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人類究極の目的、種の保存と人々の生命の発露--情報社会学、予見と戦略(10)

2007/06/15
人類究極の目的、種の保存と人々の生命の発露--情報社会学、予見と戦略(10)

1.人類究極の目標
近年、「人類究極の目標」「人類究極の目的」という話題が多く登場する。
(1)×××宗××会
一切の人生苦の根源である死の解決こそ一生参学の大事であり、全人類究極の目的なのです。
<--あれれっ、「老病死別」の四苦を取り上げて、そのうちの「死」という構成にしないと、本来の仏教理論としては不十分なのではないでしょうか。どうして「四苦」なしで「死」なのでしょうか。
(2)m***a! ニュース
人類究極の目的の1つ“不老長寿”をテーマにみな様のお役に立つ最新情報、
<--はぁ、ソウですか。個人の不老長寿が人類の究極の目的ね。言ってみれば自己矛盾です。
主として野人間の究極目的ですから、個人の不老長寿ではいくらなんでも足りないのではないでしょうか。言ってみれば「種としての人類のsustainability」のほうが重いのでは・・・。まぁ、これを書いた人はそんな重い議論のつもりではなかったですね。
(3)第120回国会 予算委員会 第8号、国会議員K氏(元参議院議長)の発言
「もちろん平和は人類究極の目的であります。崇高なものであります。」
<--立派な発言ですが、K先生は父の教え子で、息子である私も個人的には親しくさせていただいています。誤解しないように言いますと、もちろん彼は軍備増強論者です。平和は、人の生存可能性を大きくする状況の一つに過ぎませんから、人類究極の目的というには、少し弱いのではないでしょうか。もっとも委員会の論戦中に噴出した言葉の一節ですから、深い意味はありますまい。
 ☆6/13補足 この記事は、6/8の夜に思い立って書き始めた。この部分は、書
  き初めの部分なので、6/9以降は見直していなかった。他の部分を追記して、
  昨朝(6/12朝)アップした。ところが、昨夜(6/12夜)、K氏のご長男H氏の訃
  報に接した。39歳、6/10、くも膜下出血で亡くなったそうである。ちょうど私が
  この記事を書いている間の出来事だったことになる。子に先ただれる悲しみは
  言葉では言い表せないものだろうと思われます。衷心より、お悔やみ申し上
  げます。
(4)LOHAS
<--LOHAS(ロハス、ローハス)とはLifestyles Of Health And Sustainabilityのことで、"個人の健康と人類の永続を実現する生活様式"という意味で、この言葉のルーツはゾロアスター教にあり、数年前にアメリカではやったものです。日本でも、私が千葉県柏の葉の開発で、「ロハスタウン柏の葉」という概念を提示してからはやり始めました。

2.生の生産と再生産
人類究極の目的は、生の生産と再生産にあると繰り返し述べたのはエンゲルスであり、マルクスも幾つかの草稿の中にこれを書き記している。経済の法則の実現にだけ、自分たちの思想を矮小化されることがいたたまれなかったようである。しかし、彼らは、「生の生産と再生産」の意味や理解を詳しく述べたことはない。彼らがこの点を深く追究しなかったのは、彼らの限界であり、歴史的失敗であると私は思う。もう少し生の生産と再生産について深く考究していれば、人類史でいえばごく短期間の現象に過ぎない大量生産時代の到来という当時の狭い時代的範囲にとらわれることなく、その先にある人類悠久の歴史を概観する機会に彼らも十分恵まれたに違いない。私たちは、彼らが鋭く指摘した弊害に満ちた大量生産時代をすでに通り越して、その先の時代を生きているのである。彼らにも今の時代やそのさらに先に続く未来の有様を教えてあげたかったと思うのは私だけではあるまいと思う。
(この項は文献1参照)

