2月14日、東大濱口博研究室OB会--交友の記録(42)
2009/02/16
2月14日、東大濱口博研究室OB会--交友の記録(42)
目次
はじめに
1.濱口研究室の思い出
(1)原子炉利用申請の失敗
(2)HAPへの浮気
(3)濱口教授の一言
(4)US-Stadard-RockのActivation Analysisの日々
(5)当時のコンピュータ事情
(6)計量化に成功
(7)英語論文
(8)教授会の審査結果
(9)卒業10年後
2.2日前のパーティ
はじめに
2月14日(土)、私は、時間を気にしながら東京駅のホームから階下にかけ下り、北口を目指した。
駅は工事中で防護膜が張り巡らされている。普段と様子が違うので、ややうろたえながら、案内表示を探しながら改札を出る。目指すは丸の内オアゾ、比較的新しいレストランビルである。この5階にチャイニーズレストラン「ジ・オーキッド」がある。改札口を出るとやや小ぶりながらこじゃれたビルが目に入る。
私は、東大理学部化学科の濱口研にお世話になるとともに、10年後には東大理学部情報科学科の國井研にご厄介になっている。國井研についてはこのブログでも何回か触れた(1、2、3)が、濱口教授にふれた記事は1件だけでほとんどなかったかもしれない。
この日、実に久しぶりに、大学の最初の研究室である東大理学部化学科濱口博研究室のOB会が行われたのである。
濱口教授はなくなって十数年、今は、当時の助教授だった馬淵久夫氏(現オルガニスト協会会長、くらしき作陽大学名誉教授)を囲む会となっている。幹事はコージャスなことに、当時は助手だった元防衛大学学長の菅野等氏である。 (目次に戻る)
1.濱口研究室の思い出
この研究室のことを語るには、私の卒業研究について話さなければならない。
私は、1971年10月の末日まで、東京大学理学部化学教室の放射化分析研究室(濱口博教授)に所属していた。(目次に戻る)
(1)原子炉利用申請の失敗
卒業研究はUS-Standard-Rockの一番深い地層のRareEarths(希土類元素)の分析だった。先行するチャレンジはいくつかあったが、検出限界以下という報告ばかりだった。これを私は濱口教授に言われるままに立教大学の原子炉で2度挑戦したが検出できなかった。それではということになって、当時の日本では最も強力な東海村原子炉の中性子線フラックスを使用して放射化分析を行ってなんとか検出しようということになった。今にして思えば極めて挑戦的な仕事だった。しかし、当時の私は、この仕事にそれほどワクワクしておらず、教授が与えてくれたテーマだから仕方なく取り組んだといういささか不心得な学生だった。しかし、この仕事は、その後、いろいろな意味で幾重にも困難か待ち構えていた。まず、東海村の原子炉を使用させていただくには、教授から使用願いを出して順番を待たなければならなかったのだが、肝心なそのとき濱口教授が突然アメリカに長期出張となってしまった。申請書類が出ていないと直後に判明して、当時の研究室の馬淵久夫助教授や菅野等助手・小沼直樹助手、また研究室の有能な教授秘書の菊池女史が奔走してくれたのだが、教授の印鑑を押された書類が整わなかった。帰国後に対応するから待て、という指令がアメリカから来てひたすら待つ以外になかった。その結果、卒業が3月末ではなく10月末日ということになったのだが、遅れたことを感謝こそすれ、恨んだことはない。卒業が延びた分だけ、たっぷりと知的好奇心を満たす至福の時期を楽しめたのだから。(目次に戻る)
(2)HAPへの浮気
そのころ、実は、私は、ひそかにHAP(Hydrated Antimony Acids)という物質が気になっていた。この物質は、六塩化アンチモン(液状の物質)の液滴を、蒸留水に、ゆっくりとポタリポタリと滴下すると、水中に白雲が爆発的に広がりやがてその白雲状の物質がゆっくりと沈下してゆく。その白色の沈殿物を集めて、バットに広げて加熱乾燥するとカルメ焼き状の物質ができる。簡単に砕けるので、粒状に砕いたものをカラムにつめて、ヒトの血液検体などを流下すると、見事にナトリュウム(Na+)だけが除去されるのである。除去効率は極めて高く、他の元素や物質は完全に通過するので、放射化分析では多量のアルファ線を発して他の元素のピークを隠してしまうNa+を、他の物質に影響することなく取り除くというすぐれものであった。Na+をいっぱい含んだHAPのカラム残に過塩素酸などの強酸を流すとNa+がきれいに除去されるという性質もわかっていた。
