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ぼんやり考える力と階層的思考能力--心理、教育、社会性の発達(25)

2006/9/10
ぼんやり考える力と階層的思考能力--心理、教育、社会性の発達(25)

9月7日(木)の朝日新聞の夕刊の文化欄(p.14)に「ぼんやり思考 苦手な若者」という随想が掲載された。書き手は工学博士で大学での教員生活も長かった作家の森博嗣氏である。緑の小道(牧草地か)に牧用犬らしいワンチャンがだらりと尻尾を下げたまま何をか考えながら歩いてゆくかのような後ろ姿の写真が掲載されていた。写真を撮ったのも森博嗣氏らしい。記事の内容は覚えていなくとも、この印象深いワンチャンの写真を覚えているひとは多いに違いない。
森氏は、いまどきの若者は礼儀正しく上品になり、入試小論文やワープロ、ネットへの書き込みなどで文章もうまくなっているとたいそう持ち上げた(私も同意するが)上で、「・・・/ボクが感じる彼らの少ない欠点のひとつと言えば、それは、ものごとを抽象的に捉える能力の欠如である。/いきなり具体的に思考する。・・・/それらのビジョンは、おそらく映像化された過去の誰かの具体例が引用されているのだろう。/・・・/・・・お金さえ出せばすぐに目の前にやってくる。豊かになったために、ぼんやり考える機会を失ったのだ。/・・・」と鋭い観察を披瀝している。森氏について深い知識はないが、慧眼というべきだろう。
確かに、若者は「抽象が苦手で、ぼんやり考えることが少なく」なっている。具体例をたくさん記憶していて、まくし立てることはできる、時系列に沿って次々に文章に書くことはてきる。しかし私は「だから、何?」とときとぎ聞き返したくなる。我慢しきれずにときに聞いてみると、はじめから再びくどくどと同じような事実の羅列を語るのである。その事実の羅列の背後に何か言いたいことがあるのだろうに、それが言えないのだ。本人ももどかしがっているようだが、聞いている私だってもどかしい。
かと思うと、極端に抽象化して切り捨てた剰余の概念を振り返らないあぶない困ったちゃんの若者もいる。たとえば、練習問題で2階に居間を作れと間取り図を求めると、居間はあるが、1階から2階にあがる階段のない家の見取り図を得意げに作ったりする。本人はその間違いに一向に気づこうとはしない。居間だけを抽象化していて、居間を巡るヒトの行動が捨象されてしまっているのである。
抽象とは、とりもなおさず事実の羅列の中から共通する事柄、背後に流れる概念を取り出すことであるが、これが苦手な若者が多い。多数派であるといってもいいかもしれない。逆に少数派ではあるが、抽象化はできるがその際に捨象したものを抽象化した概念と関連付けて具体的な世界の中に再現する能力が欠落しているものも少なくないのである。
「抽象化」と「具現化(*)」という2つの思考の方向を自在に行き来することができなければ、ヒトとしての基本的生活はできないだろう。「抽象化」だけして澄まし顔に、現実社会との整合性を再現して「具現化」する能力が足りないと、観念だけが現実生活と乖離してゆくので(擬似)統合失調症的言動を引き起こす。本人は、自分のおかしげな言動にそれとは気が付かない。注意されたりすると、周囲こそ自分の優れた抽象化能力に嫉妬しているのだなどと勘違いしたりするのである。
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(*)「抽象化」の対語は「具象化」だが、この言葉はシュールレアリズムなどの世界で少し垢が付きすぎているので、誤解を避けるためここでは「具現化」という言葉を使用する。

さて、このような「抽象化」「具現化」能力とは、ヒトの認識能力のどこに当たるのだろうか。以前の記事「"記憶"の社会性--心理、教育、社会性の発達(3)」に書いた私の分類で言えば、「長期記憶」の「構造化(メタ化)記憶」と関係しているということになる。コンピュータの知識で言えば「フレーム」に該当する。