3.アレテー(徳)、美のイデア、最高善
ソクラテスは、アレテー(徳)を収めることをヒトの究極の目標と述べた。現代語では、アレテーをもっぱら「徳」と訳すようだが、当時のギリシア語では、アレテーとは「役に立つ・実効ある能力」という意味だったようである。たとえば、「刀のアリテー」とは「よく切れること」という意味だと指摘する言語学者もいる。ソクラテスのアレテー(徳)とは、プラトンなどの弟子たちの解釈を別にすれば、周囲の人々(アテナイの人々)に役立つ能力(個人の)という程度の意味と理解して良いと私は思うのである。ソクラテスは、理論的批判家で他人の理論的矛盾を許さなかったが、その代わり(逆に批判にさらされるかもしれない)自らの新しい概念を定立してみせる人ではなかったので、正確なところはわからない。
プラトンは、ソクラテスの弟子にして、抽象化能力に優れ、ソクラテスが批判するだけで構築することなく亡くなると師のかわりに、いくつもの概念定立を試みるのである。彼は対話という弁証法を哲学の方法として採用し、彼は美のイデア(エイドス)の存在を主張した。人には先見的美の意識があるという考えである。その美意識を信じて実現することがヒトの道であると説く。この考えは後世の人々に大きな影響を残すが、プラトン本人は、人生の後半、イデアという概念を捨てたように見える。たぶん、ヒトは生まれつきの「先見性」だけでは行動規範を構成しないということに気づいたからに違いない。
ソクラテスも、プラトンも個人の生き様の優劣を論じただけで、人類の究極の目標を語っていない。
プラトンの弟子、アリストテレスは対話だけではなく、経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。経験的事象を元に帰納法的ではなく「演繹的」に分析するというところが、きわめて特徴的である。これが中世の「論理学」の基になってゆく。
以下は、主として文献2からの引用である。
アリストテレスの知的活動は、多岐にわたっており、「自然科学」(天文学、気象学、動物学、植物学など)では、原因を「質料因」と「形相因」に分け、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けるなど、現代の自然科学の考え方の古い原型を示している。そのほか「範疇論」「倫理学」「政治学」なども手がけた。
倫理学においては、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である最高善があるとした。人間にとって最高善とは幸福、それも卓越性における活動のもたらす満足のことである。幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた。
アリストテレスは政治学を倫理学の延長線上に考えた。彼は「人間は政治的動物である」と定義する。自足して共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。これらとは異なって人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつといわれる。
アリストテレス自身はひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、時代はすでにアレクサンドロス大王が登場しポリスを超えた世界国家の形成へと向っていた。
アリストテレスは、アテナイの国家内部での倫理と政治に関する心構えと若干の手法を語っただけで、人類の目標についてはまるで考えていないというべきである。
(この項は文献2参照)

4.徳治主義、法治主義
アジアの思想の代表といえば儒家と法家であろう。
儒家の思想は、東周春秋時代、魯の孔子によって体系化されたもので、徳治主義を主張した。
巨大な官僚制度を支える思想で、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。
法家(ほうか)とは、中国の戦国時代の諸子百家の一つ。法治主義を主張した。
秦の始皇帝は、法家思想による統治を実施したが、微罪を重く罰したため国の滅亡を早めたといわれている。
儒家の「徳」も法家の「法」も、統治する者、統治を代行する官僚の心構えと方針を述べているだけで、人類の目標は語っていない。

