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「ニートの多くに発達障害」政府も認める--心理、教育、社会性の発達(24)

2006/8/24
「ニートの多くに発達障害」政府も認める--心理、教育、社会性の発達(24)

本日のニュースによれば、厚生労働省はニートに「発達障害」の疑いを認めて、支援に心理専門職を投入することなども検討し始めた。
"ニートに「発達障害」の疑い、支援に心理専門職も"、読売新聞から、ヤフーニュース、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060824-00000101-yom-soci(2006.8.24確認)
時間が経過するとこのニュースはネット上から消えてしまうので、下記に引用しておく。

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ニートに「発達障害」の疑い、支援に心理専門職も
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仕事も通学もせず、職業訓練も受けていない15~34歳の若者を指す「ニート」について、厚生労働省は就労支援の内容を見直す方針を決めた。
ニートの一部に、「発達障害」の疑いのある人が含まれていることが、同省の調査で判明したため。実態をさらに把握したうえで、支援機関に心理などの専門職を配置するなど、きめ細かい支援のあり方を検討する。
調査は今年6月、首都圏などにあるニートの就職・自立支援施設4か所を選び、施設を利用したことのあるニートの若者155人について、行動の特徴や成育歴、指導記録などを心理の専門職らが調べた。
この結果、医師から発達障害との診断を受けている2人を含む計36人、23・2%に、発達障害またはその疑いがあることがわかった。
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(読売新聞) - 8月24日3時17分更新
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厚生労働省は、これまでニートは就労訓練が足りないことが主因とみなしていた。この古い考えは私がこのブログでも取り上げてきた「社会性の発達不全」という「発達障害」の考えを認めようとしないものであった。
私が個人的にささやかに関与してきたニートの就職・自立支援施設(千葉県芝山)においても、単純な就労訓練では事足りず、若い職員がさまざまな予見を振り払って全身全霊を傾けるという全人格的献身的な活動によって塾生の教育に当たってきた。ここで問題なのは、普通のニート(社会的ひきこもり)は、このような施設にはほとんど出てこない(入塾しない)ことであった。社会性の発達不全のために社会に出られないのがこれらの人々の障害なのだから当たり前なのだが、これら施設にいる人は家を出てこられる程度の軽症の者かこの障害に該当しない他のハンディキャップを持つ者に限られていたというのが実情である。70万人とも100万人とも言われるニートのうちの1%程度が入塾したに過ぎない。
大半のニートが「社会性の発達不全」という「発達障害」を原因としているということは私が「心理、教育、社会性の発達」シリーズの初回(2005/7/17)から、一貫して繰り返し指摘してきたとおりで紛れもない事実である。厚生労働省が、やっとこの事実を認めて対策に乗り出そうというのであるから、たいへんよいことである。私もこのブログにあれこれと書き続けてきたかいがあったものとうれしい思いでいっぱいである。おそらく関係者の何人かは当ブログのご常連の読者と推測されるので、それぞれのお高い立場から行動を起こしてその影響力を行使していただいたことにありがたく深く感謝申し上げます。
今回の報告は施設にわざわざ入塾して卒業した者に限っての調査で、すなわち社会性の発達に障害を持つニートの比率を極端に低めた対象集団のうちであるにもかかわらず23・2%もの人に発達障害もしくはその疑いがあったことを認めるものである。すなわち、実は施設にも来れない多数のニートこそが普通のニートなのであるということに思いをいたせば、国民的に重大な問題がここに存在することがはっきりとしてくる。ニートの大半は社会性の発達を阻害された人たちなのである。心理専門職の投入などを歓迎するとともに、関係各位と各機関にいっそうのご尽力をお願いするものである。
なお、勘違いする人もいそうなので、「発達障害」なのだから「発達心理学」を取り入れようというのは必ずしも当たっていないことに注意を申し上げておきたい。以前から繰り返し指摘しているように、心理学の人たちは巨大な1学会と小さな40学会に分かれている。小さいといえども「発達心理学」の学会に属する人も少なくはない。しかし、その90%以上の人は「幼児教育」の専門家である。「生まれたての赤ちゃんがおっぱいを探すことから社会性の発達ははじまる」ので、たしかに間違ってはいないが、主として子供から大人になる直前にあたって人生観や社会観を獲得する10歳前後の心理発達を扱う人は皆無ではないがごくまれであるということである。この分野は「教育心理学」かと言えば、「教育心理学」は社会性の発達をほとんど扱っていないことを以前指摘した。「青年心理学」もここをスルーして、性徴獲得後の心理に関心を集中している。今、問題なのは一般論としての「発達障害」ではなく、「社会性の発達阻害」なのであるということを、あらためて強調しておきたい。

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琵琶
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造詣を深めよう「アルゴリズム」と「よいアルゴリズム」--アルゴリズム戦記(2)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/8/23
造詣を深めよう「アルゴリズム」と「よいアルゴリズム」--アルゴリズム戦記(2)

1.アルゴリズムとは
アルゴリズムの話を始めると、「私は数学が苦手なので、、、」と困惑に満ちた顔をして、話をさえぎろうとする人がいる。大学で講義しても話を聞く前に同じように「僕は数Ⅱ間でしかやっていないのでわかりません!」と反発して耳をふさいでしまう学生がいる。「聞け!」と怒鳴りたくなるが、ここはがまんである。
アルゴリズム、英語で書くとalgorithmとなる。語源としては、アラビアの記数法という意味のラテンなまりの言葉"algorismi"であるとされている。この言葉は、インドの記数法をアラビアに伝えてアラビア数字の記数法としたアラビアの数学者Abu Ja’far Muhammad ibn Musa Al-Khwarizmi(9世紀)の名前のなまりである。もともとは単なる個人名なので数とも関係はないのだが、「記数法(i, ii, iii, iv, v, vi, ...)」なので数学を想像させるのかも知れない。
現代的な意味でのアルゴリズムalgorithmの意味は、「処理の手順」「段取り」という意味である。必ずしも数学を意味しているわけではない。ある人に電話で用件を伝えるアルゴリズムalgorithmを考えてみよう。
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1.相手の電話番号を知っている場合は3に飛ぶ。
2.相手の電話番号を調べる。
3.相手の電話番号のボタンを押す。
4.相手が電話口に出たら、7に飛ぶ。
5.相手が留守録になっていたら、留守録に用件を入力する。
6.8番に飛ぶ。
7.電話で用件を伝える。
8.電話を切る。
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これは立派なアルゴリズムだが、これを日常的な意味で「数学」であると思う人はいないだろう。
ところで、日本のコンピュータ科学の開祖であった高橋英俊東大元名誉教授はコンピュータ科学の海外文献を日本に紹介するに当たって、たくさんの新しい日本語を作り出した。たとえば、「電脳(=電子計算機、コンピュータ)」という言葉も高橋英俊先生が発明した。「電脳」は中国語であると思っている人もいるようだが、日本生まれの日本語である。高橋英俊先生は、アルゴリズムalgorithmは「算法」と訳されている。「記数法」と直訳するのはためらわれたのだろうと推測されるのだが、これでも「数学」という誤解を除けないかもしれない。最近の日本ではカタカナで、「アルゴリズム」と書くのが一般的である。
オンライン学術用語集(国立情報学研究所) で検索すると、algorithmという言葉が収録されている学術用語集は10分野のものにまたがっており、必ずしもコンピュータ用語というわけでもないことがわかる。「工法」「話術」「心的処理法」「操作手順」「実験手順」「算法」「論理演算規則」「話法」「処理手順」などの意味でalgorithmが使われている。「算法」がふさわしいものもないではないが、「算法」と言い換えるとおかしなものも多い。共通しているのは、「段取り」「手順」という意味である。
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1. QR法 QR algorithm
土木工学編(増訂版)  0091230 Copyright 1991 文部科学省,土木学会
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2. アルゴリズム algorithm
言語学編       0002530 Copyright 1997 文部科学省,日本言語学会,日本英語学会
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3. アルゴリズム algorithm
心理学編       0002110 Copyright 1986 文部科学省,日本心理学会
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4. クリーン アルゴリズム CLEAN algorithm
天文学編(増訂版)   0007020 Copyright 1994 文部科学省,日本天文学会
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5. シンプレックス法 simplex algorithm
土木工学編(増訂版)  0108210 Copyright 1991 文部科学省,土木学会
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6. セカント法 secant algorithm
物理学編(増訂版)   0083170 Copyright 1990 文部科学省,日本物理学会
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7. ユ-クリッドの算法 Euclid's algorithm
数学編        0005540 Copyright 1954 文部科学省
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8. 演算規則 algorithm
論理学編       0000260 Copyright 1965 文部科学省
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9. 普遍的強勢付与アルゴリズム universal stress assignment algorithm
言語学編       0070260 Copyright 1997 文部科学省,日本言語学会,日本英語学会
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10. 文解析アルゴリズム parsing algorithm
言語学編       0048140 Copyright 1997 文部科学省,日本言語学会,日本英語学会
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とりあえず、ここでは、どの分野にも通用する"「アルゴリズム」=「段取り」"という言葉を採用する。
つまり、アルゴリズムとは「段取り」てあると宣言しておく。

