2009/02/26
成功する単位組織-日本の成育環境(6)--心理、教育、社会性の発達(78)
ミニシリーズ: 日本の成育環境(全6回)
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1.胎児は母の言葉を聴いている、母語を大切に-日本の成育環境(1)
--心理、教育、社会性の発達(73)
2.なぜ母子同室優先か、心の芽をつぶすな-日本の成育環境(2)
--心理、教育、社会性の発達(74)
3.見て覚える脳、共感する脳-日本の成育環境(3)
--心理、教育、社会性の発達(75)
4.良識は勝ったか?-日本の成育環境(4)
--心理、教育、社会性の発達(76)
5.教室は「社会シミュレータ」-日本の成育環境(5)
--心理、教育、社会性の発達(77)
6.成功する単位組織-日本の成育環境(6)
--心理、教育、社会性の発達(78)
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1.どんな組織(社会的組織)にも単位組織は存在する
私は、これまでも単位組織について、このブログでもたびたび書いてきた。
"単位組織 site:http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/"
検索サイトで上記のような検索語を入れて実行すると、現時点で24件の私の記事が見られる。これからもこの数はふえるだろう。どんな時も、ヒトと接する以上は単位組織を意識しないわけにはいかない大切な概念だからである。子どもたちが成長し、社会で活躍できるようになるためには、この単位組織に習熟するとともに単位組織の間の組み合わせや交流に習熟しなければならないのである。
「単位組織 by 琵琶」 with Google検索
「単位組織 by 琵琶」 with Yahoo検索
「単位組織 by 琵琶」 with Nifty検索
「単位組織 by 琵琶」 with Excite検索
「単位組織 by 琵琶」 with Biglobe検索
・・・
どんな社会的組織にも単位組織は存在するのである。
単位組織とは、組織の中の組織、組織を構成するための基礎組織である。その組織は実に単純にして明快ないくつかルールから出来上がっている。まず、その大きさは基本的に3人から7人という規模である。
成功する企業、成功する軍隊、成功する大学、成功する町会、成功する学会、・・・。そして成功する教室にもその単位が存在する。
ある大きな企業を取り上げてみることにしよう。
この企業A社は、4つの重電関連事業本部、5つの家電関連事業本部、3つのソフトウエア関連事業本部、1つのLSI事業本部、1つの人材派遣事業本部がある。事業本部長は14名いるが、バラバラに存在するわけではない。
重電関連事業本部本部長会議4名
家電関連事業本部本部長会議5名
クリエイティブ事業本部本部長会議5名
のように、事業本部長はそれぞれの本部長会議に属している。3人以上7名までの単位組織の原則に合致するグループである。本部長会議は水曜会と称して、水曜日の朝8時、別々の3つのホテルのレストランにそれぞれ集合して朝食をとりながら情報交換をするのである。本部長はすべて原則として取締役でもあるのだが、本部長を兼務しない担当常務3名が1名ずつこれらの本部長会議に参加して、木曜日の常務会に報告するのである。
さて、最後の「クリエイティブ事業本部本部長会議」には、3人のソフトウエア関連事業本部長、1人のLSI事業本部長、1人の人材派遣事業本部長の寄り合い所帯である。分野がそれぞれにすこしずつ違うが、バラバラにいるよりもこうして5人がかたまり、担当常務と親密に食事をしたほうがはるかに円滑な組織運営ができるのである。