5.経験論と合理主義
経験論とは、たとえば、ジョン・ロックのタブラ・ラサが言ったとされる「人間は生まれたときは白紙である」とするような考えで、経験論は哲学的唯物論や実証主義に結びついていた。
経験論は我々の理論は世界についての我々の観察に基礎に置くべきだとする近代の科学的方法の核心になっている。実験による調査研究、帰納的推論、演繹的論証などが含まれている。
経験論は特にイギリスで発達したため、大陸哲学と区別されてイギリス経験論と呼ばれることが多い。
アリストテレス、フランシス・ベーコン、ジョン・ロック、ジョージ・バークリ、デイヴィッド・ヒューム、ジョン・スチュアート・ミルなどが挙げられる。
合理主義哲学は大陸合理主義とも呼ばれる。17世紀、フランスのデカルト、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマールブランシュなどがいる。
 イギリス経験論=人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得する
 大陸合理主義=人間は生得的に理性があり、基本的な観念・概念の
 一部、もしくはそれを獲得する能力をもつ & 理性の能力を用いた内
 省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹できる。
イマヌエル・カントは、経験論と合理主義を統合したといわれている。
人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだという従来の哲学の常識に対し、カントは人間は対象そのものを認識することはできず、人間の認識が現象を構成すると考えた。
ヒトは先見性を持って生まれるかといわれれば、現代の科学は、ほんの少しの遺伝的な性向と親から子などの家族からのたくさんの知恵の伝授が先見性のように見えるだけで、後の公的な教育や社会的経験による知識は膨大であると解答する。両者がなくてはヒトの人格と知性は成立しない。先見的な使命(命の継続を優先するなど)もあるだろうし、その後、歴史によって形作られている所属文化から学んだ使命感も多くのヒトは共有しているはずである。
経験論も合理主義もカントも、人類の目標というものに解答はしなかった。

6.近代的知性から現代的知性へ
ルネ・デカルトは、フランス生まれの哲学者・自然哲学者(自然学者)・数学者で、ギリシア語で"コギト・エルゴ・スム"「私は考える、ゆえに私はある」フランス語でJe pense, donc je suisは有名。
幾何学を重視し、社会学や政治学に関心が薄かったといわれている。
また、個人の知性にだけ関心があり、人類の目標には関心がなかった。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、ドイツの哲学者で、フィヒテ、シェリングらとともにドイツ観念論を代表する。作家のゲーテ、音楽家のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、画家のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒが同世代である。
ギリシァ哲学以来の伝統である対話法=弁証法を現代的に取り上げた。しかし、思弁の世界から踏み出してはいない。個人の思考の方法の正しさを追究することに関心が向けられていて、人類の目標にはやはり関心はなかった。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家であり、政治家としても文学者としても優れていた。ドイツの統治については関心があったが、人類の究極の目標には関心が及んでいない。

7.経済界からの発言
私は若いとき理科Ⅰ類の学生だったが、東大でポール・サミュエルソンの経済学を学んだ。まだ邦訳がない時代で、英語のテキストを必死に読んだ覚えがある。学年の途中で邦訳が出版されたので、日本語訳を読んで試験に臨んだら、教室に200名ほどはいたはずの学生のうち十数名ほどしか試験場には来なかった覚えがある。単位を取得したのは私を含めて1ケタ台だった。サミュエルソンの経済学には、人類の未来に対するまなざしが感じられた。経済の世界の人々がこのあたりのことについて、何を言っているのかを目に付く限り引用してみる。

(1)稲盛 和夫 (著) 稲盛和夫の哲学―人は何のために生きるのか (PHP文庫) PHP研究所 (2003)
Amazon.co.jpの紹介
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「人間は何のために生きるのか」。カリスマ的な経営者として知られる稲盛和夫は問いかける。「人間性を磨き、素晴らしい人格を身につけることこそが、人生の本当の目的なのです」。稲盛は、さまざまな試練や苦難、困難なども自分の向上心を試そうとする試練なのだと受け取り、感謝しつつ、人間性を高めていくことが大事なのだと説く。「幸運とか成功に恵まれたときに、どのような心構えで対処するかによって、その後の人生が天国にも地獄にもなるのです。成功して有頂天になり、鼻持ちならない人間に堕している一方、成功が自分だけの力でなしえたことではないことを悟って、さらに努力を重ね、自らの人間性を高めていく人もいる」という言葉には、ハッとするものがある。
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彼も、個人の人生目標をたかるだけで、人類の目標については語っていない。かれは、稲盛に利益を集中するための精神論=稲盛イズムに盲従する使用人をたくさん作ることに関心を持っているが、社会や人類の行く末に本当の関心はなかったように私には感じられる。

