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伏見康治氏の思い出--交友の記録(31)

2008/05/31
伏見康治氏の思い出--交友の記録(31)

日本の物理学の巨星がまたひとつ、この世を去った。5月8日午後8時17分、伏見康治大阪大学名誉教授98歳である。私にとっては、曲折激しい人生に大きな位置を占める重大な存在である。
とはいえ、氏には長男譲氏(埼玉大学名誉教授)をはじめとして二男二女がいる。たくさんの弟子がいて、政財界にも大きく交友の輪は広がっている。書籍を通じたファンも多数にのぼる。氏から見れば私などは序列にすると万余の人波の後ろにいるその他大勢の一人にすぎないに違いない。

アサヒコムおくやみ記事
http://www.asahi.com/obituaries/update/0509/TKY200805090215.html
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阪大名誉教授の伏見康治さん死去 原子力の平和利用推進
2008年05月09日18時54分
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元日本学術会議会長で大阪大名誉教授の原子核物理学者、伏見康治(ふしみ・こうじ)さんが、8日午後8時17分、老衰のため横浜市内の病院で死去した。98歳だった。通夜は12日午後6時、葬儀は13日午前11時30分から横浜市港北区菊名2の1の5の妙蓮寺斎場で。喪主は長女康子さん。

伏見康治氏
1909年名古屋市生まれ。33年東京大理学部卒。40年大阪大教授、61年名古屋大プラズマ研究所長に就任する。
原子核物理の専門家として、原子力の平和利用を推進した。54年、中曽根康弘衆院議員(当時)らが、急きょ原子炉製造のための修正予算案を提出したのに対し、一晩で原子力憲章草案を書き上げる。案を受けた日本学術会議は、民主、自主、公開の原子力三原則をまとめ、55年の原子力基本法に盛り込まれた。
83年から参院議員(公明)を1期務め、故湯川秀樹氏らが結成した「世界平和アピール七人委員会」の委員として、核兵器廃絶と原子力の平和利用を訴える活動に携わった。折り紙が趣味で、著書に「折り紙の幾何学」がある。
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私がまだ25-6歳のある日、私よりもさらに若い駆け出しのデザイナ尾崎尚文氏(後に日本明治美術史研究会の事務局長。月刊誌「中央公論」での執筆多数。「今病院だけど、必ず復活するから、待っていてくれ」と唐突に電話をくれて以来音信不通である)を連れてお宅を伺った事がある。それより前にも何度か伏見邸にお邪魔したことがあり、初めての訪問というわけではない。
尾崎氏はいわばサルバドール・ダリのような画家で、どんな絵でも描くことができるという職人のような絵描きだった。ずいぶんうらやましいと思ったが、本人には、そのこと自体が恨めしい事だったようで、絵がかけてそれが人生の目標なのか? という青年期にありがちな種類の哲学的悩みを抱えていた。命じられればどんな絵でも描けてしまうのに、少しも楽しくないのだと悲嘆に暮れていた。その活路をエッシャーらのだまし絵に見出した時期があり、錯覚を通じて新しい世界を見る者に提供したいと彼は考えていた。尾崎氏は法隆寺の5重の塔を修理再建した材木商にして宮大工を父に持ち、子供のころから法隆寺の宝物殿を遊び場にして育ったため、日本の多くの古文書の大家が彼に古い書きつけの判読を頼んでくるような不思議な若者でもあった。彼は、どうしても物理学の大家である伏見康治氏がエッシャーに熱心なのかを知りたがっていた。当時、伏見康治氏はエッシャーの本を出版していたりしたのである。尾崎氏は伏見康治氏がエッシャーの向こうに何を見ているのかを知りたがっていた。それがわかれば、伏見氏が見ている向こう側の世界を自分の筆で描いて見せようという若い絵描きらしい野望も抱いているようだった。
事情を話すと伏見康治氏はあっさりと来訪をお許しくださり日時を指定されたので、その日、尾崎氏を連れて訪問すると、伏見康治氏は尾崎氏をすっかり面白がって質問攻めにしたり、自分の仕事をボランティアで手伝えと誘ったりしていた。尾崎氏は、伏見康治氏が"ちぎり絵"をよくしているとの説明を聞き、奥様との共同作品を見せられてその素晴らしい出来栄えに仰天したりしていた。しばらく話しこむと、伏見康治氏はいきなり紙でできた正二十面体を取り出すと、これは折り紙なのだが、君はこんなものを折ることがてきるかと言い始めた。尾崎氏が挑戦しかけたが苦戦してると、そのそばで伏見康治氏が着々と紙を折りたたんでゆく。最後に折りヅルの腹を膨らませる要領で、伏見氏がプッと吹くと、小さくたたまれた紙の固まりが、ポンと膨らんで正20面体になった。尾崎氏は眼をまん丸にしてびっくりしていた。折り紙も奥様との共同の世界ということで、買い物から帰ってきた奥様も途中から座に参加した。伏見康治氏は、奥さまにこの絵描きさんにちぎり絵を褒められたところだという紹介をしたので、奥さまはご機嫌で、まぁうれしいわね、夕飯を食べてゆきないということになって1時間で退席する予定が、7-8時間、よるの9時位までおじゃますることになってしまった。おいしいワインが記憶に残っている。

その後、伏見康治氏が学術会議の議長を務めている時代に、原子力船むつの事故調査委員会の委員長を務められ、報告書が公表される直後に原子力船むつの事故についての「談話」が、当時私が勤務先で担当していた科学雑誌の2ページ分で掲載された。当時は原子力安全神話の真っただ中の時代で、安全だから事故はないとだれしも言い張る時代だった。伏見氏は、原子力の安全を守るためには事故もありうることをむしろ認めて対策に注力すべきである(国は事故防止に予算をもっと使うべきである)という立場だった。私も同感だったので、この談話記事も、私から議長室にかけた1本の電話でほぼすぐに決定した。
談話の趣旨は、「原子力船むつの事故については、原子炉にも、船体にも設計に照らして問題はなかった。しかし、それらの"つなぎ"の部分に不具合があった」という趣旨だった。つまり、船長の運用ミスではなく原子力船の建造にかかわる技術的な問題であることを明言したのだった。この談話は、雑誌の発売翌日には国会の質問で取り上げられ、政争とビジネス戦争の焦点になってしまうのだが、強者伏見康治氏は、これに耐え、初めて安全性研究の国家予算を引き出すことに成功し、続いては国会議員(参議院議員、1期)にもなった。原子力の安全神話から、安全性は人が努力して確保するものという考えに時代の舵を切った表の功績はまぎれもなく伏見康治氏のものである。
一方のよるべなき弱者の私は、3年半の抵抗空しく職を失い、再就職先も得られない極貧生活を強いられることになった。居場所もなかったので、大学の先輩らを頼って情報科学の國井利泰東大教授(当時)にかくまわれたことはすでに書いた。幼い我が子を抱えて、今晩、そして明日の食事のあてもないという日々がかなり続いた。日銭を稼ぐ低賃金のアルバイトにも追われた。政争の陰に見え隠れするわたくしを邪魔に思う者もいたのだろう、わざわざ自殺をしてはどうかと勧めにきた者も一人ならずいた。おかげて、「この私に自殺を望むものがいるのか。何くそ、こんなところで死んでたまるか」という反骨心がモリモリと湧いてきて、今まで死なずに済むことになったようにも思う。いろいろなことがあった一方で、その時に國井教授の下で改めて勉強させていただいた情報科学がその後の私の身を支えてくれたのだった。まさに、禍福糾う縄のごとしである。
私が前職を去るにあたり私と同僚だったご子息(次男さん)の進路を事前にご相談に参上したのがたぶんお宅にうかがった最後だったと思う。
以来、伏見康治氏からは、私設秘書を探しているが良い人があったら教えてくれとか、イギリスの若い物理科学者の論文に素晴らしいものが出たから読んでみよ、とか、思い出したようにご連絡をいただいた。ありがたかったが、強者と弱者にある天地ほどの現実の差に、もとより当たり前なのに、私の心は少しばかり萎えていた。おん前に出ることが憚られていた。
おそらく直にうかがえば、たくさんの苦難をかく乗り越えてきたという教訓に満ちたお話の数々を伺えたであろうに、私の狭隘な気持ちがそれを拒んでしまった。くやんでも、もう会うことができないということはまことにさびしい。
偉大な功績の数々、芸術に及ぶその才能を思い起こして、本当に残念に思う。深くご冥福をお祈りすると共に、残されたご子息ご姉妹のますますのご発展とご繁栄をお祈り申し上げたい。

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琵琶


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企業はどうなる、市民参加型社会の近未来--情報社会学、予見と戦略(20)

2008/05/28
企業はどうなる、市民参加型社会の近未来--情報社会学、予見と戦略(20)

わたくしの古い友人がいる。あえて「友人」といわせていただくが、出版界で活躍した大先輩である。私のブログの記事をじっくりと読んでくれているらしい。
このシリーズ「情報社会学、予見と戦略シリーズ」とは、別の「社長の条件シリーズ」を読んでのことだが、意見を述べてくれた。
以下は、そのときの対話の再現である。

