとあげつらう浅薄な連中をせせら笑って、「我々はまだまだ安泰だ」と思っているに違いない。
「WEB2.0・・・」にとらわれた観念からは、世界ビジネスの新展開は望めない。地球社会または人類社会の成立、googleの幹部風に言えば「世界政府の成立」を見越せばこそ、新たなビジネスビジョンも生まれようと言うものである。
googleの幹部らは侮れない。
…しかし、今は日本でgoogleがトップでないのも事実である。googleの文化と日本の文化には違いがあるのだ。この違いを見つけた若者は世界に勇躍できるだろう。googleの文化と日本の文化の違いについても機会があれば別の記事の中で述べたいと思う。

さてさて、地球社会または人類社会の成立が本当のように見えてきただろうか。筆力には限りがある。書いていてももどかしい。一人でも、我が言わんとしていることにご理解が得られれば幸いである。
知者、先達の皆様からのご意見をいただければ幸いです。

△次の記事: 情報社会学、予見と戦略(4)
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琵琶

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人類社会は次の激動再編へ--情報社会学、予見と戦略(2)

2006/7/16
人類社会は次の激動再編へ--情報社会学、予見と戦略(2)

私は、早くから1980年ころから始まる高度情報化社会は「参加型市民社会」の時代であることを指摘してきた。

60


この図は昔私が奉職した大正大学での講義用に作成したものである。
「ホスト-端末」といわれたシステムが幅を利かせていた時代は、社会組織は主として軍隊を手本に組織されていた。企業も例外ではなく、指揮官である職制が命ずることに逆らうことは基本的に許されなかった。時は大量生産時代、大規模工場でベルトコンベアーが人々の作業速度も制御していた。コンピュータには、「社内ルールの徹底」という任務が課せられていた。いわく「コンピュータがこうなっているので、このやり方をしてください。そうしないと小口現金も清算できません」などという具合に、社内ルール徹底の最大の口実になっていたのである。コンピュータは理不尽な巨人として社員の前に常に立ちはだかっていた。
1980年ころ、マイコンブームが始まる。マイコンブームはマイコンという技術があったから始まったわけではない。社会が理不尽なコンピュータを嫌ったこと、企業は社員の創意工夫を結集能力を持たないと競争に勝てなくなってきたことが、その背景である。事務職の現場では、伝票の転記作業に代表される「固定姿勢、単純反復作業」が大量の若い事務員を必要としていた。彼らの多くは、短期間で体を壊して職場を去っていった女子事務員である。一日中「固定姿勢、単純反復作業」に追われる彼女らは、「ひどい肩こり」「腰痛」--「頸肩腕症候群」という病気にもなった。「頸肩腕症候群」とは、一部の職種では「キーパンチャ病」ともいわれた病気である。「頸肩腕症候群」に罹患すると、重篤の場合、首の周囲の筋肉が壊死して硬くなり、血管を圧迫するために脳の血流が減少し、廃人同様になるケースも発生した。マイコンは、企業の効率化の論理によって歓迎されただけではなく、事務員の生理的苦痛からの解放という切実な要求に支えられて普及して行ったのである。
「人に近づくコンピュータの時代」(1980-1990)
「人類の共生を支援する情報技術の時代」(1990-2000)
「自己実現を支援する情報技術の時代」(2000-2010)
という一連の言葉は、いずれもそれぞれの時代の始まりのころ、私が作ったものである。「人に近づくコンピュータの時代」という言葉は、当時中小企業大学校(当時の通産省、現経産省の管轄)で情報系の技術研修と経営研修の講師を務めていたおかげで、受講生たちが本務部署(省やその関連の団体、試験所、検査所など)に帰って、「人に近づくコンピュータの・・・」という助成金事業や開発支援事業を大規模に展開したために言葉としては一番普及したかもしれない。
「人類の共生を支援する情報技術の時代」とはインターネットの商用利用が普及する時代だった。ちょうどこのころ私は大病からの復帰を契機に、元NHK教育テレビのディレクタだった桜井教授のお誘いで大正大学に奉職することになり、この標語を掲げてこの大学で初めての情報関連講座をひらくことになった。3年ほどしたところで、「共生」という言葉が大正大学ではイメージワードとして建学のころから使用されていることを知った。大正大学への奉職では、偶然がいくつも重なった。大学に初めて訪れたとき、迎えてくれたのは年長のいとこ(仏教学部の教授、後に文学部長)だったのも、ご縁ではあろうけれど直接の手引きというわけではなかったので、まことに不思議な偶然であった。
1997年ころ、情報化の進展が、このような言葉で表されるある種の階段を上るように発展することに、私は関心を抱いた。以前からやぶにらみ的関心分野であった心理学の世界の「マズローの欲求5段階発展説」を当てはめてみると見事にはまるかのごときに見て取れた。この関係も上図には書き込んである。しかし、「マズローの欲求5段階発展説」は、あくまでも「仮説」であり、しかもすべてに当てはまるわけではない。これも偶然の産物なのかも知れない。したがって、私は、あくまでも「まるで、マズローの仮説が当てはまるかのように、社会の情報システムは発展している、、、発展したきた」と説明することにしている。
5つの段階はほぼ10年ずつからなり、各段階は前後5年程度の重なりを見せながら次々と情報化の階段を上ってゆくことがわかったのである。上図を仕上げたのは1998年のことだったと思う。
1980年ころにはじまった高度情報化の波は、30年程度の間に一気にこの5つの段階を駆け上ってきたのである。残りはわずか(4-5年)である。

さて、この市民参加型社会の後にくるものは何なのだろうか、またしても暗黒の時代なのだろうか。「人類社会」または「地球社会」の成立だろうと、私は大胆不敵に捉えることにした。「人類社会」または「地球社会」の成立の法が早いか、地球や人類の破滅を意味する核戦争が早いか、それは私にはわからない。競争関係にあることは事実だろう。「人類社会」または「地球社会」の成立が早ければ、地球や人類の破滅は避けられる。核戦争が早ければ、「人類社会」または「地球社会」の成立する前に、人類は滅びてしまうだろう。

