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古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2)--情報社会学、予見と戦略(27)

2009/01/02
古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2)--情報社会学、予見と戦略(27)

ミニシリーズ: 新しい「公」への希望(全4回)
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1.2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)
2.古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2) --情報社会学、予見と戦略(27)
3.金融の役割-新しい「公」への希望(3) --情報社会学、予見と戦略(28)
4.地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)
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新春にあたって、旧年の苦悩を振り払い、近未来にある希望をはっきりとさせておきたいと思う。
今年は、希望が見えてくる年である、と私は思う。
それは、単純に景気が回復するというような希望ではない。激動と動乱もあるかもしれないが、その先にある未来に一条の光を見るのである。

2.古き「公」と新しい「公」
日本では平成18年5月(2006年5月)に、「公共サービス改革法(競争の導入による公共サービスの改革に関する法律)」が成立している。国の行政サービスを民間に担ってもらうというもので、市民サイドからすれば国に頼らない社会的サービスを自分たちの手で、という機運と重なっている。
"豊かな「公」の構築"というと平成18年東京都が定めた都の行政サービスを民間に担ってもらうための基本方針である。
行政サービスのコストを賄えなくなった行政が一部を民間に投げ出しているのである。市民の側から見れば、市民参加のまたとないチャンス到来である。
これらの現象は、かねてから私が繰り返し説明している市民参加型社会の成立の帰結でもある。
国家の中で、国家が握っていた行政サービスを国家が手放すということはある意味ではかつてない「暴挙」である。逆にいえば画期的な出来事である。
この動きは日本ばかりの現象ではない。アメリカもEUもである。古き「公共」は、世界の各地でガラガラと音をたてて崩壊を始めている。かつては国家に多額の税金を納めることによって身を守ってもらっていた世界の巨万の富たちは、もはや国家に多額の税金を支払うことをばかばかしいと思い始めているのである。彼らは、税率の高い国を去って税率の低い国に簡単に逃げ出してゆく。
世界の富の集中と格差拡大、国民国家の命運--情報社会学、予見と戦略(8)
だから、国家はどんなあがいても多額の税金を彼らからせしめることはもうできくなりつつあるのである。
要求される公共サービスに比較して税収が追い付かない以上は、民間に社会的サービスを肩代わりしてもらうしかなくなっているのである。
国にとって巨額スポンサーだった巨万の富が国家の縛りをのがれて行き、市民も国家の公共サービスをそれほど当てにしなくなると、国家は一体どうなるのだろうか。誰からも頼りにされない権力とは無力というしかない。
現代は国民国家が主流である。民族国家への指向は紛争の激化という代償を要求される。第一次世界大戦と第二次世界大戦という大きな犠牲の後は、世界の各地で、民族国家よりは国民国家を設立する動きとなったのである。250万年の人類史上での国民国家は、高々100年の歴史しかない。地上に生まれた瞬間的なあだ花なのかもしれない。国民国家は、今、風前のともしびなのである。
これまでの「公」は、それ以前の群雄割拠する君主のための「公」ではなく、民族に捧げる「公」でもなく、国民国家の設立を支えることを目的とした「公」であった。
しかし、その支えるべき国民国家はすでに揺らぎかけている。国民国家を支えてきた巨万の富は、国民国家を見捨て始めた。市民はこれを当てにしなくなった。
ヒトは、社会を捨てて、個人で生きてゆけるかという思考実験はしばしば文学の世界で試されている。最も有名な思考実験は「ロビンソンクルーソー」である。作者は無政府主義者だったが、この小説を書き進めるうちに、ヒトは一人では生きてゆけないと強く感ずるようになり、無人島のクルーソーは、帆船に見つけられて、人々の待つ社会へと帰ってゆくのだった。
古い「公」が成立しがたくなっている今は、ヒトに新しい社会すなわち新しい「公」が必要である。
それは、巨万の富がそうしているように、また市民もそうし始めているように、国境を超えた「公」の構築である。
「公の再構築」という人がいるようだが、それは、「国民国家の再構築」という意味だろうか。そう主張するのであれば、間違っている、と私は思う。国民国家は、否応なしに、紆余曲折を経ながら、次第に弱体化し続ける。とどめようもない歴史の流れである。
ちなみに、ブッシュアメリカは、アメリカの私利と私怨のためにアフガンとイラクに侵攻した。日英仏独などは同盟関係を理由にこのアメリカの私利と私怨に付き合った。流血は続いており、多数の命と財産が失われている。振り返ってみれば市民社会の伝統によれば、市民の間に紛争が起これば、市民同士が刃傷沙汰に及ぶのはご法度である。警察や裁判所などの「公」の行政機関によって処理され裁かれなければならない。一方、国家の外では、個別国家の私利と私怨のためにむき出しの暴力が振るわれ、数えることもおぞましい累々たる死者が続いている。もしも、われわれが地球から少し離れて高く飛ぶ鳥の目を持つことができるならば、地上の私利と私怨による各国の争いを封じ込めるのは、国家を超える行政府しかないことに気付かないわけにはゆかない。
国家はなくならないだろうが、別の新しい「公」=世界の秩序の希望が見えてくるはずである。国家の統制に従わない巨万の富も、ギャングよろしく国家を敵にして暴れまわるジャンクボンド(ギャンブラ資本、またはマフィア化資本)も従わざるを得ないのは、唯一、世界を統合する行政府だけである。地球と人類が国民国家に分裂している間は、国家間の利害の対立はなくならず、その対立の隙間に入り込み、巨万の富は利益をむさぼり、マフィア化資本は悪事の限りを尽くすのである。国家を当てにしない市民にとっても、個人生活のためには国家は大きすぎて、社会的サービスのためには国家の枠は狭すぎるのである。市民の社会的サービス事業が成功をおさめるためには、やはり国境を越えて、「国境なき××団」になる以外にないのである。巨万の富も、マフィア化資本も、市民も、国家は個人のためには大きすぎるが、事業のためには狭すぎと感じているのである。この点で巨万の富も、マフィア化資本も、市民も利害と思いは一致するのである。しかし、地球規模の行政府については、巨万の富も、マフィア化資本も反対だろう。彼らは、行政府の規制をのがれて市民から奪うだけ奪い尽くすのが使命である。市民は、秩序ある経済活動を求めるので、地球規模の行政府を求め続けるだろう。この点では、巨万の富およびマフィア化資本と市民は鋭く利害が対立する。
いささか、唐突に聞こえるもしれないが、こうして迫りくる時代の変化を敏感に感ずる善良にして小心な我ら市民は、古い「公」にしがみつくのではなく、新しい「公」の中に希望を見出しているのではあるまいか。セカンドライフ、モバゲー、グーグルなどが企業や市民、若者に支持されるのは、新しい「公」への息吹を感ずるからに違いない

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琵琶

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