それぞれの事業本部は、いくつかの事業部を抱えており、事業部長もグループ化されている。事業部の下にはいくつかの部があり、それぞれの部長は部長会にグループ化されている。部長の下にはいくつかの課がありそれぞれの課長がいるが、課長もまた課長会議にグループ化されている。課のもとにはいくつかの班またはグループと呼ばれる小集団がいる。班長やグループ長は課長を交えて班長会議やグループがあることは言うまでもない。
さて、それでは、その末端に位置する班やグループは何人で構成されるかと言えば、やはり3人以上7名までである。
このような企業組織を末端から上部へとたどれば、3-7人で構成する班またはグループがあり、その上には課があり、課の上には部があり、部の上には事業部があり、事業部の上には事業本部があり、事業本部の上には取締役会があるということになる。上部組織にも存在する単位組織は下から見ていると見えにくいが、上述のように上から下にたどればよく見えてくる。上から見ても下から見ても末端にいて、巨大な組織を支えているものは班やグループと呼ばれる基礎的な単位組織であることはまごうことがない。成功する課長は、命がけで生死をともにするくらいの決意と実行力のある班を一つ以上抱えているのである。
「2006/7/16 人類社会は次の激動再編へ--情報社会学、予見と戦略(2)」に掲載した図(社会の飯箸モデル)
「組織と情報コミュニケーションにおける"影響関係モデル"の提案」(飯箸泰宏、矢ヶ部一之、情報コミュニケーション学会第3回全国大会発表論文集、pp.89-90(2006)、及び口頭発表資料より

最近見やすく書き直された図(社会の飯箸モデル)
(図をクリックすると拡大表示されます)

単位組織は、軍隊においても同じである。ドイツ・アメリカの軍隊でも小隊は一人の小隊長と6人の部下で構成されている。日本の自衛隊も同じである。つまりは7名を限度とする単位組織であり、成功する軍隊は、小隊長が「突撃!」と叫べば、次の瞬間8-9割は死ぬと知っていても敵の銃弾の嵐の中に飛び込んでゆく部下の兵士たちで構成されているのである。小隊とは同じ釜の飯を食った男たちの集まり、生死をともにすることを誓い合った男たちのことである。
身近な組織である大学の事務組織、町会の班組織、学会の分科会発表者、・・・。これらのコミュニティも3-7人の小集団を基礎にしているのである。
これらの小集団を公式に組織する場合もあるが、多くの場合、放置しておいても非公式に成立し、その小集団に名前をあとからつけることもよくある。硬直化した公式の組織が長く続くと、非公式コミュニティが自然発生的に生まれて、組織の活性化や転覆が図られるが、その単位も3-7人である。
昔の共産党の細胞(今は委員会と呼ぶらしい)もイスラムのテロ組織も、ナチスに抵抗したパルティザンの組織も基本は7名を限度に作られた小集団を基本にしていたのである。
そして、教室の中の学習コミュニティも3-7人の小集団を基礎にしているのである。
「7」、それは、社会学の世界で古くから言われるマジックナンバーセブン(7)なのである。--しかし、もう一方の「3」については、社会学は気づいていないようだが、そのことについては、あとで述べることにする。
いやいや、といまどきの社会学者は首を振るかもしれない。安定した組織の形態に13名という事例がある、とおっしゃる新進気鋭の社会学者がいる。知っていますとも、私も実務でたくさんの組織を作り、援助し、解体再編してきたのでどれほどたくさんの例外があるかも十二分に知っている。例外はともかく、原理原則は3-7人で構成されるのである。2になってしまうケースも8名、9名になってしまうケースも知っている。大概は一時的か例外的な集まりである。それ以外のバリエーションもその顛末もいろいろあるが、それらについては、ここでは詳しく述べるつもりはない。「13名」についてだけ、ここで私流の種明かしをすれば「6人+1名のリーダ」という2つのグループが成立していて、そのリーダが2つのグループのリーダを兼務していたら、合わせて何人になるかを考えて見れは良い。合計13名になるのである。