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<Aさん>
「企業理念と8原則--社長の条件(2)」の中に、次のような記述がありますね。
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7.個人資産が多い者であること
実際のところ、日本の企業は適度の借入金によって日常的な運転資金を得ている。中小零細企業に運転資金を貸す金融機関は、ことごとく、社長の連帯保証を要求する。当該企業のもつ社会的価値や将来性にかけて運転資金を貸す金融機関は皆無である。「社長の連帯保証」を求めるということは、社長の個人資産を担保にするということと同義である。24年間の会社経営で、私は結果として親から受け継いだ個人資産のほとんどを金融機関に貢いだことになるが、すくなくとも私が会社の借入の連帯保証ができたから、この会社が存続しているともいえるのである。
なぜ、そのようなことになるのかについては諸説があるが、税制上、運転資金として自前資金を蓄えると高い税金を払うことになるので、もともと利益率の高くない中小零細な企業はたちまち運転資金を税金として吸い上げられてしまうという現実があるのである。金融機関からの借入金については数%から10数%の利息の支払いが必要だが、数十%から60%に上る税金に比べればある意味ではマシという「毒マンジュウ」にも似た社会的経営慣行があるのである。これを避けるには、無借金経営、すなわち、「税金の高額納税企業」になることである。事実上、これは大変に難しいのである。
後継者の人は、連帯保証はしても資産を失うようなヘマはやらないだろう。私が経営した過去には、信じた顧客が倒産したり、経営難となって支払いが不能となったケースがあり、その都度、社員の給与や外注さんへの支払いのために個人資産を提供してきた。「井戸塀政治家」という言葉があるが、私は「井戸塀経営者」だった。その意味で、その結末は経営者としてはあるまじき不覚だった。もって他山の石として、後継社長は「豊な社長」となってほしいものではある。いずれにしても、個人資産がなければ運転資金を確保できないという現実がある。
該当者が多ければ、より多くの個人資産を持つ者が後継者に選ばれる公算が高くなる。
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つまり、社長になるためには、個人資産をたくさん持っていることも条件だといっているのですよね。お説はわからないはないですが、わたくしが勤めていたかつての出版社では、同じ理由を持ち出して、社長一族だけがたくさんの分配に預かる仕組みになっていました。わたくしは、ずいぶんと腹をたてて、何度も喧嘩をしたものです。
他方、あなたの周りの人たちに話を聞くと、あなたは社長なのに、そんなに会社からお金をもらっていないように聞いていますが、同じ理屈で会社からたくさんお金を取るという考えはないのですか。
<私>
多くを取ることに私は同意しません。しかし、「多くを提供しない者は社長になれない」という考えです。多くを提供しなければならないということは、多くを持っていなければなりません。これは確かに不公平です。しかし、現実は、それを求めているというのも事実です。もともと資産は多くないのに、個人の財産にレンメンとせず、いさぎよかっただけで社長になった私は、引退を迎えるにあたってすっかり貧乏になっていました。

<Aさん>
どのくらい、大変だったんですか。
<私>
私は、昔から、社員やアルバイトからよく「世界でいちばん貧乏な社長」とはやし立てられ言われていました。30年近い会社経営で事実上無給の時代が最も長いと思います。今は学生アルバイト程度の月額をいただいていますが、大学からいただく細々とした講師料のほうがはるかに多く、生活の主たる頼りです。講師料がいただけるようになってご関係者の皆さんには本当に感謝しています。明日食べるものがないという生活(実話です。顧客に呼ばれても電車賃がなかったこともしばしばでした)でも体面を整えなければならない時期が長くありました。あまり悲惨な実態をばらすと後継ぎが逃げ出しますので口をつぐんでいます。
次の世代の社長も必ず同じ憂き目に遭うのであれば、引き受け手はいないでしょう。むしろ、たとえ一時であってもこの会社の社長をやってよかったと思える程度の報酬もなければならないと思います。

<Aさん>
ほかの役員さんもいたでしょうから、何もあなただけが負担を負わなくてもよかったのではないですか。
<私>
いつも苦しい経営をつづけてきましたので、中でも一層困難な時期にさしかかると、リスクを負うことを嫌って多くの役員は逃げ出してゆきました。かれらは役員としての名誉と報酬の高いことを願い、当然でしょうがリスクは嫌がりました。それでは安定した経営は成り立ちません。大変なときこそがんばってほしいのが取締役ですが、なかなか理想どおりには行きません。普段からの気持ちの持ちようということもあります。一方、いざというときに逃げ出さないという程度の報酬とはどんなものかも考えさせられました。

<Aさん>
報酬については、どのあたりが妥当な線かを求めるべきなのでしょうね。
<私>
おっしゃる通り「どのあたりが妥当な線かを求めるべき」なのでしょう。

<Aさん>
あなたのブログの記事「社長の条件」シリーズを読むと、一般論としての企業のあり方とは違うようにも思います。利益確保が最優先課題とは見えないところもありますが。
<私>
日本の多くの中小企業の社長さんたちは、私と同じ思いではないでしょうか。社会に歓迎される企業になるべく、命をけずっいるというべきだろうと思います。このあたりは、社長さんたちの思いと社員などの人たちとの考え方がすれ違っているかもしれません。社長たちの"この傾向"は、アメリカンスタンダードには反しますが、おそらく世界的に見てもかなりの普遍性があるものと思います。日本だけが特殊というわけではないように思います。
「社会貢献」というと、詐欺まがいで大儲けしている企業の社員が本社前でほうきを持っている写真を思い浮かべてしまいますが、社業の悪どさを隠すための"いい子仮面"では意味がありませんね。社業、つまり本業が社会貢献になっていなければ会社の存在意義がありません。社会に貢献しない企業を社会が支えたり支援したりすることはあり得ないことです。貢献なくして支援なし、支援を受けられない企業は市場の競争に敗れてやがて市場から退場を余儀なくされます。銭ゲバ大金持ちならば政治献金バラマキで身を守ってもらうこともできるかもしれませんが、財政基盤脆弱な小零細企業にとっては到底かなわぬことです。社会に貢献して社会からの応援とご支援を期待する以外にないわけです。会社と社員を守るためには、"本業での社会貢献"が最優先とならざるを得ません。社会貢献なくして企業の存続なしなのです。

<Aさん>
日本以外のところで、似たようなものはありますか。
<私>
社会的企業(Social Enterprise, Social Entrepreneurship)と言って、社会的課題の解決を目的として収益事業に取り組む事業体がイギリスをはじめとしてヨーロッパには広く存在します。
日本でも、「振り向いてみれば、多くの零細な企業は社会的企業だった」というように、このところこの言葉が少々もてはやされています。社会的企業でない企業は日本の市場から退場しろ、と過激な発言をする財界人もいらっしゃいますね。
しかし、日本の零細企業は家族や身近な仕事仲間の互助互恵を目指しても作られたものが多いのに対して、ヨーロッパでは、広域な相互扶助を目指す運動体が古くから錯綜して存在していますので、これらを母体に、社会的サービス(行政サービスと競合するような分野のサービス)を主たる事業目的とした事業体が多く成立しています。単なるボランティア団体や慈善団体と違うのは、喜捨や国庫補助を当てにせずに、当該事業によってその事業体の採算を確保することが条件となっていることです。
利益最大化を最優先課題とせず、社会的貢献を最優先課題とすることによって、利用者の支持を確保し、事業体の安定的存続を図るという点では、日本の零細企業とヨーロッパの社会的企業は彼我ともにありようが一致しています。他方、もともとの成立の歴史的経緯が異なるために、平均すればヨーロッパの社会的企業の規模は大きく、日本のそれは小さいです。売り上げ規模でいえば、類似の事業種類同士で比較するとおおむね10倍の差があるようです。

<Aさん>
社会的企業というんですか。そのような事業体ならば、経営者が反社会的行動で利益をむさぼったり、その利益を独り占めするような暴走を止められるとおっしゃりたいのでしょうか。
<私>
残念ながらノーだと思います。
初代社長が善良な経営者であったとしても二代目三代目が同じ善良性を持っているという保証はありません。また、経営者も神ならぬただの人ですから、心が揺れ動くこともあるでしょう。その揺れを自然に抑制し社会と会社の利益折半に向かわせるのは、経営情報の公開とステークホルダ(利害関係者=株主、役員、社員、取引先など)による役員人事への透明性のある適度な影響力確保が必要だと思います。
いわゆる「社会的企業」でもこの問題は模索が続く課題です。
たとえば、リスクを取らずに資産だけ取る輩は人望にもとります。人望が社長や役員の地位に敏感に影響する仕組みがあればよいかもしれません。世襲制などはもってのほかです。Aさんが勤務していた会社の社長は世襲でしたね。世襲では、自浄作用があまりにも働きにくいでしょう。

