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挫折の後に「アルゴリズム」ありき--アルゴリズム戦記(1)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/8/22
挫折の後に「アルゴリズム」ありき--アルゴリズム戦記(1)

振り返れば、私の半生は、情報システムの職人としてのものが大半を占めている。望みがそうだったかと問われれば、忸怩(じくじ)たるものがある。挫折の連続であった。
唯一、"あたるところ敵なし"を経験したのが、アルゴリズムの開発戦線だった。このシリーズには、その戦記を記して行きたい。後に続く人には、何らかの参考になるのではないかとおもうからである。
"あたるところ敵なし"の前には恥ずかしい挫折の歴史があった。まずは、恥を書くことにする。
生まれて初めて職業を意識したのは、絵描きだった。私の伯父の一人が二科会の審査員をつとめる画家だった。小学校に上がる前の私の絵をべたほめした。特に覚えているのは、この伯父は一緒に海に出かけた日、私の絵をみて、ひどくほめた。「空のアオと海のアオを描き分けている。空のアオは抜けるように青く、天頂を黒している。海のアオは全体に緑がかっていて、手前に向かっては黄色や白の色が荒々しく塗られている。遠近が書き分けられ、遠近法が実現している。何もないアオだけの世界をここまで多様に描けるのはすばらしい。・・・」彼には、私を絵描きにして絵描きの跡継ぎを増やしたいという野望があったようだ。おだてられて私はすっかり舞い上がっていた。
小学校に上がったその月の初めての日曜日から、朝早く私は流山線というローカル線に乗り、終点のひとつ手前で降りて、10数分歩いて画家のA夫妻の家に通った。伯父の差し金によるものだった。そこでは油絵を基礎から教えられた。石膏のデッサンもやらされた。「絵は見たとおりに描くだけではダメだ。その石灯篭を描くならば、触ってそのざらざらとした質感を感じなさい。持ち上げようとしてその重さを感じなさい。裏に回って表からは見えなかったその姿を見てきなさい。その驚きや感覚を絵にこめてゆきなさい」と年端も行かない小学一年生に教えてくれたりもした。いまだに続く私の現場主義の体質はこのとき鍛えられたのに違いない。
A夫妻はそろって良家のご子息と令嬢なのに、貧乏で朝からいつも家計のことで言い争っていた。言い争いが終わらなくて、生徒である私は昼ころまで廊下で待たされることもあった。その間、私は心で耳をふさいで、廊下に積み上げてあった画集や絵画の雑誌をむさぼり見たり読んだりしたのも、楽しい時間だった。小学校3-4年生のころには、自分は絵で身を立てられるほど絵はうまくなるはずがないとすっかり納得がいった。ご夫妻の絵はすばらしかった。一筆一筆がまるで魔法のように見えた。今キャンバスの上に見える光景が次の一筆で一変してゆく。ご夫妻を訪ねてくる画家仲間の絵もすばらしかった。ありとあらゆる質の絵を見た気がした。画家の気質、色合い、多様な形、色の使い方、、、。目は急速に肥えたが、私の腕の向上は遅々としていたのである。人生一度目の挫折である。幼いなりにその思いは苦しかった。6年生で、流山通いはやめた。中学に入ると絵は趣味と割り切ったが、絵は描きたかった。絵画好きの仲間がいて、教室を借り切って連合展を開いたりした。このときの仲間には一流のデザイナになったS君もいる。
ある日、散歩の途中、以前から気になる畑の中の一軒屋(壁面が五角形に見える家)を覗いてみて仰天した。薄暗い部屋の中には倉庫の中のように油絵のキャンバスがやや無造作にたくさん重ねて置かれていた。良くは見えないが、おどろおどろしい絵のようだった。じっと見入っていると、不意に男の声がした。「絵が好きかい」「えっ、好きです」「中に入ってごらん。見せてあげるから」と中に案内された。電気をつけると、どの絵もどの絵も叫び出してくるのではないかというような強く激しく荒々しいものだった。人の顔も、牛馬の顔もあった。草木も壊れた家々のスケッチらしい小品もあった。あくまでも悲しく荒々しく激しい絵だった。「あぁ、プロの作品とはこういうものか、僕にはとうてい到達できない世界がここにもある」と、残っていたひとかけらの絵にかける未練は消し飛んでしまった。