人はいろいろなとき、世界政府の成立という夢物語を語ってきた。世界政治の世界でも第一次国連、第二次国連がそのように期待されたこともある。SFの世界では、もっと華々しい。しかし、現実には、国や地域を越えた本当の社会はまだできていないし、そのための基盤もないのである。政治は社会の発展なくして理想だけでは実現しないのである。職場や地域、家族を基盤にした行政組織や経済組織が磐石である。これは同位置性に基づく単位組織の形成にその根拠が存在する。だからこそ、海や川、山脈などで仕切られた国境の意味があり、これを超えられないのである。単位組織の「同位置性」こそが、世界政府の成立という夢物語を根底から裏切ってきたのである。

Photo_7

上図は無理やり縮小したので見にくいが、現在の社会構造を端的に表現した私のモデル図である。学会発表としては今年の情報コミュニケーション学会で使用したのが初めてであるが、このモデル図は昨年(2005年)5月ころから私の授業で使用しているものである。
人は、一人で同時に、家族、地域の行政組織、サークル、大学、職場、など多様な組織に属していること、どの組織も3-7名程度の単位組織から構成されており、巨大組織と言われるものも単位組織が3-7個ずつ階層的に積み上げられたものになっていることを示している。どの組織も構成員が次々と入れ替わるが、それぞれの組織としての性質には机辺的な変化は生じない。組織は定常流的実在である。階層的に積み上げられる組織の形式をメタ組織関係という。一方、しばしばメタ組織の枠組みを越えて、人や単位組織はネットワークを構成する。社会はメタ組織関係とネットワーク関係がいわば社会の縦糸と横糸のように構成されている。健全な社会はメタ組織関係とネットワーク関係がバランスよく内包されている。
すべての単位組織は、メタ組織関係を通じて国民国家に統合されているのが、今日の社会の特徴である。この形態は二つの世界大戦を経由して成立したものである。たとえば、企業は、「班」や「グループ」と称される単位組織(3-7名)を3-7個集めて「課」に統合し、3-7個の「課」をまとめて「部」を作る。「部」は同様にして事業部に統合されたり、「分社」にまとめられる。これらが3-7個集まって企業となっている。企業は業界団体に集められ、業界団体は国の行政によって指導されている。また、お楽しみの組織であっても事情は似ている。テニスサークルを例に取れば、地区連合会、県連を経て、全国連合となり、文部科学省に統括される。
国民国家はいずれの国でも多様な民族を内包するが、海岸線や河、山脈など自然の境界によって分けられている。物資とお金の流れは国境を容易に越えてゆくし、人の行き来も多い。多国籍企業も珍しくない。しかし、本質的に越えていないものがひとつあるのである。わずかな例外を除けば、人の集団を成す基礎的要素=単位組織が基本的に国境や地域を越えては構成されていないのである。単位組織が成立するためには、そこに参加する3-7人が同一位置に局在していなければならないのである。単位組織が同一の民族である必要はない。血族や家族の目的をともにして組織としての相互信頼が成立していれば単位組織になりうる。しかし、同一の場所にいなければ単位組織にはならないのである。この制約があればこそ、国民国家が海岸線や河、山脈など自然の境界によって分けられて成立するのである。
さて、近い将来、単位組織の成立要件として同位置性という制約がなくなったら、どんなことが起こるのだろうか。地域やオフィスという制約を離れた企業やボランティア団体が飛躍的に増えるだろう。そのようなものは今でも存在するのだから、新しいことではないと言うものもいるだろうが、その比率が圧倒的に逆転するのである。今は地域やオフィスという制約の下に成立している企業やボランティア団体が圧倒的多数を占めていて、その制約を離れているものは、珍しい存在してテレビに取り上げられるほどなのだ。これからの変化はその比率を逆転する。質の変化は圧倒的な量によって気づかされることになるはずである。
こうなれば、地域行政や国の行政が把握できない経済組織(企業など)や諸団体(スポーツ、芸能、芸術、宗教など)、政治的・社会的組織(政党、組合、…)、反社会的組織(ヤクザ、マフィア、カルト、…)、が地域や国境をまたがって自在に編成されるようになる。これらの組織を束ねる上部機関(メタ組織)は、どの国にも所属しないものになりがちになるのである。社会は国ごとの社会(日本の社会、アメリカの社会、中国の社会、…)ではなく「地球社会」「人類社会」という様相を強めるだろう。国民国家が社会組織を掌握し得ない事態となるのである。
とはいえ国民国家は急にはなくならない。当面の間は、いろいろな対策を講じてこのままの組織を維持しようとするだろう。一方の社会組織は「国家は一人のことを扱うには大きすぎるが、世界のことを扱うには小さすぎる」と不平を鳴らし、国民国家にはもっと小さな政府であることを要求し続けるだろう。その軋みは、さまざまな問題を引き起こすだろう。新しい社会の海の苦しみである。他方では、新しい(地域や国境を越えた)単位組織の上部機関(メタ組織)は安全保障と政策的調整役としての新しい上部組織を要求するだろう。これは世界に群雄割拠と不安定をもたらすに違いない。この時代を人類が努力してそこそこの平和を維持して乗りれきることができれば、世界政府というようなものが成立するかも知れない。そうならなくとも、少なくとも国民国家は今までの社会の最上位の地位を失い、「地球社会」または「人類社会」の下に位置せざるを得なくなるだろう。
2010年からの30年(一世代の時期)は、おそらく、国民国家の力が弱くなり、「世界社会」「人類社会」という様相が強まり、世界的群雄割拠が進み、軍事的・国際政治的不安定の時期を経験するだろう。社会の仕組みはガラガラと変化し、若者たちのビジネスチャンスは大きく広がるだろう。情報システムは単位組織の同位置性(局在性)を前提とする現行のものがすべて役立たなくなり、単位組織の非局在性を前提とするものに作り変えられることになるだろう。情報システムにかかわる企業や人材にチャンスはまた大きくめぐってくる。社会の変化を見間違えなければ、私の若き後継者や教え子たちには活躍の場が大きく広がるはずである。
さて、私の年齢からすれば、2010年ころから始まる数十年の世界史的不安定・発展期が終わるまでの間に、おそらく私は人生を終えているに違いない。私の予言が正しかったかどうかを私が知るのは難しそうだが、私の若き後継者や教え子たちは、その歴史過程を全力で走りぬけ、世界的不安定を何とか人類滅亡の危機にいたらせぬ知恵を持って切り抜ける責任と勇気が嫁せられているのではないだろうか。
ゆけ、若者よ。勇気をもって。

