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わが街の産業振興、未来型農業と食品加工業--街に活力を(7)

(「鐘の声 ブログ」記事マップ)

2007/03/09
わが街の産業振興、未来型農業と食品加工業--街に活力を(7)

私の住む街は、江戸川(旧利根川)の東に位置し、40-50年前までは、田んぼと畑ばかりの近郊農業地帯だった。農家は、自分たちが消費する以外に、東京、昔は江戸の庶民が口にする野菜や果物を供給した。土地は関東湿地帯の隆起によって拡大を続け、漸増を続けていた。旧利根川河川敷の地味は豊かだった。関東ローム層の丘も長く落葉樹に覆われていたので表層は腐葉土に覆いつくされていた。
九十九里や銚子から江戸に向かう、物資の大動脈、利根川と江戸川の沿線には、米、大豆、麦などを原料とする食品加工業が栄えた。味噌、醤油、酒、せんべいなどの江戸の庶民の口に入る加工品が供給されていた。人と文化は主として水戸街道を通して行き来した。「松戸(まつど)」は水戸街道沿いの宿場町として知られている。松戸に隣接する馬の中継基地「馬橋(まばし)」、その北の宿場町「小金(こがね)」などは有名である。人の流れは水戸街道に勝るものはなかった。しかし、人と物と金と情報の流れは水戸街道だけではない。銚子港に集まる物資は、旧利根川の支流(現利根川)を関宿まで遡上し、東京湾に注ぐ江戸川(旧利根川)を経て江戸に向かった。この水運は、米、大豆、麦などの重量物の大量運送に利用された。これは物資の大動脈であった。江戸川沿いに、いまでいう食品加工業の野田、流山、松戸の各地域がある。
鮮度を要求される九十九里の海産物が江戸に向かう最短距離は木下(きおろし)街道を通るものである。街中に木下街道が水戸街道に合流する道標が今でも残っている。
水戸藩、伊達藩などの北の諸藩は九十九里の浜に米や大豆などの巨大な蔵を数多く築いた。江戸の市況を見てすばやく出荷できる商の立地を求めたのである。この倉庫群からの荷物も銚子を経て利根川と江戸川を回る水運を利用するものと時間を争う木下街道とに分かれた。
これらはすべて江戸に入る直前のわが街松戸に合流していた。
そればかりではない、江戸幕府誕生以前から、古来西からの物資の流れがあり、江戸期の終わりまで続いた。西からは能登・島根などの日本海側の物資、九州・四国・遠くは琉球の物資を積んだ船が大阪堺港を経由して黒潮に沿って北上し、房総の南端安房や江戸湾(現東京湾)の中の浦安のあたりに着岸し、西国の商人らは陸路北の豊かな土地に向かった。往路は浦安から陸続きのわが街を通って水戸街道に入り北上した。帰路は北の珍しい文物を手に水戸街道からわが街を通って南の港に向かった。わが街の豪農たちはこれらの商人ら一行の宿泊場所を提供できることを自慢にしていた。
この地は温暖で実りが豊かだったので、食料や焚き木に事欠くことがないため、心広く誰でも受け入れる土地柄だった。周囲を豊かな自然に囲まれ、農地が広がるわが街松戸は人々と物資と文化が交差する街でもあった。
農業、陸水運、食品加工業は、わが街の隠された背骨である。
第二次大戦後、1950年代後半ころから始まった土地開発によって、土地の半ばは宅地化され、松戸は東京のベットタウンとなった。新しく移り住んだ人々は「新住民」と呼ばれたが、「松戸都民」とも呼ばれるように心は東京、実態は松戸生活となっていた。「新住民」の子供たちは、この地に定着せず、若い間は都内のアパートマンションで生活する者が多く、都内に勤務し、伴侶を得るとより住宅の安い柏、我孫子などの遠隔地、中にはもっと遠い埼玉県や茨城県に庭付きの一戸建てを求めて移動してしまった。わが街には、60歳-70歳の老人ばかりが残った。私のような「旧住民」は、この地を一度も離れることはなかったが、やはり老人なってしまった。
若者に魅力のある産業がなければ、若者がここに帰ってくることはないだろう。
私は、この街の隠された背骨を捜した。それは、農業と陸水運と食品加工業である。
現代の若者にとって農業は魅力がない。かがみこみ労働が多いというだけで、敬遠される。土日もなく働くことが当たり前である。雨の日も、日照りの日も、寒風吹きすさぶ中でも作業は欠かせない。後継者がいないのである。
ここに、未来型の農業(閉鎖型植物工場など)を導入すれば、どうだろうか。作物と対話して育った農家の子弟で大学は工学部に通った人、農業を避けて工場勤務をしてきた人などは多い。農作業には、子供時から作物と対話し、その顔色や訴えを理解できる潜在的能力が必要である。親の代からサラリーマンという人よりも、実家は農家という人のほうが有利だろう。
さて、「未来型農業」というと、それだけで飛びつく農政関係者もいそうだが、ことはそう簡単ではない。作った作物の買主が必要である。農家は「××がいい値で売れる」という言葉に散々だまされてきた。確実に売れる、つまり確実に買ってくれることが保証される作物以外は作りたくないのである。
幸い、わが街には今でも食品加工業者は多い。日本で最大のパンの製造販売業「山崎製パン」、カリーパンの「銀座中村屋」、「宝酒造」、「那須与一漬け」、生産高日本一の白玉粉のメーカ「玉三」、などなどが目白押しである。
未来型農業の振興は、作物の買取先である食品加工業の振興とセットでなければなるまい。誘致も積極的に進めるべきだろう。高度成長期にわざわざ市内数箇所に工業団地をつくり江東区などから誘致した町工場は相当数が廃業または休業状態である。工業団地はゴーストタウン化している。ここに植物工場も食品加工業も立ち上げればよい。建物も新しくする必要はない。少しばかり改造すれば使えるような立派な建物は多い。
わが街の再生は、農業と食品加工業、陸水運の最新科学によるリニューアルによってできる、と思われる。隠された背骨に血を通わせて、背筋をピンとさせれば、わが街は再生する。
現在も海外からの農水産物(銚子港に水揚げされる)は主として水戸街道を通ってわが街松戸を経由して東京に向かう。その途中、いくばくかは、わが町の食品加工業によって加工されて東京の市場に届けられる。昔、水戸・伊達などの諸藩からの農産物がわが町の周囲で加工されて江戸に運び込まれたのと、同じ構造である。
わが街で採れる農産物は、新鮮なまま都内の家庭の食卓に上がるとともに、街の中の食品加工業者に引き渡され、加工後に都内の市場に出てゆくことになるはずである。農家も食品加工業者にもうれしい関係がここには生まれるはずである。食品加工業者に隣接して、製薬会社や生命科学関係の研究所なども誘致できるに違いない。
こう考えると、わが町の再生には大きな希望がある。
こんな考えに同調する方がいたら、ぜひ、ご一報をいただきたい。一緒に考え、一緒によい汗を流しませんか。

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琵琶

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