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学生諸君に、「信頼の原則」を--心理、教育、社会性の発達(31)

2006/11/30
学生諸君に、「信頼の原則」を--心理、教育、社会性の発達(31)

説教強盗という手口がある。
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(例1)
①ある郊外のマンションの一室に、一人の男が現れた。「ドアの取っ手が壊れている。このままでは泥棒が入るよ」といかにも親切そうである。しかし、唐突な話にこの部屋の主婦は戸惑った。
②男は言い募った。「こんなことを放置していてはダメじゃないか。何とかしなさい。いまどきの主婦は防犯意識が低くて、なってない」と説教を始めた。主婦は「うんうん」と聞いていたが、内心は少し怖かった。「1週間後主人の給料日になったら、工事人を呼ぼう」とも考えた。男は「すぐに直したらどうだ」と畳み込んできた。主婦は手元不如意(お金が足りない)を見知らぬ男に打ち明けるのも躊躇したので、「もう、帰ってください」と小さく言ってみた。外見と違ってパートをやめた後の今の家計は苦しかった。男は怒ったように「なに言ってんだ。お前のところの問題だろう!!」と大声をあげる。主婦はひるんで、立ちはだかっていたドアから中に入ろうと身を引いた。忠告してくれるくらいなのだから悪い人ではないのだろうが少ししつこくてもう相手にしていられないと感じた。
③その瞬間、男はドアの取っ手をつかんで、部屋の中に押し込り、ドアを閉め、主婦の胸元をつかんで、「この野郎、くだらねぇこと言うんじゃねえ。用心しねぇなら、俺が取ってやる。用心しねぇお前が悪いんだぞ。わかったか。このやろう、金を出せ」とせまった。
④--被害額×万円。たまたま手元に多額の金額はなかったので、被害額は大きくなかったのがせめてものの救いだったかもしれない。
⑤この男はこの手の説教強盗の常習犯だった。
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この男は、一見立派なことを言っているが、無罪だろうか。被害にあった主婦のほうが悪いのだろうか。
イジメ常習犯などの「反社会性人格障害」を持つものは、警告を無視した者が悪いのであって、得をした強盗は偉い、と見るようである。どうやら、これは理屈ではなく、人格障害ゆえの感じ方の問題である。
もちろん、説教強盗は犯罪であり、処罰されるのは強盗のほうである。主婦には罪はない。社会通念上、相手がするはずのないこと(無法なことなど)をしたために生じた被害の罪は相手にあるのである。自分が相手を信頼してうかつにしていたことが罪に問われることは、まったくないか、あってもその罪は軽微とみなされる。これを刑事事件における「信頼の原則」と言う。民事ならば「信義道徳の原則」である。
上記の例では、もちろん男は有罪で余罪もあわせて懲役1年6か月の実刑であった。

さて、次のような例はどうなるだろうか。
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(例2)
①ある著名な貧乏団体(ソフトウエア著作権協会さん、ごめんなさい)にOと名乗る人物からメールや掲示板への書き込みで、「おたくのサーバには脆弱性がある。このままではハッカーが侵入するぞ」と読みようによっては親切そうな注意が届いた。この手のことは過去にも何件かあり、「ばらされたくなかったら金を払え」というような金品をせびるものばかりだった。団体の責任者は沈黙を続けた。
②この人物の書き込みは次第にエスカレートした。「こんなことを放置していてはダメじゃないか。何とかしなさい。いまどきのwebサイト管理者はセキュリティ意識が低くて、なってない。」と高圧的な書き込みを始めた。webサイト管理者はうなづける部分がないわけではなかったが、内心は金品を要求する者ではないかと警戒を強めた。「2か月後に会費納入時期になるのでお金が集まったら、業者に改修を頼もう」とも考えた。O氏は「すぐに直したらどうだ」と畳み込むように書き込んでくる。webサイト管理者は手元不如意(お金が足りない)を見知らぬ人物に打ち明けるのも躊躇したので、「もう、いい加減にしてください」と心の中で言ってみた。彼の団体は、見かけとは違って業界では有名な貧乏団体で、主催者の個人の貯金を取り崩して運営しているようなところだった。O氏は怒ったように「なにやってんだ。お前のところの問題だろう!!」とばかりに激しい書き込みを続ける。webサイト管理者はひるんで、また沈黙した。自分のサイトの脆弱性を熟知したのはまだO氏だけのようだ。O氏自身がまさか悪いことをやったりはしないだろう。後2か月耐えて、その後改修すればよい、と彼は考えた。
③その直後、O氏はFD(暴露屋)団体の設立総会の壇上で、ソフトウエア著作権協会のサーバに侵入して見せ、取り出した会員の個人情報を会場の出席者などに不法に配布したのである。30分後、巨大な某著名な無記名掲示板に流出した会員個人情報が多数掲示されていた。該当会員の数名にFDグループとの関係が疑われる者がいて、賠償金狙いの計画的犯行との見方も一部にあったが立証困難なので追及はなかった。
④O氏(実はK氏)や世間が思っていたものと異なってこの団体にお金はなかったので、和解の結果、個人情報流出に伴う賠償金はわずかな金額でで決着したと伝えられている。
⑤O氏は大学で教職にありながら暴露屋として有数の犯歴を疑われる存在だった。
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この男(O氏)は、一見立派なことを言っているが、無罪だろうか。被害にあったソフトウエア著作権協会のほうが犯罪者なのだろうか。
もちろん上記の例は、オフィス氏事件として名高い事件に例をとったものであり、現実のこの事件は判決も確定している。オフィス氏こと河合氏が有罪となったのは知られているとおりである。犯罪を犯したオフィス氏が犯罪者で、犯罪被害にあったソフトウエア著作権協会は被害者である。正常な人格を持つ者の目には当たり前の結論であった。
しかし、イジメ常習犯などの「反社会性人格障害」を持つものは、警告を無視した者が悪いのであって、まんまとやってのけたハッカーは偉い、と見るようである。どうやら、これは理屈ではなく、人格障害ゆえの感じ方の問題である。
もちろん、ハッキングは犯罪であり、処罰されるのはハッカーのほうである。くどいようだが、被害者には基本的な罪はない。社会通念上相手がやるはずのないこと(無法なことなど)をしたために生じた被害の罪は相手にあるのである。自分が相手を信頼してうかつにしていたことが罪に問われることは、まったくないか、あってもその罪は軽微とみなされる。これを刑事事件における「信頼の原則」と言う。民事ならば「信義道徳の原則」である。
有罪。懲役8カ月、執行猶予3年(求刑懲役8カ月)だった。