満60歳の記念に。

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琵琶

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「情報組織学」から「情報社会学」へ--情報社会学、予見と戦略(1)

2006/7/15
「情報組織学」から「情報社会学」へ--情報社会学、予見と戦略(1)

これまでも、情報組織学に関しては研究発表もしてきたし、このブログにも記事をいくつか書いてきた。
「戦略的情報組織学」,SH情報文化研究会,2005.4.23
組織を活かす力、改革する力--社長の条件(6)
戦略的情報組織学(再論)--社長の条件(8)
話力は組織を作る、永崎一則氏の発言から--社長の条件(13)
組織破断限界シミュレーションの試み--感性的研究生活(5)
「組織破断限界シミュレーションの試み」,SH情報文化研究会,2005.12.10
「"一人にしない" 情報コミュニケーションシステム」へ、新春に思う--社長の条件(18)
情報コミュニケーションの社会性="影響関係"--感性的研究生活(11)
「組織と情報コミュニケーションにおける影響関係モデルの提案」,情報コミュニケーション学会,2006.2.26

これらの記事を書きながら、私は、一方で、いまひとつもどかしいものを感じていた。
情報"社会"学に向かう私の心に手かせ足かせがついているということだった。私の長い長い精神(こころ)の漂流は、愚かしいことと思われるかも知れないが、私なりの精一杯の生き様だった。社会人となって以来、私は長く、「社会」や「政治」という世界や言葉に嫌悪し、恐れ、遠ざかってきた。固く封印してきたと言ってもいい。同級生(故人、保守系無所属)の選挙を手伝ったり、議会での演説草稿を書いてあげたりということはあったが、友達づきあいの範囲と割り切ってきた。彼は例外と言っても良かったが、少なくとも彼以外の「政治」は、テレビとは違って今でもあまりにも暴力的で汚れている。今の私の手には負えない。手を出せばわが身だけではなく家族の身の安全も守れないだろうと思う。今後も決して本気ではこの世界にかかわることはないだろう。それを臆病というならばいいたまえ。
かかわりなくとも、危険は身近にあるのである。
「妻が車に撥ねられる」シリーズのトップページ
しかし、今の社会がどこから来てどこに向かうのか、人はどこから来てどこまで行くのか、というのは(ほかの多くの子供たちと同様に)子供のころから私の心を捉えて離さないテーマだった。なぜ自分が大学で理工系を専攻し、今もエンジニアを生業としているのか不思議なくらいである。今の心の動きは、あまりにも子供じみた感傷かも知れないとも思う。しかし、もうとまらない。私はビジネスと教育の分野で情報システムに半生をかけた実績の上に、情報社会学の世界にもささやかに発言を試みたいと思うのである。ここでも先人の皆様のお叱りをたくさん承ることになるだろうと覚悟をしている。
なにとぞ、暖かくご善導賜れば幸甚です。
「情報組織学」から「情報社会学」へ。
今、私は、「情報社会学、予見と戦略」シリーズを書き始める。

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琵琶

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7つのナヒゲーション--情報デザイン研究ノート(11)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/7/15
7つのナヒゲーション--情報デザイン研究ノート(11)

前回の記事で、WEB情報デザインについて書いた。
この中に、「7つのナビゲーション」に触れている。ナビゲーションシステムには、現在までのところ経験上次の7つが知られている。
①ストラクチャナビゲーションシステム
②目的別ナビゲーションシステム
③ブラッドクラム型ナビゲーションシステム
④リファレンス型ナビゲーションシステム
⑤ダイレクト型ナビゲーションシステム
⑥機能ナビゲーションシステム
⑦ステップナビゲーションシステム
それぞれについての説明はしなかったので、簡単に説明しておく。
(1)ストラクチャナビゲーションシステム
提供する情報を組織化するので、その情報の階層構造を上部からたどるように作られたナビゲーションである。画面の左側に置かれていることが多い。最上層のナビゲーションは、メインナビゲーションと呼ばれて画面上部に重複して置かれることも多い。メインナビゲーションに他のいくつかのメニュー(他の種類のナビゲーションのトップ項目)を加えて「グローバルナビゲーション」として、どのページにも表示されるようにしたものもある。
(2)目的別ナビゲーションシステム
いわゆる「逆引きメニュー」で、組織化した概念のツリーをたどるのではまだるこしい場合、目的別に項目が並んでいるナビゲーションを用意するというものである。うまく作ると評判を獲得できるが、最近ではダイレクトナビゲーションにその席を譲ったり、ストラクチャナビを目的別ナビゲーションにしてしまうケースもある。
(3)ブラッドクラム型ナビゲーションシステム
「ブラッドクラム」とはパンくずの意味であるが、ねずみが餌のバンを見つけるとかじりながら自分の巣のほうに引きずってゆくので、移動した後にパンくずが残っている。WEBサイトで、サーフィンしていると、自分がそのサイトのどこにいるのかわからなくなったり、先ほど見つけた有意義なページに戻ろうとしても戻れなくなることがある。今自分がそのサイトのどの位置にいるのかを示すために、トップページからの移動の軌跡を残しておくナビゲーションが「ブラッドクラム型ナビゲーションシステム」である。ねずみが残したパンくずのようにどのページをたどって今このページに到着したのかを示すもので、通常はウインドウの左上に置かれている。
さりながら、ページのたどり方にはいくつものパスがあるので、すべてのパスを書くことはできない。では現実にはどうしているのか。ストラクチャナビのツリーのどこに位置するのか、を示すのである。こうすれば、一義的に自分が見ているページの位置が決定できるのである。
(4)リファレンス型ナビゲーションシステム
ページ内を見ると、青く文字が反転していて、アンダーラインが施されている場合がある。全部が全部ではないが、多くの場合、この文字列をクリックするとその文字列に関連する内容のページにジャンプする。文字列ばかりではなく、写真や図形でもリンクが仕掛けてあるものがある。このような誘導の仕方をリファレンス型ナビゲーションというのである。
(5)ダイレクト型ナビゲーションシステム
「ダイレクト型ナビゲーション」は、「サイト内検索」というなで呼ばれることもある。空欄に関心のある用語を入れて、「検索実行」のボタンを押すと、その言葉が存在するページの一覧が表示され、関心のあるページと目されるものがその中にあれば、そのページへとジャンプすることができるようになっている。
(6)機能ナビゲーションシステム
日本語で「機能ナビゲーションシステム」と聞くとイメージがわかない。「function navigation」といったほうがむしろわかりやすいかも知れない。著作権、連絡先、WEBマスターのメールアドレスなど、ページの内容には無関係だが、当該サイトにとっては不可欠なファンクションの情報をまとめたもので、画面の下部または上部に目立たないように書かれている。
(7)ステップナビゲーションシステム
検索結果一覧が1ページないに収まらないような場合に、複数のページにわたって類似の情報が続く。そのような場合に、各ページの番号を一覧にして、目的のページに直接アクセスできる機能を用意することがある。このような仕掛けを伴うようにして各ページの番号を一覧にしたものをステップナビゲーションシステムという。