後で知ったところでは「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻のご主人、丸木位里氏だった。ご夫妻は、当時、松戸にアトリエをかねた住居を構えていたのである。後に埼玉県に移るまで、このアトリエの周辺にできた家々の人々とともに生意気にも親交を深めることになった。毎日新聞の人気連載記事だった「教育の森」の執筆チームのメンバーで後に市長選にも出馬する文章家のF氏のご家族は丸木夫妻よりも後にやってきた。このご家族の皆さんにもかわいがられて、大学生時代は高校生だったお嬢さんの家庭教師もお引き受けした。お嬢さんはピアノの名手で全国大会で2位になる腕前で、同じ大会で1位だった隣の市の1年上の男子高校生と自転車で親も公認の遠距離交際していたりした。ご両親はお嬢さんを弁護士にするのが夢だったが、家庭教師(私)が理工系に偏っていたので、数学が全校一位になったりして、ご両親を悩ませていた。
F家の後に移住してきた水四女史は丸木夫妻のお弟子さんだったが、私から見ればかなりのご年配ではあったが、さぞかしお若いころは目を見張る美しい方であったろうと思われた。お嬢さんが一人いたが後に地元で一番と騒がれる美人に成長した。描く絵は油なのに水彩画のように淡く美しく枯れていて、ひと目見るだけで震えがくるような繊細さがあった。「あぁ、こんな絵を描く人もいるんだ。師匠の丸木夫妻とはまるで違うのに、こんなにもすばらしい。もし、私が、この方向に進んでもこの人のようには決して描けないだろう」と私はまたしても打ちのめされてしまった。
高校に進むと、ラクビーで泥まみれになる傍ら、文学好きの仲間に誘われて自費出版の雑誌(同人誌)に加わった。月刊「防人」と季刊「澪」の2つの仲間にくわわり、それぞれに連載小説と詩と和歌を書いた。ひとつのグループには印刷所の娘がいて、居室の1つを組み版部屋に与えられ、自分たちで活字を拾って(文選、"カツジヲヒラウ"と言った)、版に組み、ゲラ刷り機("ガラガラ"と言った)で印刷した。
文学については、小学校3-4年生で絵描きになるのが難しそうだと悟ると、父の蔵書(夏目漱石、宮本武蔵、怪人20面相、狐狸庵先生、、、)などを勝手に読み漁った。怪人20面相をひそかに私が持ち出しているのに気づいた父はあわてて、日本文学全集、世界文学全集などを買い求めて私に与えてくれた。怪人20面相には相当に色っぽい描写もあるので小学教師をして謹厳実直を建前にしていた父にとっては息子に見られて進退窮まった感じもあったに違いない。父の本はほとんどが総ルビ(全部の漢字に振り仮名が振ってある)だった。当時新しく発刊された日本文学全集、世界文学全集ではルビはほとんどなかったので辞書を引きまくった。小学校6年生の1学期のころには、日本文学全集はすべて読み終えていた。その後は世界文学全集と姉のために父が買った中央公論の「日本の歴史全集」「世界の歴史全集」、小学館の「小百科事典」などが主たる読書対象になるが、中学生のころ学校の図書館にあった三木哲学書、宮本百合子選集、毛沢東の実践論、矛盾論なども読んだ。教師にその方面に偏った人がいたに違いない。同じころ「象は鼻が長い」(三上章)という日本語の文法に係わる書籍もこの図書室で読んだものである。「象は鼻が長い」(三上章)は衝撃的だった。多感だった少年の私を決定的に文学少年にする方向付けがこの図書館にはあった。高校で文筆仲間ができたのは当然だったと私は感じていた。当時はスタンダールに凝っていてそのころの作風はこれに影響を受けていた。
高校3年生になると周囲は受験一色となったが、同人誌はやめなかった。一浪したが、この間も同人誌の仲間たちとは交流した。このころの仲間には、早稲田大学に進学してその後復古調の文体を得意として文筆で生活したU君(故人)や埼玉大に進学して県庁勤めの傍ら社会派の作品を作り続けていたK君(その後消息不明)がいる。
大学は東大理科一類に進学した。理由は希薄だったがとりあえず受験数学は得意だったからかもしれない。高校ではビートたけしと同級(私は9組、彼は6組)だったので、彼の口から当時の高校の様子はテレビなどでよく紹介されている。成績順に9、8、7、・・・とクラス分けされ、学期ごとに成績順にクラス替えがあった。教室の中の席次も小テストのたびに成績順に替わった。教師らの方針で9組と8組は理工系進学クラスとされていた。トップの学生はテストのたびに入れ替わるのに私は目立たない不動の総合2位だった。数学だけはたいていは学年トップだったし、全国模試でも10位から20位くらいだった。しかし数学の成績が良くてもその子が理工系向きかというとそうとはいえないのは今も昔も同じである。東大理科一類に入学して私はすぐにその学類が場違いであることに気が付いた。私の興味の対象と他の学生たちの興味の対象があまりにも違うのである。私はどちらかと言えば、人の心の動きや、人と人のカラミから生まれる心の波紋などに強い関心があった。社会や組織の仕組みにも強い関心があった。同じクラスの友人たちは数学の未解決問題や素粒子論の進展などに口から泡を飛ばして議論していた。