ところで、私は、学生らに「オフィス氏事件の判決を調べて、その結果の社会的影響を調べよ」という課題を出した。学生らはいつものようにおおわらわで、ネットを調べたり図書館に飛んで行ったりした。グループ課題なので、途中では学生らの討議が頻繁に行われた。キャンパス内のベンチに座って口から泡を飛ばしている学生らに、私は大満足、議論することに大いに意義があるからである。
そのうち、一部の学生らが質問にやってきた。オフィス氏が罪になって、被害団体(ソフトウエア著作権協会)の代表者が罪にならなかったのはなぜかわからないと言うのだ。オフィス氏が無罪で、警告を聞いてもなお無防備だった被害団体(ソフトウエア著作権協会)の代表者が有罪ではないのかというのである。
他大学の教員の中には、同様の主張を(いまだに)する者もいるそうで、それらを引用して私の見解を迫ってきた者もいた。あれあれ、大学でも教授採用に当たってはメンタルテスト(精神鑑定と人格検査)はますます不可欠なようにも思われる。他大学の先生は間違って言い始めた言説を引き下げられなくなってしまっているのだろうか、心底よりご同情申し上げる。よもや、刑法理論の根幹ともいうべき「信頼の原則」をご存知でなかった、ということはないだろう。

信頼の原則 (参考)
被害者・第三者の適切な行動を信頼した場合には,過失責任を負わなくてよしというもの。逆に被害者・第三者の信頼を裏切る行為は、厳しく処罰される。
(補足)技能の高い人が他人の技能不足や知識不足に付け込むことを防ぐという、公序良俗保持上の配慮がこの原理の背景にはあるとされている。

なお、今回の課題は、判決のよしあしや、自分の思想信条を問うものではない。「すでに出されている判決の客観的な影響」を問うものであった。問われていることに解答すること、問われていないことに対する解答は失格である、と学生らには補足して説明した。

法から逸脱しがちな学生は残念ながら漸増している。とっちめようと捕まえてみると「無防備にしている相手に非があるのだから、自分が罪になるはずがない(無防備な奴がいたから、無防備なサイトがあったから、やっただけだ)」と奇妙な言い訳をする学生も少なくない。まさしく「信頼の原則」を踏みにじる言動である。しかし、そこに該当する学生たちはその「奇妙さ」にまったく気づかないようである。
脱法しがちな学生たち、すなわち「仮性の反社会性人格障害」の多くが、「信頼の原則」をしっくりとは理解できない性向を持っているのである。
言い換えれば「人は、スキあらば襲っても良い」と感じているらしいのである。したがってこの学生たちは逆にいつ襲われるかわからない恐怖の中で暮らしていることにもなる。
互いに安心していられるためには、だから、互いに「人は、スキがあっても襲ってはいけない」のである。現代の社会には、この原則(信頼の原則)があるから、ヒトは互いに、「普通は、他人が自分のスキを見て自分を襲ったりはしないだろう」という信頼の下で暮らしているはずなのである。このような信頼がなくては、寝室でもうっかり寝込むこともできやしない、教室でも居眠りなどはできないはずである。
実は、「仮性の反社会性人格障害」の学生は、教室の中でよく居眠りをしている。私の観察では、他の種類の学生に比べると圧倒的に居眠り学生が多いように思う。教師(私)の居る教室の中は、安全で安心できる空間なのだろう。「反社会性人格障害」の学生にとって、他に安心できる空間が少ないのだ。それほどならば眠っていてもよい。ここは、私が守ってあげよう。ただし、私の出した課題はきっちり仕上げてきなさい。毎回君たちに配布する私の講義録には解説だけではなく、当日の課題も載っている。でも時には目を覚まして、私の説明も聞いてみるといいだろう。面白かったら、もっと聞いてみたらいい。情報システムがわかるだけではない。現代の情報社会についても説明しているので、基本的には人が信用できるようになるだろう。わからなかったら、質問してみたまえ、もっと面白くなる。私の話は、実際の社会に入ればうんと役に立つ話ばかりで、ほかではめったに聞けないことに触れている(つもりである)。・・・、牽強付会かな?
さて、「仮性の反社会性人格障害」の本質は「信頼の原則」がまったく抜け落ちている点にある。協調して共存・共生する方略を持ち合わせていないのである。だから、善良な他人を壊して生きようとケモノのごとき生存本能の命ずるままに協調破壊や脱法に及ぶのである。
私は、頑固に "「信頼の原則」を裏切らないことが、倫理、ひいては情報倫理を守る根幹である" と主張したい。
教員は、かれらに「信頼の原則」を教えるべきである。大学でそんなことまで教えなくてはいけないのか、生活指導までしなければならないとは・・・、と、嘆かれることなかれ。小中高の教育でなされてこなかった結果が私たちの目の前に居る学生たちなのである。これを教えずして放置すれば、犯罪者を世に放つことにもなりかねないことを、ここでは特に強調させていただくことにする。かわいい学生たちの将来のために、学生らに今は一瞬嫌われても将来深く感謝される教師になってください。なにとぞ、お願いいたします。

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琵琶


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岩田哲夫氏の個展に赴く--交友の記録(11)

2006/11/27
岩田哲夫氏の個展に赴く--交友の記録(11)