<Aさん>
社長の選任・解任など役員人事へ利害関係者が関与するというのはかなり難しいですし、下手をすれば乗っ取り屋の餌食になったりもしますよね。
<私>
これまで、株式会社には経済民主主義(株数だけの議決権がある)しかありませんでしたが、たとえば頭数民主主義(社員と株主、社外取締役などが一人1票の議決権をもつ)の経営があってもよいはずです。
たとえば、2004頃から介護事業で、最近では行政の施設管理委託事業で急速にその力を伸ばしている労働者協同組合の約400の事業体は頭数民主主義(社員=株主が一人1票の議決権をもつ)です。しかし、労働者協同組合の今の方式は、リーダに負担が偏りすぎていて、少しバランスを崩しただけでリーダがつぶれてしまうおそれがあります。通常、頭数民主主義は、権利を主張して責任を負わないメンバーに対して無防備です。「負の補償行動」の温床になりかねません。リーダが「正直なロバ」になってしまうと、たちまち止めようもなく事業体自体が破産してしまうでしょう。破産という大きな痛みをこうむることで、無責任なメンバーもツケを払うことになりますから、それは社会的自浄作用が正しく働いていることにはなりますが、この倒産という荒療治はあまりにも乱暴なので対策の手探りが続けられているように聞いています。
多くの国民国家の議会が二院制をとっているように、企業体にも、経済民主主義(株数だけの議決権がある)と頭数民主主義(社員と株主、社外取締役などが一人1票の議決権をもつ)を組み合わせる経営体があってもよいと思います。歴史的には、今は、さまざまな経営体がためされる時代と思っています。
透明な経営、人望なくして役員が選ばれない仕組み、「負の補償行動」に対する抑止力、などなど、それぞれに何を選ぶか、創出するか、そしてどのような組み合わせが良いのか、それらは無数の発意と組み合わせがありますから、国内数百万以上のさまざまな事業体がそれぞれに工夫し試行錯誤する中から、次の時代を担う企業の在り方は選抜されてくるのではないかと思います。
当面の企業経営の姿としては、経済民主主義と頭数民主主義の適度な併用、または多少工夫が加わった頭数民主主義が有力であると私は推定しています。
市民参加型社会への移行という自然な人類史的地殻変動にそって考えても矛盾はないと思います。

<Aさん>
なるほど、何らかの制度的な担保を確保して、健全な経営と健全な経営報酬を衆目のもとに監視しようというわけですね。
<私>
そのとおりです。と言っても、それが私の主義主張というものではなく、否応なしに、もっと大きな歴史的な力がその方向に働くだろうという意味です。
ご質問には、いろいろと考えさせられました。ありがとうございます。
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琵琶

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要約や模写なら盗用にならないか?--独創力の創り方(12)

2008/05/26
要約や模写なら盗用にならないか?--独創力の創り方(12)

さて、いよいよ本丸である。
前回の記事で、本文中に引用(異なる著者による複数の文献)がないものには点をあげないと指導すると、多くの学生は、カギカッコをつけて、引用文献を示すように書き直してくる。
実は、ここからが大変である。

(1)図の模写について
ある学生は、自分のレポートに「以下に自分で書いた図を示す」とわざわざ書き込んでいた。どれどれっ、と引用文献を当たると、ほぼそっくりの絵が見つかる。こんなことは珍しくない。彼は文献の図を模写したのである。「模写したもの」と「自分で書いたもの」との区別がついていないのである。模写とは元図があるということで、図に込められた創意工夫をそっくりいただいたということになる。つまり、盗作である。「こんなケースは零点よりももっと悪い。犯罪なので、マイナス点だ!」とわたくしはその学生の名前を伏せて学生たちの前で絶叫する。学生たちはキョトンとして静かにはなるが、"この先生は何を怒っているの?"という疑問だらけの顔である。
その図を使用するならば、「以下には、文献xの図4-3を一部改変して引用した」と書くべきである。改変の必要がない図をわざわざ模写しただけならば、模写の図はやめて、もとの図をコピーして挿入し、図タイトルの後に"(文献xのp.42の図4-3)"と引用を明記すべきである。模写でないほうがもと図の意図を正確に伝えることができて元の著者にたいする礼儀にもかなっている。
小、中、高校のいわゆる「レポート」では、模写もオリジナルと言い張ることなど朝飯まえ、全部許されて来たのかもしれない。今更、私が、許されないこと、と絶叫しても、カエルのツラになんとやら、という風情なのだ。
あぁ、ぁぁ、徒労感が・・・。まぁ、来週までに何人の学生がレポートの修正を知らせてくるのだろうか。

(2)要約
さて、専門家でもないのに、レポートに威風堂々の論陣を張っている者がいる。うン、かなり勉強して自信があるのかなと思ってみたりする。しかし、引用文献がついていない、、、。「あなたはこの分野の専門家ではありませんね。このようにここであなたがあえて述べる論拠となる文献を示しなさい」とわたくしが指摘する。・・・学生が「これは私のオリジナルな主張だ」と言い張るのかと思ったら、文献を書いてきた。すべて参考文献である。「レポートの中に論拠として引用する言葉が明記されていなかったら、やはり論拠のないレポートということには変わりがない」とわたくしがいうと、彼女は怒り出してしまった。「いろいろな文献を読んで、わたくしなりに考えた結果を書いたのだから、引用などはない」というのが彼女の言い分である。
この種のことも実に多い。やれやれ、私は彼女の持ち出してきた文献を探して、隅から隅まで読む羽目になる。・・・、「あなたのレポートのこの部分は、この本の第3章の2節を要約したものですね。この部分は、こちらの本の最終章の最後のページのまとめの文章を少しだけ改変して写したものですね」といちいち説明しなければならなくなる。彼女は「要約」と「自分で書いた文章」、「改変して引用」と「自分で書いた文章」のそれぞれの区別ができないのである。「だってェ、高校や予備校で書いたレポートは、要約でいいって先生たちが言ってましたよ」・・・、彼女の発言は事実に反するかもしれない、いや、事実に反してほしいと願わざるを得ない。
他人の考えを要約して伝えるのであれば、「文献aの第3章の2節によれば、○○は××ということであるが、この指摘は、文献bの第5章の7節の見解と真っ向から対立する。しかし、私が前節で述べた仮説が正しいとすれば、両者の見解は単にみている角度が異なるだけで同一の事象を示しているということになる」などのように記述されるべきである。つまり、概括して他人の見解をいう場合にも、その根拠となる文献や人物を明示して、文中に紹介すべきである。根拠となる文献や人物を明示しなかったらアウトである。
他人の考えを自分の考えであるかのように書くのは、盗作である。犯罪である。私の胃は学生たちの前でキリキリと痛む。「こんなことではマイナス点だよ」、私は情けなくも悲しい顔で語りかける。しかし、ご本人は、「自分は、いろいろと本を読んでその立派な考えをいただいて書いたのよ。なぜ私が叱られなくちゃいけないの? 立派過ぎるから先生ったら、ねたんでるのね」ぐらいの顔をする。「いやいや、その立派な文章の元を書いたのはあなたじゃなくて、この本やあちらの本の著者の方々でしょう。褒められるべきなのはそれらの本の著者たちなのに、名前を隠して利用されてしまったら、著者の皆さんは怒りたくなりませんかね。本来、その著者の皆様が受けるはずの名誉をあなたが横から奪ってしまったことになるので、あなたはドロボウと同じということになるのですよ」と私。・・・、彼女には、わかったかなぁ~。あれから10日ほど経つけれど、彼女からはまだレポートの修正のお知らせは届いていない。
疲れる、つかれる。・・・。

(3)多勢に無勢、しかし。
「要約」や「改作」が「創造」だというとんでもなく曲った習慣が蔓延している。一人の教師が絶叫しても、それを打ち消す有象無象が周囲にはたくさんいる。学生同士相談しあうともっとひどいことになる。「先生はヒスを起こしているだけよ。男のヒスね。そのままで絶対点数をくれるわよ。私たち(要約や改作に)頑張ったんだものね」「そうね」「そうよ」という具合らしい。
おいおい、何度も言うけれど、要約や模写は引用を明記しなかったら立派な盗用で、犯罪だよ。
真の独創性は、他の人達の独創性を尊重するところから始まるのである。他人の独創性を盗むところからは真の独創性は生まれない。
有名国立大学のいくつかで論文の偽造が発覚している。助教授による盗作騒動の記憶がまだ新しい私立大学もある。これらは、いずれも厳しく処断された。これらの事件は、もちろん不祥事ではあるが、その一方で自浄能力を示したという意味でそれぞれの大学の健全性を示すものである。
遅きに失しているのかもしれないが、大学の教師たるものは、力を合わせて多勢の逆流にさおさして、学生たちに潜在する独創性を育て創り出す努力を地道に続けましょう。
皆さん! 助けてくださいっ!

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琵琶


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「独創力の創り方」シリーズが、Karetta人気情報に取り上げられた--その他、シリーズ外の記事

2008/05/22
「独創力の創り方」シリーズが、Karetta人気情報に取り上げられた--その他、シリーズ外の記事

私のブログでKarettaサイトを取り上げるのは、これで、5つ目になる。

びっくり、第三者のサイトKarettaに、このブログの3つのシリーズがエントリしている。
Karettaに、さらに私のブログの2つのシリーズが追加エントリされている
親父はつらいよ、日本の親父たち、一緒にがんばろう--オヤジと家族のお料理ライフ(12)
なんと、書籍原稿サイト(Karetta)で3位--社長の条件(37)
「独創力の創り方」シリーズが、Karetta人気情報に取り上げられた

ネットで本が書けることで有名なKarettaサイトに、またしても私の記事のシリーズが掲載されるようになった。篤志家の方の手になるものだが、本当にありがたい。こちらの本家サイトの記事を適度に分割して、コピーしてアップしてくださっているのである。
しかも、過去の計からすると、Karettaサイトは本家サイトよりも数倍のアクセスがある。本家としては真っ青なのだが、それはたくさんの記事が集まっているということの強みである。これは単独では得られない効果である。
しかも、Karetta人気情報という欄でも取り上げていただいた。この欄は、書籍でいえばいわば書評に当たるものを書く欄である。書き手は、株式会社タイムインターメディアの常務取締役 藤原博文氏である。藤原博文氏と言えば、辛口の批評で有名な「藤原博文の館」の主、日本のJAVAの神様、「数独」ブームの技術的バックボーンなどとして名高い人物である。もともと出版業界にいて記述分野に進出したという異色の経歴は、私とよく似ていたので、意気投合したといっていいだろう。しかし、藤原氏も人がいいというのか、ワルイというのか、私には一言も断りなくKaretta人気情報 『独創力の創り方』新登場に書いていた。私はまたしてもびっくりする以外ない。