(2)北尾 吉孝 (著) 何のために働くのか (単行本) 致知出版社(2007)
出版社/著者からの内容紹介
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人間は得てして楽なほうへと進みたがるが、著者は逆の道を選ぶ。仕事上で何か目標を立てるときは、普通の人よりも圧倒的に高い目標数値を設定する。「あえて艱難辛苦の道を行く」それが著者の考え方だ。
 この強い精神力の源は何か。それは、幼少より親しんできた中国古典だという。『論語』から学んだ「信(信頼)・義(正義)・仁(思いやり)」という三つの言葉は、物事の判断基準として、いまでは著者の生き方の根本になってい
る。人は「何のために働くのか」。冒頭に著者は次のような言葉を記している。「私が『働く』ことに求めてきたのは、そこに生きがいを見つけることでした」--。仕事をしている人、これから仕事をするようになる人すべてに送る、出色の仕事論。
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儒家思想の焼き直しで、主人に奉仕するサラリーマンのための精神論に過ぎない。この北尾思想にどっぷりつかった人は、北尾が自在にコマとして存分に利用することが出来るはずである。「(社会の)最大多数の最大幸福」などは彼の眼中にはないように見える。せいぜい、株主の最大利益しか眼中にないだろう。逆に人類の目標などには関心がないだろう。

(3)ジェレミ・ベンサムは功利主義者である。功利主義=正しい行為や政策は最大多数の最大幸福をもたらすものと考えた。
ジョン・ステュアート・ミルはベンサムの弟子であるが、「ベンサム主義」は、国家の政策目標の自由主義的概念の主要な要素になった。
」、P. J. ケリーがさらにこれを強力に理論化し普及させた。

(4)ジョン・メイナード・ケインズは、有効需要が市場メカニズムに任せた場合には不足することがあるが、減税・公共投資などの政策により投資を増大させて、回復することが可能であることを示した。

(5)ポール・サミュエルソン(Paul A. Samuelson, 1915年5月15日 - )
古典派経済学にジョン・メイナード・ケインズのマクロ経済学的分析を組み合わせたとして評価されている。マクロ経済学とミクロ経済学の統合という言い方もされていた。当時の東大の教師(後に日本未来学界会長となる)はマルクス経済学とミクロ経済学を統合するものだと、嬉々として語っていた。
ポール・サミュエルソンの経済学は、社会の効用を最大化することを目標とする経済学であると謳われていた。事実、理論は限りなく、その目的のために発展させられていた。しかし、2度の石油ショックで生じた「スタグフレーション」(*)に対応できなかったことで、人々は彼を負け組みと認定してしまったようである。今では、「スタグフレーション」に対する一定の対応策も存在しており、日本の金融政策も完全とはいえないが一応成功しているかのように見える。サミュエルソンの経済学を正しく発展しうる後継者の登場が望ましい。
現代の経済(学)の世界では、サミュエルソンが、人類の目標にもっとも近づいた人物だったが、「社会の効用の最大化」以上ではなかった。
 * スタグフレーション 1973~74年の第1次オイルショック、1979年の第2次オイルショックにみられた経済現象で、インフレやデフレとは違って、(原材料高などを原因とする)生産の萎縮が「物価上昇」と「雇用と賃金の低下」を同時に引き起こす不況現象である。