クラブは体格の不足から大学ラクビーは敬遠して軟弱と見られていたサッカー同好会とTSG(テクニカル・サイエンスグループ、國井利泰総代、その後私が総代を引き継ぐ)と哲学研究会に参加したが、物足りない。キャンパスで「ゼミ生、募集--単位にならないゼミ、菊池昌典」というたて看板をみてすぐに参加することにした。すでに国際関係論の大家として知られていたがまだ30歳台の助教授だった菊池昌典先生の私設ゼミだった。一方進路を文学部仏文に変更する決意を固めて、履修届けの変更を願い出た。理科一類で2年間を済ませなければその先はないが、文学部仏文に進むためには文科系の単位もとらなければならない。どう組み合わせても、通常の学生の2倍近くの授業に出なくてはならない。そのために、私は朝8時15分から始まる、朝寝大好きの学生が通常はいやがるガラガラの教室の授業を多く取ることになった。この時間帯を受け持つ教師は皆さんはともに定年間近かな老教授であった。
おかげで、含蓄の深い、いい話が多かったような気がする。
授業には2倍出て、クラブ活動は3つこなして、ゼミにも参加している超多忙学生だった私は、2年生の最後に、仏文進学にとっては必須のフランス語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの最後の「Ⅳ」が他の授業のテストと重なって取れないことに気が付いた。文学部に履修願いを出す権利がなくなってしまうのである。あわてたが間に合わないので留年をもくろむことにした。浪人もしているので、貧乏な小学校教員の父が留年を許すかどうか、大変不安があった。理系の進路ならば履修願いが出せるので、最低点が高い(希望しても通りそうにない)学科に進学希望を出しておいた。理学部化学科である。内心、その作戦を思いついた私は自分をほめたいくらいだった。まんまと落ちてしまえば親を説得して留年できるというものである。しかし、案に相違して、結果は、理学部化学科に私は通ってしまったのである。
失意の進学となって、ついに文筆の道も断たれたのである。人生2度目の挫折である。
しかし、経験は身を助けてくれた。早朝授業に出ていたご縁で講義を聴いた老教授の浜口博先生に拾われて研究室に入った。大学を出るとき、高校の教員になりたいという私をこの老教授はT出版社(理工系専門出版社)に押し込んだ。高校生の教育よりも社会教育だというのが浜口教授がおっしゃった理由だが、老教授がこの出版社から自宅を立てるときに当時のお金で1000万円も借りていたという事実は10年後に発覚する。あえて推測すると、私は借金のかた代わりだったのかもしれない。それは邪推に過ぎず、実はもっと深遠な理由があったのだと私は信ずることにしている。もっとも、書籍の世界は嫌いではないし、自分で組み版した経験も大いに生きることになった。取材・執筆も得意だった。
骨をうずめるつもりだったその出版社ではその会社の社長と大喧嘩をしてやめることになったのだが、10年はやめさせないと言う老教授の出版社に対する(私の知らない)約束には2か月足りなかった。この2か月が老教授の逆鱗に触れた。3度目の挫折だった。老教授からは一枚のはがきが届いて、私は年始の会に参加することを禁止された。つまり事実上の破門だった。3年後、研究室の先輩がアメリカ遊学中に自殺するという事件がおきてまたはがきが届いた。「大切にした弟子が自殺し、苦境に置かれた君が立派に生きていることに感動している」とそのはがきには書かれていた。はがきの文字に涙がにじんで仕方がなかった。破門は解かれたのである。その間が、職を失い極貧を強いられ、恩師にも見捨てられたように感じていたときであり、わが半生で一番苦難の時期だっただろう。
苦難の始まりの時期、クラブの先輩であった國井利泰氏が専攻をコンピュータに変えて東大理学部情報科学科で教授をしていた。私は彼の研究室に転がり込み、情報科学の基礎を学ぶことになった。私よりも年下ではあっても飛び切り優秀な研究室の先輩たちが私を鍛えてくれた。会社を作れと私の会社設立を促してくれたのも國井利泰教授である。コンピュータで最初の仕事をくれたのも彼だった。
國井利泰氏が私にくれた最初の仕事は、「××システムのアルゴリズム開発」という名前のお仕事であった。このときから、私のアルゴリズム戦記は始まるのである。3度の挫折が導いてくれた先が、その少し前までは予想だにしていなかった「アルゴリズム」であった。

私は、ここから「アルゴリズム戦記」シリーズを書き始める。

△次の記事: アルゴリズム戦記(2)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/08/2_d31f.html

琵琶

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