Karetta人気情報
『独創力の創り方』新登場
この記事も後々には、消えてしまうかもしれないので、記念にここに引用しておく。

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新しい本、 『独創力の創り方』 が登場しました。
独創力に乏しい、独創力が無いなど、よく聞きますが、ではどうすれば独創力を身に付けられるかの説明はなかなかしてくれない。
本書は、そのあたりを、じっくりと説明してくれるようだ。
日本では、しっかり勉強して、知識を頭に詰め込むことばかりやっている。しかし、このやり方では、確かに知識が頭に入っているかどうかを確認するだけの試験には当然効果があるのだが、現実世界ではどれほど役に立つのだろうか。
独創力って、そんなに簡単に、勉強ごときで身につくものだろうか。まあ、いろいろ考えはあるだろう。
大学は答えの無い問題にチャレンジする場所だったはずである。ということは、独創力を育てる場の筈であるが、どうも違うような気もする。
本書は、受験勉強に明け暮れて、独創とは無縁であった学生に、人間が本来備えている独創力を教えるための講義が元になっているようだ。
まだ始まったばかりだが、ハイペースで書き続けているようである。
2008/05/19 16:25:00
by 藤原
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彼は独創性に富む人物である。一方、思えば、彼の会社は「独創力に富む人材」を常に求めている。藤原氏に続く人材を求めようとすれば容易なことではない。もともと彼はこの分野に高い関心があったのだろうと思われる。
周囲を見回してみれば、関心のある多くの方たちが力を合わせれば、この難問の解決を通してて日本を立ち直らせることだってできるのではないか、というような野望さえ抱いてしまいそうになる。
とはいえ、私のやっていることは、独創力を押さえつけられてきた若者の大海に投ずるささやかな一滴、力んでみてもせいぜいが蟷螂が斧、あまりにもささやかなので、未来を語るには気の遠くなるような話である。

さて、今回のこのシリーズが取り上げられたことから、Karettaには、私のブログの全12シリーズとその他の記事群、の中の6シリーズが掲載されていることになる。
これまでも、Karettaに私のブログシリーズが追加された時に、何度かその時点ごとの掲載シリーズを記したが、現在は何と6シリーズに増えているということである。

Karettaに掲載されている私のシリーズ記事は現在のところ以下のとおりである。
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独創力の創り方シリーズ
 本家サイト一覧 Karattaサイト記事トップ
 独創力なき論証にアグラをかいていませんか

心理、教育、社会性の発達シリーズ
 本家サイト一覧 Karattaサイト記事トップ
 大学教育の苦闘の現場、鍵は社会性の発達にあり

社長の条件シリーズ
 本家サイト一覧 Karattaサイト記事トップ
 社長になれるのも条件次第

オヤジと家族のお料理ライフシリーズ
 本家サイト一覧 Karattaサイト記事トップ
 一計を案じて家族もそれぞれ料理自慢に・・・

我が家の愛犬様シリーズ
 本家サイト一覧 Karattaサイト記事トップ
 はなはだ乱暴者だが、憎めないわが友

妻が、車に撥ねられるシリーズ
 本家サイト一覧 Karattaサイト記事トップ
 犯人の車が突然右に寄せて妻を跳ね上げた
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琵琶


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文献は書いてあるが引用がない?!--独創力の創り方(11)

2008/05/20
文献は書いてあるが引用がない?!--独創力の創り方(11)

ひとつ前の記事で、私は、レポートや論文では、"著者の異なる文献を複数引用する大切さ"を取り上げた。
今回は、「参考文献」と「引用文献」の違いを取り上げたいと思う。
実は、"著者の異なる文献を複数引用する大切さ"を繰り返し強調すると、学生諸君は確かに著者の異なる文献を複数書いてくる。エライエライ、と言って褒めてあげるのだが、実はよろこんでばかりはいられないのである。
巻末に文献のリストを書いてはあるのだが、文献はただのお飾りで、レポートの中身とは無関係だったり、レポートの中身のどこにその文献が利用されているのかわからないものが多数である。・・・、つまり、参考文献としての体裁にはなっているのだが、引用はしていないというわけである。
引用とは、レポートや論文の「はじめに」や「本文」、「結論」部分において、論拠となる文章や図、表などを明記された文献から流用することである。文章ならば"「……………」(文献7)"のようにカギカッコでくくったり、"××の解釈によれば、○○は△△ということになる(文献3)"のように、明らかに引用していることがわかるような記述をすることである。学生らのレポートを読んでみると、多くのベテラン教員は知っているとおり、この「引用」がほとんど無いのである。
「引用がない」ということは、つまるところ大概の場合「論拠なく勝手な思い込みを書いている」のである。そう指摘すると怒り出す学生もいる。「違う、これらの文献を読んだからこそ、そう思ったということを書いているんです」というわけである。・・・、ははぁ、なるほどね。だったら、文献からその思いに至ったという事実があるのだよね。それならば、文献の一部を引用して、文献1では××と書いてあり、文献2では○○と書いてある、だから、私はこのように推測した、という具合に書けるだろう。さぁ、書き直してごらん、とわたくしは言う。恨めしそうな目つきで、なお「疑っていんですか!」などと、食い下がってくる学生もいる。それでも、私は、踏んばる。ここで負けたら、学生のためにはならない。君を信ずるから、引用明記するような文章にしなさいと言っているんだよ、と私は譲らない。
こんなやり取りの後、きちんと引用を明記してくる学生は半分くらいだろう。残りの半分は、「自分の考えだから、他人の文献を引用するのはできない」と言い張る者もいるし、「ここに書いてあるのは文献1の文章と文献2の文章のつぎはぎなので、カギカッコをつけると、全部カギカッコに入ってしまうので、おかしくなってしまう」と言い始める者もいる。--、しめしめ、と、わたくしは内心手を叩く。この手の学生は、自分のどこが悪い、ととんでもない勘違いをしているのである。「論拠のないレポートは零点」「書き手の独創的な考えが書かれていないレポートも零点」と学生には説明する。学生らは「・・・、そ、そんなの、今まで誰も教えてくれんかったスヨ。ずるいっすよ」などと不平たらたらだが、私は事前に同じことを説明しているということを途中で思い出して、「あの事だったんでスネ」とやっと気づいたりする。
前者は、論拠のない怪しげな思い込みを書いているだけ、後者は自分の知恵が入らない盗作である。この事実を覆い隠しているのが、「引用のない参考文献」という現象なのである。「引用のない参考文献」を見逃さないことが、学生の独創性を伸ばすきっかけである。
レポートであれ、論文であれ、論拠のある自己の主張がそこにはなければならない。どこまでが、論拠として活用した他人の考えや現データで、どこからが自分の独創性なのかを常にはっきりさせることが伸び盛りの学生らには大切なのである。
抽象的な説明だけでは、長い間浸ってきた誤った習慣からの脱却は難しい。小中高の12年間の長きにわたって、彼らはレポートと称して「感想文」や「要約」を書いていたのである。レポートとは「感想文」でもなければ「要約」でもないと誰にも習ってきていないのだ。それよりも、誰にもとがめられず、むしろ「よくできた」などとほめられていたのだから、何とも言いようがない。学生が悪いというよりは、教育に何か根本的な問題があるのではないだろうか。具体的な材料を前にして初めて間違いに気づき熱くなるのである。鉄は熱いうちに打て、である。学生はこのとき、怒りと混乱で熱くなっている。チャンスはその一瞬しかない。自分の書いた文章にケチをつけられるというのは激しく嫌悪を感ずるものである。学生諸君、君たちが悪いわけではないかもしれない。教えてくれなかった環境に問題があったかもしれない。学校教育に問題があったなら、小中高の全部の先生と文部科学省に代わって、私が謝ろう。しかし、正しくレポートがかけなければ、将来、君たちが研究者になっても企業の一員に参加しても、役立たずとそしられるのは君たちである。大学に来たからには、社会参加の不可欠なステップとして、独創的なレポートくらいは書けるようになるべきだろう。胸を張ってこれから諸君が生きてゆけるように、私は少しでも役立ちたいと思う。

前の記事で触れたのは、「異なる著者の手になる複数の文献」が書かれているか否かをレポート点検の第一の着目点ということであった。私が、学生のレポートの指導を行う場合の、文献に関係する勘どころのもう一つは、「文献は書かれていても引用のない参考文献」になっていないかどうか、という観察なのである。
というわけで、私は、先週末から、また学生らの大量のレポート(またはレポートもどきの文章)を眠い目をこすりながら一生懸命に読んでいるのである。--、どうして、この私がこんなことで苦労しなければなせないのだろうか。高校までの教育で済んでいるはずのものなのではないのか? --私は、内心、ウジウジと不満を募らせながら、結構面白い学生の文章に、思わず噴き出したり、感心して唸っていたりするのである。教師とは因果なものである。

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琵琶


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君は、文献を複数引用したか--独創力の創り方(10)

2008/05/16
君は、文献を複数引用したか--独創力の創り方(10)