2.よいアルゴリズムとは
さて、学問のどの分野でもアルゴリズムとは「段取り」なのだから、コンピュータの世界でもアルゴリズムとは「段取り」のことである。
ここで、コンピュータの世界での「よいアルゴリズム」とは何か、を考えよう。つまり、コンピュータの世界での「よい段取り」とは何か、ということである。コンピュータは、人の世に役立ってこそ意味がある道具である。この道具のやることの「段取り」が問題になっているのである。道具は実用の世界で正確で効率的でなければ意味がない。同じ正しい結果が得られるものであれば、もっともコストが低いものを「よいアルゴリズム」というのである。
「もっともスマートなアルゴリズムがもっともよいアルゴリズムである」と教える書籍も多いようだが、「スマート」を本来の意味で「アタマがいい」というように解釈しても、何を言っているのかさっぱりわからない。情緒的で本質を突いていない。書いている人は本質がわかっていないに違いない。スマートとはカッコがいいことか? トリッキーでびっくりするようなもの(アタマがいい)のことか? いずれもハズれである。
中には、何を勘違いしているのか、高いマシンを買えば処理が早くなるからよいアルゴリズムだと宣伝するハードメーカーがいる。高いマシンを買ったり、併行稼動用のマシンを買い増せば処理が早くなるというのは、アルゴリズムとは無関係なアルゴリズム外の速度向上作なのである。
コンピュータの世界は、工学の世界である。工学とはすべての技術が「低コスト・高パフォーマンス」で評価される。商売にならない工学はいらないのである。コンピュータの世界のアルゴリズムもコンピュータを働かせる技術の一つのことであるから、商売にならないアルゴリズムはいらないのである。いかにトリッキーなアルゴリズムを考えついても、コストパフォーマンスが他に比べて劣っていれば無用の産物である。
コストを下げるには、主として2つの分野がある。
・ハードウエアの使用を減らしてコストを下げる。
・処理速度を上げて人件費コストを下げる。
ハードウエアの使用を減らせばコストが下げられるということは、わかりやすい話である。
処理速度を上げると人件費コストが下がるということは、一見考えにくいかもしれない。コンピュータ処理の速度が遅いとデータを投入した技術者は処理の結果を長時間待っていることになる。待たされているとその間はろくな仕事ができないことが多い。時間はどんどん過ぎるが人の仕事ははかどらない。比喩的に言えば、時間は高いコストなのである。本人だけならばまだしも本人からの報告を待っている課長がいたりする。課長の人件費は平の技術者の人件費よりも高い。課長からの報告を待っている部長もいるかも知れない。部長の人件費は課長よりももっと高い。部長からの報告を社長が待っているかもしれない。社長の人件費は他の人に比べると(通常は)飛び切り高いはずである。時間は高い高いコストなのである。
処理時間が短く終われば、これらの待っている人たちの人件費コストは最小限に抑えられる。だから良いアルゴリズムなのである。
ここでたいていの場合勘違いするものがいるのである。早ければよいとばかりに、もっと高いマシンを買ってくればもっと早くなる、と主張するものが必ず出てくるということである。失う時間コストと高いマシンの代金を比較して、マシン代のほうが安ければ買うほうが良いだろうが、その逆の場合は買ってはならないのである。
さて、ここでもうひとつ、大切なことに触れておきたい。
私は、"同じ正しい結果が得られるものであれば、もっともコストが低いものを「よいアルゴリズム」というのである。"と述べた。ここで、「同じ正しい結果」とは何かを考えてみよう。数学の世界では正しい結果とは厳密な解のことである。工学の世界では、必ずしも厳密解を意味していない。実用の範囲で正しい結果であれば、それは実用的には正しい結果であるとみなすのである。こう考えると実に自由度が広がる。0.1ミリの誤差まで計算するのに10分かかるとき、0.001ミリの誤差まで精度を上げようとすれば、数時間要することもしばしばである。実用的には1ミリ程度の精度があればよいのであれば、10分で計算を打ち切って実用上なんら問題はないのである。実用の範囲ならば直感で当てたほうが早い場合だってある。"直感で当てる"をより論理化してコンピュータに実行させる方法、すなわちアルゴリズムが「人工知能」である。したがって、アルゴリズム戦記の背後には人工知能の話がたくさん隠されていることになるはずである。

3.よいアルゴリズムはひとつではない
「よいアルゴリズム」という話題になると、オレオレ詐欺ではないが、「オレがそれを知っている」といいたがる学者さんがたくさん出てくる。このような人々は、本当にたくさんいるのである。たいていはマユツバである。
何も聞く前から「オレがそれを知っている」というような学者さんは、実は何もわかっていないのである。敬遠させていただくことにする。
実際、「よいアルゴリズム」と言う場合、基本的にはシステム分野によっていくつかに分類される。
(1)数値計算分野・・・演算の数を減らす、繰り返し計算に打ち切り条件を入れる
(2)データベース分野・・・アクセス回数とりわけ書き込み回数を減らす、バッチ処理はシーケンスアクセス、リアルタイム処理はダイレクトアクセス
(3)業務システム分野・・・データベース分野に同じ
(4)リッチクライアントシステム分野・・・1回あたりの送信量を減らす、クライアント側にできるだけ処理の早い多くの機能を実現する。
(5)リアルタイム処理分野・・・要求の数だけオブジェクトが立ち上がるCGIなどは使用しない、通信は人の作業の合間に小さく区切って数多く行うようにする
(6)大量データの送受信分野・・・パケット長など一回あたりの送信量を大きくし、Ack-Nackの回数を減らす
(7)人工知能分野・・・処理がたどる条件分岐の数を減らす
(8)その他
何も聞く前から「オレがそれを知っている」というような軽率な人の多くは、たいてい(1)の数値計算分野の人だろう。アルゴリズム研究の研究者の90%は数値計算分野なのだ。しかも、数値計算分野といってもその中は多様である。大雑把に言っても300くらいの分野はあるだろう。細かく言えば数万にもなるはずである。それぞれの研究者はそのひとつの分野で一番のアルゴリズムを知っているというだけのことである。ましてや、データベース分野やリアルタイム処理のアルゴリズムについては聞いたこともない人が大半である。アルゴリズム研究で活躍される学者先生は応用数学のご出身の方が多いので、数値計算のほうばかりに関心があり、その他のものは下賎のものに見えるのかも知れない。私に言わせるとどの分野も同じくらいにエレガントな解が求められるとても魅力的な分野に見えるので、皆さんにも是非多方面の分野に進出していただきたいものとねがっているものである。
書店に目を転ずると、「アルゴリズム辞典」というようなものが売られていて、小さいもので数百の例が載っている。大きなものでは7000もの例が収録されている。どんなに多くの例が載っている辞典であっても、われわれが直面する実務の世界で必要とされているアルゴリズムがその中にあるという保証はない。むしろ、ないことのほうが多い。これらの辞典は参考にするには役立つが、ぴったりのものを探そうとしたら徒労に終わることのほうが多いということを肝に銘じておかなければならない。アルゴリズムは、問題に直面するときに新しく案出するものなのであると言いたい。新しく案出するにはこれまでの例はもちろん役に立つ。アルゴリズムをたくさん知っていることは悪くない。しかし、いつも新しく考え出す能力のないSEはまったく役に立たないということも事実である。
アルゴリズム研究者の人たちには信じられないことかもしれないが、開発の現場では日々SEの数くらいの新しいアルゴリズムが案出されているのである。もちろん、知らずに過去の成果と重複しているものも多いだろうが、学会や研究会で発表される新しいアルゴリズムの数百倍または数千倍の数のアルゴリズムが新規に作り出されていると言って過言ではないと思う。優劣については精査されることなく一過的に使用されて消えてゆくものがほとんどだ。それらと同様に精査されていない荒削りのままの私的なアルゴリズムの産物をシステム職人の老兵士である私が「戦記」として書き残すのが、このシリーズの目指すところである。

かくして、読者の皆さんは、「アルゴリズムとは」と「よいアルゴリズムとは」について造詣を深めていただくことができたものと思う。次回はいよいよ実際のアルゴリズム開発のお話を開始したいと考えている。

△次の記事: アルゴリズム戦記(3)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/09/3_7496.html
▽前の記事: アルゴリズム戦記(1)
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琵琶

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挫折の後に「アルゴリズム」ありき--アルゴリズム戦記(1)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/8/22
挫折の後に「アルゴリズム」ありき--アルゴリズム戦記(1)