ある家族のご亭主が妾宅の主人も兼ねていれば家族は総勢十数名となるので、その原理に近いのである。---、オスが2つ以上の家族を同時にもつという事例は自然界にも散見されるところであり、人間界だけのことではない。オスはメス中心の子育て家族運営の支援者という役回りなのでこんなことが発生するのである。オスが偉いからではなくて、この場合、オスは2匹のメスの子育てにそれぞれ協力させられてタブルワークの重労働を負っているだけのこととみられなくもない。しかし、それはそれとして、かれらは少数派という意味であくまでも例外的存在であることをはっきりさせておかねばならない。妾宅を持つことが、たとえうらやましく見えたとしても、それが正常だとか、少なくとも私は言うつもりがない。くわばらくわばら、一つの家族を守るだけでも精一杯である。
家族組織と単位組織の相同性に驚かされると思うが、この点についても後で述べることにする。
2.社会組織の単位組織は家族起源である。
ネアンデルタール人とクロマニヨン人が分離したのは、遺伝子時計で見る限り60万年ほど前のことである。私は、クロマニヨン人のような現生人類が成立したのは、エデンの東、カナンの肥沃な土地だろうと推測しているのだが、まだ確かめるべき考古学的証拠はない。アフリカで主たる進化を遂げた人は、幾度もアジアに流出し、はるか100万年以上前に流出した人類はジャワ原人や北京原人となった考えられている。
ジャワ原人や北京原人となった人々は、基本的にはネアンデルタール人と同様にムレ(群れ)を作って行動していたがムラ(邨)は作らなかったと思われている。
カナンの土地は生命誕生以来ながく世界でもっとも肥沃な土地であった。なぜなら、今は地中海や黒海などの切れ切れになった水のかたまりは、その昔、生命誕生のころは一つの閉じた海であったと考えられている。現代の人々が名付けた園海の名前は「テーチス海」である。「テーチス海」はやがて閉じた陸地が切れてジブラルタル海峡から大西洋に開かれ、生命は全世界に広がるが、長くテーチス海こそが生命のゆりかごとなっていたのである。たくさんの種類の生命がここで生まれ、生きたままあるいは死骸となって海面を漂う物も多かったに違いない。何億年もの間、偏西風は海面の有機物を東へと吹き寄せ、今では死海-黒海などがあるオリエントの地に堆積させたのである。これらの有機物の一部は地中深くに埋めれて発行し地熱と地下の岩石の触媒にによって変性し、石炭や石油、天然ガスになり、地表ではたっぷりと有機物を抜くんだ肥沃な土地を誕生させていたのである。
香り豊かなオリーブとはちみつとブドウと小麦と山羊の乳が手に入る豊かな土地に人が進出すると、アフリカでは起こり得なかったある変化が人の群れ達に訪れた。アフリカでは広大な土地にまばらな人の群れしか暮らせなかった。何度も干ばつに襲われたこともあるが、人が暮らす比較的豊かな土地といえども複数の群れが一緒に暮らすことなどとてもできない資源環境だったのである。群れ、一組の夫婦とその子供たち、その子供の子供たち(孫)の集まりが群れの基本構成である。血のつながりが確信できる者たちの血の紐帯によって結ばれているのが群れである。彼らの中では助け合い、獲物や収穫物は分け隔てなく分け合うことが行われただろうが、たまさかに他の群れと遭遇したとき、ヒトの群れはどのような反応を示しただろうか。えさ場を荒らされるかもしれない、わが群れを襲う無思慮な桂かもしれない、・・・、叫び声をあげ、ものを打ち鳴らし、大きな木の枝をゆすって威嚇して、他の群れを追い払おうとオスは血道をあげ、メスは争いに巻き込まれまいとして小さな子供たちを抱えて、オスたちの背後に隠れるようにするに違いない。たいていは、どちらかの群れが諦めてその場を立ち去ってその危機も去ってゆく。群れが合同して一緒に暮らすという理由もきっかけも生まれないに違いない。