1.「レポート・論文の書き方」を教える
私は、いろいろな教科を担当している。現在、受け持っているものだけでも9教科になる。
「問題発見ゼミ」「WEBデザイン」「情報処理A、B」「情報リテラシー」「専門情報リテラシー」「情報基礎Ⅰ、Ⅱ」「情報デザイン論」「情報システム論」「電子計算機概論Ⅰ、Ⅱ」
過去に経験した教科には、「情報社会論」「社会情報論」「デザイン情報論」「計算機技術論」「計算機経営学」「情報科学論」「アルゴリズム概論」、・・・など、いろいろとある。
どの教科であれ、私は、コースのどこかに「レポート・論文の書き方」の一コマを入れることにしている。実際、大学の教壇に立ってみると、学生のほとんどが「レポート・論文の書き方」を知らないことに驚く。学生たちの書いたレポートを見ると愕然とすることが多い。レポートがまともにかけなくて大学教育についてゆけるはずは無いとも思いながら、「レポート・論文の書き方」をまともに学習することもなく卒業してしまう学生も多いに違いないと思われた。その昔、大学の教壇に立って1年目、まさかの落胆に遭遇してから、すぐに、私は「レポート・論文の書き方」を取り上げることにしたのである。その後、ある大学で大学院博士課程の学生たちの論文作成のご相談役を事実上数年間に渉って引き受けることになって、その必要性をもっと強く感ずるようになった。博士課程に来てもまだ論文の書き方を知らない学生が多数なのである。否、正確に言えば、独創性・創造性のある研究を知らないので、それを書くすべも知らないのである。大学院の教授の先生方は、ことさらこういう私にいまさらとお思いでしょうが、主として大学の外(民間)に立脚する私などにとっては激しい衝撃であったという以外にない。こんなことで、大学教育が良いわけがない、・・・。この問題には、いずれ、順を追って書くことにする。
いまは、少し我慢して、引用文献のことだけに限定して、述べてみることにしたい。

今、この時期は、私の様々なコースを受講した学生たちの最初のレポートが手元に集まりつつある。私を悩ませているのは、どんなに口すっぱく説明した後のものであっても、大半のレポートがレポートになっていないという事態である。まぁいい、それは覚悟の上のことだ。テーマは教科ごとに少しずつ違うので9種類、クラスによって学生数の多少に差があるが、私のクラスに参加する学生は合計して1年間でわずか200名から250名程度にすぎない。大海の一滴、蟷螂の斧と思いながらも、毎年、200名から250名程度の学生たちと猛烈な格闘をすることになるのである。

2.引用・参考文献の欠陥に見るレポートの欠陥例
学生のレポートは問題だらけなのだが、一番目に付くのは、引用・参考文献のことである。
あるクラスで、引用・参考文献にシバリを与えてレポートを書かせてみた。シバリは、「図書」「雑誌」「その他(ネット情報を含む)」を少なくとも1つずつ以上引用または参考文献とするというものである。学術的文献のなかの「図書」「雑誌」にも原データ、一次情報、二次情報、三次情報、ジャンク記事などの区別があることも事前に説明した。
レポートが集まり始めると、たちまち、いつもの問題が発覚する。
幾つかはバランスの良い文献が並んでいるレポートがある一方で、多くのレポートは以下のような欠陥品である。
 a.引用・参考文献が全く書かれていない欠陥レポート
 b.引用・参考文献が一つしかかかれていない欠陥レポート
 c.引用・参考文献が複数書かれているが、同一の人物の文献ばかりという欠陥レポート
 d.「Wikipedia」や「はてな」などのネットの情報しかかかれていない欠陥レポート
こんなことをやってみようと思った教員なら同感だろうと思うが、これらを一人一人指導するのは実際は大変な労力で、10名未満のゼミ活動程度でしか無理ではないか、と毎年思わず、ふさぎこみたくなるくらいである。・・・、私は、それも覚悟で、これを取り上げることにしたのだから、自業自得と自分に言い聞かせる。
文献表記がほどほどにしっかりできていると、内容が楽しみに思えてきて、自然に読む眼にも力がこもってくる。一方、文献表記に欠陥が目に付くと、たいていの場合、内容の欠陥が透けて見えてくるように思われてくる。文献表記の欠陥は、ほとんどの場合、内容の欠陥に直結しているのである。だから、文献の欠陥を見つけると、たいていは、内容を精査して読もうという気力が湧いてこない、・・・、いけない、いけない、学生がせっかく書いてよこしたのだから、と私は気を取り直して苦虫を噛み潰す思いで我慢して読むのである。

a.引用・参考文献が全く書かれていない欠陥レポート
 学生の勝手な思い込みだけが書かれているものが多い。高校までは
 「レポート」という名の下で「感想文」しか書いてこなかった学生たちには、
 これが当たり前と思われているのである。
 マスコミで良く流されている偏った常識(常識のウソも多い)が書かれて
 いるだけの場合も多い。
 論拠が無く、レポートでは厳禁のはずの「面白い」「感心した」などの感
 情表現ばかりが目に付く。
 「感想文」しか書いたことが無い学生たちは、「面白い」「感心した」など
 の感情表現を使わずに客観的な「報文=レポート」を書くことなど思いも
 寄らない事なのであろう。知らないということは、まことにかわいそうであ
 る。
 論拠の無い報文は信用するに足らないので、私の評価は、たいていの
 場合、零点となってしまう。
b.引用・参考文献が一つしかかかれていない欠陥レポート
 ほとんどの場合、引用した文献の丸写しか、その要約である。書き手
 のオリジナリティが全く含まれていない。
 オリジナリティの無い報文はその元の資料を読んだほうが情報密度が
 高く正確なので、学生がわざわざ転記したり要約をする必要は無い。
 したがって、読むに値しない。私の評価は、たいていの場合、零点とな
 ってしまう。
c.引用・参考文献が複数書かれているが、同一の人物の文献ばかりと
 いう欠陥レポート
 これは、引用・参考文献が一つしかかかれていない(上記b.)場合と同
 じである。ことなる文献といえども、同一人物の文献であれば、基本的
 な論点は同じである。学生は、引用した幾つかの文献の部分を丸写し
 てつぎはぎしたものを作っているだけの場合が多い。
 上記b.の場合と同様にオリジナリティの無い報文はその元の資料を読
 んだほうが情報密度が高く正確なので、学生がわざわざ転記したり要
 約したものを読むには値しない。私の評価は、たいていの場合、零点
 となってしまう。
d.「Wikipedia」や「はてな」などのネットの情報しかかかれていない欠陥レ
 ポート
 ネットの情報には、速報性、脱権威主義、脱保守性などの利点があり、
 他に替えがたいものがある。それでも、多数の権威ある方々の点検テ
 ストに耐えていないという点で、信憑性に乏しく十分な信頼を置くことが
 できない。ネット情報だけに頼っているレポートは、論拠が不確かであ
 ると思わざるを得ない。これだけで、内容は見なくとも零点に近いことが
 予測できるのである。
 また、ネットの情報は、コピー&ペースト(コピペ)が容易なので、レポー
 トも、コピペの寄せ集め、またはコピペして要約したもの、になりがちで
 ある。つまり、オリジナリティもかなり危ういものということになるので、
 警戒心を全開にして読まなければならないのである。
レポートのよしあしを判定しようとすると、まず文献表記のよしあしが一番の手かがりになるのである。

3.良いレポートには、一流の文献が複数ついている。
前項では、文献が全く着いていないもの、一つしかないもの、複数あっても同一著者のもの、ネット情報しかないものなどの悪い例を取り上げた。それでは、どんな文献表記ならば良いのか、という問いもありうるだろう。
まず、良い文献を複数引用されているものが良いものである。
1)原データか一次情報または、これらにできるだけ近い情報が盛り込まれた文献が良い文献である。
2)別々の著者が書いた良い文献を複数取り上げられている文献表記が最低の条件である。
少なくとも、良いレポートには、別々の人の手になる一流の文献が複数ついているのである。

4.別々の人の手になる一流の複数文献はなぜ良いのか
それでは、「別々の人の手になる一流の複数文献」はなぜ良いレポートの条件になるのだろうか。
それは、それぞれの文献が一流であればあるほど、それぞれが独創的で、個性的だからである。
独創的で個性的な見解を並べて読めば、おのずとその違い、対立点が明白になってくる。対立点があいまいな文献同士ならば、どちらも一流ではないはずである。たいていの場合、独創的で創造的な文献以外はその分野に詳しい人たちから一切評価を受けないのである。その分野で、賛否はともかくも大きく取り上げられている見解は一流の文献と思って良い。
レポートを書く際には、それら複数の一流の文献を読み比べて、その違いを整理することから始まることになる。
・複数の一流の文献を読み比べて、その違いを整理する。
・複数の一流の文献の対立点を、解消する新たな見方を創案する。
新たな見方とは、どのような見方をすれば対立がなくなり、両者を含んで矛盾の無い理解にすることができるだろうかと、工夫を凝らすことによって到達するものである。新たな見方を獲得すると、それ以前の対立する文献の著者らが持っていない、新しい見方をあなたは獲得できたことになる。新しい見方こそあなたの独創性、創造性の証しである。