なぜ、HAPがそんな働きをするのだろうか。当時の化学の常識では判断しようがなかった。文献をあさると、焼きあがった状態でのSb(アンチモン)とO(酸素)の組成比と、結晶化しないので粉末法によるX線構造解析での結果、すなわちSb-Sb間の距離らしきピークだけがわかっていた。Sbの外郭電子の軌道は安定的に正八面体の頂点方向にあることは間違いがないと思われた。私は、来る日も来る日も、大学ノートに分子のモデルを作って計算した。Sb-Sb間の距離の測定結果を満たして、Sb(アンチモン)とO(酸素)の組成比を満たす構造は、唯一つ、これに違いないとの目星がついた。それは、水中に六塩化アンチモンを滴下した瞬間にできた化合物(六水酸化アンチモン)が重合し水分子が除去された形に違いない。無機化合物で縮重合体ができるなどとおっしゃっている化学の権威者は一人もいなかった時代のことである。縮重合は有機化合物にしかありえないと思われていた時代のことである。さて、その先は、推測の世界である。カラムに詰められて水和したこの化合物は、どうなるだろうか。縮重合したポリ化合物(当時は無機のポリ化合物という概念はなかったので、このことを言い出すには相当な勇気がいった)がもう一度水和してファンデルワールス力で酸素原子同士が結びついていると仮定したらどうなるだろうかと考えてみた。水和した無機化合物の立体的なポリマーがそこにはできたも同然である。Sbの周りに密集した酸素原子とその中間を激しく行き来する水素原子という複雑な網目構造が出来上がる。この仮定の下に、酸素原子の隙間が多数生まれることになる。部分部分で何通りかの隙間の形が出来上がるのだが、その一つにNa+の大きさとぴったり一致するものがあったのである。実は、そんな穴があるのではないか、と狙って計算していたのである。この結果が出た時、私は飛び上らんばかりに喜んだ。強酸によってNa+が放出されるメカニズムも推定できた。そのメカニズムが正しいとすれば化学的に分離が困難なニオブとタンタルが簡単に分離できるなど多数の予測もできた。それらの予想は先輩研究者が数年後実験によって確かめたことが知られている。同室で同年配の若い学徒だった野津氏-柳田氏などに話すと、面白いと言ってくれた。しかし、当時の無機化学の常識を覆す仮定の数々を含むモデルをどう説明してよいものか、途方に暮れていることも何度もこの若き頭脳に助けを求めて口走った。彼らは、アメリカから帰ったばかりの小沼助手と相談することを勧めてくれた。小沼氏はNASAですでに輝かしい成果を上げた後の凱旋であり、私から見たら当時は近寄りがたい存在だった。
小沼氏は、私の話をじっと聞くと、「中身はまだよくわからない。しかし、これだけは言っておく。仮説を立てて証明する、という枠組みで行け。私も"小沼仮説と証明"という枠組みで研究発表を度々やってきたんです。仮説はどうやって作ったかの説明はいらないんだ。アプリオリに仮説を示してその証明を示せばよい。いいかい、仮説、仮説、仮説だよ」と言う。この言葉に私はどんなに勇気づけられたかわからない。私は、計算結果を書き込んだ数冊のノートを自宅に抱えて持ち帰ると、卒論提出用の原稿用紙にひたすら書き続けた。計算式がやたらと多い論文らしいものが出来上がった。470枚強の卒業論文だった。小沼氏、野津氏、柳田氏、中村氏などの前で練習発表し、レビューしてもらった。断定はできないが、あとは濱口教授のご判断次第だというのが、皆さんのご意見だった。(目次に戻る)
(3)濱口教授の一言
その後、アメリカから帰った濱口教授に、その論文を見せて卒業させてほしいと願い出たところ、教授は黙って私の話を聞き終わると「君の考えはわかった。しかし、この君の論文を評価することは専門外の私にはできないので、評価してもらいたいならば別の研究室に行きなさい。そして、もし、この研究室から卒業したいならば、US-Stadard-RockのActivation Analysisを完成させなさい。・・・(二人とも長い沈黙)・・・、私も定年が近いので、君がこの仕事をやってくれなければ、もうやる機会はないだろうから、一生の心残りになる」とおっしゃったのである。最後の一言は、私の胸を突いた。「わかりました。US-Stadard-RockのActivation Analysisをやらせてください」と私は言う以外になかった。そして、その瞬間、3月末卒業の予定は雲散霧消したのだった。(目次に戻る)
(4)US-Stadard-RockのActivation Analysisの日々
