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博多「八千代丸」にて、起業ボランティア--交友の記録(41)

2009/01/19
博多「八千代丸」にて、起業ボランティア--交友の記録(41)

1月17日-18日は、博多までの出張。
2008年度に経産省からのご予算をいただいたボランティア活動支援情報システムのため委員会と九州地区のデモンストレーションが福岡で行われた。
私は、そのボランティア団体の情報システム委員会の一員である。そのボランティア団体の主たる活動は失業者たちに対する起業支援である。
その昔、1980年代には、お薬の卸業者さんが当社のシステムに関心を持ち、何度も呼んでくださった。会議はいつも午前10時半ころに始まって、会議中にお昼のお弁当をいただいて帰るというもので、朝一番の飛行機で福岡空港に行き、会議が終わると宿泊費を節約するために直帰するという強行軍だった。お弁当はご馳走になったが、移動の費用は自前だったからである。今回は、航空券と宿泊費は予算内にあったのでもう少しゆったりできた。前日宿泊することができたのである。
まずは、17日、飛行機での移動は久しぶりだった。バブル崩壊後は、営業の範囲も首都圏に絞ってきたので、飛行機で移動するほど遠い顧客はいない。学会発表や出版打ち合わせでも新幹線で十分だった。少なくとも十数年は羽田空港を使用したことがなかった。しかし、博多までは遠い。新幹線のほうが時間もかかるが値段も高いので飛行ということになる。列車のたびは贅沢なのである。
同行者は私を入れて3名。定刻に私ともう一人は到着。三人分の航空券を持った残り一人が現れない。やや気をもんだが、何とか間に合う時間にモノレール駅を満面の笑みを浮かべて出てきた。彼は、このボランティア団体では重鎮の立場で、もともと九州本部長も勤めていたそうである。彼に案内してもらえば、何も心配は要らない。
ANAの福岡行きに乗り込む。私の席は5Gという席番号である。昔風の言い方をするとビジネスクラスのすぐ後ろ、エコノミークラスの一番前である。頭上のもの入れを空けてみるとすでにいっぱい。前の座席はビジネスクラスなので、壁で仕切られていて、私の手提げかばんをその座席の下に押し込むことができない。お隣の人も、同様に困った様子だったが、自分の足元においてそ知らぬ顔をしている。よしよし、通路にはみ出さないようにすればいいだろう、私もそうしようと思ったのは、間違いで、出発間じかに客席乗務員の美しき方がマナジリを決して駆け寄ってきて、「なぜ、こんなところにあるんですか。どういうつもりですか」と詰問されてしまった。頭上を指差して、「この周辺はすべて一杯で入らないんです」と説明すると、私のかばんをすばやく取り上げると、ビジネスクラスの席のほうに持って行き、その棚に入れて、「ここに入れておきます」とおっしゃった。そんな荒業は、不慣れな乗客の私には思いつかなかったので、唖然。お隣の席を見ると、相変わらず隣の方は足元にかばんをおいたままだった。・・・、あれっ。
飛行場から地下鉄で、ホテルのある博多の駅に降りる。地図を頼りに歩き始めるが、いたるところホテルがある。紛らわしい名前も多くて、ホテル名を書いた紙を見ながら、ウロウロする。"おのぼりさん"丸出しである。結局、表通りから少し中に入ったところに見つけることができた。ホテルがホームページなどに掲示している地図は大通りに面しているかのような表現である。こうでもしなければ遠方の客は予約しないのかもしれない。通りに面していると誤解したからこそ、私たちも予約してしまったのである。お人よしはこうしてだまされるのだなぁ、というのが実感だった。しかし、ホテル自体はしっかりしたよいホテルで、満足のゆくものだった。
時間を合わせて、打ち合わせと食事をかねてミーティングへと街に繰り出す。元九州本部長S氏に心当たりがあるというので、後をついてゆく。歩きながらも検討事項の討議が続く。合間には市外の案内の説明もガイドさんよろしく立て板に水というよりは機関銃のように話す。結構歩いたように思うのははじめての街だったからかもしれない。以前はタクシーで通過しただけだったので、歩くとずいぶん違って見えるのか、時間の経過があって街が変化したのか、異質の街に来ているような気がしていた。
目指すお店に到着した。お店の名前は「八千代丸」。博多の人にはよく知られているのだろうが、一見目立たないお店で、案内役がいなければ見過ごしてしまうようなお店だった。先に団体客がいて、われわれはレジ付近で待つことになった。ここでも技術や運用の議論が続く。ふと目をやると店の一階は大きな生簀が大きな面積を占めている。・・・、いるいる、オサカナさんが。思わず生唾が出てくる。全長1メートルほどの大きなヤリイカも1匹いる。元本部長S氏は、"これ行こうか"とのたまう。内心、これ一匹で三人ともおなかいっぱいだぞ、と思ったが、イカ大好きな私は、ついつい賛成。
30分ほど待ったところで、二階に通されて、まずはイカのお造りが出てくる。二人はビールの中ジョッキ。私は酎ライムで乾杯。イカの分厚い肉に格子目の飾り包丁を入れたものを細めに切ったものがてんこ盛りになっている。丁寧に飾り包丁がされているのに、一気に噛み切ることは難しい。口の中でもぐもぐとかなり悪戦苦闘しないと飲み込めない。うまい。しかし、ものすごい食べ物である。皿の上の足は箸先がふれるたびに勢いよく跳ねあがる。まだ生きているのである。他の二人もうまいうまいとむしゃぶりつく。負けじと私もかぶりつくが、若さにはかなわない。30歳代のN氏と40歳代のS氏が相手では60歳代の私に勝ち目はない。S氏が足も刺身で食べておいしいぞ、というので、中居のおば様にハサミで切って1本をいただく。「吸盤が生きているから、醤油をたっぷりつけなきゃだめよ」と中居のおば様のご忠告を聞いて、たっぷりと醤油につけていただく。タ、タ、タ、~、たいへんイカの足の吸盤が舌に吸い付いて離れない。無理やり滑らせるようにして、足を上の歯と下の歯の間にはさんで押しつぶすように噛み切る。じゅわっとおいしい汁が口に広がる。一度噛み殺したはずなのに、足を舌の上で転がすとまた舌に張り付いてくる。な、なんて奴だ。おいしい、たいへん、な食事となった。
残ったのは、ヒレの部分と足と胴の大半である。残りの調理も板さんにお願いすると、ヒレの部分はお刺身に、胴と足はてんぷらになって出て来た。ヒレのお刺身は適度に薄く、柔らかくて、甘い。胴と足のてんぷらはふんわりとうまい。
二人はビールを何杯もお代わりして、私も酎ライムを飲み干すと、焼酎をボトルでいただこうということになった。銘柄がありすぎて、目移りしたが、高からず安からずを狙って、「甕仙人」を注文した。この選択はあたりだった。さっぱりとして、お刺身によく合うのである。
豚キムチやら、何やら、三人がテンデンに頼んだものがテーブルの上に並ぶ。S氏は「ゴマサバの刺身」を注文した。東京では「鯖の刺身」は食べない。鯖は酢締めにしていただく「締めサバ」が江戸前=東京流である。鯖は保存が難しくて、すぐに自己発酵して青臭くなってしまうからである。「ゴマサバの刺身」はよほど鯖の鮮度に自信がなければ提供できない品物である。ちょっと驚きながら、「ゴマサバの刺身」の登場を待っていると、テーブルに何気なく器が置かれる。三人が一斉に箸を伸ばす。「うまい」と三人が声を揃える。ごまを振って生姜醤油で漬けてある。身は甘く、しっとり柔らかい。サバ特有のにおいはない。いわゆる生姜醤油のヅケである。こんな加工がしてなければ、テーブルの上で10分もおかれればサバ特有の臭いがするようになるだろうにヅケになっているおかげで、自己発酵は進まないのである。
うまいものを前にして、三人とも饒舌である。Nさんは、今回のシステム開発を請け負った元締めである。若いがかなりのやり手である。農水省や経産省にいかに食い入っているかをいろいろとしゃべるのである。内容の詳細は彼の営業上の秘密だろうから、ここには書かないが、すごい、、、。目を丸くしながら私は聞き入った。
そのうち、東京を後から出発した後発組が合流してきた。イカはなくなってしまったが、鯵の刺身やゴマサバの刺身はある。お刺身三昧で、後から来た三人もぐいぐいと飲む。
6名になって、なお話題は盛り上がる。「田舎で働き隊」のプロジェクトを立ち上げる話や、施設管理の下請けなど、起業テーマでヒートアップしてゆく。・・・、気がつくと、24時を回っていた。店内に客は我々だけ、聞けば24時閉店だったそうで、ごめんなさいを連呼しつつ店を出た。先着組一人3000円、後着組一人2000円ということで、清算は完了。誰もが、え~、安すぎだよと叫びつつ、夜道をホテルへとよれよれと帰った。
翌日は、ホテル内のレストランで朝食をとると、近くの喫茶店で9時半からミーティング。議論は既に済んでいるので、今後の作業予定を中心に話しあって決定する。
午後1時になると少し離れた会場に九州各地からボランティア団体のメンバーが集まるので、ここで完成間近なシステムのテスト版のデモンストレーションと利用のお願いをする予定になっている。喫茶店での会議か終わると、われわれは会場に移動して準備。昼食はコンビニでおにぎりとお茶を買いこんでロビーでほうばる。時間がないので、口に詰め込むようにして飲み込む。あわただしいが、全ての準備が終わり、ご来賓のご挨拶などが一通り済んだあと、15時ころからデモンストレーションと説明。ほとんどSさんがしゃべった。私は何事か起こったときの控えなので、じっと檀上を見つめて緊張を続けた。・・・。無事に完了。
私だけは、翌日の準備のため、すぐさま福岡空港に向かった。自宅には21時前に到着した。他のメンバーはもう一回、宴会をしたそうだが、残らなくてよかった。くわばらくわばらである。
しかし、うまくいった仕事と気心の知れたみなさんとの会食は、なんとも言えない満足感を与えてくれた。
また、博多に行きたくなってしまう、、、。