振り返れば、私の半生は、情報システムの職人としてのものが大半を占めている。望みがそうだったかと問われれば、忸怩(じくじ)たるものがある。挫折の連続であった。
唯一、"あたるところ敵なし"を経験したのが、アルゴリズムの開発戦線だった。このシリーズには、その戦記を記して行きたい。後に続く人には、何らかの参考になるのではないかとおもうからである。
"あたるところ敵なし"の前には恥ずかしい挫折の歴史があった。まずは、恥を書くことにする。
生まれて初めて職業を意識したのは、絵描きだった。私の伯父の一人が二科会の審査員をつとめる画家だった。小学校に上がる前の私の絵をべたほめした。特に覚えているのは、この伯父は一緒に海に出かけた日、私の絵をみて、ひどくほめた。「空のアオと海のアオを描き分けている。空のアオは抜けるように青く、天頂を黒している。海のアオは全体に緑がかっていて、手前に向かっては黄色や白の色が荒々しく塗られている。遠近が書き分けられ、遠近法が実現している。何もないアオだけの世界をここまで多様に描けるのはすばらしい。・・・」彼には、私を絵描きにして絵描きの跡継ぎを増やしたいという野望があったようだ。おだてられて私はすっかり舞い上がっていた。
小学校に上がったその月の初めての日曜日から、朝早く私は流山線というローカル線に乗り、終点のひとつ手前で降りて、10数分歩いて画家のA夫妻の家に通った。伯父の差し金によるものだった。そこでは油絵を基礎から教えられた。石膏のデッサンもやらされた。「絵は見たとおりに描くだけではダメだ。その石灯篭を描くならば、触ってそのざらざらとした質感を感じなさい。持ち上げようとしてその重さを感じなさい。裏に回って表からは見えなかったその姿を見てきなさい。その驚きや感覚を絵にこめてゆきなさい」と年端も行かない小学一年生に教えてくれたりもした。いまだに続く私の現場主義の体質はこのとき鍛えられたのに違いない。
A夫妻はそろって良家のご子息と令嬢なのに、貧乏で朝からいつも家計のことで言い争っていた。言い争いが終わらなくて、生徒である私は昼ころまで廊下で待たされることもあった。その間、私は心で耳をふさいで、廊下に積み上げてあった画集や絵画の雑誌をむさぼり見たり読んだりしたのも、楽しい時間だった。小学校3-4年生のころには、自分は絵で身を立てられるほど絵はうまくなるはずがないとすっかり納得がいった。ご夫妻の絵はすばらしかった。一筆一筆がまるで魔法のように見えた。今キャンバスの上に見える光景が次の一筆で一変してゆく。ご夫妻を訪ねてくる画家仲間の絵もすばらしかった。ありとあらゆる質の絵を見た気がした。画家の気質、色合い、多様な形、色の使い方、、、。目は急速に肥えたが、私の腕の向上は遅々としていたのである。人生一度目の挫折である。幼いなりにその思いは苦しかった。6年生で、流山通いはやめた。中学に入ると絵は趣味と割り切ったが、絵は描きたかった。絵画好きの仲間がいて、教室を借り切って連合展を開いたりした。このときの仲間には一流のデザイナになったS君もいる。
ある日、散歩の途中、以前から気になる畑の中の一軒屋(壁面が五角形に見える家)を覗いてみて仰天した。薄暗い部屋の中には倉庫の中のように油絵のキャンバスがやや無造作にたくさん重ねて置かれていた。良くは見えないが、おどろおどろしい絵のようだった。じっと見入っていると、不意に男の声がした。「絵が好きかい」「えっ、好きです」「中に入ってごらん。見せてあげるから」と中に案内された。電気をつけると、どの絵もどの絵も叫び出してくるのではないかというような強く激しく荒々しいものだった。人の顔も、牛馬の顔もあった。草木も壊れた家々のスケッチらしい小品もあった。あくまでも悲しく荒々しく激しい絵だった。「あぁ、プロの作品とはこういうものか、僕にはとうてい到達できない世界がここにもある」と、残っていたひとかけらの絵にかける未練は消し飛んでしまった。
後で知ったところでは「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻のご主人、丸木位里氏だった。ご夫妻は、当時、松戸にアトリエをかねた住居を構えていたのである。後に埼玉県に移るまで、このアトリエの周辺にできた家々の人々とともに生意気にも親交を深めることになった。毎日新聞の人気連載記事だった「教育の森」の執筆チームのメンバーで後に市長選にも出馬する文章家のF氏のご家族は丸木夫妻よりも後にやってきた。このご家族の皆さんにもかわいがられて、大学生時代は高校生だったお嬢さんの家庭教師もお引き受けした。お嬢さんはピアノの名手で全国大会で2位になる腕前で、同じ大会で1位だった隣の市の1年上の男子高校生と自転車で親も公認の遠距離交際していたりした。ご両親はお嬢さんを弁護士にするのが夢だったが、家庭教師(私)が理工系に偏っていたので、数学が全校一位になったりして、ご両親を悩ませていた。
F家の後に移住してきた水四女史は丸木夫妻のお弟子さんだったが、私から見ればかなりのご年配ではあったが、さぞかしお若いころは目を見張る美しい方であったろうと思われた。お嬢さんが一人いたが後に地元で一番と騒がれる美人に成長した。描く絵は油なのに水彩画のように淡く美しく枯れていて、ひと目見るだけで震えがくるような繊細さがあった。「あぁ、こんな絵を描く人もいるんだ。師匠の丸木夫妻とはまるで違うのに、こんなにもすばらしい。もし、私が、この方向に進んでもこの人のようには決して描けないだろう」と私はまたしても打ちのめされてしまった。
高校に進むと、ラクビーで泥まみれになる傍ら、文学好きの仲間に誘われて自費出版の雑誌(同人誌)に加わった。月刊「防人」と季刊「澪」の2つの仲間にくわわり、それぞれに連載小説と詩と和歌を書いた。ひとつのグループには印刷所の娘がいて、居室の1つを組み版部屋に与えられ、自分たちで活字を拾って(文選、"カツジヲヒラウ"と言った)、版に組み、ゲラ刷り機("ガラガラ"と言った)で印刷した。
文学については、小学校3-4年生で絵描きになるのが難しそうだと悟ると、父の蔵書(夏目漱石、宮本武蔵、怪人20面相、狐狸庵先生、、、)などを勝手に読み漁った。怪人20面相をひそかに私が持ち出しているのに気づいた父はあわてて、日本文学全集、世界文学全集などを買い求めて私に与えてくれた。怪人20面相には相当に色っぽい描写もあるので小学教師をして謹厳実直を建前にしていた父にとっては息子に見られて進退窮まった感じもあったに違いない。父の本はほとんどが総ルビ(全部の漢字に振り仮名が振ってある)だった。当時新しく発刊された日本文学全集、世界文学全集ではルビはほとんどなかったので辞書を引きまくった。小学校6年生の1学期のころには、日本文学全集はすべて読み終えていた。その後は世界文学全集と姉のために父が買った中央公論の「日本の歴史全集」「世界の歴史全集」、小学館の「小百科事典」などが主たる読書対象になるが、中学生のころ学校の図書館にあった三木哲学書、宮本百合子選集、毛沢東の実践論、矛盾論なども読んだ。教師にその方面に偏った人がいたに違いない。同じころ「象は鼻が長い」(三上章)という日本語の文法に係わる書籍もこの図書室で読んだものである。「象は鼻が長い」(三上章)は衝撃的だった。多感だった少年の私を決定的に文学少年にする方向付けがこの図書館にはあった。高校で文筆仲間ができたのは当然だったと私は感じていた。当時はスタンダールに凝っていてそのころの作風はこれに影響を受けていた。
高校3年生になると周囲は受験一色となったが、同人誌はやめなかった。一浪したが、この間も同人誌の仲間たちとは交流した。このころの仲間には、早稲田大学に進学してその後復古調の文体を得意として文筆で生活したU君(故人)や埼玉大に進学して県庁勤めの傍ら社会派の作品を作り続けていたK君(その後消息不明)がいる。
大学は東大理科一類に進学した。理由は希薄だったがとりあえず受験数学は得意だったからかもしれない。高校ではビートたけしと同級(私は9組、彼は6組)だったので、彼の口から当時の高校の様子はテレビなどでよく紹介されている。成績順に9、8、7、・・・とクラス分けされ、学期ごとに成績順にクラス替えがあった。教室の中の席次も小テストのたびに成績順に替わった。教師らの方針で9組と8組は理工系進学クラスとされていた。トップの学生はテストのたびに入れ替わるのに私は目立たない不動の総合2位だった。数学だけはたいていは学年トップだったし、全国模試でも10位から20位くらいだった。しかし数学の成績が良くてもその子が理工系向きかというとそうとはいえないのは今も昔も同じである。東大理科一類に入学して私はすぐにその学類が場違いであることに気が付いた。私の興味の対象と他の学生たちの興味の対象があまりにも違うのである。私はどちらかと言えば、人の心の動きや、人と人のカラミから生まれる心の波紋などに強い関心があった。社会や組織の仕組みにも強い関心があった。同じクラスの友人たちは数学の未解決問題や素粒子論の進展などに口から泡を飛ばして議論していた。クラブは体格の不足から大学ラクビーは敬遠して軟弱と見られていたサッカー同好会とTSG(テクニカル・サイエンスグループ、國井利泰総代、その後私が総代を引き継ぐ)と哲学研究会に参加したが、物足りない。キャンパスで「ゼミ生、募集--単位にならないゼミ、菊池昌典」というたて看板をみてすぐに参加することにした。すでに国際関係論の大家として知られていたがまだ30歳台の助教授だった菊池昌典先生の私設ゼミだった。一方進路を文学部仏文に変更する決意を固めて、履修届けの変更を願い出た。理科一類で2年間を済ませなければその先はないが、文学部仏文に進むためには文科系の単位もとらなければならない。どう組み合わせても、通常の学生の2倍近くの授業に出なくてはならない。そのために、私は朝8時15分から始まる、朝寝大好きの学生が通常はいやがるガラガラの教室の授業を多く取ることになった。この時間帯を受け持つ教師は皆さんはともに定年間近かな老教授であった。
おかげで、含蓄の深い、いい話が多かったような気がする。
授業には2倍出て、クラブ活動は3つこなして、ゼミにも参加している超多忙学生だった私は、2年生の最後に、仏文進学にとっては必須のフランス語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの最後の「Ⅳ」が他の授業のテストと重なって取れないことに気が付いた。文学部に履修願いを出す権利がなくなってしまうのである。あわてたが間に合わないので留年をもくろむことにした。浪人もしているので、貧乏な小学校教員の父が留年を許すかどうか、大変不安があった。理系の進路ならば履修願いが出せるので、最低点が高い(希望しても通りそうにない)学科に進学希望を出しておいた。理学部化学科である。内心、その作戦を思いついた私は自分をほめたいくらいだった。まんまと落ちてしまえば親を説得して留年できるというものである。しかし、案に相違して、結果は、理学部化学科に私は通ってしまったのである。
失意の進学となって、ついに文筆の道も断たれたのである。人生2度目の挫折である。
しかし、経験は身を助けてくれた。早朝授業に出ていたご縁で講義を聴いた老教授の浜口博先生に拾われて研究室に入った。大学を出るとき、高校の教員になりたいという私をこの老教授はT出版社(理工系専門出版社)に押し込んだ。高校生の教育よりも社会教育だというのが浜口教授がおっしゃった理由だが、老教授がこの出版社から自宅を立てるときに当時のお金で1000万円も借りていたという事実は10年後に発覚する。あえて推測すると、私は借金のかた代わりだったのかもしれない。それは邪推に過ぎず、実はもっと深遠な理由があったのだと私は信ずることにしている。もっとも、書籍の世界は嫌いではないし、自分で組み版した経験も大いに生きることになった。取材・執筆も得意だった。
骨をうずめるつもりだったその出版社ではその会社の社長と大喧嘩をしてやめることになったのだが、10年はやめさせないと言う老教授の出版社に対する(私の知らない)約束には2か月足りなかった。この2か月が老教授の逆鱗に触れた。3度目の挫折だった。老教授からは一枚のはがきが届いて、私は年始の会に参加することを禁止された。つまり事実上の破門だった。3年後、研究室の先輩がアメリカ遊学中に自殺するという事件がおきてまたはがきが届いた。「大切にした弟子が自殺し、苦境に置かれた君が立派に生きていることに感動している」とそのはがきには書かれていた。はがきの文字に涙がにじんで仕方がなかった。破門は解かれたのである。その間が、職を失い極貧を強いられ、恩師にも見捨てられたように感じていたときであり、わが半生で一番苦難の時期だっただろう。
苦難の始まりの時期、クラブの先輩であった國井利泰氏が専攻をコンピュータに変えて東大理学部情報科学科で教授をしていた。私は彼の研究室に転がり込み、情報科学の基礎を学ぶことになった。私よりも年下ではあっても飛び切り優秀な研究室の先輩たちが私を鍛えてくれた。会社を作れと私の会社設立を促してくれたのも國井利泰教授である。コンピュータで最初の仕事をくれたのも彼だった。
國井利泰氏が私にくれた最初の仕事は、「××システムのアルゴリズム開発」という名前のお仕事であった。このときから、私のアルゴリズム戦記は始まるのである。3度の挫折が導いてくれた先が、その少し前までは予想だにしていなかった「アルゴリズム」であった。