それから、新しく購入する最新式のActivation AnalysisのGe(Li)測定器のマニュアル、出力データの解析法などの文献を読み漁る日々となった。菅野等助手、高橋宏先輩、横山太郎研究員などが文献はそろえてくれた。これから分析しようとしているサンプルには極めて微量のRareEarthsしかない、または全く存在しないかも知れないのである。何も出なければ、卒業もできないかもしれないという切羽詰まった思いも募ってくる。それまで立教大学の原子炉で行った数度のトライでもそれらしいピークは見つからなかった。立教大学の原子炉よりは格段に強力とは言え、東海村の原子炉を使っても、はたして目指すピークが出るだろうか。出てもバックグラウンドのランダムピークは大きいので、見つけにくいだろうし、たとえ見つけても数量的に算出が困難かもしれない、ピークの統計処理の方法に良いものはないだろうかと、悩ましい日々を過ごしていた。
ある日、高橋宏先輩がドイツ人の論文のコピーを持ってきて、ここに書いてあるのが役に立つかもしれないよ、という。ありがたかった。ドイツ語の辞書と首っ引きの毎日が続いた。なるほど、それまでのピークの数量化計算法は、矩形近似か三角近似だった。この新しい論文は2次式近似だった。その場合、淡いピークでも0.5けた~1けたほど精度が上がりそうだった。
間もなく、東海村の原子炉がつかえる日がやって来た。まずは、あらかじめすりつぶして調整した試料を届けに行き係りの研究員に設置を依頼する。2か月ほど中性子線を浴びさせて放射化して取り出すのである。いよいよ取り出させた試料を扱える日がやってきた。泊まり込みでの実験である。強い放射能をもつ試料をるつぼで溶かして岩石の化学分析のスキームをだどって分離してゆく。試料はフード付きのドラフトに入れて、手前にはうず高く鉛のブロックを積んで人体に放射能が当たるのを少なくしようという環境である。胸に付けた放射線感度フィルムがすぐに真黒になるので、こっそりはずしておくのだと同行してくれた先輩が教えてくれたりした(もちろん、いけないことで、お若い人は真似してはいけません)。この先輩は、そばで、「あ~ぁ、鉛のふんどしがほしいな」とおっしゃっていた。
さて、余分な元素が多く混じっていれば目指す希土類元素のピークが隠されてしまう。精製を進めすぎると目指す希土類の収量が少なくなってピークがでなくなる。精製を止めるべき勘どころは濱口教授の長年の勘によるべき所が大きい。普通、このような実験に教授が付き添うことはほとんどないということだったが、あえて追加の留年をさせた学生だったからか、濱口教授も遅れて東海村に入って私と並んで精製を始めた。途中までの収量を比較すると濱口教授のほうが私の成果物より2.5倍も多い。なんということだろう、同じようにしているはずなのに、名人とはこんなにすごいのか、と感服した。
この日、作業が終了したあと、すでに夜が白みかけたころ、外に止めてあった車で、濱口教授が持参した奥様お手製のおにぎりをいただいたことが思い出される。その後、明け方に散策した付近の松林で見た衝撃の光景については、ここでは書かない。その後の私の人生を狂わせることになる光景を目にしてしまったのである。
"原子力は安全だから危険性に対する対処はしない"から"原子力の安全性研究に国家予算を使うべき"に移行を図った伏見康治元学術会議議長の考えに私が共鳴した下地になった出来事だった。
最後の工程となる検出器には両者の抽出物を併合してセットすることにした。なんと、私の卒論なのに、計測対象となった精製物は濱口教授のご助力分のほうが多かったのである。どう考えても恥ずかしかったが、ご好意に甘える以外に結果がだせる自信はなかった。
Ge(Li)検出器は東大本郷キャンパスにある。取って返すと、テクニシャンの方に測定をお願いした。
データが出来上がってくると、同一サンプルを数十回測定した結果があった。実は"できれば100回の測定"をお願いしたのだが、まともに採れたデータは70回分程度だっと記憶している。
そのうちのいくつかをグラフ用紙にプロットしてみるも、まったくそれらしいピークらしいものは出ていない。ランダムピークがあるだけである。今ならばグラフを描かせるくらいはパソコンであっという間であるが、当時はすべて手作業だった。