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琵琶


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教室は「社会シミュレータ」--日本の成育環境(5)--心理、教育、社会性の発達(77)

2009/01/13
教室は「社会シミュレータ」-日本の成育環境(5)--心理、教育、社会性の発達(77)

ミニシリーズ: 日本の成育環境(全6回)
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1.胎児は母の言葉を聴いている、母語を大切に-日本の成育環境(1)
 --心理、教育、社会性の発達(73)
2.なぜ母子同室優先か、心の芽をつぶすな-日本の成育環境(2)
 --心理、教育、社会性の発達(74)
3.見て覚える脳、共感する脳-日本の成育環境(3)
 --心理、教育、社会性の発達(75)
4.良識は勝ったか?-日本の成育環境(4)
 --心理、教育、社会性の発達(76)
5.教室は「社会シミュレータ」-日本の成育環境(5)
 --心理、教育、社会性の発達(77)
6.成功する単位組織-日本の成育環境(6)
 --心理、教育、社会性の発達(78)
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学校教育で成功を収める学習実践は、「社会的学習」である。一斉授業ばかりでは子供たちに知恵は育たない。単純に定着する知識量を比較しても「社会的学習」のほうが圧倒的に多いし、その質も高いというのが私の実感である。
現在の教育の現場では、残念なことに「一斉授業」が圧倒的に多く、さまざまに理由をつけて正当化されている。根本的に改めるべきであると思う。
「一斉授業」に拘泥する教員がたくさんいる中で、必死の思いで「社会的学習」の実践をしている教員もいないわけではない。まだ少数ではあるものの優れた実践をする教員たちの経験をもっと広めたいと思うのである。
本日午前10時(2009.01.13)現在「学生参加型学習」でGoogle検索すると248,000件がヒットする。検索の結果、上位10位までに入っているページを下記に引用しておく。重複するサイトもあるので、それらは1つだけに割愛させていただいた。

次世代型学習支援 学生参加型による学習コミュニティ活性化システム「KIT BRAIN BANK」スタート──金沢工業大学
D.W. ジョンソン、K.A. スミス、R.T. ジョンソン、David W. Johnson、Karl A. Smith、Roger T. Johnson原著、関田 一彦訳、学生参加型の大学授業―協同学習への実践ガイド、高等教育シリーズ、玉川大学出版部 (2001)
浅沼 優子、大学における参加型学習法を用いた授業の実践報告 : 学生の授業評価による授業案の検討、岩手県立大学看護学部紀要、Vol.6(20040300) pp. 93-100、岩手県立大学 ISSN:13449745
羽場勝子、人間学における共同研究-学習参加型学習方法の試み-、上智大学
参加型学習と参加型経営、西小倉辞典、2007-06-18
D.W.ジョンソン、R.T.ジョンソン、K.A.スミス著、学生参加型の大学授業―協同学習への実践ガイド、玉川大学出版部、(2001)
服部裕、ディベートによる学生参加型授業の試み : 「総合的学習」におけるディベートの可能性、秋田大学教育文化学部、(2003)
阿部和厚、小笠原正明、西森敏之、細川敏幸、高橋伸幸、高橋宣勝、大 雄二、小林由子、山舗直子、大滝純司、和田大輔、佐藤公治、佐々木市夫、寺沢浩一、大学における学生参加型授業の開発、高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習─ 4(1998)
「チーム医療」を学ぶ参加型グループ学習を実践-19の専用小教室にプロジェクタ-を設置し学生のプレゼンテーション能力を養う、最新活用読本、NIKKEI BP Net

私は決して「社会的学習」の創始者ではない。社会人経験10年の後、約30年前、教員(兼任)をはじめたとき同時に取り組んだ教授法が「社会的学習」だったことに私は後で気づいたのである。十分普及しているとは言えないが、理論的に研究されていた先人は多く、実践例も豊富である。
「社会的学習」の二つのタイプをここには紹介しておきたい。