これらの分類からはみ出すものや、別のくくりで表現することもできなくはない。しかし、とりあえずは、経験上、この7つにすべてのナビゲーションを分類することができるのである。少なくとも、今日までのところはそうであると言っておく。明日には、7つできなく8つということになるかも知れない。

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琵琶

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  ・独創力の創り方シリーズ
  ・心理、教育、社会性の発達シリーズ
  ・社長の条件シリーズ
  ・アルゴリズム戦記シリーズ
  ・情報デザイン研究ノートシリーズ
  ・「情報社会学、予見と戦略」シリーズ
  ・感性的研究生活シリーズ
  ・街に活力をシリーズ
  ・交友の記録シリーズ
  ・オヤジと家族のお料理ライフシリーズ
  ・我が家の愛犬様シリーズ
  ・妻が、車に撥ねられるシリーズ
  ・その他、シリーズ外

WEBデザインにおける3つの重要概念--情報デザイン研究ノート(10)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/7/14
WEBデザインにおける3つの重要概念--情報デザイン研究ノート(10)

前回は「旧メディア」の情報デザインについて書いた。
今回はWEB情報デザインについて述べる。WEB情報デザインについては言うべきことが多い。すべてを1つの記事の中で言うことは難しい。今回は、WEB情報デザインに登場するいくつかの概念について解説する。
情報デザインは、発信者の意図を相手に伝えて、相手の心に変化をもたらし、相手の行動を変化させるための方法である。この考え方は、以前に示している。
相手の心に変化をもたらし、相手の行動を変化させるために、WEBページの設計においては、次の5つの概念を大切にする。これらの概念は、重なり合うもので、独立した概念ではない。
・フィーリング
・ユーティリティ
・ユーザビリティ(*3)
・アクセシビリティ(*2)
・情報アーキテクチャ(*1)
このブログに図を挿入すると図が崩れて美しくないが、これらをめぐるいろいろな概念の関連を図示すると下記のようになる。

Photo_6

================================================================
名称      主たる概念   具体的には   計測方法
----------------------------------------------------------------
フィーリング  快適・快感   ここち良い    使用感アンケート
----------------------------------------------------------------
ユーティリティ 使い勝手の  可能化・効率化 使用前・使用後の
         よさ                  生産性の計測
----------------------------------------------------------------
ユーザビリティ 使えないと  待たせない・迷  主として、人のヒ
          いうことは  わせない      ューリステックに
          ない      エラーフリー+  よる。アンケート
                  バリアフリー    やユーザテストは
                              高コスト
----------------------------------------------------------------
アクセシビリ  情報に接近  エラーフリー+  自動測定+資格化
ティ       できないとい  バリアフリー   プログラムで大半
          うことはない            は計測可能、WEB
                             エディタ(コミュ
                             ニケーションテザ
                             イナ)のヒューリ
                             スティックを加え
                             る。
----------------------------------------------------------------
情報アーキ  コミュニケ   ナビゲーション  ナビゲーション検査
テクチャ    ーションデ   アクセシビリテ  (人による)および、
         ザイン(情   ィ+ユーザビリ   上記の各検査
         報設計)の  ィテイ        方法
         方針
================================================================

「フィーリング」とは感じがいいということであり、「ユーティリティ」とは便利だということである。感じがよかったり、便利だということは、世界的OSメーカの某M社やもうひとつの某M社が散々に強調してきた。それでも「使えないパソコン」という嘆きは消えなかった。「フィーリング」(感じの良さ)や「ユーティリティ」(便利さ)だけでは何かが足りないのである。
この足りない部分の概念をいろいろな人がいろいろに主張してきた。
そのうちの大切な3つは上記の5つの概念の下の3つである。
・ユーザビリティ(*3)
・アクセシビリティ(*2)
・情報アーキテクチャ(*1)
ここでは、主に、この3つの概念について述べる。