5.人はなぜ対立点を見つけると創造力が生まれるのか
人は、社会的脳を獲得して知性を発達させることができるようになった(*1,2,3)。社会的脳なしには、知性は無かったのである。知性を伸ばそうとすれば、社会的脳を発達させる以外に無いのである。
人は社会的に訓練されることなしに社会的脳を発達させることはできないし、知性も育たない。オオカミに育てられた少年は、人間社会を離れる直前までの知能しか持っていないのである。
いま、社会的脳も知性もある程度育った若い学生諸君が、対立する意見にうまく遭遇すると、これを統一しようとして頭脳が活発に働くのである。人の脳(社会的脳)は、対立を包含する方法を探す時にもっとも良く働くのである。その人の脳の本性(生物的能力)を利用しない方法はない。
この能力について、生物学的または人類学的、脳科学的理解が得られなかった数十年ほど前までは、この能力を活用するのは、対話法(対立点を明確にしつつ議論を続ける)、弁証法(対立を統合してゆく哲学のプロセスが天から授けられていると考える)などと呼ばれていた。つまり神がかりに近い理解をしていたのである。しかし、生物学的または人類学的、脳科学的理解が進んだ今となっては、社会的脳の自然な力こそが独創力のエースなのだと、言うことができるのである。
脳が、創造的に活性化する瞬間には、他の様々な場面と要因がある。それらは、このシリーズのどこかで、時間があれば、取り上げて見たい。
*1 村井 俊哉 、「社会化した脳」、192ページ、エクスナレッジ (2007/10)
*2 リチャード バーン, アンドリュー ホワイトゥン編集, Richard Byrne, Andrew Whiten原著, 藤田和生, 友永雅己, 山下博志翻訳、「マキャベリ的知性と心の理論の進化論―ヒトはなぜ賢くなったか 」、490ページ、ナカニシヤ出版 (2004/06)
*3 リチャード バーン, アンドリュー ホワイトゥン編集, Richard Byrne, Andrew Whiten原著, 藤田和生, 友永雅己, 山下博志翻訳、「マキャベリ的知性と心の理論の進化論〈2〉新たなる展開」、515ページ 、ナカニシヤ出版 (2004/10)
その他

6.だから、複数の一流の人の手になる複数の文献
だから、複数の一流の人の手になる複数の文献が引用されているということは、それを読んだであろう学生の脳を激しく揺さぶり、悩ませ、興奮させて、その創造性・独創性を書きたてたに違いない。そのこころ締め付けられるような思いの結果がレポートの文面に投影されていれば、良いレポート、すなわち学生のオリジナリティがしっかり込められたレポートになっている公算が高いのである。
一方、複数の一流の人の手になる複数の文献を読んだがために、バラバラの見解の前に立ち止まって、何を信じて良いかわからなくなった、と嘆いている学生がいる。彼は、暗記力抜群の学生である。暗記力だけで大学入試を突破してきたのに違いない。実際、大学入試は、暗記力さえあれば良い成績が取れる。なまじ独創力など邪魔である。問われたら、反射的に丸暗記したいたことを答えられれば良いのである。そこで、あれこれ考えていたら落ちてしまうだろう。しかし、その結果が、この体たらくである。現実の問題ならもっとひどいことになっているに違いないが、せいぜい文献上の問題であるにもかかわらず、彼は何をしたら良いのか分からないのである。彼は、丸暗記ばかりの人生を歩んでしまったので、社会的脳が未発達なのである。
正常な社会的脳を発達させた若者であれば、対立した見解がある--->「何とか折り合いを付けてやる」、「いや待てよ、両者とも断定的にものを言っているが断定できるほどの根拠はまだ両者ともに持ち合わせていないジャないか。両者ともに断定しているのはやりすぎで、もっと証拠集めを進めなければならないが正しい結論ではないのか」「いやいや、少し見方を変えれば、両者の意見は、同じものの二つの側面を見ているだけで、両者をあわせて問題の事柄の全体、またはその大部分を捉えたことになるのではないか」「二人とも利害の違いがあるので、真実を突き止めようとしていない。真実を言い争っても無駄である。両者は取引して利害を調整するのが先決で、利害調整がうまく行けば真実は激しい対立の原因ではなくなりもっと優しく本来の姿をあらわすのではないか」「両者ともに見えていない第三の真実があるのを自分は知っている。第三の真実を加えると、領主の結論とはそれぞれに少しずつ異なるが新しい別の解釈が可能になる」などの、いろいろな発展が出てくるのである。
学生諸君、君たちは、せっかく学生という大変恵まれた環境にいる。いろいろな社会的体験(クラブ活動、バイト、ゼミ活動、ボランティア、参加型学習実践、・・・)をつんで、まだ芽が押さえつけられたままになっている社会性を鍛えて、社会的脳を発達させるべきである。次々に遭遇する「対立」を巧みに和解させ、解消し、高いところで統合する方法が身につけば、脳も「対立」を期に活性化して独創力を発揮する能力を獲得するようになるのである。
大学は、社会参加のための様々な能力を身につける実践の場である。社会的「能力」と社会的「脳力」を今のうちに付けないでは、損をしてしまう。
社会的「脳力」を磨くと、「複数の一流の人の手になる複数の文献を読んだがために、何を信じて良いかわからなくなった」などとはいわくなるはずである。「複数の一流の人の手になる複数の文献を読んだら、バラバラの見解だった。しめた、とボクは思った。彼らが取り上げていない別の事例をボクは知っている。その事例を加えると、全体が統一的に理解できる別のモデルが考えられる。待っていろよ、ボクの新しいモデルを今から書いてやるから、・・・」と、わくわくするようになるのである。「対立する見解」はチャンスである。それを見つけたら、独創性の発揮する大きな機会なのだ。
そして、一流の複数の人物の複数の文献を読むというのは、その機会を大きくするのである。

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琵琶


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墓参--人生に詩歌あり(3)


2008/05/14
墓参--人生に詩歌あり(3)

5月x日
ぼたん花、墓前に供えて、手を合わす。汝の丹精、満開の命日
別歌(5月x日)
仏罰あれ、死鳥の置き去り、烈風一陣、父の声のごと、ぼたんを散らす

5月y日
強雨突き、畦踏み越えて、墓の前。眼を上げれば、紅きサツキ鮮やか
別歌(5月y日)
末娘、糸つむぎ死す母あはれ。サツキに願うあなたとの愛を再び。

琵琶

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タケノコづくし--オヤジと家族のお料理ライフ(20)

2008/05/12
タケノコづくし--オヤジと家族のお料理ライフ(20)

昨日は、久し振りの家庭サービスデイだった。実は、愛犬様を獣医に連れてゆく約束をしていましたので、朝から日中の時間は空けておいた。
実は、もうひとつ大事な用件があった。老母が、ご近所の方からタケノコを10本もいただいてしまったので、何とかして(料理して)と預けられていたのである。もらった晩(先週火曜日)には、皮ごと茹でて冷蔵庫にしまっ置いたのだが、わたくしに料理する時間がなくて、そのままになっていた。授業が始まってからは、息子と家内が料理の楽しみを独占しているというしだいである。
昨日は、時間があればこそ、とばかりに、タケノコ尽くしの料理三昧、約1時間半かけて、5品のタケノコ料理をつくった。
1.タケノコの炒め物
 タケノコ、セロリ、ワケギネギたっぷり、ニンジン、トリササミをすべて細切りにして、にんにく、塩、胡椒で味付けして、ごま油で。最後にカタクリコで味をからめて出来上がり。トリササミは味つけようなので3本ほど。本日のタケノコ料理では一番人気となった。
2.トリタケノコのショウガ煮
 トリムネ肉とタケノコをできるだけ薄く、広く切る。ショウガのすりおろしたものを片手山盛いっぱいくらい入れた鍋で煮る。みりんと塩で味を調える。私のオリジナル料理で、10年くらい前から我が家の定番。醤油の味でタケノコの甘味が消えてしまうのを惜しいと思ったので、考案したもの。醤油抜きなので、タケノコ本来の味が感じられる。
3.蕗とタケノコ、厚揚げのあわせ煮
 大きな蕗3本をそれぞれ6-7分割して、筋を取る。タケノコも長めに切る。厚揚げは2ミリくらいの暑さに切る。かつおだし、昆布だし、みりん、醤油に酢を少々加える。酢は蕗やタケノコの渋みを消してくれる。シンプル料理で老母向きである。
4.タケノコと牛肉のトマトソース煮
 和風のビーフシチューと思えばよいと思う。タケノコと牛肉(モモ肉)を同じ大きさになるように2-3センチ角に切る。大根も同様にして切って鍋に入れ、カツオの出汁をくわえて、具が隠れる程度まで水をくわえて、いったん沸騰させたあとは弱火で、肉や大根が柔らかくなるのを待つ。トマトケチャップ100CC、ウスターソース200ccにショウガとにんにく、雲南唐辛子(輪切り)を適当に入れて、一度別の小鍋に入れて煮沸したものを鍋に加える。コトコトと他の料理が仕上がるまで、灰汁をとりながら煮続ける。
5.タケノコのカツオ煮
 残りのタケノコ3本分と別の料理では使い残すしかなかった根元のやや硬い部分を利用する。タケノコは長さ2センチ幅5ミリ厚み0.5ミリ程度に切りそろえる。花ガツオを片手でつかめるだけつかんで、ボウルに入れ50CC程度の水をくわえて、おにぎり作りの要領で水を絞り切る。団子状の鰹節はまな板に取り出して、16~24分割する。花ガツオのままでは大きすぎるのである。かつお節のしぼり汁は、そのま鍋に入れる。その鍋に切りそろえたタケノコを入れ、多目のミリン、カツオ、一味辛子ひと振り、醤油をたっぷり加える。灰汁抜きにここでも酢を少々加える。少し水をくわえて、具の3分の2程度の汁だかにする。箸でかき混ぜながら、汁をタケノコにしみこませる。アブラゲを入れてもおいしいが、あいにく切れていたので、割愛した。