全部のデータを足して見ることにした。足し合わせた結果をプロットしてみると。何やらピークらしいものがかろうじて見えなくもない。ランダムピークが足し合わせることで相殺されて相対的に小さくなったためである。しかし、これまでの報告事例から見れば見掛け上この程度のグラフからは「検出限界以下」とされているものがほとんどである。実際に計算して、計算値が得られるかどうかが勝負である。想定するピークの位置を少しずつずらして、十数ケースもの当てはめ曲線を仮定し、ニュートン近似で2次曲線を当てはめ、ピークの面積を求めてゆく。ピークの下のベースラインの推定も同時に計算で求めなければならない。精度を上げるために、私は、当該ピークが2つコブであることに目をつけ、2つの放物線を同時に当てはめるという工夫を加えた。それは組み合わせの爆発が起きて計算量を一気に増大させることになった。それらの計算は、手回し式の計算機で実行されたのである。大学ノート20冊分はつぶしたと思う。それより、回す腕が痛くて、手が上がらなくなり、食事の箸もままならないことがしばしばだった。卒論の思い出と言えば、腕が痛かった、という思いが一番である。(目次に戻る)
(5)当時のコンピュータ事情
大型計算機センターはすでに存在していたが、学生は申請しても2~3か月待ちという状況でなかなか使用できない。(実は隣の研究室の)先輩らに教えてもらいながら、初めてFORTRANでプログラムを作り、準備はしたものの、律儀に申請の許可が下りるのを待っていたら卒論が何年かかっても終りそうにない。このとき、(隣の研究室の)先輩らから、TinyLISPをFORTRANで組むというプロジェクトに参加することを求められた。その成果は日本初のLISPになったものである。私の役回りは無料のアルバイトのようなものである。当時のFORTRANⅡでは、文字(Character)を1つずつしか扱えないので、任意長の文字列を読み込めるようにするためのサブプログラムを書くというお仕事だった。結果としてお役に立ったのかどうかはわからないが、その代りに、教授たちの目を盗んで比較的自由に計算機を使わせていただけた上に、カードパンチのやり方から、紙テープ化する申請の仕方までをすべて教えていただいた。その後多大な御世話をいただくことになる計算機センターの技師長の安楽氏と顔見知りになったのもこのころである。休日の計算機の起動はイニシャルプログラムローダの起動から、自分でやらねばならなかった。学部の学生でそんな体験をさせていただいたのは私ぐらいなものだっただろう。
そういえば、約2000枚のプログラムカードを階段下に落として、悲嘆にくれたこともあった。
そんなこんなでジタバタしても結局計算の大半は手回し式の計算機で済ませた。コンピュータでの計算結果は2-3ケースにとどまったと思う。(目次に戻る)
(6)計量化に成功
結果は、誤差の範囲を明記して数字をあげることに、なんと! 成功したのである。
誤差は一けた目に食い込む程度の大きさとは言え、含有率の桁数までは特定できたのである。(目次に戻る)
(7)英語論文
さて、この仕事は国際プロジェクトの一環なので、当然だが英語の論文にして提出しなければならない。
英語に堪能な横山太郎先輩、高橋宏先輩らの叱咤激励を受けながら、なんとか英文で書きあげて、濱口教授に提出すると、翌日、秘書の菊池女史から、あなたの英語を濱口先生が直していらっしゃるわよとささやいてくれた。叱られるのかなと心配していると、翌週の月曜日、案の定濱口教授から呼び出しを受けた。修正箇所を真っ赤にした私の原稿を見せて、「これをこれから秘書の菊池さんにタイプで打ちなおしてもらうからね。君はもう少し英語を勉強しなければだめだな」と予想通り叱られた。と言っても、怒られた気はしなかった。「誤差が大きくて、報告に値するかどうか心配なのですが」と私が言うと、濱口先生の目が笑って「いや、桁が確定しただけでも大きな成果だ」と言っていただいたのである。まぁ、内容はほぼ良いが英語がダメということらしかったので、内心ほっとしたというのが正直なところだった。
この言葉が、社会に出てから私が英語とフランス語の学校に通うことになる後押しにもなった。(目次に戻る)
(8)教授会の審査結果
教授会の審査は、予定よりも1か月も余計にかかった。結果を待つ間、私は(人並みに)気が気ではなかった。
濱口教授からやっとお呼びがかかって、お部屋にうかがうと、濱口教授は「君は、やはり大学に残る気はないのか」とまた聞かれた。以前にも何度か聞かれて、私はお断りしていた。私はこの時も、「はい、早く社会に出たいと思います」と述べた。「そうか、君の論文は2つとも合格である」と宣言するようにおっしゃった。「HAPについては、私にわからないので最初は斎藤信房先生に審査をお願いしていたが結局のところ佐々木行美先生が審査してくださった」と付け加えた。「君が望めば佐々木行美先生に紹介することもできたのだがね」と残念そうにおっしゃった。その時、その意味が私に理解できなかったことを今では少し悔やんでいる。(目次に戻る)