8.文明の盛衰と世界宗教
宗教はもともと、ヒトがムレをなして行動する際に、より良い生存のための知恵の累積であったに違いない。生存のための知恵は、親から子へ子から孫へと伝えられ、伝えられる知恵の源泉である祖先への憧憬と尊敬の念がまといついていったに違いない。死者を悼む気持ちはネアンデルタール人の遺跡からもうかがえるので、祖先を敬う気持ちは人類にムラをもたらせた新人(ホモサピエンス)よりも前からあったに違いない。
ムレが共有する知恵の集積は、やがてムラの共有となり、やがて部族や民族の共有資産になっていったと考えられる。
民族の枠を超える国際宗教は、拝火教(ゾロアスター教)が初めである。
農耕は1万5千年~1万年ほど前に始まり、最初は播種と収穫だけが人の手で行われ、耕作作業や肥料や水の管理、雑草の除去などは意図的にはされなかったに違いない。紀元前9000年ころ運河を作り灌漑する技術を持ったシュメール人たちが、メソポタミアの地に文明を起こすと大規模な農耕が行われた。チグリス・ユーフラテスの下流域が開拓しつくされると次第に上流が開拓された。農耕は高い生産性を約束するが、労働力も多く必要とした。労働力としての人口が増加すればその人口に見合う食料を生み出すより広大な土地を必要とした。耕作地の拡張は人々の悲願であった。紀元前7000年~6000年前になると焼畑の技術が知られるようになる。焼畑はチグリス・ユーフラテスの氾濫域の周辺も耕作地に変えることに成功した。農耕の生産性は狩猟採集に比べると一気に50~1000倍にも向上するのである。ユーラシア大陸を200-300年でその焼畑技術は伝播し尽くしたと言われている。このとき、この火は意図的に起こされるが延焼を防いで適度に鎮火させなけれはならない。恐ろしい火勢に用意周到に立ち向かう当時の人の知恵と勇気は感動するものがある。この火の取り扱いに関する知恵は拝火教の原型をつくり上げ、異民族の文化と宗教を次々に飲み込み、人々をしてインターナショナル化に進めさせたに違いない。拝火教は古代イランの時代に王族たちの支持を得ていて、その下で教義を発展させ、紀元前1000年ころにザラスシュトラが整理統合したと考えられる。
初めて成立した世界宗教は、異民族に寛容であり、これに従わない個別民族の宗教に対しても寛容であった。ユダヤ教、キリスト教、バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教、マニ教など今日インターナショナルな装いをした宗教は全てこのゾロアスターの庇護または影響下で生まれて普及したといってよいのではないだろうか。
さて、拝火教では、焼畑による生産性の急激な伸張を背景に、ヒトの生産(性愛、交接、出産、子育て)は神聖で尊いものとされた。一方、焼畑農耕が一巡すると、余計な人口増は社会不安の原因となるので、むしろタブーとされ、宗教においては、表向き禁止(少なくとも聖職者においては)されることになった。性愛、交接、出産は秘め事になり、子育てさえ私的行為として社会からは切り離されて行われる時代もあった。
今も、我々は、ヒトの生産をおおやけの場ではタブー視する文化の中に暮らしている。
ヒトの生産は、ヒトが置かれている環境によって、神聖視されたり、タブーとされたりするのである。宗教でさえ、時代によって、これを持ち上げたり忌避したりするのである。後の世の政治においても同じで(戦時下では)「生めよ殖やせよ」であるが、(平時では)「優性保護政策」や「人口抑制策」もある。中国では貧困時代の「一人っ子政策」から高度成長期にはいったことを背景とする「一人っ子政策反対暴動」も起こっている。

9.ヒトの遺伝子と文化の多様性と人類の究極の目標
ヒトの先見性といわれるものは、遺伝子と家族の文化を通して親から子に伝えられる人格や知識である。ヒトは先見性によってはわずかなことしか出来ないし、万人共通でもない。長じて教育や社会生活の中ではぐくまれる人格や知識は大きい。
極論すれば、ギリシャの哲学者たちが考えた人に普遍の目的というものは、人類の究極の目的とは別ものである、と言ってよいと考えられる。ヒトは社会を構成することによって生き残ることが出来、高度な文化を発達させた。それでは、社会を構成することが人類の普遍的究極の目標かといえば、それは違うだろう。人類の普遍的究極の目標のための主な手段、主たる便法にすぎないに違いない。
実は「社会の最大多数の最大幸福」(ジェレミ・ベンサム)を願うヒトは確かに多いが、他人の生命や財産を奪って自己の生存を永続せしめようとする反社会性人格障害者もいる。
反社会性人格障害者の中にも、先天的反社会性人格障害者と後天的な反社会性人格障害者があるが、先天的反社会性人格障害者といわれるものの中にも、遺伝的なサイコパス(他人の生命や財産を奪って自己の生存を図ろうとするヒト)と、家族の気風としての反社会性人格障害者がいる。彼らは少数派なので、「人格障害」と分類されるが、現生人類という狭められた種がもつ数少ない多様性の一つであり、文明の崩壊時などでは、他の普通の人々を獲物のように狩り取りつつ、ヒトの遺伝子を一気に消失させることなく、かろうじて子孫に残す役割を果たしているものと思われる。崩壊した文明のあとには、反社会性人格障害者の比率が高くなるのが道理だろう。
文明は広大な大地から地味を奪いヒトを住みにくくするとともに、崩壊後には反社会性人格障害者がその勢力を伸ばすので、社会性を持つ人々は殺されたり、いじめられたりして、その地を去らざるを得なくなるのである。日本は文明とは呼べないし一つの文化社会に過ぎないが、いま、同様にして、日本という一つの文化社会が崩壊し、イジメが横行し、理由を説明しにくい殺人も増加しているのである。
一方、反社会性人格障害者は彼らだけでは社会が構成できないので、社会性の高い人々に寄生してしゃぶりつくして生きてゆくしかないのである。
ヒトの種が持つ遺伝子と文化の多様性を否定することは出来ない。「社会性の追求」は人類大多数の手段であって、少数の裏の手段として「反社会性の追求」も人類にはセットされている。これらのいずれもが人類普遍の究極の目的というのは当たらないのである。