23日早朝、突然、私は名古屋に向かい、岩田哲夫展(一宮市博物館の1階全部を使った長期個展)に出かけた。一宮市博物館が主催し、中日新聞が後援になっていた。岩田哲夫氏は現在76歳、愛知県文化協会連合会の名誉会長である。岩田哲夫氏は、小学校の教諭-教務主任、中学の校長、教育委員会幹部という経歴で、絵画と教育の二足のわらじを履き続けた人物である。
家内が小学校時代、何かと助けていただいたという話を聞かされていたので、絵だけ見てくるつもりで、家内とともに出向いたのである。実は、家内の母親は嫁いだ先で繊維不況に巻き込まれてたいへん苦労した人だったが、江戸時代から続く濃尾平野の名家の一つH家の生まれで、その母の母すなわち祖母は同様に大きな構えを誇った岩田家の出だったそうである。つまり岩田哲夫氏にとって私の家内はいとこの子、親類になるのである。
個展は、定年後それも直近1年以内に創られた7-800号の大作十点ほどを中心にした40-50点を掲げた大規模なものだった。参考展示されていた10代のころの作品は、野太いタッチでヨーロッパの薫りのする写実的な風景画だった。最近の作品は、和を重んずる作風で、キャンバスに和紙を貼り、墨と白の胡粉で太からず細からずの中庸のタッチで油絵のように重ねて描く重厚な抽象絵画である。モノクロの重厚なタッチは侘び寂を越えた不思議な和の精神をかもし出している。作品の大きさと数、そしてそれらの制作期間をみれば、超人的ともいえる精力的な制作能力である。
ご本人にもばったり出会ったので、解説していただきながらの鑑賞となり、その後は控え室で奥様に淹れていただいたお茶をいただきながら歓談した。作風の転機は、教育委員会現職当時パリに留学したことで、ヨーロッパの作品に触れて、むしろ和の精神と日本の美に目覚めたことがきっかけだったそうである。私は、家内の連れ合いとして、初めてご挨拶することになったのだが、ずうずうしく、いろいろとうかがってしまった。
類例のない、不思議な、和の激しくも静かな情念の凝集を見せ付ける、人を圧倒する岩田哲夫氏の作品群に出会って、私は、いつまでも静まらぬ興奮を抱えたまま帰宅した。
来春、岩田哲夫氏は彼の仲間とともに上野にも進出する予定があるとのこと。
カタログをいただいてきたので、東京の私の仲間たちに見せてやろうと思っている。
上野での展覧会が成功することを切に希求している。

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琵琶


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教員資格認定にメンタルテストを--心理、教育、社会性の発達(30)

2006/11/20
教員資格認定にメンタルテストを--心理、教育、社会性の発達(30)

4年前、私は頼まれてある大学の新設の通信教育部の指導を担当していた。社会人が圧倒的に多く、中でも高校情報の教師の資格を目指す学生が多いという事前説明があった。この年は通信添削の指導に夜を日に継ぐ多忙さで睡眠時間は極端に短かった。夏にはスクーリングで、40-50名ずつに分かれた5クラスを受け持った。
前半は2クラスだったが、スクーリング初日の授業から暴力的な大学の専任××教授(新任)に困惑させられた。「学習しなくとも単位をよこせ」と主張する学生ら数名(社会人、××教授の知り合いたち)を引き連れて私の教室に乱入し、持ち込んだハンドマイクで「学習しなくとも単位をあたえるべきだ」と激しくアジテーションし、私を教室の片隅に追いやるや、授業を中断して一般の学生を一人ずつ呼びつけて「自分は、学習なしに単位をもらいたい」と強制的に言わせるというとんでもない事件がおきたのである。この事件は、古くから居る他の専任教授らの応援を得て一応の沈静化を見たが、この××教師はお咎めなしに終わっていた。彼の主張では、授業料を払った時点で学生に単位をやるのが平等の精神から正しいということになるのである。教員が課題やペーパーで学生の学力を判定するのは絶対反対だというのである。私は次の講義時間には直ちに私の教室ポリシーを発表し、従えないものは即刻退出を命ずることもあると宣言して授業を再開した。その後も××教授の過激さは驚くばかりだった。私のクラスの学生からの課題提出物を事務から次々に横取りすると半年も隠匿してくれたので、私は長く執拗に繰り返し学生からの提出物を引き渡すように要求せざるを得なかった。直属上長が××教授を呼びつけて直接指導してくれたおかげで、大半は後日彼の手元から発掘することができた。ここで、この事件についてこれ以上詳しく述べるのは目的を外れるので、控えさせていただく。
後半の3クラスはこれに加えてさらにいかにも異様だった。
クラスには、学内徘徊学生(一見する服装からヤクザの師弟と推定)、白昼堂々他の学生の答えを強奪して歩く者、統合失調、欝症状、記憶障害、妊娠幻想や知覚障害を持つ者、性同一性障害者などと推定される者が多数集められていた。各クラスともにそれぞれ半数を越える学生にただ事ではない雰囲気があった。これらの学生の多くはベルが鳴るとうつむき加減で上目遣いに教師を眺めている。教師の話や指示に対して著しく反応が鈍い者が目に付く。1-2名は近づいて語りかけても、黙って下を向くばかりで教師と会話が成立しない。他の学生はちぐはぐでもかろうじて会話はとりあえずできるという程度だった。特にひどかったのは課題が出ると授業時間には、教室内を小走りに走り回って、答えを教えろと他の学生に強要して歩く者(筋肉質でいかにも体育教師という風貌の男で、後で実際に高校の指導力不足体育教師と判明した)などがいた。TAが制止すると足払いを受けて、転倒しそうになるなどの被害もうけた。これらの学生の間に、ちらほらと正常な学生らも同席していた。正常な学生の多くは、デザイナとして数年以上社会で活躍してきた者たちだった。正常な学生らにとっては、とてつもなくひどい学習環境だったと思う。
正常な学生を除く問題の学生らは、実は、いわゆる「要再教育教員」であった。ある都道府県の教育委員会が預かっていた現役の(問題を抱える)高校教師の皆さんだったのである。彼らとは別に、一部には、教員ではないが精神に障害のある方もいた。障害者団体から来ているのではないかと推測された。真偽は不明だが、これらの学生らを集めたのは××教員で、学生をたくさん集めた功績で教授に就任したのだと伝えられていた。私が担当しなかった隣の教室では、何も知らない教師が作品をかき進めようとしない学生に声をかけたとたんに叫びだして鉛筆様のとがったものでいきなり教師を刺し、さらには自傷行為に及んだため、教員が止めに入って周囲が血みどろになるという惨事もおきた。
答え寄こせと強要して歩いた学生教師は、課題提出もろくにしておらず、ペーパーテストの成績も極端に悪かったので、さすがに単位は与えられなかったが、他の学生らには繰り返し教えて何とか及第点に持ち込んだ。私の単位を得るのが情報教師の資格をえる必須条件ということであった。
しかし、要再教育教員のうち単位取得したこれらの者がすべて教壇にもう一度立てるかといえば、別の意味できわめて困難と言うべきである。果たしてこの教師らのすべてが生徒に正常に語りかけることができるのだろうかと心配した。ましてや、多くは、生徒と心を通わせるのはきわめて困難に違いないということが容易に推測されるものだった。
初日から乱暴を働いた専任××教授はその後もさまざまなことをしでかしてくれた。おそらく、通念の上では教室に戻すことが困難とされるに違いない、これらの「要再教育教員」の多くを無条件に教室に戻すことや精神障害者に無条件に大卒の資格を与えることを思想信条として狙って活動されたいるものと推測された。当該教育委員会は、こうして情報教員の資格を得た教師たちを、そのまま教室に戻したのだろうか。教室に戻った時点で突然に正常に立ち直ってくれるのであれば問題はないのだが、・・・。かれらの教室の子供たちはどうなるのだろうと暗澹たる思いだった。私の責任ではないものの、ひどい不安を覚えたものである。
思い当たる教育委員会の皆様のその後のフォローアップ情報とご意見をいただきたいと密かに願うものである。
もちろん、私は精神科の医師ではない。私に、彼らを診断する資格はない。ならば、彼らに専門家の診断が必要なのではあるまいか。
少し前、「イジメ教師の状況証拠--心理、教育、社会性の発達(27)」という記事を書いた。ここでは、イジメを幇助した教員自体に反社会性または回避性の(仮性の)人格障害がある危険性を指摘した。(仮性の)反社会性人格障害と(仮性の)回避性人格障害はまるで別の人格障害であるかのような印象があるかもしれないが、両者は社会性の発達不全という共通の性格を持っているのである。前者はイジメを積極に行うが、後者はこれに追随する傾向があるのである。両者ともに正常な社会的生活のコンピテンシーを持っていないのである。学校で生活科の授業が失敗したのは受験戦争のせいだという人が多いが、実は、多くの教師が社会性を持っていないので教える教科内容が理解できなかったというのが正確なところだろうと思われる。実は、今の教師は、とんでもないことに「社会性発達支援」という使命があることを知らなくとも、その資格が得られるのである。教員養成のコースの大半には、「社会性発達」を教える部分が欠落しているのである。教員養成で「社会性発達」を教えている大学もまれにはあるが、ごく少数ですぐれた教員の個人の努力にゆだねられているにすぎない。
教育界は、安定を好み、古き規範を守るところである。時の政権の思惑や目先の利害で教育の基本方針をコロコロと変えられてはたまらない、という考えの方が多いのだろう。それはそれで正しいとも思う。しかし、今、噴出している問題に対する緊急の対策は、教育百年の計に照らしてどうしても必要である。今、噴出している問題は、どう考えてみても、数日前に国の委員会を通過した「教育基本法の改訂」によっては、なんら解決しないのである。解決すべき事柄は別のところにあると思うのである。