(1)学習は太古からあった(「正統的周辺参加型学習」)
学習は近年にわかに始まったわけではない。おそらく、細胞分裂で増殖する生物はともかく、卵生や胎生で生まれる生物はすべて生まれた後も学習する。本能だけに頼るだけで学習をしなければ魚類以降の生物は餌を取ることも外敵から身を守ることも難しく生存が困難である。
哺乳類、ましてや霊長類は生存に必要な多くのことを学習して成長する。ヒトは最も幼くして生まれると言われ、産み落とされてからの生育変化が大きい。中でも大脳の変化は著しく、生育環境の影響によって成長が大きく左右されている。
ヒトがようやくムレだけの生活に別れを告げて、ムラをつくり、共同して森で狩をしたり、木の実や食べられる草や葉を採集するようになったころのことを想定してみよう。女の子はお母さんごっこをしたり、小さな男の子たちは、動物の真似をしたり、兄さんたちの狩の格好の真似をしてゴッコ遊びに興じている。やがて5-6歳になると、兄さんたちにせがんで男の子たちは狩に連れて行ってもらうことになる。しかし、いかに狩ごっこで鍛えたからと言っても、本当の狩に役立つことはないだろう。狩のための学習をしようというのである。兄さんたちのように獲物を見つけたり、獲物を取り囲むように散開して、チャンスをうかがうなどのことはなかなかできやしない。弓だって満足に弾けないのだから。5-6歳の男の子たちは、兄さんたちの周りにまといつきながら、本来の役目よりはまずはできることから真似る(学ぶ)のである。獲物に対しては風下から近づくという鉄則があること、歩くとき出来るだけ音をたてないようにするためにはどうするかなどを見よう見まねで覚えてゆくのである。一度や二度の同行で一人前になれるわけではないが、それでも狩に成功したときの歓喜と失敗したときの苦い思いははっきりと理解でき、記憶に残るだろう。兄さんたちは、どうして狩に成功することができたのか、なぜ失敗したのかを帰り道にたっぷり話してくれるに違いない。弓の名手が放った矢がどんな弧を描いて獲物に突き刺さるのかもしっかり脳裏に焼き付くだろう。ムラに帰って来ると、5-6歳の男の子たちは兄さんたちと同じように弓が撃てるように村の広場で練習し、腕を磨くに違いない。兄さんたちの放った矢の見事な軌道は脳裏に焼き付いているのだから、自分の弓が今は下手だが次第に上手になってゆくのを実感できるだろう。
兄さんたちからすれば、「やって見せ、話して聞かせて、させてみて、・・・」ということになるが、男の子たちにとっては、正統な狩の行為に至ることを目指して難しい高度な部分は兄さんたちに任せて、まずはできる裾野の行為を実践してゆくのである。チームでの狩になじんでくれば、獲物をおいたてる役など、少しは役に立つようになるだろう。肝心の矢を射る仕事はまだまだとしても、周辺的なことを学び体得しながら、狩の前方を理解し、やがてはその中心的役割を担えるように成長してゆくのである。
子供たちは少ししかできることがなくともチームに加わって、"一日の長"のある兄さんたちのふるまいを見習い、周辺的なことから次第に革新的なことを学んでゆくのである。
このようなやり方を「正統的周辺参加型学習」というのだが、実に天然自然な学習であり、無理や無駄を感じさせない見事な学習過程である。

(2)グループ学習(「学生参加型学習理論」「学習コミュニティ理論」)
社会的学習理論については、さまざまな解説書もある。ネット上でもよい解説を見ることができる。
また探せば書物やネット上でこの理論を批判している人も見つけられるが、批判の主要な論点が学習はそもそも社会とは切り離されたところで行われるものだからというもののようである。残念ながら、そのような人たちが「学習をそもそも社会と切り離したり擬似社会環境下での教育を否定して進めてきたからこそあなたたちの教育は失敗した」というのが私の考えである。両者は真っ向から対立している。学習とは社会的実践の能力を準備する行為であるとわたくしは思うのである。実践的能力を磨かない教育は児童生徒学生にとってただの苦痛である。何の役もないし楽しみもない。
教育に熱意ある教員の進化した教室では、学生たちは学習の場に作られた社会シミュレーター(擬似社会)の一員として、学習コミュニティの一員としての責任と権利を行使することによって、知識を進んで楽しく獲得し、その成果の喜びをメンバー全員で共感しつつ身に着けてゆく。与えられた知識は実践的課題によってその正確さが試される。よい成果が上がれば仲間の評価が高い。うまく行かなければ悔しくてがんばるし、仲間がいろいろと手助けしてくれる。学習効果はきわめて高い。
教育というものは、卒業後の行く先が研究の現場であれ、企業であれ、公共サービスの現場であれ、児童生徒学生がやがて参加する組織と社会で立派に活躍できるように豊富な知識と実行力を身に着けさせるための行為であると思うのである。
Jean Lave, Etienne Wenger著, 佐伯 胖訳、「状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加」 、pp.203、産業図書(1993)
畑 彩土、「バンデュラ」、教育研修基礎理論、http://saido.at.infoseek.co.jp/bandula.html(2009.01.08確認)
学習を楽しく効率的に進めるためにも「一人にしない教育」が必要なのである。
山本五十六が言ったとされる言葉がある(実は、山本五十六以前から存在する言葉なので、彼の発案とは言えないが)。
「やってみせ・言って聞かせて・させてみて・褒めてやらねば・人は動かじ」
実践に結実しない教育は失格なのである。
社会の何がしかの実践とかかわりのない研究や学問というものはないし、教育もないということを私は断じておきたい。もしも、いまどき、大学の教員で「社会と切り離して・・・」という人がいるとすれば、3歳児までの一人遊びをいまだに大切にしている極度に純粋なまれに見る方なのだろうとおもう。少なくとも、私は、幸いにも、そのような人に直接お会いしたことはない。
ただ、過去からの流れで周囲をまねてただ一斉授業だけをしている方が多いだけに違いない。
教員の皆様、"普段から超多忙でとても新しい教授法に取り組むなんてとうてい無理"と感じられるとは思いますが、これから迎える春休みのつかの間の間隙に、一度「社会的学習法」を考えてみてはいかがだろうか。

要は、教室を良き「社会シミュレータ」(仮想社会型学習コミュニティ)に変えるのが、社会的学習の眼目であると私は思っている。
その意味で、バンデュラの理論も、正統的周辺参加学習理論も、新たな角度から発展的に統合されるべきだとと考えている。私は年をとりすぎているし浅学ゆえに生きている間に自分で統一的理論を創出できる自信はない。「教室を良き社会シミュレータに」という方向性を明示して、学習理論に関心のある若き研究者が意欲的にこの問題にどんどん参加し取り組んでいただけることを期待する。

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琵琶


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良識は勝ったか?-日本の成育環境(4)--心理、教育、社会性の発達(76)

2009/01/09
良識は勝ったか?-日本の成育環境(4)--心理、教育、社会性の発達(76)