(1)情報アーキテクチャ(*1)
「情報アーキテクチャ」とは、情報を提供する形のことであり、「情報デザイン」の中核部分である。
「情報アーキテクチャ」を設計するためには、次の3つの設計の側面(構成要素)がある。
構成要素
  〈機能設計〉
  〈視覚設計〉
  〈構造設計〉
これらの3つは互いに他を前提にするので1つだけで進めることはできないが、駆け出しのWEBデザイナや半可通のハゲオヤジは「視覚設計」だけ目を奪われてしまうことが多い。当該のWEBサービスで、自分たちがユーザにどのような機能を提供するのか、まったくわかっていない人もいる。ただただキラキラチカチカした画面さえ作れば、お金がパソコンからチンジャラジャラと落ちてくると勘違いしている。まずは機能が実現しないWEBサイトでは何の意味もない。まずは「機能設計」が大切である。機能設計なしに「視覚設計」ばかりやりたがる者は、この世界ではピーマンデザイナと言う。もちろん「中身がない」という意味である。
よりよい機能のために「視覚設計」がもくろまれるのであるが、視覚設計はユーザの欲する機能にユーザを自然に誘う構造(ナビゲーションシステム)を実現するものでなければならない。
ナビゲーションシステムには、現在までのところ経験上次の7つが知られている。
①ストラクチャナビゲーションシステム
②目的別ナビゲーションシステム
③ブラッドクラム型ナビゲーションシステム
④リファレンス型ナビゲーションシステム
⑤ダイレクト型ナビゲーションシステム
⑥機能ナビゲーションシステム
⑦ステップナビゲーションシステム
これらのナビゲーションを実現するWEBサイトの構造を設計すれば、おのずと機能の設計にも影響し、視覚設計にも影響が生ずる。「視覚設計」は最初から想定しつつも決定は最後になるのである。「視覚設計ありき」の設計作業はピーマン・パープリン・お間抜けサイトしか生み出さない。
実は、これらの設計を進めるにあたって、必要な技能が存在する。
実現技能
  〈情報の組織化能力〉
  〈ナビゲーション能力〉
  〈ラベリング能力〉
  〈検索システム提供能力〉
すべての情報デザインに共通ではあるが、まず、扱おうとしている情報をまとめる能力(情報の組織化能力)が必要である。情報の受け手がもつであろう文化的背景を感じ取り("分析"するというよりも"感じ"なければ役に立たない)、情報の受け手がもつであろう知識ベースと推論の方法に共鳴し(「アンケート調査をしないとわからない」など言うやからは、この種の仕事は向かない。ユーザの心に共鳴して過ちを起こさない人でなければ役立たない)ながら、扱おうとしている情報を分類整理し再構成する能力が必要である。情報を分類整理するためには、おそらく新しい概念がそのつど必要である。新しい概念は新しい言葉で呼ばれる。新しい概念に新しい名前を付与することをラベリングという。新しい概念を既存の概念と整合性を保ちつつ区別する言葉を捜したり案出してラベリングするには、扱う情報の分野の豊富な知識と、援用すべき多様な分野の言葉を知らなければならない。ラベリングがツボを得て決まった瞬間は得も言われぬ興奮と満足感が「情報デザイナ」を包み込む。これは「情報デザイナ」の仕事の醍醐味である。
ラベリングはナビゲーションシステムの設計に直ちに応用され、新たに想定されたナビゲーションに沿って情報がもう一度再構成されることも多い。再構成に当たって、ラベリングも直されることがある。
情報の組織化が進んでくれば、ユーザに提供する検索の機能(サービス)の必要性と必然性が明確になってくる。必然的な検索システムが明確になれば、それはナビゲーションシステムへとフィードバックされ、情報の組織化にも再々度影響を及ぼす。
このように、相互にシーソーのように、あるいは螺旋階段を少しずつ上るように必須の概念が高められてゆく。この作業を完遂できる能力がなければ情報デザイナにもなれないのである。

(2)アクセシビリティ(*2)
「アクセシビリティ」とは「情報に接近できないことがあってはならない」という意味である。「情報に接近できること」と日本語に訳する人もいるが、このような日本語訳は誤解の元である。日本語で「情報に接近できること」というと「8-9割の人が接近できればよい」と誤解される。もともとの意味は、「例外なくその情報に接近できること」ということなのである。
WEB情報コミュニケーションにおいては、ブラウザが異なるだけで、画面が崩れてしまうこともある。HTMLの書き方によるものであるが、特定のメーカのブラウザ(たとえばIE)だけがもつ機能を採用してHTMLを書いたりすれば、オペラやネットスケープではひどいことになってしまうかも知れない。モノクロの画面で見るとまったくわからないウインドウ画面だっりしてはいけないし、目や耳の不自由な方にとって役に立たないものであってもいけない。たとえば現在目の見えない方方のためには「読み上げブラウザ」が普及しているが、ALT=""の部分に文字列で説明がないと読んでくれない。写真や図の説明がなければ目の不自由な方にとってはたいへん失礼なことになる。また、耳の不自由な方にとっては「ピーとなったら、、」「音声の説明にしたがって操作してください」などのページはとても失礼である。これらの事柄の詳細は、W3CのWAI委員会が決定して下記に公開している。
http://www.w3.org/WAI/
留意点は多岐にわたり、あまりにも多いので、人があらかじめすべて記憶できる範囲を超えている。そのため、腕の良いプログラマたちが、自動チェックシステムを無料で公開している。
私が良く利用するのは、次のURLである。
http://openlab.ring.gr.jp/k16/htmllint/introduction.html
上記のサイトでも点検できないこともある。たとえば、色覚異常を持つ人にとっては「YESならば緑色のボタン、NOならば赤いボタンをクリックしてください」というような誘導はどうだろうか。大変に失礼なことになってしまうだろう。
色覚異常のシミュレーションもしてくれるサイトもあるので、それを利用すれば失礼のない(色覚異常のある方に対してもアクセシビリティの高い)WEBサイトを提供できる可能性が高くなる。私が主に使用しているサイトは次のようなものである。
http://www.vischeck.com/vischeck/vischeckURL.php