ここに、私のひとつの提案がある。
教員資格認定にメンタルテストを必須とするという考えである。「メンタルテスト」というのは意味が広くて漠然とし過ぎているというなば、「精神鑑定と人格検査」ということにしたい。
教師は、社会通念上は、正常にして優れた認知能力を持ち、人格高潔なる者であると考えられている。しかし、必ずしもこの条件に当てはまらない教師は少なくないという事実はとうに広く知られてしまった。
なぜであろうか。ここに重大なヒントがある。
教職資格の認定条件は、「教育職員免許法」に書かれている。ここに「業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者は、免許を与えない。」または「・・・免許を与えないことがある」ということは明記されているのだろうか。実は、なんと、書かれていないのである。
他の資格はどうかと言えば、たとえば、「言語聴覚士」の資格では、「業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者」には「免許を与えないことがある」と明記されている。
この事例を含む以下の情報源は、主として「くちコミ 資格制限情報」のサイトを参考にした。
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言語聴覚士法 第4条第3号
心身の障害により言語聴覚士の業務を適正に行うことができない者として厚生労働省令で定めるものには、免許を与えないことがある。
言語聴覚士法施行規則 第1条
厚生労働省令で定める者は、視覚、聴覚、音声機能若しくは言語機能又は精神の機能の障害により言語聴覚士の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者とする。
を必要とするという考えである。
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同等の資格制限は、次のような職種にも定められている。
上記参考資料によれば、32の業種がこれらの制限を取り入れている。
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・救急救命士
救急救命士法 第4条第3号
救急救命士法施行規則 第1条
(視覚、聴覚、音声機能若しくは言語機能又は精神の機能の障害により救急救命士の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者)
・船員
船員法 第83条第1項
船員法施行規則 第二号表 健康検査合格標準表
(・・・作業を適正に行うに当たつて必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができないと認められる者)
・あん摩マッサージ指圧師 はり師 きゅう師
あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律 第3条第1号
理容師法施行規則 第1条の2
(・・・業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者)
・医師
医師法 第4条第1号
医師法施行規則 第1条
(・・・業務を適正に行うに当たつて必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者)
・歯科医師
歯科医師法 第4条第1号
歯科医師法施行規則 第1条
(・・・業務を適正に行うに当たつて必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者)
・保健師 助産師 看護師 准看護師
保健師助産師看護師法 第9条第3号
保健師助産師看護師法施行規則第1条
(・・・業務を適正に行うに当たつて必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者)
・歯科衛生士
歯科衛生士法 第4条第3号
歯科衛生士法施行規則 第1条
(・・・業務を適正に行うに当たつて必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者)
・水先人
水先法 第6条第3項
水先法施行規則 第15条
水先法施行規則 別表第一
(心臓疾患、眼疾患、精神の機能の障害、言語機能の障害、運動機能の障害その他の著しい疾病又は身体機能の障害)
 ・・・
 ・・・
 ・・・
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いずれも精神の障害による必要な認知、判断及び意思疎通困難な者を資格の対象外とするまたは対象外とする場合があると規定している。
教員の職は、これらの職業に比べて、精神の障害をあえて許容しうる職業だろうか。いずれの職よりもいっそう厳格に制限されるぺき職種ではないかと思われる。
また、人格においても正常高潔であることも当然教員には求められるべきことなので、人格障害もあわせて厳格に制限されるべきである。確かに正常な教師のほうが多い。多数の正常な教師が、精神や人格に障害を持った少数の同僚教師にどれほど苦しめられているか、現実を知る者には胸の締め付けられる状況である。精神や人格に障害を持った者が教育の現場に混入すれば困難は著しく増加する。彼らが混入しなければどれだけ多数の正常な教員にとって幸せなことかわからない。
そのためには法律の改正も必要である。個人的意見としては、この法改訂は教育基本法よりも先に実施してほしいことであった。
いずれにせよ、教員資格の授与および再登録時にメンタルテスト(精神鑑定と人格検査)を厳格に実施すべきである。私立小中高校では、採用試験にメンタルテスト(精神鑑定と人格検査)を実施するのは現行法の今でも可能なので、公立高校と差別化を図り、上質の教育を謳うための経営方針としてこれを採用することも良いことではないかと、密かに思うものである。