私は、ここから「アルゴリズム戦記」シリーズを書き始める。

△次の記事: アルゴリズム戦記(2)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/08/2_d31f.html

琵琶

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学生たちの人格障害と学習能力--心理、教育、社会性の発達(23)

2006/8/21
学生たちの人格障害と学習能力--心理、教育、社会性の発達(23)

1.いまどき学生の人生観の4タイプ
このシリーズの2つ前の記事「いまどき学生の人生観と学習モチベーション--心理、教育、社会性の発達(21)」で、私は学生らに実施したアンケートから学生の人生観を4つに分類し、学習効果を検証した。

             社会活動意欲大 社会活動意欲小
 人生は金じゃない    (A)         (B)
 人生はお金だ       (C)         (D)

健全に社会性の発達がされ貢献満足型の人生観を持つ(A)グループの学生(正常な人格を有する学生)は全学生のわずか約30%+αであり、ニート予備軍とも言うべき(B)グループ「社会性の発達未熟×貢献満足型人生観」の学生が50%+αと大勢を占めていること、ビジネス勝者の可能性もある(C)グループ「社会性は発達して×私欲優先型人生観」は8%+αにとどまり、犯罪者予備軍とも言うべき(D)グループ「社会性の発達未熟×私欲優先型人生観」が10%+αに急増していることを示した。
「社会性の発達未熟×私欲優先型人生観」の(D)グループ学生とは、この記事で実は「反社会性人格障害者」であることを示したい。
とり急ぎ、彼らに対処するための手かがりについても述べた(「「人生はお金」の学生に効く言葉--心理、教育、社会性の発達(22)」)。しかし、これは、とりあえずの考え方に単にとどまっている。彼らに、いかに教えるかをさらに考えを進めると、その困難性はいっそう深いことがわかってくる。
社会性の未発達な学生集団には、「(B)グループ(ニート予備軍)」と「(D)グループ」の2つのグループが存在する。彼らの違いは明白であり、人生観が私利私欲優先か否かではっきりと異なっている。現在の学生の大勢を占めるのがこの「ニート予備軍」であり教育の成否は「ニート予備軍」の心を奮い立たせることができるかどうかにかかっているといってよい。昨年度と本年度で、私の教育実践では「ニート予備軍」に対する教育努力の方法が見えてきている。学習効果も確かに上がってきた。見えてきたところで、他方に、教師である私がどう努力してもある一部の少数の学生の学習成果があがらない事実に直面していたのである。この一部の学生こそ、(D)グループであった。

2.人格障害
「DSM-Ⅳ-TR」というものがある。正式には、『精神障害の診断と統計の手引き』(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders )というもので、アメリカ精神医学会の定めたものである。これはアメリカの実情に沿って、患者を診断する際の指針を定めたもので、日本でもある種の標準として利用されている。現在は第4版の一部改定版が出ていて、「DSM-Ⅳ-TR」と呼ばれているのである。原因や病理を問題にせず、現象だけに着目して分類するというプラグマティズムはいかにもアメリカ流である。まぁ取り掛かりとしてはそれでよいのかも知れない。一方で、日本の実情には合わないという指摘もされている。「文化的平均からずれている」が人格障害の判断基準となるので、異なる文化の間では判断も分かれてしまうことになる。
しかし、日本には統一的診断の基準が未確立なので、「DSM-Ⅳ-TR」が日本でも基準となっているといってもよいらしい。
この基準によれば、人格障害には、次の10種類が存在する。実は11種類あったが、ナチスとユダヤの関係評価に関連して混乱が生じたので、1種類を減らしたという時代的便法も取られている。ここでは、11種類説をひとまずおいて、10種類説に従う。
 ・妄想性人格障害
 ・分裂病質人格障害
 ・分裂病型人格障害
 ・反社会性人格障害
 ・境界性人格障害
 ・演技性人格障害
 ・自己愛性人格障害
 ・回避性人格障害
 ・依存性人格障害
 ・強迫性人格障害
これらは、「DSM-Ⅳ-TR」の中では次の3つのグループに分類されている。

Aグループ
「妄想性人格障害」「分裂病質人格障害」「分裂病型人格障害」
・遺伝的に分裂病気質を持っていることが多く、自閉的で妄想を持ちやすい。
・奇妙で風変わりな傾向があり、対人関係がうまくいかないことがある。
・ストレスが重大に関係することは少ないが、対人関係のストレスには影響を受ける。
Bグループ
「反社会性人格障害」「境界性人格障害」「演技性人格障害」「自己愛性人格障害」
・感情的な混乱が激しい。
・演劇的で、情緒的で、うつり気に見えることが多い。
・ストレスにかなり弱い。
Cグループ
「回避性人格障害」「依存性人格障害」「強迫性人格障害」
・不安や恐怖感が非常に強い。
・まわりからの評価や視線などが非常にストレスになる。
このような分類分けも、診断の手かがりにはなるだろうが、あくまでも見かけ上の様子が似ているという点での分類である。10種類の人格障害がどのような人生観と結びついているのかを考慮したものではない。
私は、この記事の次の項で、10種類の人格障害がどのような人生観と結びついているのかを提案してみたい。