(3)ユーザビリティ(*3)
「ユーザビリティ」とは、「使えないことなんてない」という意味である。日本語に「使えること」と訳すのは誤解の元である。「例外なく使用できること」「使えないことはけっしてない」という意味である。
「ユーザビリティ」の検査には、自動チェックは使用できない。あくまでも人間が検査する。しかし、それはきわめて主観的な判断である。主観的な判断をできるだけ客観的に取り扱うために大規模なアンケートを実施するという方法もないわけではないが、コストも時間もかかるので、官邸のホームページのユーザビリティチェックくらいにしか利用できるものではない。
通常は、専門家が見て判定を下す。一人の判定では心もとないので、同時に3-5名程度の専門家に判定を依頼しデルファイ法で判定の妥当な収束を図るのである。
「ユーザテスト」という方法もあって、被験者をガラス張りの部屋に入れて当該サイトの操作をさせ、観察員がそのユーザの行動や困惑振りを観察して、ユーザビリティを判定しようというものである。これを専門に行う業者も登場した時期もある。アンケートほどは費用がかからないが、結構お高いし、評価精度は悪いと散々で、今ではこのようなサービスを売り物にしている業者はあまりお目にかからない。
いずれの方法でも、判定の基準は必要なので、いろいろな判定基準が提案されている。一番有名なものは、Jakob Nielsen博士の「ユーザビリティ10原則」である。
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ニールセンのユーザビリティ10原則
1.システム状態の視認性を高める
2.実環境に合ったシステムを構築する
3.ユーザにコントロールの主導権と自由度を与える
4.一貫性と標準化を保持する
5.エラーの発生を事前に防止する
6.記憶しなくても、見ればわかるようなデザインを行う
7.柔軟性と効率性を持たせる
8.最小限で美しいデザインを施す
9.ユーザによるエラー認識、診断、回復をサポートする
10.ヘルプとマニュアルを用意する
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琵琶

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旧メディア(新聞、書籍)の情報デザイン--情報デザイン研究ノート(9)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/7/4
旧メディア(新聞、書籍)の情報デザイン--情報デザイン研究ノート(9)

「情報デザイン」というと、WEBのことだと勘違いする者がいる。本棚の並びも、語り言葉にも情報デザインは存在する。相手の心を動かして相手の行動に影響を及ぼすことが目的であり、そのための手段・方法が「情報デザイン」である。
ここでは、旧メディア、中でも新聞と書籍の情報デザインの話題を提供する。実は、後述するが、書籍の情報デザインの基本を明らかにしたのはほかならぬ私である。その際、書籍にも小組み(こぐみ)の概念が存在すること、また、小組みは階層構造を持つことを指摘したのも私である。それまでは小組みといえば新聞のことであり、大張りに対応する小組みという概念しかなかった。小組みに階層構造があるなどという者はいなかった。新聞の小組みにも階層構造があること、書籍にも他の構成概念の一部として小組みも入っていることを明らかにしたのも私である。


1.新聞のレイアウト(情報デザイン)の例
「子供たちと作る新聞」(http://www-out.j-imazu.nakatsu.schoolnet.gr.jp/kyousi/sinbun/sinbun.htm)(2006.07.01当該URLは削除されている)
この新聞サンプルは中学生を対象に学級新聞を作ろうと呼びかけるものであり、書き手は中学の先生と推定された。新聞作りに精通された先生のようで、正しい情報を平易に解説されていた。私の学生たちにはしばしばこのサイトを提示していたが、最近、閉鎖されたようである。もしや定年退職されたのではないかとも考えられる。
ご本人またはご本人をご存知の方がいらっしゃいましたら、コメント欄にお知らせをいただければ幸いである。
下図の上半分の新聞の画像は上記の記事からの引用で、ここに書き込んだ破線や吹き出しは私の加筆によるものである。下半分の解説図は、純粋に私のオリジナルである。
2_3
①「ページ」と「大組(大枠、大貼りともいう)」と「カラム」
実は、新聞の紙面は、「ページ」と「大組(大枠、大貼りともいう)」と「カラム」からなる「フレームワーク(ワーキングパスの一種)」からできている。この「フレームワーク」の上に文字や写真などが配置されるのである。
②緩急をつけた記事タイトル
紙面を見ると、どのタイトルも、同じ大きさで同じ書体でできている記事タイトルはない。実は複数の記事タイトルを同じ大きさで同じ書体で書き表すと、タイトルを読まずに、納得行かないまま、読み飛ばしてしまうのが読者というものである。同じ大きさで同じ書体の記事タイトルは上滑りしてしまう、というのである。
③記事タイトルがジグザグ原則
ここでは記事タイトルがジグザグ原則で作られている。縦書きの場合、人の目は右上から見始めようとする。右上から斜め下すなわち左下に進む。移動する視線が紙面の端に触れると、反射するかのように視線は右下に向かう。視線の動く先に記事タイトルを書いておけば、読まれる確率が高くなる。こうして記事タイトルはジグザグ原則で並ぶことになったのである。
視線の動く先に記事タイトルを置く目的で、タイトルを対角線上に置いたりすることもある。
④ハラキリは原則禁止
1つの記事が、カラムの最後の行で終わるようにすることをハラキリという。この記事の次の記事は、次のカラムの先頭行から始まる。つまり、前の記事とあとの記事の間には、カラムの区切り線によって紙面の左右の全幅に渡って切断されることになる。これは、新聞のレイアウトでは嫌われる。前の記事の最後がカラムの最後の行にあると、読者は、下のカラムの先頭から始まる新しい記事を読もうとすると努力はしてくれない。
この記事の最後の次を探して、次のページへと視線は泳いでいってしまう。これを防いで当該の紙面での滞在時間を稼ぐのが、「ハラキリ禁止」なのである。
⑤コラムはハラキリ可
ここで一番下のコラムはハラキリになっているが、「コラム」は記事の本体とは関係がないというアピールをする必要があるので、このようなハラキリになっていることが少なくはない。