こうして、資格の条件に精神鑑定も人格検査も加われば、教員養成教育における社会性育成の欠落という大きな問題も自然と解消に向かうであろう。教育学部はこれらに関連する教科をコースに加えるであろう。また、教育委員会預かりとせざるを得ない「要再教育教員」の多くも そもそも教員にはならないはずなので、ご本人の精神的負担も少なく、児童生徒たちも幸せで、学校や教育委員会の負担にもならないはずである。

さて、大学ではどうか。東大では、昔の私の記憶では入学時に学生全員を対象に心理テストを実施していた。周囲を見渡すと、(ごめんなさい、、、)、今は教員にもメンタルテストが必要とされる環境になりつつあるようである。それは大学によらない現象だと思う。小中高の教師のメンタルテストともに併行して考慮すべきことと考える。

幅の広い議論が必要であると思うので、たくさんのご意見をいただければ幸いです。


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琵琶


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死ぬな、校長先生。教育現場の改革に生きてこそ--心理、教育、社会性の発達(29)

2006/11/13
死ぬな、校長先生。教育現場の改革に生きてこそ--心理、教育、社会性の発達(29)

下記の引用記事によれば12日未明、北九州市の小学校校長が自殺したという。このところ、校長の自殺が連続している。胸が締め付けられる。
今は「反社会性人格障害との戦い」が必要な時代である。校長先生!、今一度踏みとどまって、視点を変えて、多くの人々と手を携えて、生きて「反社会性人格障害との戦い」を助けていただきたい。教育の現場で培った経験と英知を生かしていただきたい。生きてゆくのがつらいときもある。それでも未来を信じて生きてゆこうと、子供たちに教えていたのはほかならぬあなたたちではありませんか。教育現場の改革を進めるには、真面目で人望のあるあなたたちがなんとしても不可欠です。
実は、すでに故人(85歳で天寿を迎えた)となったが私の父も30歳代半ばで小学校の校長となり、定年まで現場の校長として職を全うした。真面目ゆえに逆風に晒されることも多々あったので、そのつど見せた険しい顔は、男の仕事の厳しさと激しさを私たち子供たちに暗黙のうちに伝えていた。教頭から校長にかけての現役時代は、殺伐とした戦後の小学校に子供たちと花壇をつくり、花を植え、種を収穫して風船に子供たちの手紙とともに結んで飛ばしたりもしていた。子供たちに花の命のはかなさと尊さ、植物の生きてゆくたくましさを体感させ、風船手紙の返事とともに届く世界からの友情と心の豊かさを教えようとして奮戦していた。マスコミからは「花の校長」と呼ばれてうれしがっていたりもした。地元の教員らと「エミール会」という勉強会を組織し自宅でよく部下らを集めて教育論研究を進めたりもしていたが、本人が地元で実力者とみなされるようになると人事に絡んで猟官・猟職狙いだけのさもしい教員も混在するようになり、本人が嫌気をもようして後年はほとんど開催されなくなった。「自宅に参加者が入りきれなくなったので」というのが表向きの理由だった。父と私では教育理論の立脚点に異なるものがあったが、父を越えたいという想いが、今日の私の教育に向かう心の原動力になったのかも知れない。
昭和20年~35年ころの食糧難時代、母は、実家(寺)に頭を下げて味噌や米を分けてもらい、わずかな土地を家庭農園にしてサツマイモやとうもろこしを収穫し、子供らの飢えをしのいだ。そのころの私たち子供たちは、他の子供たち同様にいつも腹を減らしていた。一方の父は真面目だけを看板に、私生活も真面目を通した。生活のために特定の裕福な家庭の家庭教師を買って出て金品を得るような変節教師を嫌って、極貧をよしとしてこれを通していた。
なくなった北九州市の小学校校長のテレビの顔は、ことあるごとにみせた現役時代の緊迫した父の顔にダブって見えた。同小学校の女子児童が同級生ら5人から、1年間にわたって金銭を要求され、直近数か月で10万円以上も巻き上げられていたという報道があったのは、先週末(11/11)のことであった。この被害女子は自殺した。この校長も基本的には、真面目で教育に命がけの人物だったに違いない。自殺した少女の被害を「イジメ」として、報告をしなかったのは痛恨の極みだったに違いない。罪は罪であるが、おそらくは、校長には報告できなかった背景事情があったに相違ない。一般に、校長には学校経営の責任がかぶせられているが、経営責任を全うするだけの権限は与えられていない。むしろ教職員の取りまとめ役としての重圧は重く大きい。教員のなかに、「イジメとして報告すると自分たちの汚点になる」と考える風潮は強い。ここに同調してしまった校長の自己嫌悪は大きくいたたまれなかったことは予想に難くない。そして、もっと大きいのは、加害少年・少女の陰湿な凶悪さに対する怯み(ひるみ)が教員たちに蔓延していることである。イジメに手を染める加害少年・少女らの陰湿凶暴さは幾度も報道されたが、「未成年だから」としていまだに見過ごされる傾向にある。彼らの大半は「反社会性人格障害」に当てはまる者たちである。簡単にその行いを改めたりするようなヤワな性格をしていない。注意をされれば、その場はおとなしく演技して「ごめんなさい」と言い逃れができると確信しているのである。このあたりは、実にしたたかである。