料理が私のストレス解消法。家族満足、老母も満足。私も気分爽快で満足満足。
朝食にしたタケノコのカツオ煮は、昼には、早くもタケノコご飯に早変わりして、家族はこれもおいしいとせっせと食べてくれた。

△次の記事: オヤジと家族のお料理ライフ(21)
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空中停止の術、バタバタ、バタバタ、ホバリング見事!--我が家の愛犬様(25)

2008/05/09
空中停止の術、バタバタ、バタバタ、ホバリング見事!--我が家の愛犬様(25)

ヘリコプターのホバリングやハチドリのホバリングというのは、皆さんもよくご存知だろう。回転翼を激しく回転しながらヘリコプターが空中にとどまったり、花の蜜を吸おうとするハチドリが激しく翼を打ち振って空中にとどまる業である。
我が家の愛犬様も、ある種のホバリングの術を時折見せてくれるのである。
先日、老母の米寿のお祝いのあと、帰宅すると、遠くからわれわれを見つけた愛犬様は、何度も何度も垂直にジャンプして、我々の帰宅を歓迎した。ジャンプする高さは、庭先の植え込みの高さをやや越えるあたりである。飛び上った時の彼の眼の高さは、立っている私の目の高さとほとんど同じである。ポンと飛び上がると、目をわたくしに合わせてしばらく空中にとどまって、やがてストンと地面に着地すると、またすぐにポンと飛び上がる。
よく見ると、少し不思議である。手足は、激しく犬かきでもしているかのようにバタバタと動かしている。滑稽なようにも見えるのだが、何をやっているんだろう???
歓迎の興奮で、お尻としっぽが激しく打ち振られている。その反動で、普通ならば愛犬様は空中で激しくダッチロールしてバランスを失ってしまうだろうと思われるのに、頭の位置というよりも目の位置はしっかりと固定している。よく見ると、尻が左に振られているときは、愛犬様の自慢の長い手足は、水平に右に大きく伸ばされていて、尻が反対に右に振られているときは、愛犬様の手足は水平に左に大きく伸ばされている。なるほど、尻の動きに合わせて反対方向に手足を左右に水平に大きく伸ばすことで、ダッチロールを防いでいるのだ。
それにしても、変なのは、頭というべきか愛犬様の目の位置というべきが予想を超えて長い時間同じ高さにあるのである。なんだか、物理の法則に反しているようにも見える。
もっとよく観察すると、愛犬様は、はじめ頭の位置を胴体より高い位置にして上方に飛び上ってくる。自分の目の位置が私の目の高さに一致すると、目の位置をその位置で固定して、慣性の力をお尻のほうに逃がして尻を高く上げてゆき前のめりの状態になるのである。お尻が上に昇りきると、今度は尻のほうから下方に落ちるようにして、目の位置が下がらないように頭をもたげ加減に位置を変えてゆくのである。重心が描く放物線は変えようがないので、頭と尻の位置関係を斜めに移動することによって目の位置を空中で固定しているのである。体操選手並みの素晴らしい運動能力だ。とはいえ、胴体を上向きから下向きへと変え下向きを上向きに変えるには、何としてもトルクをかけなければならない。愛犬様は、ダッチロールを防ぐべく、水平方向左右に手足を繰り出す動作の合間に、手足を一緒にまたは同時反対方向に上下に円弧を描くように激しく動かしている。まるで平泳ぎの早回しを見ているようにも見える。
上下の動きと左右の動きが激しく交叉してゆく。しかし、意味もなく動かしているわけではないことに気がつくと、ただただ感心してしまう。
愛犬様は、草原を駆け抜けるオオカミになるはずのDNAをそのまま持っているのである。高い丈の草の中を音もなくすり抜けてゆくオオカミの群れの一員としての彼は、世が世であれば、時々、音もなく垂直に高く飛んで、草の上に浮かんで、獲物の位置や、他の天敵の位置を確認する必要があっただろう。その時、目の位置がむやみにぐらぐらしてしまっては観察がおろそかになるだろうし、1秒でも多く、目の位置が固定されているほうが偵察行動としては優れているに違いない。彼は、草原に生きる野生の能力をしっかりと保持しているのである。
この能力をほんの少し応用すれば、植え込みの頭越しに、ご主人さまとちょっとばかり長いアイコンタクトをすることなど朝飯前なのである。

世の中にはぬいぐるみみたいに大人しくてかわいいワンちゃんがあふれているが、野性的で激しいオオカミ犬もなかなか捨てがたい、と、私はうれしくなっているのである。

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琵琶

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創造的研究活動の条件「若者の未来と研究(7)」--独創力の創り方(9)

2008/05/07
創造的研究活動の条件「若者の未来と研究(7)」--独創力の創り方(9)

ミニシリーズ「若者の未来と研究」(全7回)
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学生は研究には縁がないか「若者の未来と研究(1)」--独創力の創り方(3)
仲間を増やす研究の方法「若者の未来と研究(2)」--独創力の創り方(4)
必要からやって来る研究課題「若者の未来と研究(3)」--独創力の創り方(5)
創造的研究活動「若者の未来と研究(4)」--独創力の創り方(6)
研究課題がない(?!)「若者の未来と研究(5)」--独創力の創り方(7)
実証や論証は大切、しかしそれは独創性ではない「若者の未来と研究(6)」--独創力の創り方(8)
創造的研究活動の条件「若者の未来と研究(7)」--独創力の創り方(9)
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<「若者の未来と研究」-前回の記事>

3-2.創造的研究活動の条件
 (1)問題の発見
・人々の生命の発露の中に通常の知識では解決しがたい問題を発見する。
 問題とは、目的と現状の差異である。
・研究コミュニティの中で話しあってみる。すでに仲間が解決している場合もある。より広い問題として見えてくる場合もある。
(2)先行論文の精査(☆)
 ・先行論文に解決策が明示されていないことを確認する。
  先行研究の空白部(ブルーオーシャン)を見つける。
 ・先行論文が互いに争っている分野である場合に、別の角度から解決策を示すと、互いに争っていた先行論文の指摘を全て包み込むように全体を矛盾なく説明できることを確認する。
  先行研究の対立部(レッドオーシャン)を統合して、争わざる部分に変える可能性を見つける。
 (3)問題の整理
   ・取り組もうとしている研究課題の目的を明確にするとともに、目的が実現できていない現状を明確にする。
   ・問題の細分化を図る。
    特性要因分析/要因関連分析/クリティカルパス分析/・・・を適用する。
   ・研究コミュニティの中で話しあってみる。見落としている要因や他の要因との関連性が見えてくることもある。
 (4)解決済み要因と未解決要因
   ・解決済み要因は先行論文の引用で説明する。
   ・未解決要因は、/事例研究/統計分析/モデル化と仮想実験/実験/・・・を適用して解決に当たる。
 (5)データの整理(☆)
 (6)論文の組み立て
   論文の書き方は、別途。

   (☆)は、専門情報リテラシーが大いに効率を上げてくれる。 

<ミニシリーズ「若者の未来と研究」、終わり>

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琵琶


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実証や論証は大切、しかしそれは独創性ではない「若者の未来と研究(6)」--独創力の創り方(8)

2008/05/05
実証や論証は大切、しかしそれは独創性ではない「若者の未来と研究(6)」--独創力の創り方(8)

ミニシリーズ「若者の未来と研究」(全7回)
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学生は研究には縁がないか「若者の未来と研究(1)」--独創力の創り方(3)
仲間を増やす研究の方法「若者の未来と研究(2)」--独創力の創り方(4)
必要からやって来る研究課題「若者の未来と研究(3)」--独創力の創り方(5)
創造的研究活動「若者の未来と研究(4)」--独創力の創り方(6)
研究課題がない(?!)「若者の未来と研究(5)」--独創力の創り方(7)
実証や論証は大切、しかしそれは独創性ではない「若者の未来と研究(6)」--独創力の創り方(8)
創造的研究活動の条件「若者の未来と研究(7)」--独創力の創り方(9)
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<「若者の未来と研究」-前回の記事>

(6)実証や論証は大切、しかしそれは独創性ではない
 ところで、独創的研究課題が見つかっただけでは「創造的研究活動」ではない。見つかった課題は「創造的研究活動」のタネに過ぎない。その課題の正当性を実証または論証しなければただの思いつきにとどまるのである。課題の正当性を実証または論証する方法は、たくさん提案されている。それらは、それぞれに大事であり、これからの学習でもその幾つかは学ぶことになる。
しかし、「実証または論証する方法」は、研究の手段であって目的ではないことに注意が必要である。「実証または論証する方法」を「独創的研究の方法」として売り込む手合いも多いので、注意が必要である。「実証または論証する方法」を知らなければ「創造的研究」はできないが、それだけで十分というわけではない。そもそも独創的研究課題を見つけられなければ「創造的研究」にはならないのである。
 A 矛盾克服型(対話法、思弁的弁証法などの系譜)
 B しらみつぶし型(徹底して先行研究を調査する方法)
研究活動とは、人の生命活動の一部である。はつらつと生きていればおのずと誰しも取り組んでいるものである。独創性は、それにプラスされるものであり、上記のAやB(またはその他)を介して発見され、「創造的研究」となるのである。「全く研究テーマが思いつかない」という人は、はつらつと生きてはいないのではないだろうか。

<「若者の未来と研究」の次の記事>

△次の記事: 独創力の創り方(9)
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4月20日、母米寿の祝い--交友の記録(30)

2008/05/04
4月20日、母米寿の祝い--交友の記録(30)