3.人格障害と人生観
3-1 心象の検証能力
10種類の人格障害がどのような人生観と結びつけられるかを検討する前に、ひとつの準備が必要である。
以下は私の考えに過ぎないが、実に人格障害をうまく説明できる、と内心では自慢の分類である。
人格障害の種類といわれる中に、どうやら病者がもつ認知のミステイクの仕方の違いによって分けられているものがありそうなのである。
---------------------------
・心象の検証能力が正常な人
認知の仕方といってもいろいろな側面があるだろう。ここで問題にする認知の側面とは、人は外界に関する心象を心(脳)に描いて、これに基づいてその先の思考や行動を行っているという側面のことである。外界に関する心象は大切である。これが間違っていたら、間違った思考と行動の原因となる。正常な人は自分が持つ外界に関する心象がその時点で正しいかどうか、常に現実にフィードバックして確かめ、現実と心象に大きな食い違いが生じていないことをすばやく確信して新しい思考や行動に進んでゆく。
・心象の検証能力を過信する人
もし、現実と心象に食い違いがあるまま、それを正しく判断することができず、誤った心象にとらわれてその上に新たな心象を築いてゆくと、現実との差異はますます大きくなってゆき、正常な判断ができなくなる。ひとつの心象が役に立たなくなると古い心象も検証されないまま残存し、一方では新しい別の心象が発生することもあるに違いない。複数の心象が訂正されずに成長して、矛盾したままになってゆく。これが統合失調症といわれる現象だろう。
・心象の検証能力にいつも不安な人
一方、現実と心象に食い違いがあるかどうかに不安を感じて決断することができないケースもありうるだろう。この人たちは、次の思考をどのように進めたり次の行動をとったりしてよいのかの決断ができない。利己的であれば他人を利用しようとして他人の判断に依存したり他人の親愛を過剰に確保して身を守ろうとしたりする。利己的でなければ、自分一人で前に出ようとして混乱に満ちた言動をするようになる。
---------------------------
すなわち、「外界についての心象を検証せずに過信してゆくタイプ」と、「正しく検証するタイプ」と、「検証する方法を身につけていないことに不安を抱いているタイプ」の3通りのタイプがあると、私には思われるのである。
3-2 人格障害と人生観
前記の心象検証能力に関する3タイプのそれぞれに、人格障害と人生観を当てはめたものが、以下の表である。
Photo_9
ピンクは「DSM-Ⅳ-TR」のAグループ、肌色はBグループ、プルーはCグループである。若草色は正常な人格である。
A,Bグループはややまとまりを見せている部分もある。Cグループは「DSM-Ⅳ-TR」で「その他」的な扱いのグループなので、私の分類ではバラけているように見える。
「DSM-Ⅳ-TR」はあくまでも見かけの分類、私の分類は心象検証能力と人生観による分類なので、異なった様相を示しているのである。
私がアンケートで見つけた学生の4つのグループは、上記の3つの表の真ん中に対応付けられる。

             社会活動意欲大 社会活動意欲小
 人生は金じゃない    (A)         (B)
 人生はお金だ       (C)         (D)

一番上の表や下の表の学生は、存在するに違いないが、それほど顕著ではないということだろう。上下の表のようにここまで標準から外れてしまうと現在の上位~中堅私立大学の入試には耐えられないかも知れない。しかし、大学全入時代となった今は、この分類の学生たちも今後は多数入学してくることを考えなければならず、受け入れ側の体制がなければ大変なことになるのは目に見えている。

私の4分類と真ん中の表の分類を対比してみよう。

(A)グループの学生--「正常な人格」
健全に社会性の発達がされ貢献満足型の人生観を持つ正常な人格を有する。
(B)グループの学生--「回避性人格障害」
ニート予備軍とも言うべき「社会性の発達未熟×貢献満足型人生観」の人格である。
(C)グループの学生--「自己愛製人格障害」
ビジネス勝者の可能性もある「社会性は発達して×私欲優先型人生観」の人格である。
(D)グループの学生--「反社会性人格障害」
犯罪者予備軍とも言うべき「社会性の発達未熟×私欲優先型人生観」の人格である。

ところで、「反社会性人格障害」の人は、正気の人を敵視していて、正気の人からは学ばないという特徴を持っているのである。教師である私がどんなに心を砕き「人望なくしては財貨なし」と教えようとしても、教師はうそをついている、としか彼らの心には達しないのである。これでは学習効果は上がらない。このことは、手元のデータにもはっきりと現れている。
「反社会性人格障害」については、別の記事でもう一度詳しく述べることにするが、通常、世界的にはヒトの2%程度(アメリカの場合、男性3%、女性1%程度)といわれている。しかし、今年実施した私のアンケートでは、実に学生の10%+αに達している。
私の記憶にある限りでは、10年前の日本ではこの種の学生は全体の1%~2%にすぎなかったと思われる。これは世界的平均にも近いのでそれほど大きな狂いはないはずだ。今回のアンケートでは、とり方にもよるので数値自体に大きな意味があるとは思えないが、反社会性人格障害は、実に急速に増大しているというのが実感である。日本の社会はこのままでよいのだろうか。大学の教育はよいのだろうか。いや、高中小幼の教育はいいのだろうか。家庭には問題はないのか。考えるほどにますます心配になってくる。一度崩壊した文明社会は2度と再生したことがないのである。日本の文化は再生できないほどに崩壊してしまうのでないか。
私は、人格障害があれば直ちにその人を排除するということには組しない。まずは、開かれた社会と開かれた教育が対応すべきだと思うのである。
特に社会性未発達の障害については、「多すぎる、社会性の発達阻害の原因--心理、教育、社会性の発達(15)」の中で次のように書いた。
-----------------------------------------
「社会性の未発達」は、心理学の世界では、「精神障害」と位置づけられているに過ぎない。日本には、70万人とも100万人とも言われるニートがいる。その数は日々増加している。彼らのすべてが「精神障害者」なのだろうか。薬漬けにする以外の方法で彼らを救う方法はないのか。否、それ以前に、彼らが「精神障害者」であるならば、これほどの多数の「精神障害者」を生み出してしまう社会的教育システムになんらの問題もないというのだろうか。これほど多数の「精神障害者」が本人の遺伝的特性、または家族性に起因するとすれば、世界史的大発見である。日本人は精神障害者民族ということになるだろう。「社会性の未発達」は「精神障害」ではなく、正しくは、心理的未発達状態であると考えるべきである。
「社会性の発達」を扱う学問の分野を新たに起こす必要があるのかも知れない。
-----------------------------------------
心配すればきりがないし、私が叫んだくらいでは世の中が変わってはくれないようなので、私は、ささやかに過ぎるかも知れないが、まず、私の教室にいる学生たちに何ができるかを真剣に考えているところである。

たくさんの方のご意見をいただければ幸いです。

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琵琶

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ワーマン「5つの帽子掛け」再考--情報デザイン研究ノート(12)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2006/8/17
ワーマン「5つの帽子掛け」再考--情報デザイン研究ノート(12)

前回の記事で、7つのナビゲーションシステムについて書いた。これは、WEBシステムを設計する際には大切な知識たが、経験的な知識であるにすぎないことも説明した。
本質は、WEBページを見る相手の脳に働きかけて、相手の行為に変化を生み出そうとする目的で、WEBページの内部に用意する誘導の仕掛けということである。これを「相手が求めるものをいち早く見つけられるようにするサポートシステム」という言い方をする場合もあるが、実のところ、「相手が見つけたい情報」とは「相手に見つけてもらいたい情報」ということである。この本質を忘れて、経験的知識だけに頼っているものはやがて見限られる。テクニックは知っていても目的を理解しなければ、たいてい顧客の求める目的を達することはできないからである。
さて、以前にもこのシリーズ(情報デザイン研究ノート-2-)には触れたが、情報デザインの開祖のようにいわれるリチャード・S・ワーマン(以降、単にワーマンと記す)の主張するところも、経験的な知識に過ぎない。

彼の著書には、ごたごたとたくさんのことが書かれている。自信たっぷりである。色や形をキンキラキンに飾るのがデザインではないし、ましてや情報でもないと気づいた感激は大きかったろう。しかし、彼以前にそれを知っていた人も多いし、伝統的なテクニカルエディタの多く(私もその一人だった)は、それを当然のこととしていた。一方、それを専門職の知識にとどめず、より多くの人の目に触れるように、通俗的な解説書にまとめたのがワーマンであり、その功績は大きい。やや偏った一部をことさらに取り出して肥大化して見せているのは批判も多いが、わかりやすくする上での(情報デザイン上の)常套手段でもある。私も彼の功績をたたえることにやぶさかではない。罪は彼にあるのではない。彼のその本をバイブルのようにして、そこから一歩も成長しないやからの多いことに私は大いに腹が立っているのである。

Richard Saul Wurman (原著)、金井 哲夫 (翻訳)、「それは"情報"ではない。―無情報爆発時代を生き抜くためのコミュニケーション・デザイン 」、エムディエヌコーポレーション、2001年