香り豊かなはちみつとブドウと小麦と山羊の乳が手に入る豊かな土地、カナンの人々は、その土地が肥沃であるがゆえに獲物である動物が豊富で、オリーブとはちみつとブドウと小麦も、みどりの葉も豊かに存在していれば、群れは安定した生活を手にいれ繁殖し、たくさんの群れが分立したことだろう。生活圏は密集し、隣り合う群れの姿を見る機会も多くなるが、そのつど、群れ同士がいがみ合い争っていたら生活活動が著しく阻害され生存効率が悪くなるだろう。群れ同士が近づき、昔語りに登場する遠い遠い祖先が一緒ならば共に生きることを約束しあうことのほうが生存にとって好都合だったはずである。血のつながりの代わりに、こうして神代の話(神話)を共通にする者がともに暮らすというムラ(邨)が成立したのであろう。世界で最も肥沃な土地が人をムレからムラに進化させた培養器になったのではあるまいか。この進化は、広大なアフリカというヒトの主たる進化エンジンに比べればちっぽけな小さな補助エンジンにすぎない。しかし、内燃機関の専門家ならば、ときとして主燃焼室に対して小さなサブ燃焼室を設けることは着実な着火や安定した燃焼にとても役立つことを知っているに違いない。私は、オリエント(エデンの東カナン)こそ人類の進化におけるサブ燃焼室の役割を果たしたのだと推測しているのである。異なるムレが互いの恐怖心を和らげて、一緒になるためには、おそらくアルコールの力も大いに役立ったであろう。当時は毒キノコや怪しげな薬草も大いに役立ったかもしれない。中でも、最も副作用が小さくて、効果が高かったのがバッカス神の恵み、ぶどう酒(ワイン)と麦酒(ビール)であったに違いない。カナンの地は、ぶどう酒(ワイン)と麦酒(ビール)発祥の地でもある。のちにぶどう酒(ワイン)はヨーロッパに入り、麦酒(ビール)はエジプトに入ってそれぞれに発達したのである。現代の我々もまた初対面の人とはまずは乾杯して、親密交際を誓い、仲間とはときどき(まれには頻繁に)一緒に飲んで、その友好を誓うのである。
約50万年前の村の遺跡という物がアフリカの北部に見つかったている。人類最古のムラ(邨)の遺跡である。彼らの遺跡は、かれらよりも前時代そしてその後の近隣の遺跡とはずいぶん異なっており、それ以前のアフリカの民とは切り離されたように見える。空から降ってきたのかという人もいる。進化のジャンプのように見えないこともない。しかし、それは、アフリカの外、肥沃の地カナンで細々と進化した人類の小さな枝の一部がアフリカに出戻った痕跡なのではあるまいか。出戻りの人々にとってアフリカの地はあまりにも野蛮な人を襲う人の群れのいる土地ではなかったか。このころ、カナンの地から北や西に向かった人々はヨーロッパにたどりついてクロマニヨン人となり、カナンというサブ燃焼室(サブ進化エンジン)を通らずにアフリカから主としてジブラルタル海峡を越えてヨーロッパにやってきていたヨーロッパの先住民ネアンデルタール人と共存することになるのである。屈強にして独特の文化を創りだしたが、群れしか作れなかったネアンデルタール人とひ弱だがムラ(邨)を造り既存の知識を他の新しい概念に流用できたクロマニヨン人の数十万年にわたる共存(両者の間に戦闘があったどうかの証拠は残されていない)の結果、約3万年前(最近の考古学の成果では約2万5千年前)にネアンデルタール人が消えて終止符が打たれた。
・・余計なことだが、近年、ネアンデルタール人の遺跡と思われる洞窟の奥から大量の人骨が発見されている。ネアンデルタール人の遺伝子という報告はこれらの遺体から収集されたものがほとんどである。遺伝子的にはあまりにもクロマニヨンに似ている、と言われている。まてよ、考古学のみなさん、その遺体がネアンデルタール人の遺跡から発見されたからと言ってネアンデルタール人の遺体と言ってよいのだろうか。遺体は無造作に穴の下に投げ出され積み重ねられていたという状況から見て、ネアンデルタール人が(餌として? 戦勝記念品として?)捕まえたクロマニヨン人たちの遺棄場所と考えたほうが良いのではないだろうか。疑いなくネアンデルタール人の遺体だと言ってよいのだろうか。少しは疑いの声が上がってもよいように感じているところである。・・