10.来るべき生殖政策の必然
「"環境にやさしく"は結局人類が死に絶えれば済むこと」と皮肉交じりにいう人は少なくない。この人たちは、人類の生存と環境保全のどちらが大切なのかという皮相な対比をしているのである。また、人類の滅亡の危機を煽り立てて宗教的結束やカルト的結束を計ろうとする人は多い。人類の生存に対する相対的危機や激しいプロパガンダに心が揺れない人は少ない。つまり、人類の滅亡を歓迎したり、人類の滅亡を目的に活動する人はめったにいないということである。いるとすれば、人類全てを敵にするので、たちまちつかまるか殺害されることになるだろう。
人類という種が永続することを願わない人はほとんどいないということである。そのために、人口増加促進策(子育て支援など)や人口抑制策(一人っ子政策など)が、時と場合に応じて出たり、引っ込められたりしているのである。経済政策に金融緩和があれば金融引き締めもあるように、人口政策に増加促進と抑制があって当然なのである。
反社会性人格障害も根絶することは出来ないし、根絶してしまうのは進化の理に反するだろうと思われる。人には生まれてきたからには、いかなる障害を持っていようとも、他人に危害を加えぬ限りは最低限の快適さは保証され生きてもらうのが当然だろう。
一方、単純に放置されれば、社会に寄生して生きてゆくほうが楽なので、反社会性人格障害者の数が増加し、ある瞬間に、ソドムの町のように、カタストロフィックに社会が立ち直れない崩壊に向かうのだろうとおもわれる。
すなわち、反社会性人格障害者が一定以上に増えてしまえば、どこでも(日本でも)社会崩壊が起こる。大規模に起これば、立ち直れない文明崩壊地(メソポタミア、ギリシア、ローマなど)のようになってしまうだろう。スリとカッパライと詐欺師と人殺しばかりが眼につくところになってしまう。そうなると、歴史は、その地の文明は2度と栄えることはないことを教えている。
反社会性人格障害者の比率をある限度内に押さえ込むことは必要なことなのだが、これが大変に難しい。教育の役割も大きいだろうが、家族性(非遺伝性)に対抗するには教育の現場はあまりにもひ弱である。遺伝性の反社会性人格障害に至っては、明白な犯罪として裁判を経ない限り殺すこと(死刑)も生殖を抑制することも倫理的に困難で、かつ現行の法体系上出来ないことになっている。
反社会性人格障害者にも(法に触れない限り)生命の発露の権利があるからである。
一方、世の中の趨勢を見ると生殖医療はきわめて高度化しており、生物学上産まれれるはずの人も産まれる時代になっている。生物的には産まれないほうが幸せと思われる子供たちも生まれてくる。
この事態が、このまま継続すると人類は生存の危うい種にたちまち転落するだろう。人類の存続はそれ自体が風前のともし火になっているといって良いのかもしれない。
この危機に瀕して、手っ取り早く子供や精子・卵子を金銭で購入するという人が現れてきても不思議はない。それでは、子供や精子・卵子が売買されるようになるとすれば、どのようなことが起こるだろうか。いや、すでにそのような時代になっているのである。ただし、今は、子供の親、精子・卵子の親の遺伝情報を見て選択的に購入されることがないという建前上の制約がある。むしろ、今後は、遺伝的欠陥のある子供や精子・卵子は売買してはならないというPL法(製造者責任法)が制定される必要性が出てくるだろう。子供の売買(有償の養子縁組)も闇で横行しているので、犯罪や予期せぬ悲劇が伴うのである。合法化して、法の下で規制し、PL法が適用されるようになれば、粗悪な遺伝子の拡大再生産は抑制されることになるだろう。これは、楽観論にすぎるだろうか。反社会性の親は反社会性の子供を好む傾向を持ち、社会の分化が種の分化に進む危険性も秘めている(「反社会性人格障害、その家族性を考える--心理、教育、社会性の発達(33)」)。社会を構成しようとする者と社会を構成する努力を免れて社会に寄生しようとする者は、クロマニヨン人とネアンデルタール人がヨーロッパで覇権を争ったように、日本社会とカルト教団オーム真理教が鋭く対立したように、社会構成型人種(人系)と社会寄生型人種(人系)としていずれ地球の全域で覇権を争うこともあるのかも知れない(「反社会性人格障害を減らす戦い--心理、教育、社会性の発達(28)」)。
命を掛けた覇権抗争によって、人の種の生存能力を弱める遺伝子の広がる危険性が人類史的妥当性の範囲で抑制される可能性も生じてくるのではないだろうか。もっとも、犬や猫の売買のようにかわいいしぐさの子供だけが売買されるなどということはないようにしなければならないのはいうまでもない。
(この項は文献3参照)