上記の本の中で、一番有名な部分は、「LATCH--5つの究極の整理棚」(上書、pp.71-74)だろう。このあたりを部分的に引用する。
--------
情報を分類する方法は、いくつもあるわけではない。「位置」、「アルファベット」、「時間」、「分野」、「階層」の5つだけだ。この5つは、家の整理棚から多国籍企業まで、ほとんどあらゆる場面での情報分類作業に応用できる。年次報告、本、会話、展示会、案内板、条約、それに倉庫の整理にだって使うことができる。
(中略)
位置(Location)--出所のちがう情報や、別々の地域からもたらされた情報を比較調査したとき、位置はもっとも自然な選択となる。・・・。
アルファベット(Alphabet)--この方法は、非常に数の多い情報の分類に適している。辞書の見出し語や、電話帳の個人名などがこれに当たる。・・・。
時間(Time)--会議などのように、決められた時間内に行うイベントの方針を決めるときは、次官による分類方法が一番だ。・・・。
分野(Category)--品物の分類に便利な方法だ。商店などでは、通常、品物を分野ごとに分けている。・・・。
階層(Hierarchy)--大小、安い高い、重要性の序列など、程度によって分類する方法。・・・。
--------
これらの頭文字をとってLATCHというのである。これが究極の整理棚だというのだ。なんとまぁ簡単な、と狂気乱舞した情報デザイナや情報の研究者は多かった。結局何かの情報を持ってきても、どれかには掛かるし、これ以外のところには掛けられないという意味で、ワーマンの5つの帽子掛けという呼び名も生まれた。
まってくれ、と私は言いたい。「これだけ」だって! 馬鹿なことを言ってくれては困るというものだ。
大雑把に言えばLocation(場所)とTime(時間)はいいだろう。
しかし、Location(場所)について言えば、地球儀的位置座標(球面座標)と直交座標(デカルト座標)を取り上げておかなければ意味がない。人類史上この二つの概念の発見は大きな意味があったのである。
アルファベットにいたっては、こっけいなくらいだ。日本ではアルファベットではなくて、五十音だろうし、数字の1,2,3,…や、イロハ・・・、天,地,人など、「数詞」や「序詞」には事欠かない。ワーマンの大言壮語はアメリカの文化的貧困がそのまま反映しているような気がする。アルファベットがすべてだって? ・・・、そんなわけがないでしょう、ワーマンさん。
Category(分野)だって? どのようなカテゴリー分けするかはその人の知恵と教養の産物であり、一般論の「分野」なんてものはないでしょう。工業規格の商品分類? 国家規格の産業分類? 何が言いたいのでしょうか。あなたの肩書きのクリエイタという職業の人々はすべて、事物を前にして新たなカテゴライズに挑戦し、人々をアッと言わせて、なるほど! と納得させなければならないはずではないのだろうか。これしかないというようなものではないのである。Category(分野)というならば、カテゴライズの一般原理を述べてもらいたいものである。カテゴライズの原理こそ究極の情報整理術ではないだろうか。何をおっしゃるんですか、ワーマンさん。
階層(Hierarchy)にいたっては、ずいぶんとさびしい解釈である。もともと階層化概念は東洋的思想に根強く存在し、西欧には希薄な概念である。高度な社会構造を作り上げる東洋人と、支配と被支配という2極社会でやってきた欧米人の違いである。冷戦の終わり頃、西洋と東洋の狭間とも言うべき東欧の思想家を中心に、メタ概念(階層構造)が強く主張された。メタ社会学、メタ言語学、メタ哲学、メタ経済学、・・・。このころ、西洋の思想は初めて階層的概念(メタ概念)に目覚めたのである。ところが、一方の東洋は数千年の昔から階層概念を通常の思想に含んでおり、たとえば曼荼羅的世界観を構成していたのである。アメリカ人であるワーマンが階層構造概念を無視しなかったことはたいへん結構であるが、その意味を「大小、安い高い、重要性の序列など、程度によって分類する方法」であると語っているのは、お寒いかぎりである。たとえば、知性ある教養人にとって階層的概念とは次のようなものであるだろう。杉と椿は樹木という上位概念に統合され、樹木と草類は植物という上位概念に統合される。植物と動物と菌類は生物という上位概念に統合される。・・・。これらは、「大小、安い高い、重要性の序列」ではないだろう。共通する概念を抽象化し上位概念とするという知の働きが必要だ。ワーマンさん、もっと東洋の思想を勉強してください。
こら以外には、本当にないのか。
たとえば、大きさの順位、重さの順位、高さの順位、明るさの順位、音の強さの順位、色(3原色や7色など)の分類や順位、色の濃さの順位、動く動かないの差異、速度の順位、・・・、左からまたは右からの順位、上からまたは下からの順位、東西南北の分類、東南西北の方位の順位など、情報の整理棚はもっとたくさんある。しかも場面によってはLATCHなどとは比べ物にならない上位概念として利用されるのである。整理だなをたくさん知っていて、しかも時に応じて新しい棚を発見したりする能力も備えていて、今扱おうとする情報はどの棚を利用して整理するのがよいかを豊かに発想できる人がよい情報デザイナーなのである。5つしか知らなかったら失格である。
ワーマンさんは、おそらく電話帳の編集などいくつかのお仕事の中で知った整理方法だけを頼りにこの本を書いたのだろう。考えの範囲が狭いのは研究者ではないからやむを得ないが、経験の範囲も狭すぎるのではないだろうか。そして全般的な基礎的素養にも乏しいように感じてしまうのは私だけだろうか。お前さんは、自分のことを棚に上げてとワーマンさんにはしかられそうだ。ごめんなさい、しかし、われわれはもっと前に進まなければならない局面にいるので、ワーマンさんを学んだら、その次に進んでゆきたいだけなのである。お先に失礼、ワーマンさん。
生意気な物言いをお許しください。

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空間を越えた擬似家族成立の条件--情報社会学、予見と戦略(5)

2006/8/16
空間を越えた擬似家族成立の条件--情報社会学、予見と戦略(5)

「地球社会」または「人類社会」の成立の条件は、単位組織の成立の変化にあると前回の記事で私は述べた。
人為的に人が何人か集められただけでは組織にはならない。家族でもないし、企業のグループでもない。軍隊の小隊にもならない。集められたか集まったかは別として、5名前後(3~7名)の集団がその後労苦をともにしたり寝食をともにしたりして単位組織になるのである。実に単純な原理である。
ひとたび、単位組織になれば、ひとりは仲間のためにひとつ以上のことで役にたち、仲間は互いに助け合い、組織は社会に貢献するようになる。社会に貢献しない単位組織は社会から見捨てられ、競争に敗れて消滅することが多い。
整理して言えば、これらの単位組織は、人類史的に家族から派生して生まれたもの(と私は独断と偏見で断定する)なのでできるだけ家族に近い存在様式を持つことが強い結束を生むことになる。つまり擬似家族なのである。
太古、人は血のつながりのある家族(せいぜい親子3代の大家族程度)で、獲物を追い、草や木の実を採集し、ともに分け合って食べ、夜は火を中心に数軒の家またはテントに眠った。まれには血縁のないメンバーも混じったことだろうが、血縁にあることにするという儀式が行われ仮想的な血縁関係が認められていたのだろうと思われる。社会的単位組織は、おそらくこの家族集団から出る狩の遠征隊がその原始的姿だっただろう。ひとつの家族(大家族)のメンバーだけでは狩の遠征隊のメンバーはまま不足したに違いない。大家族をまたがっていくつかの大家族から屈強な男たちが集まり、遠征隊を作るのに成功したのが、おそらく、クロマニヨン人様のホモサピエンスであり、あくまでも真性の家族(大家族)に踏みとどまったのが、滅びたネアンデルタール人などの人種だったに違いない。狩の遠征隊は家族のいるキャンプ地を離れて、狩の期間は寝食をともにし、夜はかがり火の周囲に交代の見張りを立てて眠ったのだろう。真実の家族とは異なる集団といえども、信頼と親愛の情が深いほど行動は一糸乱れず、狩の効率もよかったに違いない。こうしてそれぞれの大家族から選抜されてできた狩の遠征隊は大家族を結びつけ、いくつかの大家族を束ねた社会(ムラ)を生み出すようになったに違いない。狩の遠征隊はそのまま他の部族と争う際の軍事組織になったであろうから、ネアンデルタール人がクロマニヨン人に次第に負けていったのは当然だっただろう。農耕が始まるとムラは人々の生産性と生存能力にもっと大きな力を与えてくれるようになるのだが、その話題は別の機会に譲ることにする。
ところで家族とは違って幼年期と成長期をともにしなかった人々の間の違和感、本能に宿る警戒心を乗り越えるためには、さまざまな儀式も行われ、酒や幻覚きのこなどの力も借りたに違いない。麻薬といわれるものの大半が適度に用いられる限り一時的に対人恐怖を取り去る効能を持つことが知られているのはその裏づけである。現在合法なのはお酒だけであるのはいうまでもない。
今でも、「お近づきに、まぁ一杯、・・・」というのは普通であるし、食事会や飲み会やホームパーティがなくならないのもむべなるかなと思うのである。廃れたとはいえ、社員旅行で寝食をともにしたり、社員運動会の後のファイアストームも心理的な結束、互いの親愛の念を高める効果があることはよく知られている事実だ。
まとめると、社会的組織の基礎としての単位組織が成立する要件は、次のようなものだろうと思われる。
1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている。
2)その集団が頼りにする自分たちのための炎がある。
3)寝食を共にする。
4)場合によっては、自他共に許すときにともに(酒などで)少しだけ理性を失う。(酒の代わりに絶叫マシンでという人もいるようだが)
5)(狩猟の旅のように)共同の目的のために共同で行動して、失敗の苦しみも成功の喜びも共有する。
列挙してみると実に動物的なものばかりである。社会性とはヒトの、生き物としての本性なのである。理性だけでは律することのできない、本能的なものである。
ここで、何かに気づいたヒトもいるかもしれない。上記の条件は、いずれもカルト集団が、自らの組織の強化のために取り入れている手法と重なっている。彼らは、実に人間の隠された本性をその本来の目的をごまかして悪辣にたくみに利用しているのである。
一方、昔から、青年男女の社会性の発達のために、健全な社会では、若衆宿、娘宿などの体験学習が行われた。ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプや、地域サークルの合宿などが健全な社会性発達の助けをしてきたことはよく知られている。これらは、いずれも上記のような条件を満たしているのである。
失われた日本の青年たちの社会性を取り戻すためには、合宿形式の体験学習がよい成果を挙げているのもうなづける。カルトに堕してゆくことのないように、青年たちを救うのは社会性の健全なる発展のための家庭と教育の役割の再認識が必要である
これからの社会が、「人類社会」「地球社会」となるにあたっても、この事情は本質的には変わらないに違いない。他方、"これからはバーチャル社会になる"とはやし立てる者が結構いる。否、どんなに社会が変わっても、本当にバーチャルな人間関係だけでは社会は成立しないと言うのが私の立場である。
バーチャル空間で人々がつながりを探し通信仲間や言葉を求めて、右往左往するだろうし、そうしている実態はすでに存在する。しかし、彼らはそれだけでは決して本当の仲間ではないのである。
本当の仲間になるために、「1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている」を満たそうとして、自殺仲間になってしまう若者もいる。仲間になりたい、という欲求は人間本来のものである。避けがたい欲望である。他でこの欲望が満たされない青年たちは死をキーワードに集まってしまったのだ。これは、現代のねじれた社会現象なのである。広く薄く存在する社会性への排除という日本の不幸な時代背景がここにはある。個々には、心ある大人や知人が、情けを持って手を差し伸べれば救うことのできるケースも多いに違いない。あたら若い命を捨てさせないように、健全に仲間ができるようにおせっかいといわれようが、健全な社会人はすべて手を結び手を差し伸べたいところである。「死」を目的とするのではなく、「生き延びる」を目的として青年たちが集まる機会をもっと増やしたいと思う。