うつむき加減に「この次はもっとうまくやってやる」とかれらは内心誓うのに違いない。そしてその足で、さらに巧妙なイジメに進むのである。彼らが自殺に追い込んだ被害少年の棺を覗き込んでニヤニヤと笑って見せるほど人の道に外れた性格を持つ者なのである。本気でかれらを善導しようとしたことのある教師は、身の危険とともに彼らの残忍冷酷さに背筋の寒くなる思いを一度は感じてるに違いない。さらに厄介なことに加害少年・少女の中核メンバーの親も同じ人格障害をもっていたり、本物の犯罪傾向人物であったりするのである。うっかり加害少年・少女を善導しようとするものなら、無法こそ正義とばかりに教室に怒鳴り込まれたり教員が闇討ちに遭うことなどもある。教師は身も心も縮んでいるのである。教室は父兄に公開されるべきだという主張は原則的に賛成だが、これらの犯罪者にたいしても対等にオープンにすることには反対である。
「信じてオープンに」は教育の原則だが、一方、教育の現場も市民社会の一部である。暴力や不法行為に対しては、警察の導入や父母や教員による自衛組織の導入も避けられないと思う。一般社会並みの市民防衛は必要である。犯罪者はよく「俺たちも市民、だから権利がある」という言い方をする。「犯罪市民には、おのずと権利制限が必要だ」と言い返すべきである。市民ならば市民としての義務や法に対する服従も要求されるのである。教室の中も特別ではない。逮捕することも制圧するも一般市民社会程度には不可欠という覚悟が必要である。市民的な防衛は正当防衛である。市民的正当防衛を放棄しているところに犯罪傾向の人物や反社会性人格障害の者たちの付け入るスキがある。市民的正当防衛とともに、犯罪実行犯であるイジメグループメンバーを特定して警察へ引渡すなどを積極的に進めるべきであると私は主張する。
万一現に私がそのような立場になったら、躊躇なくイジメグループを特定して警察に届出と抑止の依頼を行う。私は武術家の子孫なので私に向かって直接暴力に出てくるような身の程知らずは少ないだろうが、同時に自衛組織も組織して専守防衛の対抗策を講する。いつの間にか犯罪グループに対してはしなやかにして強力な包囲網が構成されていることになるだろう。
犯罪グループに対してはしなやかにして強力な包囲網が構成できれば、児童生徒のクラス討議などの自治組織の力も安全に発揮されるはすである。安全に関する防壁がないところで、子供たちにオープンに話し合えと言ういまどきの教員が居るが、それは闇で新たな被害者を作る事だけに終わるだろう。抑止力にもならず、悲惨な被害にあう子供たちを増やすだけである。このような教員は犯罪少年・少女の共犯者に過ぎない。闇での犯行や報復を断じて許さない包囲網を作ったうえで、子供たちに討議させることは、教育上子供たちの社会性を高めることにつながり大いに進めるべきことだが、実効ある抑止対策がなければ、かえって恐怖に服従し社会活動を回避する子供たち(回避性人格障害)を生みだすことになるのである。恐怖からの開放(Freedom From Fear)は、人々の結束と攻撃を跳ね返すだけの抑止力(身体確保を含む)を用意しなければ可能ではないのである。
「あの子は、いじめられやすい子」というのは、禁止である。これはイジメターゲットをマークさせ、イジメグループを幇助する行為である。やってはならないことである。逆にクラスの全員の前で「××君は、イジメグループのリーダである。彼のイジメの誘いに乗ってはいけない。イジメを受けたら、先生が代わって成敗するから言ってほしい」ということこそはっきりというべきである。ターゲットを弱いいじめられっ子に置くべきではない。ターゲッティングするべきは陰湿に周囲を威圧しようとするイジメ犯である。これは市民の自衛権である。イジメに対しては、処罰のあることを公然と言うべきである。これは社会のルールである。社会のルールを教えない教師は失格である。
現在、心ある小学校の校長の多くも、神聖であるべき教育の現場を踏みにじる反社会性人格障害者にたいする教育的対策が手詰まりとなり、次の手を打とうとすれば教員組織の根強い抵抗に遭うという悲哀を感じているに違いない。
これまでは、禁じ手のように思われていたかもしれないが、言葉や身体的暴力、ましてや無法行為に対しては警察や自衛組織を持って対抗するという、市民的正当防衛権の行使こそが、今こそ必要である。この道をひらけば、イジメ犯罪は減少に向かうだろうと推測されるが、その道を開く途上ではイジメ実行犯とその一部凶悪な親たちによる闇の反撃もありうるだろう。闇討ち、陰湿な自殺強要などもありうるとの覚悟も必要で、これらに対する周到な事前対策が必要である。
校長よ。自殺するなかれ。命を懸けるならば、教育の現場を守るために命がけで市民的防衛の先頭に立ってほしい。すでに亡くなった校長先生には、心からご冥福を祈りたい。
残された校長の皆さんは、なくなった校長先生の分も生きて、現場の改革に取り組んでほしい。人格・能力ともに認められ人望あってこそ選ばれた校長先生のみなさんは、一部の言い逃れ教員の代弁者にとどまることなく、教育百年の計を思い、蛮勇を奮ってでも教育現場の市民的防衛に取り組んでいただきたい。切に希望し期待いたします。

なお、下記のニュースでは、亡くなった校長の遺書も見つかっておらず、背広も発見されていないようである。他殺または自殺強要の疑いも捨てきれないので、捜査の進展を見守りたい。
他殺または自殺強要とすれば、その背景にはもっと深い闇が続いていることになる。

ヤフーニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061112-00000112-yom-soci
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校長が自殺、児童のたかり行為を正確報告せず…北九州
12日午後3時ごろ、北九州市八幡東区山路松尾町の雑木林で、同市立小学校の男性校長(56)が、ビニール製のひもで首をつって死んでいるのを県警八幡東署員が発見した。同署は自殺とみている。
校長が勤務していた学校では、5年生の女児(10)に対する同級生らのたかり行為をいじめと認識しながら、同市教委に「児童間の金銭トラブル」と報告し、いじめの実態を隠していたことが11日に報道された。校長は同日、記者会見し、「いじめと認識しながら、市教委に正確に報告しなかったのは事実。私の怠慢であり誠に申し訳ない」と話していた。
調べによると、現場近くの路上に校長のワゴン車がとまっており、遺体は北東に約70メートル離れた林の中で見つかった。ワイシャツにジャンパーを羽織り、背広のズボンをはいていた。遺書は見つかっていないという。
(読売新聞) - 11月12日20時52分更新
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「反社会性人格障害」との戦いは始まったばかりだか、すでに始まっているのである。
実は、「回避性人格障害」の者たち(引きこもり、ニートなど)の改善には、「反社会性人格障害」者と大人たちが毅然として戦うことが不可欠である。「反社会性人格障害」者が野放しになっていれば、「回避性人格障害」の者たち(引きこもり、ニートなど)は、怖くて社会に出られないし、自分たちだけが社会性を獲得する苦難の道を歩まねばならない理由が見つけにくいのである。「回避性人格障害」の者たち(引きこもり、ニートなど)も、「反社会性人格障害」者も社会性の欠如という共通の病にあるのである。一方の「回避性人格障害」の者たちは他人の幸せを願う心やさしい子供たちで、問題の「反社会性人格障害」者は他人を踏みにじってこそ幸せと感ずる利己的な人格障害を同時に抱えているのである。
「反社会性人格障害」者とわれわれ大人たちがしっかりと戦うことは、「回避性人格障害」の者たち(引きこもり、ニートなど)の改善にもつながると私は確信している。

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琵琶


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反社会性人格障害を減らす戦い--心理、教育、社会性の発達(28)

2006/11/05
反社会性人格障害を減らす戦い--心理、教育、社会性の発達(28)

(1)現在の教育の問題
社会性の未発達にこそ、現在の教育の問題があると、私が公式に発言し始めて、1年以上が経過している。
今年の春、3大学、6教科、7クラス、8コマの学生らを調査した結果、「仮性の回避性人格障害者」と「仮性の反社会性人格障害」が、それぞれ約50%と約10%に達していた。これは、実感としてはともに10年前の5-6倍に増加しているのである。両者ともに、私の分析では「社会性未発達」によって増加する人格障害で、原因は同根である。

(2)「仮性の回避性人格障害」と「仮性の反社会性人格障害」
私が扱ってきた社会性未発達の幼児、児童、生徒、学生、ニート、フリータ、・・・は、これらのうち主として「仮性の回避性人格障害」であった。確かに数の上では、若者の50%(上位私立大学~中堅私立大学の1年生の平均)がこれに該当するのであるから、一大事である。しかし、「仮性の反社会性人格障害」も10%に達するというのは、大変な事態である。彼らには、「人の道=倫理や社会的規範を尊重する」という気分感情がほとんど通じない。これは理屈ではないのである。明らかに彼らにとっては、「倫理」や「社会的規範」はウソっぽいウザッタイものに見えている。ウソだと思うかもしれないが、本当なのである。

(3)漸増する「仮性の反社会性人格障害」の及ぼす影響
学級崩壊の中核児童・生徒、イジメ事件の実行犯の児童・生徒は明らかに「反社会性人格障害」の特徴を備えている。一方、これらの障害には、先天性のものだけとはいいがたい多量の児童・生徒・学生が該当することから私は彼らにあえて「仮性の」という形容詞を冠することにしている。「真性の反社会性人格障害」がこれほど多いはずはない。「仮性の反社会性人格障害」である。彼らを生み出し方向付けているのは家庭と教育現場であり、原因の解消の責任は大人たちにこそあるだろう。思えば子供たちにとって家庭とは異なる「社会」に一番長く触れる空間は学校である。彼らが活動的な時間の大半をすごす教育現場の責任は重い。社会性の発達不全の責任を家庭に押し付けようとする見解も聞かないわけではないが、学校の責任は免れようもなく重い。
とはいえ、責任論を云々している間にも、彼らは直ちに他人ひいては社会に多大な被害を与える存在である。「仮性の回避性人格障害」と違う、たった今も危険な存在なのだ。
具体的な事例を挙げるのは、ここでは差し控えるが、自殺者を出したイジメ実行犯は警察の取り調べを受けても、学校の聴取を受けてもそれだけではイジメをやめることはない。イジメターゲットを自殺に追い込めば彼らは「勝った、勝った」と内心快哉を叫んでいるのである。死者を悼む心は希薄である。さらには自殺者とは別のイジメターゲットに向かって陰湿なイジメを開始してゆくものである。これらについてのマスコミ報道はむしろ少ないが、最近では新聞紙上では散見されるようである。彼らは、すでに人格に障害を持っており、通常の善意に満ちた大人たちの言葉だけでは矯正しないのである。むしろ、表面的には従順な態度を演技しながら、内心では「くそっ、見返してやる。こんな快感、やめられるか」と内心では反抗心をたぎらせているのである。
また、学級崩壊でも同じことが生じており、中核実行犯は再犯を犯しやすく、小学校での首謀者が中学・高校でも授業妨害の中心メンバーとなる傾向があるのである。大学でも近年は授業妨害が漸増しており、私たち大学教員も日々の講義の中で時に神経を尖らせる事態となっている。大学での授業妨害は、学内の利害関係者の思惑も絡んでいることがあるので、純粋な形が見えにくい。学外勢力との結びつきなどもはっきりと感じられるケースもしばしば目にするので、大人の汚さが目に付くが、実行犯の99%は学生である。私が知る限り、嫉妬した教員が直接他の教員に手を下した授業妨害の例はまだ1件だけである。実行犯は「仮性の反社会性人格障害」を持った学生であることがほとんどだろうと推測されるところである。