さて、肥沃の地でムレからムラを構成するようになったヒトたちは、いきなりムラの行政組織を発案したのだろうか。おそらくは、家族を構成要素とするムレの構造をもとにして、ムラを構成していったに違いない。ムラは血の紐帯にとらわれない結合になった以上は、最小の単位組織も血の紐帯である必然性は薄らいだに違いない。狩のチーム、果物などの採取に出かける小集団はさまざまな家族から出て構成することになったに違いない。それでもヒトの眼の行き届く最小の単位は3名-から7名である。・・・、なぜなら、ヒトが習熟しているヒトの家族は基本的に3-7名で構成されていたからである。
若いオスとメスの結合はツガイ(番い)と呼ばれるが、家族とは呼ばれない。ツガイは子供が生まれなかったり、他のよい配偶者が得られそうならばたちまちにして浮気していってしまうものである。わが恋は永遠なれと思っても、恋ははかなく壊れるのが昔から、否、生物が雌雄に別れた太古の大昔からの摂理なのである。相手の気をそらせまいと苦心さんたんすることが人の世でも顕著におこなわれて、あのハラハラドキドキがいい、と健康な男女は思っているのである。青春時代の真ん中はつらくて悲しいことばかり・・・、苦心さんたんしても別れが来ることも多いのである。しかし、子供ができるとオスとメスは単なるツガイを超えて、子供を外敵から守り、餌を確保し、子供を一人前にするまでは一心不乱に子育てに努力するようになるのである。誠に不思議と言えば不思議だが、そうでなければ子供が一人前まで育たないのも摂理である。それが家族の結束というもので、家族は自然と生死をともに行動するのである。山火事に遭遇し、炎に囲まれた家族は、パパがリーダならば、指さして「こっちへ逃げようっ!」と言えば、逃げおおせるかどうかは神のみぞ知ると思いつつもママも子供たちも身を寄せ合いながらパパの指さすほうに一心不乱に走ることになるだろう。互いの命をも預ける関係が家族であり、その習慣こそがヒト、いな雌雄ある命の永遠を生み出した原動力だったはずである。
ツガイに子供一人が加わると飛躍的に結束が固くなる。これが家族である。弟や妹が生まれるのは通常2-3年後のことである。子供が4-5人になれば上の子は独立して家族を出てゆくことになる。上限でも子供は5人、両親を入れて7人が基本の家族構成である。この構成はヒトが250万年以上続けてきた習性であり、それ以前の哺乳類の時代を加えれば何億年も数えることができる。起源はおそらくそれよりもさらに古いということになるだろう。例外はあるが、3人以上7名までで家族は構成され、ヒトが結束しうる最小の単位もまた3-7人となったのに違いない。
近代経済社会成立以降のように、女も子供も労働力として駆り出され、それが正しい生活と信じられるようになったのは、人類史にとってはごく例外的な最近の出来事にすぎないのである。産みっぱなし、産ませっぱなしの親が増加中というのは、ほとんど世も末の現象である。家族は結束するのが自然であり、本能なのである。繁殖可能性を高めるという自然の摂理にかなう行為なのである。
社会の単位組織の起源は「家族という習性」にある、と私は断言する。
だからこそ、仕事場でも軍隊でも、どんなボランティア団体でも、家族と同じ3人以上7人までで構成されているのである。
それでは、社会組織における単位組織は、その数が家族と似ているのだろうか。否、他にもいろいろと似ているところは多い。次の項では、相同性の具体的側面を取り上げたい。
3.単位組織の特徴と家族との相同性
社会組織の単位組織は、次のような性格を持っている。
1)一人は自分のことは自分でする。
2)一人は仲間のためにひとつ以上のことで貢献する。
3)仲間は助け合う。
4)その組織は上位の組織または社会に貢献して、社会から支援を受けている。
(空間を越えた擬似家族成立の条件--情報社会学、予見と戦略(5)、「人生はお金」の学生に効く言葉--心理、教育、社会性の発達(22)。これらの言葉は私の発案ではない。似たような言葉はいろいろな人が言っているようである。一部にハーバード大学ガルブス名誉教授が似たようなことの最初の発言をしたのだという説もあるが、確かめることができなかった)