ミニシリーズ: 日本の成育環境(全6回)
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1.胎児は母の言葉を聴いている、母語を大切に-日本の成育環境(1)
 --心理、教育、社会性の発達(73)
2.なぜ母子同室優先か、心の芽をつぶすな-日本の成育環境(2)
 --心理、教育、社会性の発達(74)
3.見て覚える脳、共感する脳-日本の成育環境(3)
 --心理、教育、社会性の発達(75)
4.良識は勝ったか?-日本の成育環境(4)
 --心理、教育、社会性の発達(76)
5.教室は「社会シミュレータ」-日本の成育環境(5)
 --心理、教育、社会性の発達(77)
6.成功する単位組織-日本の成育環境(6)
 --心理、教育、社会性の発達(78)
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(1)良識は勝った?
不思議なことに、育児教育界にあった"とんでも理論"が、一つ消えかかっている。うれしいような、とても不思議なような気もしている。
ここでいう"とんでも理論"の一つとは「一人遊びは個性を伸ばす」というものである。子供たちを孤独な遊びに閉じ込めておけばよいという理論がかりに正しいとすれば、保育者や教師はひどく楽ができる。親も子供にゲーム機を買って与えておけば、手がかからないというものである。だからこの"とんでも理論"がもてはやされていたように私には感じられた。
もちろん、個性は一人では育だたない。子供たち同士が出会い、親和性への欲求を満たしつつ、衝突したり助け合ったりしながら、相互にお互いの得意を発見して、認め合うことから個性が成長する。「一人遊びは個性を育てる」のではない。「社会性と個性は表裏一体、セットでなければ育たない」のである。
「一人遊びは個性を育てる」という言い訳がましい理論はなぜか急速に息をひそめた。
私は、この理論「一人遊びは個性を育てる」をかつて批判的に取り上げた(2005年当時)。
ゲーム・オタクへの心配--心理、教育、社会性の発達(13)(2005.10.31)
多すぎる、社会性の発達阻害の原因--心理、教育、社会性の発達(15) (2005.11.20)
当時は、「一人遊びは個性を育てる」と書かれた本が発行され、講演会が開かれていた。それらは幼児あるいは児童の教育に関係のあるお偉い方々のご高説であった。私は、落胆し、内心怒り、やむなくこの問題を取り上げた記憶がある。
今、ネットで検索するとこの種の主張を掲げるページはほほとんど皆無に近い。関連図書も増刷中止、絶版になっていた。おそらく、講演も激減しほぼ皆無になっているものと思われる。ほぼ3年程度の間に起きた変化てある。
私が、このブログで批判したことだけが原因とは考えにくいが、とにかく、一斉に姿を消したのである。・・・、私は勝ったのだろうか。間違った理論を展開した論客は口を拭って、発言したことさえ忘れたかのようである。この見事な撤収行動は、個々の人の判断によるのだろうか。・・・、不思議な出来事である。巨大な組織が、一斉に撤収を呼びかけたのかもしれないとさえ、勘繰りたくもなるような見事な撤収である。

(2)まだ残る「子供の孤独推進派」
そう、私は、子供たち(や大人)を一人にするなと強く訴えた。
一人にしない教育者と、一人にしない教育を--感性的研究生活(6)(2006.06.01)
高市少子化相(当時)にも訴えた。
"一人にしない" を政府も、高市少子化相「国民生活白書」--心理、教育、社会性の発達(40)(2006.06.27)
この願いが功を奏したのかも知れない。そうであれば、たいへんありがたい。
しかし、よく見ると、とんでも論客は姿を消したように見えても、全てが反省しているというわけでもないようである。
たとえば、「コツコツと何かを作る一人遊びのようなことが、創造性や集中力を育てる上では必要です」というようなネット上の発言はなくなっているわけではない。保育や教育の現場では同様のことがひそかにもっと多く語られているのかも知れない。
上記のようなことを書いている、そこの先生っ! 口幅ったいことですが、「コツコツと何かを作る」だけにしては、ダメでしょう。作ったものを子供同士、そして大人が評価し、ほめてあげなければいけません。放っておいてはいけないのですよ。本当はお分かりでしょう? 他人に誤解を与える発言には注意をしてください。

(3)一人遊びに終わらせないように
私も教師ですが、「コツコツと何かを作る」ことが「一人遊びに終わらないように」心を砕くのが親であり保育者であり教師であると考えてきた。私は、それこそが教師の役目の一つと信じて教育実践に取り組んできた。
0歳から2-3歳までは、母への密着からやがて一人遊びとの併存が始まり、ひとり遊びが多く見られるようになり、次第に子供たちがたくさんいる場所に混じって並列遊びをするようになる。それでも、子供はいつでも母親のいるところに駆けもどれる場を好む。3歳前後には、集団遊びに移行してゆく。このころは、集団遊びに上手に移行できるように親も保育者も子供たちを手助けしなければならない時期である。このころも自分を庇護してくれる親や保育者を強く求めてもいるので、決して放置してはならない。その後は、遊びと言えば集団遊びが主流になり、5-6歳になると友達との交流が楽しくて仕方がない時期になる。ここで子供を孤立させてはならない。7-8歳になれば他人との違い(自分の得意なこと)を誇りにする傾向が生まれて、友達や大人たちにその得意を認めてもらおうと必死に頑張る。ここで、「皆と同じ」を押し付けたり(斉一性への圧力)、「一人遊び」に追いやったりしてはならない。作ったものを子供同士、そして大人が評価し、ほめてあげなければならない。10-12歳になると、単に得意を主張するだけではくて、自分が他の仲間たち、クラス、クラブ、社会に役立っていることを認めてもらいたいという欲求をもつようになる。ここで、教師や親が、これを阻害し、(受験にかかわって)友達は敵だと言ったり、教師が学級崩壊の恐れから子供たちの連帯を警戒して「友達を作っていけない」などと"とんでも指導"に走ってはならない。
子供は「一人遊び」しているように見える瞬間があっても、決して一人遊びに終始してそれだけに終わってしまうのを望んでいるわけではない。決して子供を孤独にさらして、孤独のまま、夜、床につかせるようなことがあってはならない。一人で何かをしていることの中に、何か親や友達に見せびらかしたい"いいこと"、"自慢したいこと"があるのである。それを発見してうまく引き出してあげて友達や親や先生がわかってほめてあげるように、または皆の前で発表させて称賛を浴びる機会が与えられるように取り計らうこと、それが親や保育者や教師のお仕事ではないのだろうか。
多くの、心ある親や保育者や教師にとっては余計なお世話にすぎないと思う。わかりきったことをくどいと思われることと誠に心苦しい。ベテランの諸先輩の中に心を害された人がいたら、平にお許しを頂きたい。
しかし、まだ、世間には現に少しばかり勘違いが残っているようであり。それらの勘違いを速やかに正していただきたいと願ううところである。
また、これから親になる人、保育者を目指す若者たち、教師を目指す青年男女は、ぜひとも子供たちを孤独に放置しない親、保育者、教師になることをお願いしたい。「一人にしない教育と一人にしない大人たち」になってほしい。
過去の記事だが、参考となる記事を最後に紹介しておきたい。

日本の子供の孤独感は世界一、子供の幸福感一位のオランダはシティズンシップ教育--心理、教育、社会性の発達(72)

△次の記事: 心理、教育、社会性の発達(77)
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琵琶


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第58回SH情報文化研究会「新春・夢会議」の快挙--感性的研究生活(41)

2009/01/07
第58回SH情報文化研究会「新春・夢会議」の快挙--感性的研究生活(41)

今年(2009年)の仕事始めの日の午後からは、第58回SH情報文化研究会「新春・夢会議」が開かれた。
通常ならば、勤務時間中という時間帯でもあるので、参加者はごく限られているに違いないと想定して、最初は5-6人もあつまればよいかと腹をくくって、会場は13名までという小会議室を予約した。
結果は何と18名も集まり、会場は当然ぎゅうぎゅう詰めとなってしまった。
演題も当初は次の2つとしていた。
飯箸泰宏(慶応法政明治国士大、SH)、「脳科学が拓く"知識の新分類"」
矢ヶ部一之(跡見東洋大)、「新境地、グーグル検索」
しかし、この知らせと入れ違いに藤原博文氏が昨年末からAndroidに挑戦中というニュースが伝わってきた。Googleつながりとして、ぜひ氏にもAndroidの話をしていただこうということになった。
藤原博文(タイムインターメディア)「GoogleのAndroid携帯」