表3 ヒトの記憶とコンピュータの記憶
「"記憶"の社会性--心理、教育、社会性の発達(3)」より
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1 感覚記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・データ以前のヒトの記憶
2 短期記憶(STM) ・・・・・・・・・・・・・データ直前のヒトの記憶
3 作動記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・データ化作業中のヒトの記憶
 3.1 中央制御系
 3.2 音韻ループ
 3.3 視空間スケッチパッド
4 長期記憶(LTM) ・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報・知識、プログラム
 4.1 陳述記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のデータ・情報・知識
  4.1.1 エピソード記憶 ・・・・・・・・事例ベース
  4.1.2 意味記憶 ・・・・・・・・・・・・意味ネットワーク
 ◎4.1.3 構造化(メタ化)記憶・・・・フレーム
 4.2 非陳述記憶 ・・・・・・・・・・・・・コンピュータ上のプログラム
  4.2.1 手続き記憶 ・・・・・・・・・・・プロダクション・ルール
  4.2.2 プライミング ・・・・・・・・・・・ZigZag(意味ネットのノードが事例または
                      知識ユニット)
 ◎4.2.3 社会的配慮(連合記憶)・予期駆動型フレーム
5 自伝的記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・文書ファイル
6 展望的記憶 ・・・・・・・・・・・・・・・・文書ファイル
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上記の表の左の列はラリー・スクワイアの表に二重丸(◎)の項目を私が追加したものである。右側の列は対応するコンピュータ技術の概念を私が書いたものである。◎の項目は、私の発案ではあるが、西欧人は概念の階層構造を捉えるのが苦手で、東洋人はできて当たり前(だった)ので、このような合成の表になったのである。
ヒトは、具体的な個別の記憶のほかに抽象化した上位概念を持つことができる。たとえば、ヨモギ、イラクサ、マツ、スギ、ツゲ、・・・と並べてみるとこれらはみな「植物」である。ヨモギ、イラクサ、マツ、スギ、ツゲ、・・・は個別概念で、「植物」は上位概念である。「植物」と並ぶ概念には、ヒトやウシ、ウマ、・・・の「動物」や、シイタケ、マツタケ、ナットウ菌、・・・の「菌類」がある。「植物」「動物」「菌類」という個別概念はあわせると「生物」という上位概念に対応する。
このような概念構成は社会の構造とよく似ている。たとえば、ムラには戸別の家があるだけではなく、ムラ役が取りまとめているような社会構造が形成される。社会構成はこのような階層構造のほかに階層構造を超えるネットーク構成もあわせて持っているので単純ではないが、ネットワーク構成だけで社会は構成できない。そして他方の概念も社会構造と同じ階層構成をなすのである。思想の構築とはとりもなおさず、この階層構造を矛盾なく作り上げることである。この概念の構造は上位概念だけでは成立しない。健全な上位概念は下位の具体的な記憶と結びつき矛盾しないはずである。周囲の知識とも矛盾していないかどうかは、思考のネットワークで検証される。
この知識(記憶)の階層構造を作ることが下手だったらどういうことになるだろうか。下手な人が得た具体的な知識は、類似の概念や関連する概念と付き合わされて上部概念でまとめられたりはしないだろう。事実の羅列としてしか記憶されないだろう。よしんばたまたま一部から上部概念が生まれても、その上部概念の取り扱いに慣れていないので、具体的な知識とその上部概念の間には矛盾がないかどうかを検証したり、周囲の知識との間に矛盾がないかどうかを検証することができなかったり、怠ったりするのである。このようなときに(擬似)統合失調症的言動かみられるようになるのである。たとえば、ムラ役だけがいて村人はすべて抹殺されたようなムラ社会を観念してしまうのであるから、周囲は困惑してしまうのである。仕事や生活を一緒することはとてもできないということになる。
具体的な見聞を右から左に横流しする浅薄なマスコミ的行動様式ならば、ぼんやり考える必要はない。具体的な知識から抽象化を経て上位概念を作り上げ、その上位概念の正当性を検証する作業は、具体的事物の観察とは相対的独自の活動で、網膜に映る映像や耳に響く音に心奪われていては到底なしえない複雑な大脳内作業である。これは、いわばぼんやりと考えている状態が必要であることを意味している。しかし、このぼんやりは、今の若者の「ボンヤリしちっゃて」のボンヤリとは異なるものである。昔は「沈思黙考」という言葉があった。今はあまり聞かなくなった。禅僧で言えば「内観」に相当する。脳みそは熱く燃えるように活動し、これまでに蓄えたさまざまな知識をつぎつぎに想起しながら思索は激しく行き来する。新しい概念は、ああでもないこうでもないと反芻しながらスクラップ・アンド・ビルドされてゆく。これは楽しくてやめられないし、精神(こころ)の生きている証でもある。今の若者にはその「脳みそが熱く燃えるような活動」が少ないのである。ぼんやりと考えこんでいるときほど、健全な大人は脳みそに汗をかいているのである。はっと気が付くと手に汗を握っていることもある。脳みそには汗を掻かない「ボンヤリ」はただの休憩ばかりである。少しの例外を除くと多くの若者は、「ボンヤリしちっゃて」いるばかりで、上位概念に行き着かず、万一上位概念をひとつふたつ思いついても、その後の検証ができないのだ。