2.書籍の情報デザインの例

あ)丁合い、合算素、小組み
①丁合い
書籍の「フレームワーク(ワーキングパスの一種)」は、丁(チョウ、折=オリとも言う)とページからなっている。
16ページ、32ページなどをまとめて1丁と呼ぶ。実は、印刷用紙1枚分の裏表を意味する。書籍のページ数は、丁の単位で決まっている。すなわち、16ページ、32ページの倍数でできている。場合によっては、半丁、四分の一丁の半端がつくこともある。
前から順番に1丁、2丁、3丁、…、と呼ぶ。
丁合いにはこれら「丁番(折番とも言う)」と「通しノンブル(物理的なページ番号)」がある。「丁番(折番とも言う)」と「通しノンブル(物理的なページ番号)」というフレームワークの上に、「合纂素」が乗せられる。「合纂素」の中に「小組み」は配置される。
②合算素--飯箸の発見と命名(1982年、国立国文学研究資料館紀要)
「合算素」は「丁番(折番とも言う)」と「通しノンブル(物理的なページ番号)」に乗せるために、葉(ヨウ)を単位に構成される。葉(ヨウ)とはページの裏表で作られる1枚という意味である。表と裏がセットになって先頭が始まるので原則としてウラから始まることはない。「改丁(奇数ページから起こす)である。合纂素の下位の階層に属するものは便法上改ページ(偶数奇数を問わずページを替えて起こす)によって構成されることもある。ちなみに後述する「小組み」は「改丁」や「改ページ」を必須とはしない点が、合算素とは異なる。
「合算素」は通常次のような階層構造を持ち、順番も決められた構成となる。バリエーションも存在し、意図した珍本にはこのような構造を持たないものもある。
-------------------------------
前付け  前扉(献辞)
     扉(本扉)
     扉裏
     前書き(はじめに)
     目次
-------------------------------
本文   中扉
     部
     章
    (繰り返す)
-------------------------------
後付け  後書き
     謝辞
     索引
     奥付(奥書き)
-------------------------------
奥書裏  白紙または
     自社広告(書籍、社告等)
-------------------------------
合算素の特徴は、「本文」部分以外に繰り返される構造のものはないということである。
③小組み--飯箸の発見と命名(1982年、国立国文学研究資料館紀要)
書籍にも「小組み」が存在することは世界で初めての発見で、書籍組版アルゴリズムを格段に進歩させることになった。
たとえば、「章」という合算素には、「章タイトル」や「章のリード」、「節」という小組みが含まれている。
「章タイトル」の小組みには、「章メインタイトル」「章サブタイトル」「章の分担執筆者」「章のイメージイラストまたはイメージ写真」という小組みが含まれている場合もある。
「節」という小組みには、「節メインタイトル」「節サブタイトル」「説の分担執筆者」「節のイメージイラストまたはイメージ写真」「説明図」「表」「説明写真」「コラム」「項」などの小組みが含まれている場合もある。「説明図」の小組には、「図」、「図ネーム」、「図タイトル」「図解説」などの小組みが含まれることがある。「表」「説明写真」「コラム」などの小組みもさらに階層化する場合がある。
「項」の小組みには、・・・とリカーシブル(自己循環的)に続く。
「小組み」の特徴として、「小組み」は上位の「小組み」や合算素の枠を超えない限りページをまたがることがしばしばある。しかし、合算素のページのくくりを超える小組みは決して存在しないのである。
また、各合算素ごとに小組みの構成は大きく異なり、「本文」部分の繰り返し部を除けば同じ階層構造を持つものがほとんどないのである。
小組みが階層化しているということは、意味の上で下位の小組みが上位の小組みの下にあるということだけではない。物理的な位置関係において、下位の小組みが上位の小組みの枠組みを超えないという事実も含んでいる。下位の小組みは上位の小組みの中で相対的な意味と位置とが決定されているのであり、上位の小組みの位置が変更になっても、下位の小組みは上位の小組みの中での相対的な意味と位置をできるだけ保持しようとするのである。
合纂素の階層構造も上位の合纂素に対して下位の合纂素は同様に相対的な意味と階層を保持する。書籍の小組みは、合纂素のいずれかの階層に位置づけられるが、編集の過程で他の階層に移動することもある。書籍における合纂素と階層化された小組みは相対的に独立しているのである。