■第58回SH情報文化研究会「新春・夢会議」■
(兼2009年新年会)
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1.主催
 SH情報文化研究会「新春・夢会議」
2.開催日時
 2009年1月5日(月) 14:30-17:30(終了後に懇親会を予定)
3.場所
 ルノアール田端東店・会議室=マイスペース(JR田端駅北口下車5分)
 懇親会 近くの居酒屋
4.当日のプログラム
14:00 開場(設営開始)
14:30~15:30 飯箸泰宏(慶応法政明治国士大、SH)、「"知識の新分類"と"独創力"」
15:30~16:30 矢ヶ部一之(跡見東洋大)、「Google"Next Step"と"検索"」
16:45~17:20 藤原博文(タイムインターメディア)「GoogleのAndroid携帯」
17:20~17:50 座談: 期待される情報文化の新展開
5.懇親会 
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研究会会費 無料(いつも無料)
懇親会会費 今回に限り、社会人1000円、学生500円

飯箸泰宏氏の発表は、予告された内容とは少し違って、"知識の新分類"のお話よりも"独創力"に力点がおかれるものに変更されていた。この内容は、今後「鐘の声 ブログ」「"独創力の創り方"シリーズ 」に紹介がされるだろう。 内容はかなりエキサイティングなものだった。「困難な時代を生き抜くためには脳力アップこそカギ」と言われては、聞かないわけにはゆかない。
独創力を発揮するには、(おとそ気分のせいかもしれないが・・・)「ぼんやり考える」ことがよいと強調されていた。しかし、「ぼんやり」するだけではだめで、「ぼんやりと"考える"」ことが大切なのだとも言っていたので、あながち冗談というわけでもないようだ。
飯箸氏の最後のスライドには次のように書かれていた。
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友よ、来たりて、語り合おう。 
酌み交わして、笑って、帰って、うたたねの内に、何か良
いことが脳の中で起こっているかも、、、。
しかし、我が大脳に、基になる記憶(知識)が少なくては、
「保守」すべき記憶もないということか、、、。
ノーベル賞は無理かな。
まずは、「記憶の箱」に出会った知恵をたくさん詰め込ん
でおこうっと、、、
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つづく矢ヶ部一之氏の発表は、「Google"Next Step"と"検索"」という演題であった。
・教育現場の問題
・GoogleのNext Step
・いまどきのGoogle検索
事前のお話では、後ろのふたつの話題にフォーカスするはずだったが、その前に現場では憤懣やるかたない事態が進行していることを報告した。おそらく「放送禁止の内容」だろうと思われるので、ここでは詳しく取り上げない。参加者は、大学や専門学校で教鞭をとる人が5人(兼任を含む)もいたので、みなさんともにうなづいていたということだけは記録しておきたい。
検索・広告収入をベースにするGoogleのビジネスモデルは行き着くところまで行き着いているので、Googleはその次のNext Stepを探しているのに違いないという内容であった。ディスプレイ広告、OnlineアプリまたはOnlineアプリホスティングが本命だろうという。OnlineアプリまたはOnlineアプリホスティングの中にAndroidもあるに違いない。ということで、藤原さんのお話を予告した。続いて、あまり知られていないGoogleの検索機能の紹介もあり、たとえば検索語入力欄に計算式を入れると計算結果が出てくるのには多くの人がさすがにおどろいていた。

最後に登場したのは事前のプログラムにはなかった藤原博文氏である。
Googleは、携帯電話向けアプリケーションのプラットフォームであるAndroidとその開発キッドを無料で配布している。オペレーションシステムはLinuxで、 Mac OS X v10.4 Tiger(10.4.8以降のIntel Mac)、Windows XP または Windows Vistaで動作する。開発環境としてはEclipseが推奨されている。日本のメーカも2009年中には次々と対応機種を投入する予定なので、 Android上で開発されたアプリケーションは、多様な携帯電話の上で動作することになり、携帯アプリメーカや開発技術者は熱い視線を向けているのである。藤原氏(タイムインターメディア)にはJAVAで開発された自前のプリケーションがすでにあるので、これをとりあえずAndroid上に移植したところ、ソースを1文字も修正することなくなんなく動作することがわかったそうである。なんと、つまるところ、不慣れなAndroidそのものの上で開発するには開発者にとって厄介な制約(ツールの不足など)が多いが、技術者が慣れ親しんでいる一般のJAVA開発環境を利用してソースを作成し、動作を確認した後、Android上に移植すればよいということを意味している。会場にはシステム開発関係者が10名以上出席していたので、感嘆ともため息ともつかぬどよめきが起こっていた。
氏が関係するAndroidの本も近々発刊になるということで、楽しみである。
ところで、会場には平野正喜氏(ランドックオーグ平野正喜事務所)もいらっしゃったのだが、くしくも彼も友人と一緒にAndroidの本を執筆中なのだそうである。さすがに、時代の最先端にいる人々の研究会である。
この研究会は、なかなか捨てがたい。

会場から、10秒(となり)の居酒屋に一人残らず全員がなだれ込んで、懇親会が始まると、年代差はおじいさんと孫ほどもあるような人たちの混成であるにもかかわらず、議論は沸騰し、話題は熱を帯びて次々に変幻する。いまどきの若者は飲み方がスマートでむちゃ飲みをするような人は少ないが、おじさん軍団(おじいさん軍団?)はそうではない。ガブガブ、オカワリの嵐。つまみメニューには和風と中華風が混じっているお店なので飽きがこない。まぐろのカマは大好評だったが、すぐに品切れ、マーボ豆腐は中国人もびっくりするくらい中国風。四川バンバンジーに至っては丸ごとの赤いトウガラシがどんぶりの半分を占めているというすざまじさだった。
18時に始まった懇親会が、あっと気づくと22時を回っていた。
今回の研究会の続きをまたやろうよ~。次はいつやるの~? あちこちから声がかかる。
はいはい、嬉しい限りです。またやりますとも。内容も濃くて納得のゆく研究発表と、心もおなかもいっぱいになる懇親会を考えます。またみんなで会いましょうね。

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琵琶

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地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)

2009/01/04
地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)

ミニシリーズ: 新しい「公」への希望(全4回)
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1.2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)
2.古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2) --情報社会学、予見と戦略(27)
3.金融の役割-新しい「公」への希望(3) --情報社会学、予見と戦略(28)
4.地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)
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新春にあたって、旧年の苦悩を振り払い、近未来にある希望をはっきりとさせておきたいと思う。
今年は、希望が見えてくる年である、と私は思う。
それは、単純に景気が回復するというような希望ではない。激動と動乱もあるかもしれないが、その先にある未来に一条の光を見るのである。