(4)立派な「反社会性」理論武装に負けない教師に
「仮性の反社会性人格障害」をなくす戦いにとって大変難しいのは、「反社会性人格」の主張が一見立派な思想信条のように聞こえる点である。法と公序良俗に明らかに反することであっても、一見もっともらしい理屈によって彩られている。10歳くらいまでの間に形成される人格に刷り込まれた「反社会性」は本人にとっては自己確立=人格=判断の基準、そのものになっているので、これを正当化する以外に自己正当化できないのであるから、命がけで正当化を実行するのである。しかも、彼らは、通常の倫理や社会的規範を敵視する性格を備えているので、犯罪行為に直結してしまうのである。たいへん怖い人格障害である。
教師は、「反社会性」理論武装に負けてはならない。彼らは、「反社会性」理論武装で周囲の学生を巻き込み、多勢に無勢の情勢を作り出して教師に対する脅迫の機会をうかがってくるのである。教師はこの動きを察知したら、教室などの公の場で、名指しの非難は避けながら、ゆがんだ理論に対しては堂々と反論するのが大切である。反社会性人格障害を持たない正常な学生たちを彼らに引き渡してはならないのである。むしろ多数の正常な学生たちを味方にして反社会性人格障害者を包み込む努力が必要である。反社会性人格障害者が教師の説得を直接聞くことはめったにない。どんなに誠実な説明をしても、自分たちの反社会性に対抗的であることを察すれば、決して受け入れようとしない。短期間で彼らを説得することはほとんど無理である。しかし、周囲の正常な学生たちを犯罪者の側にとられるのはなんとしても防がなければならない。むしろ、正常な学生たちと教師は手を結ばなければならない。この努力を怠れば、授業崩壊になる。
教師たちによる経験交流などの機会も大切になっていると考える。

(5)善導は命がけとなる
彼らを真剣に善導しようとした教師には、誰にでも心底から恐怖を感じた瞬間があるに違いない。彼らの多くには、"自分の利益のためならば、他人の命や財産を奪っても恥じることがない" という、ケモノのような心理を垣間見たり感じるだろう。危険性が高いので、教師個人が一人では対処しきれないことがほとんどといってよいだろう。イジメ実行犯が自分たちの罪を教師に全部擦り付けるなどの行為は、彼らにとって朝飯前なのである。というよりも、自分たちが生きてゆくうえでの切羽詰った心理と行動が、他人を罪に陥れたり、傷つけたり、奪ったり、殺したりすることなのである。彼らは、そもそも「他人と協調し共存する」という人生戦略は持ち合わせていないのだ。まずは、彼らの危険な行為を公けに柔軟かつ強固に封ずることが必要である。柔軟かつ強固に封ずることなくして、教師たちに、かれらに対処せよ、と声高に叫ぶだけでは問題は解決しない。教師たちに死ぬと命じているようなものである。高中小の教師たちは、恐怖のために、身も心もちぢこまって、対処に手をこまぬいているうちに被害を大きくしたいる危険性が高いのである。警察の導入もやむを得ない選択肢である。明白な危険があれば、制約なしに通報がされるべきである。
彼らを「治療すること」は可能なのだろうか。ここでは、「可能であるが、容易ではない」という見通しだけをここでは述べておく。犯罪の前に予防することが必要である、は大原則である。しかし、その前に犯罪が予見される者の暴発を封じておかなければ、治療も予防もできかねるのである。

(6)「仮性の反社会性人格」を包囲せよ
ことすでに遅く、日本の社会は大量の「仮性の反社会性人格」者を生み出しており、かつてのような緩やかな社会的抱擁の中で抑止が可能であった範囲を越えている。かれらの反社会的行動は物理的に実行に移されており、一刻も猶予なく抑止しなければ、多数の財産・生命にかかわるのである。金品を脅し取られ続けている子供がいる、勉学せずに単位を強奪すべく教員を脅す学生がいる、そして小中学生のイジメ自殺があり、教員の自殺がある、のである。私は今まで、彼らに屈することなく彼らの策謀と暴力をことごとく粉々にしてきた。これは私の体内に宿る武術家の血がそうさせてきたといっても過言ではない。
一方、多くの教師の皆さんにとって、教師がばらばらではこれらの実力行使に勝てないだろう。勝てないからと言って人々やマスコミ非難の矢面に立たされるのはたまらない。小中高大の教員は、連携し、力をあわせて、まずは「仮性の反社会性人格」者を包囲して抑止することに立ち上がるべきである。警察も全力でこれに協力をしていただきたい。少年や少女を自殺に追い込んだ本人らを事情聴取だけで無罪放免にするのはいかにも軽すぎる。自殺強要は殺人罪が適用される事案である。勉学せずに単位を強奪すべく教員を脅す学生は、業務妨害罪である。学校内の事件はなかなか見えにくいが、一般の刑法犯とまったく同一であり、ここに躊躇があってはならない。放置すれば、正常な児童生徒学生まで犯罪者の仲間にしてしまう危険もある。正常な児童生徒学生を犯罪者に育てないという教育的配慮をするのは当然だが、犯罪者になってしまった者をかばい立てすることは教育とはいえない。犯罪者になってしまったものに対しては、潔く法の裁きを受けて罪を償い早く更正して社会復帰するように説くのが教師の役目である。

(7)法の裁きを受けさせる教育を
教育界にも、マスコミにもこれらの現象に対する基本的な考え方をまだ提示する準備ができていないように感じられる。罪を犯した者(脱法少年少女、脱法学生)には、潔く法の裁きを受けて罪を償うよう善導の努力を集めていただきたい。病気に対する初期対応には緊要な対症療法が必要である。その上で抜本的な治療計画が立てられる。子供たちの人格の病の場合も、本質は同じである。まずは緊要な対症療法を加えつつ、抜本的な治療計画に進むのである。緊要な対症療法なくしては抜本的な治療計画に進むことはできない。

(8)正常な子供たちを犯罪者にしない教育を
犯罪者になってしまった者は、法と公権力によって抑止と更正を進めなければならない。しかし、そうなる前の善良な児童の社会性を目覚めさせ、正常な人格をはくぐむ教育こそが必要である。「知性なき丸暗記学習」から「社会性と知性獲得のための教育」へ、と声を大に申し上げたい。
私は長く協調学習の実践をしてきた。主に正統的周辺学習理論や参加型学習理論に基づく試行を繰り返してきた。一定の成果はあったと自負もしている。子供たちの年齢によっては、ごっこ学習、年齢混在学習、グループ学習、演劇学習、個別学習&協調学習など、さまざまな学習方法が試されるべきである。

---関連情報(11月25日、追記)
現行学校教育法では、「児童の性行不良で、他の児童の教育に妨げがある時」は、市町村教委は保護者に対し、その児童の出席停止を命じることができると定めている。具体例として、傷害、心身の苦痛、財産上の損失などを与える場合を挙げている。(11月25日、読売新聞より)


小中高大の教員の皆さん、立場と職域を越えて、交流し力をあわせてこの難題に取り組んで行きたいと思います。

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琵琶


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