上記の特徴は、家族にもないわけではないが、それは、現代では家族もまた社会組織の一員だからである。上記のような特徴以外では、家族のありようと、社会的組織のありようはあまりにもよく似ている。古い社会学の人たちは、社会組織をゲマインシャフトとゲゼルシャフトに分けて、家族や地域社会は目的のないゲマインシャフトであるということがある。これは家族や地域社会を貶めるために生み出されたためにする議論であると私は思う。企業や軍隊のように、利益を上げること、武力をもってわが意に従わせることというような目的はないが、家族には子供を産んで育てて一人前にするという大目的がある。家族のそれぞれが身と心の疲れをいやし翌日のための心と身体の活力を養うという目的も持っている。地域社会は、見知らぬ外敵の侵入を防ぎ、物資や経済のやりくりを支えあい、子育てや介護を分担しあうという目的を持っている。それぞれに目的は違うが、目的のない社会組織はないのである。
これ以外にも、似ているところはたくさんある。まず、飲食をともにすると結束が高まる。家族は基本的にはもともと飲食をともにしているが、社会的組織は、意図しなければ飲食をともにすることはできない。それにしても何と飲み会が多いことか。職場の仲間、社外の仕事仲間、教員の仲間。昔の同級生、・・・、何かと言えば、顔を合わせてイッパイ!というのが当たり前である。人々は結束を求めて飲食をともにするのである。また、寝るところを一つにすると結束が固くなる。家族は寝るところもたいていは一緒である。ひとつ屋根の下に寝るのである。家族でなくとも、社員旅行だの、ゼミ旅行だの、チーム遠征だの、結束が必要なチームはよく遠くに出掛けてひとつ屋根の下で寝るのである。奥さん以外の女性とベッドをともにしたら大問題だが、職場の同僚たちと遠出して一つのホテルの別々の部屋に泊まるのは大いに結構なことである。夜の大宴会、そのまま、風呂を浴びてホテルの自室で眠った幸せ感はなかなか他に代えがたい。一緒に行った同僚といっぺんに仲が良くなるのである。
顔を合わせる、会話する、一緒に食事する、一緒に寝るのは家族の基本である。単位組織も同じことをして結束を高めようとするのである。単位組織は家族と相同的なのである。
・・注意が必要なのは、カルト団体などの反社会的団体も、この種の人間の習性をよく知っていて、一か所に呼び出し、飲ませて食わせて、聞かせて(セミナー、講話会、説法会、etc.の名目で)、話させて(発表会などの名目で)、一緒に泊まらせて(合宿)、次第に信者や手下に囲い込むのである。聴いても目的があいまいな集団の、そのような誘いはうまく断ることにしたいものである・・
4.社会は単位組織だけでできているのか--社会の縦糸と横糸
ヒトは、どこかの単位組織に属することなしに社会参加ができない。その意味で社会は単位組織でできていると言ってよいだろう。障害者の人たちは、よく知られているように現状では周囲から見捨てられ家族からもうとまれがちになっていることが多い。そんなとき、彼らを支えるボランティア団体や就労施設にたまたま出会うことができると、自分の居場所を発見して、ほっとした明るい表情を見せる。人は社会と無縁では生きてゆけないのである。今は大不況が世界を席巻している。日本では、派遣労働者が心安らぐ所属組織もなく、異星人のごとき扱いで派遣先で働いたあと、寒空に追い立てられている。いま、大量の元派遣社員が街をさまよっている。この人たちも、協働で仕事おこしをしようという団体(私も、ささやかにそのような団体の一つを支援している)などに出会うと、最初は懐疑的な眼であったものがしばらくすると自分が参加すれば評価してもらえる空間がここにあることを感じて生き生きと、元気になってゆく。これも参加することなしに人は生きていけない証拠と考えられる。パンもなくては生きてゆけないが、ヒトはパンだけで行きてゆくこともできない生物なのである。