4.地中の芽
日本の正月では、クワイ(慈姑、arrowhead)を食べる。土も凍る冬、泥の中で芽を吹いたクワイは、凍ったかたい泥の氷塊を突き破るようにして芽を伸ばす。その有様をみて、やがて来る春を予感し、人々は勇気を奮い立たせたのであろう。
100年に一度の大不況のさなか、新しい芽は動き出しており、旧世代の私利私欲に拘泥する頑迷な金権主義の凍った土地を、大地のマグマのように突き破ってその姿を現そうとしている。
地中の芽は、社会の主人公として活躍する市民の活動である。
市民たちは2005年ころから、医療・介護、衣食住のような生理的にぎりぎりの要求を満たすための活動に参加し始めている。NPO法人、NGO団体、ボランティア、ほかの様々に法人の形を利用して、自分たちが公共的な社会サービスの担い手として登場したのである。2010年ころからは、自衛のための市民団体が多数登場するに違いない。2006年以前から私が予告してきたように、昨年(2008年)末になって政府も市民団体等の自警組織を支援するために地方自治体に補助金を出す動きを見せている(詳細未確認)。
市民の活動は、2015年ころからはさらに「独立ネット共和国」的な様相に進み、2020年には生産者と消費者が流通業者を飛び越えて手を結ぶ動きを見せるだろう。そして、2025年ころからは新しい「公」がはっきりとその姿を見せ始めるに違いない。今、市民は、その結びつきを世界に広げており、従来の国家と国境にとらわれない新しい秩序を創出しようと苦難の道を突き進むだろう。
これらの動きに最後まで抵抗するのは、誰だろうか。新しい波の先頭に乗って新風を巻き起こすのは誰か。
巨額の資本とマフィア化資本と株式会社は、すでに国際化しており、国家にとらわれない日常的な活動をしている。
軍事力がネックだという人もいるだろうが、軍隊は国家にしか存在しないと考えたら大間違いである。たとえば、イスラム勢力は、NPO法人の軍隊を多数擁していて、それぞれが全世界からの募金で軍事力の維持を果たしている。もちろん、かれらはアメリカによってテロ勢力と呼ばれている。一方のアメリカには株式会社の軍隊があり、イラクなどでもっとも危険な任務を米軍から請け負っているほか、ひそかに世界中の紛争地域に出稼ぎに行っていることは、時々のニュースで漏れ伝わってくる。もはや、国軍だけが軍隊とは言えない時代になっているのである。
現代は、金融が国家と分かちがたく結びついており、新しい時代の波にこの金融による制約が最も大きいと主張するひともいる。金融が国家を超えた市民のムーブメントを支援することに向かないということである。しかし、早くも、VISAのような金融業は株式会社ではなくてNPO法人として世界的規模で運営されているのである。VISAは銀行業ではないし、既存の各国の銀行と友好的に提携して初めて運営できているという制約がある。しかし、NPO法人が巨額の資産を運用していること自体は すでに現実となっているのである。いずれ、VISAのようなNPO法人が各国のめぼしい銀行を事実上買収するようなことも発生するだろう。
次々に制約と思われた制度や慣習が、なすすべもなく瓦解してゆく有様がもうすでに始まっているのである。もちろん、抵抗する者もいるだろう。激しい戦闘も流血も、たくさんの尊い命も失われるかもしれない。しばらくの期間は「戦争と暴力の事態」が続くかもしれない。それでも時代は新しい「公」を目指して、確実に進んでゆく。
人類は、過去に、たくさんの悲惨な戦争を体験してきた。特に記憶に新しいところでは第一次世界大戦、第二次世界大戦がある。今も激しい戦闘がおこなわれている地域がある。人々はこれらの悲惨な体験からすでに多くのことを学んでいる。人々の被害を最小にとどめて、これらからの時代を巧みに切り抜けてゆかなければならない。
篤姫のドラマで知られるようになったが、江戸幕府が無血開城によって江戸庶民が戦禍に巻き込まれるのを防いだように、これからの社会の担い手の40代、30代、20代の壮年、青年のみなさんの体を張ったがんばりと、精一杯の知恵とを期待したい。
今は、新たな芽を大切に育てよう。
NPO法人、NGO団体、消費者協同組合(C-Coop)、労働者協同組合(W-Coop)、農業協同組合、漁業協同組合、・・・。不況の波が彼らに組合員の急増という恵みをもたらしていると思う。しかし、目先の組合員の急増に喜んでいるだけの事態はすでに過ぎている。みなさんは、世界に向い、世界の市民組織となるべきである。今こそ、その時期である。
アメリカの主婦の運動だったピースネットがインターネットを介して世界に広がった結果、対人地雷兵器禁止の国際条約が結ばれるようになった(リーダのバンマイン女史はノーベル平和賞受賞、日本は批准済み)ように、皆さんも世界でつながり、国家を動かす勢力となるべきである。
行政も、うかうかはしていられないだろう。市民組織の活動を活用して行政コストの低減を模索するだけではなく、新しい「公」の時代にも生きてゆける人材に自分たち一人ひとりを鍛えなければならないのではないだろうか。
新しい「公」に向かう地中の芽は、少しずつ少しずつ伸びてきている。
未来に、希望が見えてくる。

2009.01.08付記:
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
マイミクさんの一人であるビルシャナ様が、私のつたない記事にコメントしてくださっている。
01.05希望:
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1043962558&owner_id=4526145
01.06遠くの光:
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1045094961&owner_id=4526145&org_id=1044861636
ビルシャナ様は、奈良県で塾を経営している塾長さんである。お会いしたことはないが、人間に対する深い洞察が感じられる記事をミクシィにたびたびアップしている。直球の記事ばかりではなく、フェイントの技能も優れていて、思わず前のめりに倒れそうになることもある。
氏のコメントがいただけたことは大変うれしいし、光栄にも感じている。
また、良雲様らビルシャナ様のお仲間の方々のコメントも温かい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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琵琶

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金融の役割-新しい「公」への希望(3)--情報社会学、予見と戦略(28)

2009/01/03
金融の役割-新しい「公」への希望(3)--情報社会学、予見と戦略(28)

ミニシリーズ: 新しい「公」への希望(全4回)
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1.2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)
2.古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2) --情報社会学、予見と戦略(27)
3.金融の役割-新しい「公」への希望(3) --情報社会学、予見と戦略(28)
4.地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)
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新春にあたって、旧年の苦悩を振り払い、近未来にある希望をはっきりとさせておきたいと思う。
今年は、希望が見えてくる年である、と私は思う。
それは、単純に景気が回復するというような希望ではない。激動と動乱もあるかもしれないが、その先にある未来に一条の光を見るのである。

