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空間を越えた擬似家族成立の条件--情報社会学、予見と戦略(5)

2006/8/16
空間を越えた擬似家族成立の条件--情報社会学、予見と戦略(5)

「地球社会」または「人類社会」の成立の条件は、単位組織の成立の変化にあると前回の記事で私は述べた。
人為的に人が何人か集められただけでは組織にはならない。家族でもないし、企業のグループでもない。軍隊の小隊にもならない。集められたか集まったかは別として、5名前後(3~7名)の集団がその後労苦をともにしたり寝食をともにしたりして単位組織になるのである。実に単純な原理である。
ひとたび、単位組織になれば、ひとりは仲間のためにひとつ以上のことで役にたち、仲間は互いに助け合い、組織は社会に貢献するようになる。社会に貢献しない単位組織は社会から見捨てられ、競争に敗れて消滅することが多い。
整理して言えば、これらの単位組織は、人類史的に家族から派生して生まれたもの(と私は独断と偏見で断定する)なのでできるだけ家族に近い存在様式を持つことが強い結束を生むことになる。つまり擬似家族なのである。
太古、人は血のつながりのある家族(せいぜい親子3代の大家族程度)で、獲物を追い、草や木の実を採集し、ともに分け合って食べ、夜は火を中心に数軒の家またはテントに眠った。まれには血縁のないメンバーも混じったことだろうが、血縁にあることにするという儀式が行われ仮想的な血縁関係が認められていたのだろうと思われる。社会的単位組織は、おそらくこの家族集団から出る狩の遠征隊がその原始的姿だっただろう。ひとつの家族(大家族)のメンバーだけでは狩の遠征隊のメンバーはまま不足したに違いない。大家族をまたがっていくつかの大家族から屈強な男たちが集まり、遠征隊を作るのに成功したのが、おそらく、クロマニヨン人様のホモサピエンスであり、あくまでも真性の家族(大家族)に踏みとどまったのが、滅びたネアンデルタール人などの人種だったに違いない。狩の遠征隊は家族のいるキャンプ地を離れて、狩の期間は寝食をともにし、夜はかがり火の周囲に交代の見張りを立てて眠ったのだろう。真実の家族とは異なる集団といえども、信頼と親愛の情が深いほど行動は一糸乱れず、狩の効率もよかったに違いない。こうしてそれぞれの大家族から選抜されてできた狩の遠征隊は大家族を結びつけ、いくつかの大家族を束ねた社会(ムラ)を生み出すようになったに違いない。狩の遠征隊はそのまま他の部族と争う際の軍事組織になったであろうから、ネアンデルタール人がクロマニヨン人に次第に負けていったのは当然だっただろう。農耕が始まるとムラは人々の生産性と生存能力にもっと大きな力を与えてくれるようになるのだが、その話題は別の機会に譲ることにする。
ところで家族とは違って幼年期と成長期をともにしなかった人々の間の違和感、本能に宿る警戒心を乗り越えるためには、さまざまな儀式も行われ、酒や幻覚きのこなどの力も借りたに違いない。麻薬といわれるものの大半が適度に用いられる限り一時的に対人恐怖を取り去る効能を持つことが知られているのはその裏づけである。現在合法なのはお酒だけであるのはいうまでもない。
今でも、「お近づきに、まぁ一杯、・・・」というのは普通であるし、食事会や飲み会やホームパーティがなくならないのもむべなるかなと思うのである。廃れたとはいえ、社員旅行で寝食をともにしたり、社員運動会の後のファイアストームも心理的な結束、互いの親愛の念を高める効果があることはよく知られている事実だ。
まとめると、社会的組織の基礎としての単位組織が成立する要件は、次のようなものだろうと思われる。
1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている。
2)その集団が頼りにする自分たちのための炎がある。
3)寝食を共にする。
4)場合によっては、自他共に許すときにともに(酒などで)少しだけ理性を失う。(酒の代わりに絶叫マシンでという人もいるようだが)
5)(狩猟の旅のように)共同の目的のために共同で行動して、失敗の苦しみも成功の喜びも共有する。
列挙してみると実に動物的なものばかりである。社会性とはヒトの、生き物としての本性なのである。理性だけでは律することのできない、本能的なものである。
ここで、何かに気づいたヒトもいるかもしれない。上記の条件は、いずれもカルト集団が、自らの組織の強化のために取り入れている手法と重なっている。彼らは、実に人間の隠された本性をその本来の目的をごまかして悪辣にたくみに利用しているのである。
一方、昔から、青年男女の社会性の発達のために、健全な社会では、若衆宿、娘宿などの体験学習が行われた。ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプや、地域サークルの合宿などが健全な社会性発達の助けをしてきたことはよく知られている。これらは、いずれも上記のような条件を満たしているのである。
失われた日本の青年たちの社会性を取り戻すためには、合宿形式の体験学習がよい成果を挙げているのもうなづける。カルトに堕してゆくことのないように、青年たちを救うのは社会性の健全なる発展のための家庭と教育の役割の再認識が必要である
これからの社会が、「人類社会」「地球社会」となるにあたっても、この事情は本質的には変わらないに違いない。他方、"これからはバーチャル社会になる"とはやし立てる者が結構いる。否、どんなに社会が変わっても、本当にバーチャルな人間関係だけでは社会は成立しないと言うのが私の立場である。
バーチャル空間で人々がつながりを探し通信仲間や言葉を求めて、右往左往するだろうし、そうしている実態はすでに存在する。しかし、彼らはそれだけでは決して本当の仲間ではないのである。
本当の仲間になるために、「1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている」を満たそうとして、自殺仲間になってしまう若者もいる。仲間になりたい、という欲求は人間本来のものである。避けがたい欲望である。他でこの欲望が満たされない青年たちは死をキーワードに集まってしまったのだ。これは、現代のねじれた社会現象なのである。広く薄く存在する社会性への排除という日本の不幸な時代背景がここにはある。個々には、心ある大人や知人が、情けを持って手を差し伸べれば救うことのできるケースも多いに違いない。あたら若い命を捨てさせないように、健全に仲間ができるようにおせっかいといわれようが、健全な社会人はすべて手を結び手を差し伸べたいところである。「死」を目的とするのではなく、「生き延びる」を目的として青年たちが集まる機会をもっと増やしたいと思う。