11.それでも、人類の究極の目的
それでは、そもそも人類の究極の目的などはないのだろうか。私は、それでも、人類の究極の目的は存在すると大胆に宣言したい。私は、「種の保存と人々の生命の発露こそ、人類究極の目的」という仮説を今は採用したい。
そのためには、大多数の人々の社会性が大切であり、生まれてしまった少数の反社会性人格障害者をも社会の中に組み入れて生きてゆけるようにしなければならない。そのためには、われわれ反社会性人格障害者にあらざる者は結束してことに当たらなければならない。今後は反社会性人格障害者がこれ以上増加しないように願いながら・・・。反社会性人格障害との戦いは始まったばかりである
コンピュータ・ネットワークと情報処理技術は、一人一人が世界中から情報を容易に集められ、加工でき、世界に向かって発信できるようにした。これを使って、地球人類に必要な政策を大多数の地上の人が理解でき、地球政府というものが出来るならば、瞬時にその意思を決定して、実行に移せるようになるだろう。また、そのための混乱と軋轢があっても、極力血の代償を少なくして、実行に移してゆかなければならないだろう。その日は、そう遠くはないと私は思うのである。高々30年ほど先のことに過ぎないだろう。
地球社会の人々は文化と人種の多様性を互いに楽しみながら、人類の世界を総力を結集して守り育てる時代がまもなくやってくるのではないだろうか。
そのとき、初めて人々は世界的規模で、「人類の究極の目的とは何か」を改めて思うのではあるまいか。
(この項文献4参照)

参考文献:
1.エンゲルス、「自然の弁証法」、「家族、私有財産、及び国家の起源」など。
2.愛知哲ニ、ギリシャ哲学への招待状、http://philos.fc2web.com/index.html(2007.06.11)
3.浅井美智子・柘植あづみ編、浅井美智子・柘植あづみ・土屋貴志・永田えり子・中山まき子著、「つくられる生殖神話:生殖技術・家族・生命」
4.琵琶、「直近未来30年の人類史激動の予測図--情報社会学、予見と戦略(7)」

△次の記事: 情報社会学、予見と戦略(11)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2007/06/ibm11_f74c.html
▽前の記事: 情報社会学、予見と戦略(9)
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琵琶

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