3.金融の役割
金融は国家の保証を得て信用を勝ち得ている。中央銀行(日銀)は、銀行に融資することによって銀行を支援し、またインフレにもデフレにもならないように通貨の調整を行う。民間の資本は銀行からの資金の調達によって安定的に投資し、回収する資金との差額を利益として得ている。市民は経済活動に参加することによって、生活費を得て、またそま生活費を利用して生活のための物資とサービスを得ている。
巨万の富とマフィア化資本は、銀行の資産運用のための金融商品や上場株の売買、企業の買収と売却、流通基本の支配などを通じて巨額の利益を上げてきた。最近は、動産不動産の売買益だけではなく、動産不動産の所有権や利用権を証券化して売却することで、短期に多額の売却益を得る傾向を強めている。生産者を買いたたいて消費者に高く売りつける、農民や漁民から土地や海を安く取り上げて不動産業者に高く転売することが基本だが、おいしい成果に結びつくまでに時間もトラブル対応も覚悟が必要である。買う権利、売る権利を欲に目がくらんだ小金持ちに売却するほうが手っ取り早いのである。欲に目がくらんだ小金持ちに売却できるのであれば、それらは金融商品となり、銀行が一括して買い上げて、欲に目がくらんだ小金持ちに小分けして売却することが容易になる。つまり、巨万の富とマフィア化資本は、買いたたいた不動産や動産を手間暇をかけて売りさばく代わりに銀行に一括して買ってもらうのである。つまり彼らにすればリスクを銀行に押しつけててっとり早く現金が手に入る。証券化された権利と他の金融商品がセットになったデリバティブ(派生)金融商品は限りたく複雑に多様なものが生み出され、利益とリスクの関係がほとんど見えなくなってしまう。これらを買う小金持ちもまた仲介する金融機関もリスクを十分理解することなく、絵にかいたモチである予定利益だけに目がくらんでしまうのである。巨万の富とマフィア化資本は、こうして銀行に時間とトラブルのリスクを押し付けて、利益を短期に確定して、次の獲物に向かうことができるようになってきたのである。錬金術も高速化し、獲物を食いつくす側は大食いになり、食われる生産者と消費者は種族の維持にさえ事欠く状態になったのが2008年の不況の実態である。
つまり、2008年の不況の主犯は巨万の富とマフィア化資本であり、国家と金融機関はだまされたか脅されて付和雷同し、うすうす勘ずいていたではあろうが、共犯者になり下がっただけなのである。
金融を自由経済の中に置くことが、国家の金融政策の基盤だったが、金融を統制しないかぎり国民経済は乱れて破たんしてしまうという現実が生まれてきた。このような時、国家はどのような対応をとるかと言えば、1990年代の初めに、世界に先駆けてバブル崩壊を経験した日本がとったように、ゼロ金利政策、中央銀行による量的緩和策、銀行への資本注入が3本柱である。ゼロ金利政策、中央銀行による量的緩和策は、巨万の富とマフィア化資本が歓迎するところであり、これらに関する政策発動のニュースが流れると株価はプラスに転ずる。銀行への資本注入は、巨万の富とマフィア化資本が嫌うところであり、これに関する政策発動のニュースが流れると株価はマイナスに転ずる。この原理は極めて単純である。
銀行への資本注入に関する政策発動のニュースが流れると株式評論家や経済評論家は「明日の市場は好転するだろう」と間の抜けたコメントを語っていたが、そのたびに結果は逆に悪化したことのは、多くの人の記憶に新しいはずである。「政府は経済に良いことをしたはずなのに、市場は反応しなかった」などと負け惜しみのコメントが翌日はテレビや新聞をにぎわしていた。銀行への資本注入は、実際巨万の富とマフィア化資本が嫌うところなのである。その理由は極めて明快である。銀行への資本注入とは、とりもなおさず、国家による銀行の監視を強めるということであり、巨万の富とマフィア化資本が銀行をだましたり脅したりすることを難しくするということなのである。当たり前のことだが、巨万の富とマフィア化資本は、銀行に対する国家の統制の強まった国からは逃げ出して、統制の弱い国に稼ぎ場を移してゆく。巨万の富とマフィア化資本に首輪をつけ鎖を握ることのできる人は今世界に一人もいないのである。
株式評論家は必ずしも経済の専門家ではないのでやむをえないが、経済の専門家がこんな単純なことに気がつかないでどうするのだろうか。しっかりしてほしいものである。
今は金融資本主義の時代であり、金融は国家のかなめである。金融は国家に頼り、国家は金融を介して国民経済を掌握してきた。いま、国家は、巨万の富とマフィア化資本にコケにされ、金融は巨万の富とマフィア化資本に手玉に取られている。巨万の富とマフィア化資本から金融を取り返そうと国家が踏んばると多額納税者である巨万の富とマフィア化資本はその国から逃げ出してゆく。国家は板挟みに合っているのである。金融と国家は貧乏な結合を再開するか、やりたい放題の熱狂と悲惨を継続するかの選択を迫られている。金融と国家の複合体は、その結合の意義を失いかねない瀬戸際に今たたされているのである。
国家における銀行の役割は、おそらく終焉を迎えようとしているのである。銀行もまた国家の枠内ではもはや生存が困難になっているのかも知れない。その責任は、国家にあるのでもなく、銀行にあるのでもない。巨万の富とマフィア化資本が国家の手に負えないほどに巨大化してしまったことにあるのである。

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古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2)--情報社会学、予見と戦略(27)

2009/01/02
古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2)--情報社会学、予見と戦略(27)

ミニシリーズ: 新しい「公」への希望(全4回)
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1.2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)
2.古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2) --情報社会学、予見と戦略(27)
3.金融の役割-新しい「公」への希望(3) --情報社会学、予見と戦略(28)
4.地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)
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新春にあたって、旧年の苦悩を振り払い、近未来にある希望をはっきりとさせておきたいと思う。
今年は、希望が見えてくる年である、と私は思う。
それは、単純に景気が回復するというような希望ではない。激動と動乱もあるかもしれないが、その先にある未来に一条の光を見るのである。