さて、それでは、単位組織がそこここにバラバラにあれば社会が成り立つかと言えば、それは嘘である。
単位組織も、また、競争にさらされており、所属している より大きな組織に貢献しない限り存続することが許されないか、少なくとも存続を支援してはもらえない。大きな組織はさらに大きな組織に所属しているだろうが、その組織もまたその上に組織に貢献しなければならない。現代では、地上の多くの地域で、最上位の組織は国民国家となっている。国民国家に貢献しない組織はに社会に存続を許されないか、少なくとも誰からも支援されない組織となる。
単位組織は、公式の組織(国家の行政組織につながる縦型の組織)のほかに、公式の組織を超えて緩やかな連合も構成する。前者をメタ組織、後者をネットワークと呼ぶ。メタ組織は、権利義務の関係が前提となっていて、参加して発言する自由と権利を持つ代わりに上部の決定に従わなければならない義務がある。ネットワークは、同意できる時には参加できる権利があるが、決定に従う義務はない。メタ組織とネットワークは、社会の縦糸と横糸のように絡み合って社会の安定と進歩を保証しているのである。
社会は、単位組織なしには成立しないが、単位組織があるだけでは不足である。社会を編み上げる縦糸(メタ組織)と横糸(ネットワーク)が必須である。
参考:
「組織と情報コミュニケーションにおける"影響関係モデル"の提案」(飯箸泰宏、矢ヶ部一之、情報コミュニケーション学会第3回全国大会発表論文集、pp.89-90(2006)、及び口頭発表資料
5.子供たちの発達には社会性の獲得が不可欠である
子供たちは、その成長に合わせて、知識や技能をたくさん獲得する。子どもたちをそばで見ているとその目覚ましい発達ぶりにいつも驚愕するほどである。
最近の大学生と接していると、欠けているものがある。知性と社会性である。知性と社会性は双子の兄弟であり、両者がともに刺激しあい支えあわない限り立派に成長しない。
知性も大事、社会性も大事である。最近の成育環境では社会性をはぐくむ条件がかなり失われている。これまでにも、母語の問題、母子分離の問題、共感する脳の問題、一人遊びの問題、社会的学習の問題などを取り上げた。ここでは、単位組織の大切さとその組み合わせに習熟する必要性を主張するものである。
これは、社会の仕組み(政治や行政の仕組み)や経済の仕組み(商品売買や株の売買)を教科書で教えることと同じではない。それらも悪くはないが、それだけでは足りないのである。
教室を社会シミュレータとみなして、グループの仲間の大切さを教え、グループ同士の付き合い方を体得させることが大切なのである。貢献なくして支えなしという当たり前のルールも口酸っぱく説明するよりも体得したほうがよほどよくわかるのである。
その上てあれば、社会の仕組み、経済の仕組みも納得の上に理解できるに違いない。丸暗記で呻吟させるよりも、理解させてわからせたほうが子供たちの喜びも大きいが、あなた方・私たち教師の職業的満足も大きいに違いない。
・・経済を教えると称して、ある中学校が株の売買を教えるというニュースが少し前に流れた。株の売買は合法的ギャンブルの一つである。ギャンブルは、いくら法によって許されていても小中学校の教育にふさわしいだろうか。競馬やパチンコを学校が教えるといったら、大ブーイングだろうが、似たようなものである。株の売買を教えるとハシャイでいる人々は、経済とは「経世済民」のことであることをご存じないのかもしれない。学校教育の「経済」では、まずは基本となる「経世済民」の考え方と仕組みを教えるべきではないだろうか。ホリエモン(部下は続々有罪確定、本人のみ控訴中)や村上ファンド(村上氏の有罪確定)をつぎつぎとたくさん育てたら日本の経済は発展ではなくますますの混乱となるに違いない。「経世済民」を教えずして株の取引を教えるのは私は賛成できない。・・
教育界では、「教師による斉一性への圧力」が諸悪の根源として語られることが多い。