この4月、母は満で88歳になった。米寿である。古来日本では数え年で88歳を米寿としているので、伝統的な意味ではすでに昨年米寿になっていたことになる。
しかし、母の希望で、満88歳になったらやろうということになっていた。ただし、母の子供たちとその孫のうち当日集まれるヒトだけでやろうというのである。
幹事は、弟の夫婦が勤めた。
私の家族は、母の介添え役に徹した。母の希望で、赤飯を各家族に届けることになった。以前は母が自分で赤飯は炊き上げるのが習慣だったが、さすがに重い釜を上げ下げするのは困難である。今回からは、市内の和菓子のお店に頼んで作ってもらうことにした。私は、事前に目星をつけたお店(高野)に言って予約した。初めて若いオーナーと直接お話しすることができたので、いろいろと聞くと、この道に入る直前までリコーの技術者だったのだそうである。かなり思い切った脱サラである。その勇気と実行力に感嘆の声が思わず出てしまった。使用人は、老若を合わせてすべて女性たちである。
各種の和菓子が店頭に並ぶが、みたらし団子がおいしい店である。みたらし団子は和菓子の基本中の基本である。みたらし団子のおいしいお店は他の作品もたいていはおいしい。私の兄弟3軒分の5合箱赤飯3箱と母親一人分の小さな赤飯の折詰めを注文した。ついでに、みたらし団子3本と道明寺(さくら餅)3個を購入した。これは土産として自宅に持って帰る。
当日、早起きの母にせかされながら、このお店に車で出向いて赤飯の箱詰めと折り詰めを受け取り、その足で、別の和菓子屋さんに向かう。米寿の祝いの席にやってきた家族には孫も含めて、すべての家族に和菓子の箱を土産に持たせたいというのである。向かう先は市内にできたばかりの「鎌倉吉兆」の支店である。ここで、試食しつつ、おいしいお菓子を選択して、詰め合わせを作ってもらうことにした。果物を上手に擂り込んだお菓子が得意らしい。姿かたちは伝統の和菓子だが、フルーツの清々たるほのかな甘みが口に残る。老婆の情報網もかなりのものである。
参加する家族は、3兄弟のそれぞれの家族と最近結婚した孫娘の夫婦の4家族である。4セットと母の分として少な目の1セットを購入して車で持ち帰った。
会場は伊勢丹内の和食料理「歌行灯」の座敷席である。宴の前に記念撮影をするという段取りで、1時間前に集合した。移動は私の家族は自宅前から老母を交えてタクシーで移動した。写真館も伊勢丹内の写真館である。
写真技師は、こだわりの強い方のようで、老母の単独写真に30分、集合写真で20分もかけた。老母はほとんど倒れそうなくらいに疲労困憊の状態だった。まだ、結果は見ていないが、よい写真が撮れたに違いない。
宴会場に移動して、老母の挨拶、私の乾杯の音頭で食事はスタート。和気藹々と会は進む。姪のだんなはこの4月からオラクルのSEとして勤務を始めたばかり、私とは同業ということで、話題がいろいろとある。そのうち、それぞれの家庭で飼っている犬の話になり、そちらのほうが盛り上がった。出される料理はそれぞれが凝っていて、驚きの品々である。さすがというべきだろう。食材は何だろう、味付けはどうしているのだろうか、など目の前の食事の話題も座を盛り上げる。
食事も半ばのころ、女性陣の間では出身の「高校」の話題で、話か弾んでいた。聞くともなく聞いていると、私の弟の嫁君は磐城女子高校の出身なのだそうだ。磐城女子高校といえば、福島県の名門高校で、男子の磐城高校とあわせて、東大に入るよりも難しいといわれていると聞いている。高校浪人が多数いることでも有名である。妻に、すごいね、というと、「地方に行くと高校のほうが大学よりも重視される傾向があるのよ。あなたも大学ばかりではなくて、皆さんの出身高校を知るべきね。尊敬に値するのよ」とのこと。はは~っ、という以外にない。ついでに、我妻がいうには、「私の出た一宮高校も地元では名門なのよ。どんな大学を出たかよりも、地元では、一宮高校を出たかどうかが問題なのよ。ついでに、私も尊敬しなさい」というのてある。ははぁ、弟も私も、たいへんおえらいお嫁さんを迎えてしまっていたというわけである。兄弟そろって、どうも嫁さんに頭が上がらないと思っていたら、こんな秘密もあったらしい。
さて、「歌行灯」は40年近く前に出張で尋ねた名古屋駅の近くにあった。取材先の大学の教授の案内で入ったお店で、料理には舌を巻いたものである。以来、名古屋で宿泊する際にときどき通っていた。十数年前に伊勢丹の中にも支店ができたので、時々利用しているのだが、中国から来た客人と会食したりTRIZの雄こと中川教授と会食したことの印象が強くのこっている。
食事が終わると散会となったが、私の家族だけは老母を囲んでタクシーで帰宅した。老母は少し疲れたようではあったが、最後まで上機嫌だった。
玄関先には、我が家の愛犬様が、散歩してもらいたくて、いまや遅しと待ち受けていた。われわれの姿を見ると、高く高く何度もジャンプして大歓迎のゼスチャである。我が家の愛犬様は元気いっぱいである。お留守番ご苦労様でした。
まずは、幸せで、平安な一日だった。

△次の記事: 交友の記録(31)
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▽前の記事: 交友の記録(29)
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研究課題がない(?!)「若者の未来と研究(5)」--独創力の創り方(7)

2008/05/02
研究課題がない(?!)「若者の未来と研究(5)」--独創力の創り方(7)

ミニシリーズ「若者の未来と研究」(全7回)
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学生は研究には縁がないか「若者の未来と研究(1)」--独創力の創り方(3)
仲間を増やす研究の方法「若者の未来と研究(2)」--独創力の創り方(4)
必要からやって来る研究課題「若者の未来と研究(3)」--独創力の創り方(5)
創造的研究活動「若者の未来と研究(4)」--独創力の創り方(6)
研究課題がない(?!)「若者の未来と研究(5)」--独創力の創り方(7)
実証や論証は大切、しかしそれは独創性ではない「若者の未来と研究(6)」--独創力の創り方(8)
創造的研究活動の条件「若者の未来と研究(7)」--独創力の創り方(9)
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<「若者の未来と研究」-前回の記事>

(5)「研究課題がない」(?!)--独創的研究の課題は必ずある
「研究課題がない」と嘆く人がいる。「研究課題」は、人々の生命の発露に伴う日常の課題である。はつらつとして生きている人に「研究課題」がない人は居ない。しかし、「独創的研究の課題が見つからない」という人はいるだろう。「研究課題」には追われているが、どれも先行研究が解決していて、自分の出番がないというのである。
それでも「独創的研究の課題は必ず見つかる」と言っておく。見つけるコツも方法もある。
まず、先行研究を鵜呑みにしてはいけない。そもそも取り上げた事例が間違っているかもしれないし、データが不確かなものかも知れない。恣意的な結論かもしれない。推論の方法に重大な勘違いがあるかもしれない。(参考文献参照)
それらを発見するのは、主として「対比」である。現実の問題と研究成果を見比べて「解決策になっていない」と感ずることがあるかも知れない。複数の先行研究を読み比べて、いかんともしがたい不一致や不自然な一致を見つけることもある。人の脳は「対比」のときに著しい活性化を見せる。この人の脳の特性を活用するのである。「例示」や「類推」「図解」など、ヒトの脳が格別に活性化する別の知的活動を活用する方法もある。
独創的な研究課題を発見するコツには、私が知る限りでは2つある。これらは、通常、職業的研究者の誰もが教えてくれない「職業上の秘密」である。
 A 矛盾克服型(対話法、思弁的弁証法などの系譜)
研究上の支配的ドグマと対立する学説を良く比較してみると、双方に対してともに正当性を与える第三の視点が見つかることがある。つまり、角度を変えてみれば、両者とも調和してうまく説明ができる、という場合である。このときの「第三の視点」こそが、あなたの独創性である。
「第三の視点」見出したときの快感は、なんともいえない。爽快なものがある。
  B しらみつぶし型(徹底して先行研究を調査する方法)
 多くの場合は、実はこちらである。「必要が研究の母」なので、必要があり、予見される結論もすでにあることが極めて多い。必要があり、予見される結論もすでにあるところから「研究」はスタートする。予見される結論を実証または論証すればそれだけで「研究」にはなる。しかし、そのままでは「創造的研究」にはなっていない。このような場合、先行研究をしらみつぶしに調査するのである。どの先行研究もそれぞれ問題のテーマに近いところに迫っているが、それぞれに異なる関心と結論を導いているだけで、肝心の課題に取り上げたことからについての結論に明示的に触れていない、ということが証明できる場合がある。「ヤッたァ、私の独創的研究のタネだ」と叫ぶことになる。
このしらみつぶし作業の過程で、肝心の課題の結論に明示的に触れている場合に遭遇することもある。その結論がすでに問題の解決になっている場合は、自分の研究はもはや独創的研究ではなくなる。良い勉強をしたな、と言って自分を慰めることもなきにしもあらずである。しかし、それらの結論が互いに矛盾している場合にもしばしば遭遇して、矛盾克服型に切り替わる場合もある。
それでも、独創的研究課題が見つからない場合、君は職業的研究者には向かないので、別の職に替わるほうが良いかもしれない。私は、独創的研究課題を抱えすぎていて、息苦しいくらいである。共同研究者になってくれるなら、テーマを分けてあげたい。

<「若者の未来と研究」の次の記事>

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琵琶


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