(9)卒業10年後
私は、卒業10年後、勤務した出版社を退職し、大学に舞い戻った。当時の教授や助教授だった方がたにごあいさつをして歩いた。多くの先生方はHAPのことを覚えていて、話題にしてくれた。US-Standard-Rockのお話はまったくと言っていいほど出なかった。なんだか濱口教授に申し訳ないように感じて、HAPについては毎回できるだけ話題をはぐらかした。
佐々木行美教授は、「私が、クラスター化合物やモレキュラシープの仕事をするきっかけの一つが、あの君の卒論だったのでね。忘れたりはできない。いつも、君の論文は、ここに置いて、時折見ているんだよ。君が卒業するときに、私の研究室を選んでくれるのを期待していたというのが本当のところでね」とおっしゃってくださった。リップサービスだったかもしれないが、当時、退職によって何もかも失っていた私にはとてもうれしい言葉だった。佐々木先生はこのあと、退職直前に、もう一度私を呼んでくれて、もう一度、窓際に置いてあった私の論文を手にとって「できればいつか君と一緒に仕事をしたかった」とおっしゃってくれたのだった。涙が出るほどうれしかった。私も先生も、もっと若かったら、・・・と思わないわけにはゆかなかった。(目次に戻る)
2.2日前のパーティ
時代を今に戻して、2日前のパーティに戻ろう。
結局、私は十二、三分遅れて会場に到着した。テーブルは3つ。幹事をしていた菅野等元防衛大学校学長が私に座るように命じた席は何と馬淵久夫大先生が座っている中央のテーブルだった。ぎょっとしたが、他に空いている席もないようだったので、「遅れてすいません」といいつつ、腰をおろした。目の前には今村峯雄国立歴史民族博物館名誉教授兼総合研究大学院大学名誉教授、馬淵久夫先生をはさんで反対側には古川路明四日市大学名誉教授、私の左手は元伏見参議院議員秘書を務めた菅沼純一氏、そのさらに左は横山裕道淑徳大学教授が座っている。やや場違いなお偉い方々の席に紛れ込んでしまったらしい。
馬淵先生の挨拶に始まって、乾杯、歓談と次第に会場は盛り上がりを見せてゆく。私の目の前の今村名誉教授と話しているうちに今村氏と馬淵氏は今も考古学の世界の年代測定分野で活躍していらっしゃり、箸墓の年代測定が完了したばかりだという。三人でこの話題で盛り上がった。「箸墓」の「箸(ハシ)」は、私の氏名の一部でもあるので調べたことがあり、オーストロネシア語(太平洋の島々の民族の言葉)の"銛"や"槍"という意味であることなども、話題として提供した。今村名誉教授と馬淵大先生も軽い驚きを見せて関心をもたれたようであった。一連の研究で、弥生時代の年代がほぼ500年程度さかのぼることになり、日本史の根本的見直しにつながる可能性があることも語られた。別の席を見ると、同期の野津憲治東大教授や中村祐二(財)原子力安全技術センター理事、栗田工業の本村氏がいる。途中で席を移動して、物理学指向の柳田教授や後輩の倉剛進元経済産業省技官、元電力中央研究所大隅多加志氏らとも握手しながら会話を続ける。
別のテーブルには秘書だった菊池女史、沼田氏、笠井氏、高橋宏JST部長などがいた。
近況報告の時間では、皆さんともに多彩な経歴を披露されていた。私も、大学を出てからのおよそ40年の最初の10年が編集屋で、後半約30年がシステム屋であることをお話した。出版社勤務時代の私を知る人は多いが、異なった分野に進んでシステム屋として過ごした30年については知る人が少ないので、その異なる世界を説明した。私が大学で週10コマの講義を持っていることを紹介すると、驚きの声が上がったりもした。
こんなにも素晴らしい人たちに囲まれて、学生時代を送ったことが、本当にうれしくなっていた。中華のフルコースをいただいて満腹し、二次会は同じビルの地下でコーヒーをすすりながらお話の続きがされた。
また、会いたいね。3年に一度くらいはやろうか、いや、毎年がいいよ、と声が上がる。私も毎年やろうというほうに賛成した。
別れ際、次々に人々が別のホームに向かう駅で、最後の二人になった時、菅野等先生が、私に「毎年がいいの?」と念を押してきた。「毎年に賛成です」と私も念を押して別れた。来年は、もっと、皆さんのお話を聞きたい。"毎年会いたい"は本音である。
皆さん、来年も元気に会いましょう。
私も、生きながらえてまたお会いしたいと思いま~す。(目次に戻る)
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琵琶
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