2.古き「公」と新しい「公」
日本では平成18年5月(2006年5月)に、「公共サービス改革法(競争の導入による公共サービスの改革に関する法律)」が成立している。国の行政サービスを民間に担ってもらうというもので、市民サイドからすれば国に頼らない社会的サービスを自分たちの手で、という機運と重なっている。
"豊かな「公」の構築"というと平成18年東京都が定めた都の行政サービスを民間に担ってもらうための基本方針である。
行政サービスのコストを賄えなくなった行政が一部を民間に投げ出しているのである。市民の側から見れば、市民参加のまたとないチャンス到来である。
これらの現象は、かねてから私が繰り返し説明している市民参加型社会の成立の帰結でもある。
国家の中で、国家が握っていた行政サービスを国家が手放すということはある意味ではかつてない「暴挙」である。逆にいえば画期的な出来事である。
この動きは日本ばかりの現象ではない。アメリカもEUもである。古き「公共」は、世界の各地でガラガラと音をたてて崩壊を始めている。かつては国家に多額の税金を納めることによって身を守ってもらっていた世界の巨万の富たちは、もはや国家に多額の税金を支払うことをばかばかしいと思い始めているのである。彼らは、税率の高い国を去って税率の低い国に簡単に逃げ出してゆく。
世界の富の集中と格差拡大、国民国家の命運--情報社会学、予見と戦略(8)
だから、国家はどんなあがいても多額の税金を彼らからせしめることはもうできくなりつつあるのである。
要求される公共サービスに比較して税収が追い付かない以上は、民間に社会的サービスを肩代わりしてもらうしかなくなっているのである。
国にとって巨額スポンサーだった巨万の富が国家の縛りをのがれて行き、市民も国家の公共サービスをそれほど当てにしなくなると、国家は一体どうなるのだろうか。誰からも頼りにされない権力とは無力というしかない。
現代は国民国家が主流である。民族国家への指向は紛争の激化という代償を要求される。第一次世界大戦と第二次世界大戦という大きな犠牲の後は、世界の各地で、民族国家よりは国民国家を設立する動きとなったのである。250万年の人類史上での国民国家は、高々100年の歴史しかない。地上に生まれた瞬間的なあだ花なのかもしれない。国民国家は、今、風前のともしびなのである。
これまでの「公」は、それ以前の群雄割拠する君主のための「公」ではなく、民族に捧げる「公」でもなく、国民国家の設立を支えることを目的とした「公」であった。
しかし、その支えるべき国民国家はすでに揺らぎかけている。国民国家を支えてきた巨万の富は、国民国家を見捨て始めた。市民はこれを当てにしなくなった。
ヒトは、社会を捨てて、個人で生きてゆけるかという思考実験はしばしば文学の世界で試されている。最も有名な思考実験は「ロビンソンクルーソー」である。作者は無政府主義者だったが、この小説を書き進めるうちに、ヒトは一人では生きてゆけないと強く感ずるようになり、無人島のクルーソーは、帆船に見つけられて、人々の待つ社会へと帰ってゆくのだった。
古い「公」が成立しがたくなっている今は、ヒトに新しい社会すなわち新しい「公」が必要である。
それは、巨万の富がそうしているように、また市民もそうし始めているように、国境を超えた「公」の構築である。
「公の再構築」という人がいるようだが、それは、「国民国家の再構築」という意味だろうか。そう主張するのであれば、間違っている、と私は思う。国民国家は、否応なしに、紆余曲折を経ながら、次第に弱体化し続ける。とどめようもない歴史の流れである。
ちなみに、ブッシュアメリカは、アメリカの私利と私怨のためにアフガンとイラクに侵攻した。日英仏独などは同盟関係を理由にこのアメリカの私利と私怨に付き合った。流血は続いており、多数の命と財産が失われている。振り返ってみれば市民社会の伝統によれば、市民の間に紛争が起これば、市民同士が刃傷沙汰に及ぶのはご法度である。警察や裁判所などの「公」の行政機関によって処理され裁かれなければならない。一方、国家の外では、個別国家の私利と私怨のためにむき出しの暴力が振るわれ、数えることもおぞましい累々たる死者が続いている。もしも、われわれが地球から少し離れて高く飛ぶ鳥の目を持つことができるならば、地上の私利と私怨による各国の争いを封じ込めるのは、国家を超える行政府しかないことに気付かないわけにはゆかない。
国家はなくならないだろうが、別の新しい「公」=世界の秩序の希望が見えてくるはずである。国家の統制に従わない巨万の富も、ギャングよろしく国家を敵にして暴れまわるジャンクボンド(ギャンブラ資本、またはマフィア化資本)も従わざるを得ないのは、唯一、世界を統合する行政府だけである。地球と人類が国民国家に分裂している間は、国家間の利害の対立はなくならず、その対立の隙間に入り込み、巨万の富は利益をむさぼり、マフィア化資本は悪事の限りを尽くすのである。国家を当てにしない市民にとっても、個人生活のためには国家は大きすぎて、社会的サービスのためには国家の枠は狭すぎるのである。市民の社会的サービス事業が成功をおさめるためには、やはり国境を越えて、「国境なき××団」になる以外にないのである。巨万の富も、マフィア化資本も、市民も、国家は個人のためには大きすぎるが、事業のためには狭すぎと感じているのである。この点で巨万の富も、マフィア化資本も、市民も利害と思いは一致するのである。しかし、地球規模の行政府については、巨万の富も、マフィア化資本も反対だろう。彼らは、行政府の規制をのがれて市民から奪うだけ奪い尽くすのが使命である。市民は、秩序ある経済活動を求めるので、地球規模の行政府を求め続けるだろう。この点では、巨万の富およびマフィア化資本と市民は鋭く利害が対立する。
いささか、唐突に聞こえるもしれないが、こうして迫りくる時代の変化を敏感に感ずる善良にして小心な我ら市民は、古い「公」にしがみつくのではなく、新しい「公」の中に希望を見出しているのではあるまいか。セカンドライフ、モバゲー、グーグルなどが企業や市民、若者に支持されるのは、新しい「公」への息吹を感ずるからに違いない

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2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)

2009/01/01
2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)

ミニシリーズ: 新しい「公」への希望(全4回)
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1.2009年年頭に想う-新しい「公」への希望(1)--情報社会学、予見と戦略(26)
2.古き「公」と新しい「公」-新しい「公」への希望(2) --情報社会学、予見と戦略(27)
3.金融の役割-新しい「公」への希望(3) --情報社会学、予見と戦略(28)
4.地中の芽-新しい「公」への希望(4)--情報社会学、予見と戦略(29)
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新春にあたって、旧年の苦悩を振り払い、近未来にある希望をはっきりとさせておきたいと思う。
今年は、希望が見えてくる年である、と私は思う。
それは、単純に景気が回復するというような希望ではない。激動と動乱もあるかもしれないが、その先にある未来に一条の光を見るのである。

1.昨年後半に始まった不況の主犯は金融か、国家か
昨年後半は激しい不況に見舞われた。
マスコミも経済学者もこれを「金融不況」と表現している。「金融不況」という表現は、実態を表しているだろうか。
今回の不況が発覚した端緒は確かに金融の失敗からだった。
しかし、世界でも相応に賢い人材が集中しているはずの金融業界が、1990年代初頭の日本のバブルの崩壊から学んでいないはずはない。金融の失敗がそもそもの原因だったのかという疑問があって当然である。金融も大枠でいえばだまされた被害者だったのではあるまいか。厳しく見てもせいぜい付和雷同した共犯者と言ったところだろう。金融業界だけを悪者にするのは酷というものである。
金融業界もひどい状態にはなったが、不況の被害は金融業界に集中しているわけではなく、自動車や家電メーカなど製造業に集中している。なぜ製造業が直撃されたのか。無理なスタグフレーション誘導が世界市民の耐えるところではなくなったからである。誰が無理なスタグフレーション誘導を進めているのか。政治家も経済学者も金融国家複合体の防衛のための目前の課題を何とかしようと躍起になっているだけである。ましてや、テレビのコメンテータも、金融国家複合体の防衛(金融システムの防衛)をヒステリックに語るだけである。
それでは、国家がその原因だったのかと言えば、それもウソである。たしかに、ブッシュが衰退が始まったアメリカとその国民をだまして、米国債拡充という大借金政策で益少なくして被害甚大な戦争を強行したために、人々の効用に向けられるはずだった人類ののもつ資産を軍費として急速に消耗したことは事実である。これがアメリカという国を一気に疲弊させたことが、金融国家複合体の時代の終焉を速めたかも知れないとは思う。
ブッシュもただの"バルンガ病"患者だったというわけではあるまい。彼なりに、アメリカという一つの金融国家複合体の衰退に立ち向かうべく、渾身の力を傾けていたに違いない。否、彼だけではない。彼を支えたブッシュ政権の人々はみな誠心誠意、古き「公」を支えるべく努力を重ねていたのであろう。・・・、無駄な努力だっかも知れないのだが。
そう、古き「公」がその威光を失いつつあるのが、今なのである。渾身の努力は、かえって、古いアメリカ、否、古い世界の、残り少ない体力をたちまち消耗しつくして、古き「公」の瓦解を速めてしまったかのようである。
瓦解の後には消滅だろうか。否、文明は瓦解の後に新たな構築が始まる。古い文明の地は捨てられても新しい文明の地がその活力を示し始める。古き「公」の後には、新しき「公」が始まる。新しい「公」は再びアメリカ一極集中型とは限るまい。新しき「公」の中心は、日本などの東南アジアか、アフリカか、中東か、中南米か、中国か、インドか、ロシアか、・・・、あるいはネット社会なのか。それは、まだわからないが、新しい時代はすでに始まっており、古い時代は終わりかけている。私の予想では、新旧の交代期もここ1-2年で終わるのである。
新しい時代への希望を、2009年の年頭にあたり、ささやかに記しておきたい。
(次の記事に続く)

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琵琶

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