ところで、たとえば、中学生の4割が会ったこともない人とメル友になっているという。

中学生の4割「見知らぬ人とメール交換」 、アサヒコム、http://www.asahi.com/edu/news/TKY200608140287.html(2006.08.15)
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携帯電話を持っている中学生の4割が、会ったことのない「メル友」と日常的にメールのやりとりをしていることが、群馬大学の下田博次教授(市民メディア論)とNTTドコモモバイル社会研究所の共同調査でわかった。(つづく)
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多くの人は驚くかも知れないが、日ごろ学生たちの行動を何気なく目にしている私などには、特段驚くことには思えないのである。
しかし、勘違いしてはならないのは、メル友は彼らにとって単にわずらわしくない情報源であり、はき捨てた言葉をリアクション少なく受け止めてくれる堪忍袋のようなものなのである。決して命を懸けて一緒に行動しようなどと思っていない。親愛の情も深いわけではない。かれらは、多くの場合、社会的交流の練習をしているだけでなのである。練習のつもりなのに、詐欺に引っかかったりする失敗もあるが、本人らは実社会に触れるスリルと興奮を感じながら練習をしているのである。近い将来、同じメル友の中から、リアルに会ってリアルの友人になる者も出てくるかもしれないが、そのときは、一気に上記の5条件のできだけ多くを満たすべく行動をするに違いない。上記のような泥臭い条件を満たさない限りは本当の「仲間」にはならないのだから。
ただし、恋愛感情が絡むと、会ってもいないのに、深い関係でありたいと妄想したり、命がけの伴侶にしたいと思い込んだりして、千葉から大阪までの600キロを無免許のままバイクで駆けつける愚か者も現れたりする(大阪で逮捕)。この場合も、会う前から命がけの伴侶になっていたわけではなくて、伴侶たりえようと思い込んだ男がパフォーマンス(ディスプレイ)しているだけのことなのだ。男って、このあたりのことは、どこまでも馬鹿をしますからからね。
さて、ここで、情報技術の進歩というものに目を向けてみよう。
バーチャルリアリティの世界の研究の進歩には著しいものがある。
1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている、かのような立体映像システムはまもなく完成するだろう。
2)その集団が頼りにする自分たちのための炎の儀式くらい、いつでもバーチャルに実現できる。
3)仮想空間でいつでも寝食を共にすることができるようになる。
4)場合によっては、仮想空間で気を失うような仕掛けはいくらでも可能なので自他共に許すときにともに理性を少しだけ失うことが可能になるだろう。
5)(狩猟のたびのように)共同の目的のために共同で行動して、失敗の苦しみも成功の喜びも共有することは事実としてすでに可能である。
こうしてみると、バーチャル空間だけでもいつの間にか「真の仲間」が成立するようになると思われてしまうかも知れない。私は、このことに対してははっきりとノーと言っておきたい。一度も会わずにに仲間は成立しない。たとえば「(本能に働きかけるほどまでに)息遣いが感じられるくらいの接近」とは、近未来のバーチャル技術によってもそう簡単ではない。
とはいえ、現在ほど頻繁に飲み会や家族パーティを開かなくとも親愛の情を育てる関係は成立することは確かだろう。バーチャルリアリティの技術は実際に会う体験には到底かなわないが実際に会う体験を補助するものにはなりうるだろう。数回だけのリアルな面会や会食だけで、数十年、場合によっては世代をまたがる仲間が成立することもありうることは確かだろう。そして、何よりもこれまでと異なるのは、これまでのように「仲間」の候補者が物理的空間を同じにする者から選ばれるだけにとどまらず、空間を越えた者たちから選ばれる可能性も高くなるからである(前述引用、中学生の4割「見知らぬ人とメール交換」)。空間を越えた者たちはバーチャルなままに「仲間」になることはないだろうが、「ネットを介した他人との交流の練習」から「ネットを介した仲間候補探し」、そして「実際に会って、(焚き火はできなくともろうそくや花火などの)炎のもとで語り合い、飲食をともにし、場合によっては宿泊をともにし、酒に酔い話に酔って、ともに旅をしたりする」というような経験を1度または数回繰り返すうちに、親愛の情も生まれていつの間にか初歩的な信頼関係も成立しているはずなのである。こうして、社会の単位組織は空間を越えて成立する機会が増加してゆく。
これは、狩の遠征隊が大家族の枠を出て、大家族を結びつけて社会(ムラ)を構成したように、人々が大挙して国民国家を超え「地球社会」「人類社会」を成立させる第一歩となるだろうと私は思うのである。いまは、戦争の危機とともに人類史に大きな一歩を記す時期にわれわれは立っていると感じられるのである。
こうして、単位組織の多くが空間を越えて成立するので国境の意味が今よりももっと激しく低下していくことになるのである。国家は簡単にはなくならないと思うが、来たる2010年から数えて数十年の間に、現在の国民国家程度の地域的まとまりは今の都道府県かアメリカの州くらいの意味しかなくなるかもしれない。

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琵琶

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我輩は愛犬様である--我が家の愛犬様(15)

2006/08/14
我輩は愛犬様である--我が家の愛犬様(15)