ところで、たとえば、中学生の4割が会ったこともない人とメル友になっているという。

中学生の4割「見知らぬ人とメール交換」 、アサヒコム、http://www.asahi.com/edu/news/TKY200608140287.html(2006.08.15)
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携帯電話を持っている中学生の4割が、会ったことのない「メル友」と日常的にメールのやりとりをしていることが、群馬大学の下田博次教授(市民メディア論)とNTTドコモモバイル社会研究所の共同調査でわかった。(つづく)
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多くの人は驚くかも知れないが、日ごろ学生たちの行動を何気なく目にしている私などには、特段驚くことには思えないのである。
しかし、勘違いしてはならないのは、メル友は彼らにとって単にわずらわしくない情報源であり、はき捨てた言葉をリアクション少なく受け止めてくれる堪忍袋のようなものなのである。決して命を懸けて一緒に行動しようなどと思っていない。親愛の情も深いわけではない。かれらは、多くの場合、社会的交流の練習をしているだけでなのである。練習のつもりなのに、詐欺に引っかかったりする失敗もあるが、本人らは実社会に触れるスリルと興奮を感じながら練習をしているのである。近い将来、同じメル友の中から、リアルに会ってリアルの友人になる者も出てくるかもしれないが、そのときは、一気に上記の5条件のできだけ多くを満たすべく行動をするに違いない。上記のような泥臭い条件を満たさない限りは本当の「仲間」にはならないのだから。
ただし、恋愛感情が絡むと、会ってもいないのに、深い関係でありたいと妄想したり、命がけの伴侶にしたいと思い込んだりして、千葉から大阪までの600キロを無免許のままバイクで駆けつける愚か者も現れたりする(大阪で逮捕)。この場合も、会う前から命がけの伴侶になっていたわけではなくて、伴侶たりえようと思い込んだ男がパフォーマンス(ディスプレイ)しているだけのことなのだ。男って、このあたりのことは、どこまでも馬鹿をしますからからね。
さて、ここで、情報技術の進歩というものに目を向けてみよう。
バーチャルリアリティの世界の研究の進歩には著しいものがある。
1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている、かのような立体映像システムはまもなく完成するだろう。
2)その集団が頼りにする自分たちのための炎の儀式くらい、いつでもバーチャルに実現できる。
3)仮想空間でいつでも寝食を共にすることができるようになる。
4)場合によっては、仮想空間で気を失うような仕掛けはいくらでも可能なので自他共に許すときにともに理性を少しだけ失うことが可能になるだろう。
5)(狩猟のたびのように)共同の目的のために共同で行動して、失敗の苦しみも成功の喜びも共有することは事実としてすでに可能である。
こうしてみると、バーチャル空間だけでもいつの間にか「真の仲間」が成立するようになると思われてしまうかも知れない。私は、このことに対してははっきりとノーと言っておきたい。一度も会わずにに仲間は成立しない。たとえば「(本能に働きかけるほどまでに)息遣いが感じられるくらいの接近」とは、近未来のバーチャル技術によってもそう簡単ではない。
とはいえ、現在ほど頻繁に飲み会や家族パーティを開かなくとも親愛の情を育てる関係は成立することは確かだろう。バーチャルリアリティの技術は実際に会う体験には到底かなわないが実際に会う体験を補助するものにはなりうるだろう。数回だけのリアルな面会や会食だけで、数十年、場合によっては世代をまたがる仲間が成立することもありうることは確かだろう。そして、何よりもこれまでと異なるのは、これまでのように「仲間」の候補者が物理的空間を同じにする者から選ばれるだけにとどまらず、空間を越えた者たちから選ばれる可能性も高くなるからである(前述引用、中学生の4割「見知らぬ人とメール交換」)。空間を越えた者たちはバーチャルなままに「仲間」になることはないだろうが、「ネットを介した他人との交流の練習」から「ネットを介した仲間候補探し」、そして「実際に会って、(焚き火はできなくともろうそくや花火などの)炎のもとで語り合い、飲食をともにし、場合によっては宿泊をともにし、酒に酔い話に酔って、ともに旅をしたりする」というような経験を1度または数回繰り返すうちに、親愛の情も生まれていつの間にか初歩的な信頼関係も成立しているはずなのである。こうして、社会の単位組織は空間を越えて成立する機会が増加してゆく。
これは、狩の遠征隊が大家族の枠を出て、大家族を結びつけて社会(ムラ)を構成したように、人々が大挙して国民国家を超え「地球社会」「人類社会」を成立させる第一歩となるだろうと私は思うのである。いまは、戦争の危機とともに人類史に大きな一歩を記す時期にわれわれは立っていると感じられるのである。
こうして、単位組織の多くが空間を越えて成立するので国境の意味が今よりももっと激しく低下していくことになるのである。国家は簡単にはなくならないと思うが、来たる2010年から数えて数十年の間に、現在の国民国家程度の地域的まとまりは今の都道府県かアメリカの州くらいの意味しかなくなるかもしれない。

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琵琶

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