階層的な概念構成が形成されないと、未来を予測したりすることも出きないし、マニュアルには見当たらない事態に遭遇すると何も考えられないし何もできなくなるのである。階層的な概念構成があればこそ、新しい事態であってもこれまでの抽象化概念に該当するものかそれとは異なるものなのかの適切な判断がすばやく下せて、手馴れた方法で切り抜けるか、新しい対応法を編み出すべくよく観察するのかの切り替えしも巧みにできることになる。もちろん抽象化の先には未来も見えてくるのである。
森氏が言うように、「・・・。お金さえ出せばすぐに目の前にやってくる。豊かになったために、ぼんやり考える機会を失ったのだ」という一面もあるだろうが、それだけでもないように私には感じられる。ヒトは社会を構成するほどに抽象化能力を身に着けたが、社会ができると、社会がヒトの成長(個人史的発達)に多大な影響を及ぼして、記憶や知識の階層化を促すのである。「抽象化」能力と「具現化」能力の両方を備えないヒトは社会を構成する生物としての生存ができなかったはずである。今の若者は、成長(個人史的発達)の過程で、社会と交流しつつ概念の海を力いっぱい泳ぐような楽しい精神(こころ)の営みを抑圧され、社会性の発達を阻害されてしまったのである。記憶や知識は階層化されず、ぼんやりと考えることも少なく、勝手な思い込みから実世界との衝突を繰り返して、(擬似)統合失調症的言動ゆえに深い挫折を味わい絶望しノイローゼになってゆくのである(30歳台がノイローゼのピーク)。この新しいタイプのノイローゼは、神経質なヒトがなる従来型のノイローゼとは違って、注意深くない、もともとはいささかおっちょっこちょいの普通の若者がおちいるのである。
豊かになったために、社会性を身につけなくとも(家から出なければ)生きてゆけるようになった(ニート)ので、面倒な社会性は身につけない(社会的引きこもり)者がふえているのも間違いはない。一方、経済的に恵まれない子供のほうがニートになりやすいという統計もあるのでそれだけではないと思うしだいである。社会性のない教師は論外なのでとりあえずここでは語らないが、健全な小中高大の教師は社会の成り立ちとヒトとヒト、組織と組織の関係、社会生活というものにおける、人とその心の暖かさ、豊かさを子供たちに命がけで教えてもらいたい。もちろん、家庭でもそれは同じである。
つまるところ、社会性の発達阻害の原因を取り除きながら、社会性育成に力を入れて若者にぼんやり考える力を育てたいものである。大人たちは「ボンヤリしちゃって」いてはだめである。本人たちも、また、「ボンヤリしちゃって」いないで、ぼんやり考える(「内観」「沈思黙考」する)ことを始めよう。
森博嗣氏は最後の締めくくりに次のように書いている。
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若者こそ、もっと抽象的に思考してもらいたい、というのが僕の願望である。メディアに囚(とら)われず、本質を見極めてほしい。ジャンルにもスタイルにも、手法にも、時間にも、言葉にも文化にも、なにものにも拘(こだわ)らず、ただなんとなくこれだ、と判断できる感性を磨いてほしい。
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これに、私は、その感性は次のように磨かれると申し添えたい。関連する事実概念を基にして抽象化によって概念の高層建築を作り上げてはその土台たる事実概念や現実との整合性を確かめる「事実検証」を行うという、日々概念の海のなかを行ったり来たりする楽しくてやめられないヒトの精神(こころ)の営為によって磨かれるのであると。
いままで大人は目には見えにくいその精神(こころ)の楽しみを若者に説明するのを怠ってきたのかもしれない。概念の高層建築は社会の成り立ちを手本にしているのだから、基本的には同じ構造をしているのだ。社会の成り立ちを手かがりとして脳内概念構成物もまたよく理解し、自在にその上下左右を行き来し結びつけるのがよい。
組織の中で下にばかりいるのは芸がない。使い走りの役にしか立たない。一方、上にばかり立ちたがるのも人間としては失格だ。いつか足元をすくわれる。近隣の組織との調和も大切である。上も下も横もよくよく知り尽くし楽しく調和を保てる人がよい社会人である。
知識の世界でも基本は同じである。個別知識ばかりなのはいかにも芸がない(「知性なき丸暗記」その1, その2, その3)。役立たずの使い走りだ。逆に概念を抽象化して上に積み上げるだけでも人らしい知性の持ち主にはなれない。抽象化するということは捨象するものがあるということである。捨象した事物が見えなくなって思考が分裂したり自滅する危険がある。上部構造は土台の事実概念との整合性がなければ意味がない。近隣の知識との間に矛盾がなく協調できなければ一人前ではないのである。現実世界から新しい事実概念を意欲的に取り入れて、上下左右の概念や現実世界との整合性を絶え間なく楽しげに検証し、新しい概念構築をしている人が健全な精神の持ち主である。

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琵琶
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