い)ページの余白(天下り、卦下、ノド、小口)
当時は、ページの余白についても、上下が同じでよいのか、左右で違うのか同じなのかという議論がされていた。
① 天下り
「あまくだり」ではなく、「てんさがり」と読む。
ページの上端から、本文が始まる上の端までのことである。ページの上の余白のことで、アッパーマージンとも呼ぶ。
②卦下
「けした」と読む。
もともとは、ページごとに桝を用意して活字を組み込んで行った。したがって、ページの本文の外側は桝の木枠によって抑えられていることになる。桝の枠のことを「卦」と言うので、「卦の下」、すなわちアンダーマージンが「卦下」と呼ばれることになった。
本文の下の端からページの下の端までのことである。ページの下の余白のことで、アンダーマージンともいう。
③ノド
「ノドのアキ」といえば、洋書(現代的書籍のこと)の場合、本を見開き開いて、綴じてある側の余白のことである。つまり、見開きの右ページでは左側の余白、左のページでは右の余白である。サイドマージンではあるが、英語には該当する言葉はない。ライトマージンやレフトマージンというのは間違いである。
和書(袋とじの古書形式のもの)では、ノドは、見開きの外側、袋になっている部分を指す。
④小口
「小口のアキ」といえば、洋書(現代的書籍のこと)の場合、本を見開き開いて、外側の余白のことである。つまり、見開きの右ページでは右側の余白、左のページでは左の余白である。サイドマージンではあるが、英語には該当する言葉はない。ライトマージンやレフトマージンというのは間違いである。
和書(袋とじの古書形式のもの)では、小口は、見開きの内側、綴じてある部分を指す。洋書でも和書でも「ノド」は絞まってある側、「小口」とは鋭利な刃物で化粧断ちされる部分をさしていたことから、「ノド」や「小口」の名称が興ったと考えられる。
実は、洋書版(現代的な日本語の出版物)の場合、「天下り」は「卦下」よりも狭く、おおむねA5判より大きな判型の本では、「ノド」は「小口」よりも小さくするという原則がある。おおむねA5判より小さな判型の本では、逆に「ノド」は「小口」よりも大きくするという原則がある。
「天下り」は「卦下」よりも狭くするのは、読者の心理を考えてのことである。白い紙(ページ)に版面(文字などの印刷要素が詰まっている中央の黒い四角)が中央よりも下がっていると、見るひとの気分は憂鬱になり、不安になってくる。逆に版面が白いページの中央より上にあると気分は明るくなり、ゆったりとした読書気分になる。森に住む原始の人類は下草や下枝のない見通しの利く森の中では安心して活発に行動ができただろうが、下枝が重く垂れ込めている薄暗い森の中では、警戒心を解くことがなかったに違いない。この読者心理に応える方法が「上寄せの原則」なのである。人の形も立ち上がれば若くて素敵な人は通常は重心が背丈の真ん中よりも上にあり、年をとってくると私のように重心が背丈の真ん中よりも下にくることが多い。重心が高いということはいずれにしても心をうきうきさせる。若い編集者は熟達の年寄り編集者から「天下り」は「卦下」よりも狭くしろと口すっぱく言われるものだが、「なぜか」を説明されることは少ない。職人的知識として代々言われて来たに過ぎない。下枝のない森とか美しき若き人の重心などと言うのは私の中の太古から続く記憶がそうささやくのである。
おおむねA5判より大きな判型の本では、「ノド」は「小口」よりも小さくするのにも理由がある。このような大きさ(通常の本の大きさ)の本は、机やテーブルの上に見開きにおかれることが多い。このとき、ノドの余白は、見開いた2つのページの中央で二つが寄り添って、ほぼ2倍の幅を示すことになる。厳密に言えば、中央部は閉じた本の中へと吸い込まれて見えない部分もあるので、余白は1倍よりもやや大きいら過ぎない。しかし、1倍より大きく見えるということは、小口よりも余白が広く見えるということである。これは、見た目にはバランスを欠くことである。中央部の余白が周囲の小口の余白より広いのであるから、しまりがなく、左右に書籍が分離しているように見える。これを避けるために、おおむねA5判より大きな判型の本では印刷時に「ノド」は「小口」よりも小さくするのである。
逆に、おおむねA5判より大きな判型の本では、「ノド」は「小口」よりも大きくするのであるが、それにも理由がある。このような小さな判型の本(新書判など)は、手に持ったまま読まれることが多い。本は半開きのまま読まれる。机やテーブルの上においても、そのままでは見開きにドーンと開かれることも少ない。このような書籍では、本を開いても中央部分は閉じの部分に引き込まれる部分の比率が大きくなる。左右の小口の空白よりもノドの部分が極端に狭くなったり、版面の文字まで閉じ部分に引き込まれて読みにくくなってしまったりする。したがって、おおむねA5判より大きな判型の本では印刷時に「ノド」は「小口」よりも大きくするのである。


う)柱、ノンブル、目次、索引
書籍のナビゲーションシステムには、柱、ノンブル、目次、索引などがある。
① 柱
ランニングタイトル(running title)ともいう。
「部・章のタイトル」または「章・節のタイトル」などを各ページの欄外(横組み書籍では多くの場合、小口寄り本文の上)に小さくおくもので、読者が、ページをぱらぱらめくったときに、当該ページにはどんな内容が書かれているのかが推測しやすくなっている。
「部・章のタイトル」のタイトルを採用する場合は、「部タイトル」を偶数ページに、「章タイトル」を奇数ページに入れる。「章・節のタイトル」を採用する場合は、「章タイトル」を偶数ページに、「節タイトル」を奇数ページに入れる。奇数ページは、進行方向の前方に当たるので、偶数ページよりも読者の目に入りやすい。したがって、より詳細なタイトル(同じ「柱」が少ないページ数にしか乗らない)は奇数ページにおくのである。
「章タイトル」または「節タイトル」だけを柱に入れる場合は、奇数ページだけに入れて、「片柱」としたりする簡略法もある。
ちなみに、1ページに節タイトルが複数出現している場合には、最後に出現した節タイトルを柱に採用する原則が通常採用されている。
②ノンブル
フランス語のnombreから由来している。英語のnumberに当たる言葉である。ページ番号という人もいるが、正しくはノンブルである。
ノンブルがない本は、使いにくいに違いない。
次項以降の「目次」や「索引」もこのノンブルがなければ意味がないものになる。
ノンブルには「別ノンブル」「本ノンブル」「通しノンブル」「仮ノンブル」などの区別があるが、ここでは詳述しない。
③目次
英語ではコンテンツ(contents)という。書籍のはじめの方(前付けの中)にあって、どこにどのような内容(contents)が書かれているかを示すものである。部タイトル、章タイトル、節タイトル、項タイトルなどとそれらの存在するノンブルがセットになっているのが原則である。
目次は意匠デザインの上でも工夫のしがいのある部分なので、さまざまな工夫があり、読者を楽しませる一つの要素になっている。
④索引
英語ではインデックス(index)という。書籍の後ろのほう(後付け)に書かれて、言葉とその言葉の出現するページをセットにして、50音順やアルファベット順に並べる。言葉を捜して、その言葉に関係する説明が書かれている該当ページをいち早く探すためのものである。
一つの書籍に同一の言葉が複数登場する場合には、一つの言葉と複数のページ巣を対応させることがある。これは「索引項目の併合」と呼ぶ。併合された索引項目のページ数は、ページの小さい順に並べられるのがルールである。
索引項目に”子持ち”が付く場合もある。その他、索引については、たくさんの工夫の事例があり、必要に応じて使い分ける。
☆これらの発見と整理によって、日本で初めての書籍のコンピュータ自動組版システムが完成した。成果としては、「国立国文学研究資料」という国立国文学研究資料館に所蔵されている古文書のカタログが1982年世に送られた。当時の国立国文学研究資料館紀要には私の名前(本名)とその仕事についての概略が書かれている。

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