私も繰り返し、この問題を取り上げた。
例:
超える努力--心理、教育、社会性の発達(8)
急増する小学生の教師への暴力--心理、教育、社会性の発達(9)
イジメ防止の間違った方針、正しい方針--心理、教育、社会性の発達(37)
日本の子供の孤独感は世界一、子供の幸福感一位のオランダはシティズンシップ教育--心理、教育、社会性の発達(72)
しかし、斉一性のどこが悪いの? と反論したくなっている小学校や中学校の教員は少なくないに違いない。だって、教室では一斉授業が主な活動だし、みんなにそろっていい子に成長してもらおうと願うのはどこか悪いのかというわけである。
個性はグループ活動によって磨かれるのである。そして社会に参加する技術とは、高邁な政治理論やデリバリ取引のような高度な株売買テクニックのことではないのである。単位組織の中でもまれて個性を主張できる子にすること、グループ同士の取引や妥協を通じて、教室を上手に運営する能力を身につけさせることである。これに伴って、子供たちの頭脳は活発に活動し、知識と知性は今まで以上に急速に進化してゆくのである。
参考:
個性と社会性--心理、教育、社会性の発達(5)
風前の知性と社会性、「心の信用収縮・疑心暗鬼の時代」--心理、教育、社会性の発達(51)
教室の単位組織を潰すな、それが公式のものであれ、非公式のものであれ。そして、学習コミュニティを作れ、作らせよ、活発に活動させよう。
ここに、斉一性への圧力という悪弊を除くカギがあることに注目していただきたい。一斉授業と子供たちの自発的コミュニティ学習の組み合わせが教師の腕の見せどころである。
「静かに、黙って先生の話を聞くだけの子供たち」は決して理想ではない、ワイワイ、ガヤガヤ、子供たち同士が相談して学習し、学級やクラスの運営を自発的に進めることが理想である。
先生たち、元気出してゆこう。だれが何と言っても、子供たちの発意と自発性に接するときの喜びを本当に知っているのは、現場のあなたたちではないですか。
参考: 個性と社会性--心理、教育、社会性の発達(5)
自信をもって、斉一性への圧力を排して、子供たちの自発性をのばしてゆこう。そのためには、3-7名の学習コミュニティを教室の中に作って、その組み合わせで教室運営をしてゆこう。
少なくとも私は、そうしてきたとは言えないまでも、そうしようと悪戦苦闘を30年間はしてきているのである。大学で初めてグループ学習という物を知ったという学生ももともと少なくないが、近年はますます増えている。彼らは、教師が旗を振ってもなかなかすなおにグループ学習に参加したりしないのである。なぜか、彼らは、小学校でも中学校でも、高校でも「友達はライバル」と言い聞かせられ、協力し合うということを知らないのである。協力しない大学生が、そのまま就職して会社組織や研究所でうまく行くと思うだろうか。彼らは職場につまづいて、仕事と人生に失敗し、ニートや引きこもりになる危険な海に放り出されているのである。
彼らを救うことができるのは、気が付いている大人すべてである。しかもそれは責務であると思う。大学の教員が気がつけば取り組めばよい。高校の教師が気づ付けば取り組めばいい。小中の教師、幼稚園・保育所(園)の保育士さんが気がつけば取り組めばいい。親は絶対に気づくべきである。自分の子供ことだもの。そして、その取り組みの輪が、子供が生まれてから成人するまで一貫すればもっと素晴らしい青年達がもっとたくさん輩出されるようになるだろう。
私のような年寄りは、青年達の活躍を見ることだけが生きがいである。年よりも壮年の大人たちももうひと踏ん張り頑張ろう。
次の記事: 心理、教育、社会性の発達(79)
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琵琶
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-知能を育てる(その3)--心理、教育、社会性の発達(56)