あれから、かれこれ10日ほどは経っている。愛犬様は、なかなか複雑な行動をしている。今日は私のひざには上がらなかった。今日の愛犬様の行動を愛犬様の言葉で語ってもらうことにしよう。
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我輩は、愛犬様である。ご主人様は零細企業の社長をしているが、いくつかの大学でも教員をしているらしい。そんなことはともかく、ご主人様はまったく気まぐれで、いつ帰宅するのかわからない。まだ陽のあるころに帰宅したかと思うと翌日には草木も眠る丑三つ時に帰宅する。それはまだ我慢ができるが、夜が白々あけたころ帰ってくることもある。我輩はずうっとずうっと帰宅をまっているんだぞ。せっかく帰ってきたのだから、ひざに乗って甘えてやろうとしても、ひざに乗ったとたんにご主人様はこっくりこっくりと居眠りを始めることもある。やれやれ、何のために甘えてあげているのかわからない。
さて、我輩もそろそろ嫁がほしい年頃で、そうそう人間様に甘えてなどいられない。早く大人になって、人気のフルールちゃんやメリーちゃんに「しっかりしたワンちゃんね、ワン」と一目置いてもらいたいのだ。
しかし、ご主人様が帰ってくると、なぜか、ちょっとかまってほしいと気も狂わんばかりの感情に襲われる。ポチタマ犬根性なのが我ながら実にくやしい。
今日は、ご主人様が比較的早く帰ってきた。ご主人様の会社は夏期休暇で、ご主人様もオフィスの様子を見に出勤はしたものの、早々と帰って来たのだそうだ。
帰ってくるとご主人様は、我輩にちょっと愛想を言うとすぐに家の奥に行って、なにやら台所でしているらしい気配である。ここのご主人はよく料理する。人間様の家族のエサは、ほとんどご主人様が作っているらしい。けっこういいにおいがする、、、。ちぇっ。オレ様のことはかまってくれないのか。ちょっとだけ、小声で呼んでみた「クン、クン、、クーン」。ご主人様は知らん顔だ。聞こえないはずはないはずなのに、なんていう奴だ「ワン!」。今度はちょっとだけ大声を出してみた。「おいおい、ちょっと待ってな、食事をしたらゆくからね」とご主人様の声。やれやれ、人間とは身勝手なものだ。自分でエサを食べ終わらないと我輩の方を見てはくれないのだ。まぁ、でも、これはいつものことなので、しばし待つことにしよう。Ssss,Mmmm,…、いかんいかん、いつの間にか眠ってしまった。あれ、ご主人様がそばに来ている。えっ、やっぱり、ボクのことがすきなんだ。うれしい(^^)/。
さて、まず、我輩は食事をしなければいけない、、、。だってこの後、寝てしまうことになると食べられなくなってしまうもの、、、食べるのは今のうち、、、パークパク、バリバリ、ムシャムシャ、うまい、うまい。お水をシャブシャブ、ゴクゴク。パークパク、バリバリ、ムシャムシャ、うまい、うまい。お水をシャブシャブ、ゴクゴク。・・・あーぁ、すっかり食べたぞ。ご主人様は逃げたりしていないよな。ふむふむ、ちゃんと座って、待っているな。さて、おひざに抱っこされに行くか。右手をこの段にかけてっと、えっ、そんなことして男の子としての威厳が・・・。やめやめ、今日は抱っこしないぞ。でもどうしよう。目ヤニくらいはとってくれないかな、、、あー、抱っこしないととってもらえないんだ。じゃ、お布団のタオルケットにゴシゴシ押し付けて、目ヤニをとってしまおう、ゴシゴシ。うまくとれないよう・・・。ゴシゴシ。あっ、ご主人様が手を出して目ヤニを指先でふき取ってくれた。うれしいっ。あっ、だめ。あごの下なんかなぜちゃ、、、気持ちいい、、、。えっ、あがって来いって? やだよ。ボクは大人なんだぞ。首輪なんかつかんじゃダメだよ、その気になっちゃうだろう!!! プンプン、ガォー、ヴァン。カブッ。・・・、あっ、ご主人様の手を噛んじゃった。ゴメ~ン。
えっ、ご主人様は、あきらめちゃったみたい、さっさとそばを離れて行っちゃうよ。玄関の上に上がろうかな、いいや、ダメ、ここで妥協しちゃ、ボクは大人になれない、、、。我慢がまん。・・・えっっ、ほんとうに行っちゃうの?? さびしいなァ、でも、いいか、イヤッ、行っちゃイヤ、待って~・・・、いやいやここは"がまん"、、、。ええいっ、寝ちゃうぞ。我輩は、クルリと後ろに向きを変えると丸くなって横になった。あえてご主人様の顔は見ないことにした。へへっ、ボクっておとなでしょ。 オヤスミッと・・・。・・・、モゾモゾ、、、なかなか眠れないよう~。クン、ク~ン。
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「社長の条件」の出版?--社長の条件(22)

2006/08/14
「社長の条件」の出版?--社長の条件(22)

私の知り合いの編集プロダクションが、私のこのブログのシリーズ「社長の条件」を出版しようとしてくれているそうである。いろいろな出版社と出版交渉をしていただいているようだ。
実は私の会社は出版も事業分野のひとつにしているのだが、私の原稿を出版したことはない。いかにも手前味噌だというのが、いかに世ずれしたといえども私に残っている「恥」の心だからである。過去に私が書いた原稿を出版していただいた出版社は、エー・アイ・ソフト、広済堂出版、インタープレス、誠文堂新光社などである(いずれもペンネーム)。自社で出版した本に同じペンネームが見えるものもあるが、いずれも「編集」「編纂」の立場での参加である。
私は自社では自分の本を出さないので、編プロの方に私は感謝の気持ちを込めて了承した。
結果はどうなるかわからないが、注目してくれた人がいたというだけでとてもうれしい限りである。
ところで、「心理、教育、社会性の発達」のシリーズは、累積ビュー数が格別に多い。今年の前半に限ればビュー数が多いのは「情報デザイン研究ノート」シリーズである。直近1か月では「情報社会学、予見と戦略」のシリーズがトップである。なぜか平均的に根強い人気があるのは「我が家の愛犬様」「オヤジと家族のお料理ライフ」である。これらそれぞれの方面の出版はどうなのだろうか。シリーズは8つある(2006/08/14現在)、、、というのは欲張りすぎですね。


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さびしくとも頼もしく親離れの始まり--我が家の愛犬様(14)

2006/08/09
さびしくとも頼もしく親離れの始まり--我が家の愛犬様(14)

最近、愛犬様は、散歩の途中ライバルのオスに出会っても自分から喧嘩を仕掛けることが少なくなった。それでも、喧嘩を吹っかけられることはあるのだが、そのときは敢然と戦うのである。
人間様は相手の犬に傷つけてはならじと引き綱を目いっぱい引いて、宙に引き上げていたりするので、愛犬様は十分には戦えない。それでも目にも留まらぬスピードで空中でトンボをうつと相手の犬の首筋に噛み付いていたりする。熊と戦うときには十数頭の甲斐犬が宙を舞って飛び掛り、熊の肩や首、耳にぶら下がって動きが鈍くなったところで他の犬たちが腹や首を食いちぎるのだそうだ。引き綱で宙に引き上げるくらいでは、平気なのだろう。ある日、息子が散歩に出かけると日ごろから乱暴な犬が執拗に食らいついて来た。1分にも満たない接触で、結果としては相手の犬が逃げていったのだそうだが、愛犬様は動きが不自由な中で、不覚にも前足に切り傷を負ったらしい。
その日の夜、いつものように愛犬様はクーンクーンと私を呼んだ。私は夕食もそこそこに彼のそばに行く。すると、いつもと同じに愛犬様は急いで自分の晩御飯を平らげて、水を飲み、玄関のたたきから床上までの小さな段差に手をかけた。これもいつものことだが、私のひざめがけてすぐにのぼって来るはずである。しかし、彼は手をかけたまま躊躇している。どうしたのかな、とよく見ると、前足に血が出ていたのである。帰ってから、しきりに前足をなめていたという。手を伸ばして、頭をなぜつけ、あごの下をさすり、傷ついた前足をそっとさすると、満足したように寝床に戻って横になってしまったのである。あれれ、抱っこしないのか、私は少し驚いた。動物は自分が傷つくと群れの他のメンバーに迷惑をかけないようにやや距離を置くのだそうである。
次の日も、同じだった。傷ついた日から数えて3日目、傷はいえた様だった。この日は、だいぶ逡巡したように、たたきの中を巡回した後、意を決したようにひざにあがって、私のわきの下にうつぶせのまま頭を突っ込んでさんざんに甘えてから寝床に向かった。その次の日は、またひざに上がらずに寝てしまった。そしてさらにその次の日も同じだった。さぁ、上に上がっておいでと手を出すとウゥーと低く叫んで噛み付いても来た。「抱っこは嫌だ」といわんばかりなのだ。もはや傷とはたぶん関係がない行動である。考えてみれば、愛犬様はもはや4歳と9か月、人間で言えば18-9歳の青年である。やっと大人になりかかっているに違いない。飼い犬はいつまでも親離れしない子供のままとよく言われるが、日本でオオカミに一番近い犬といわれる甲斐犬の血を引く愛犬様は、自然児のように親離れするのかも知れない。頼もしくなったものだ、ちょっとうれしくて、ちょっとさびしかった。前足が傷ついたことは単なるきっかけだったに違いない。
しかし、その翌日、すなわち昨夜のことである。長く逡巡した後、耳を伏せて、頭をひときわ低くして、玄関の床に上がってきた。おずおずと私のひざに乗ると、思い切り体と頭を押し付けてきた。自分からひざの上で丸くなると、自分で仰向けになるなり頭を私のわきの下に差し込んできた。これはかれの一番の甘えポーズなのである。私は思わず孫を抱く爺さんの心境になっていた。多分台風接近のための風雨の音と雷鳴が彼の心を弱くしたのだろう。まてまて、ここで妥協しては親離れに失敗する、と思ったのは、彼がすっかり甘え終わって寝床に向かった後だった。心弱きは親というものだなぁ、と自分の息子の子育てを振り返りつつ、反省しきりだった。
・・・、こんばんはどうかな、、、と思いかけながら、ぶるぶると頭を振ったりする私の今日一日である。

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