「独創性をつくるレポート指導」情報コミュニケーション学会--感性的研究生活(46)
2009/03/27
「独創性をつくるレポート指導」情報コミュニケーション学会--感性的研究生活(46)
3月1日、第6回情報コミュニケーション学会年次大会の二日目の午前中、発表をひとつ終えると、すぐに私のもうひとつの発表である。当日のプログラムでいえばK会場の4番目のコマにあたる。
6. 独創性をつくるレポート指導
私は、会社を興してから28年が経過するが、教壇にたつことも同じく28年になる。
まず、会社を興したときに、同時に専門学校の専任教師になった。その後、十数年前のこと、大学の教壇に立つことになった。今は、1雌雄間で、4大学、10教科、11コマを担当している。
28年前から、私は、教壇の上で苦しみ、帰宅して悩み、工夫して次の日も教壇に立つとことを繰り返している。なにを悩んでいるのか、それは、学生たちに独創性を育てようとして、必ずしもうまくゆかない現実に悩むのである。
「出された課題に正解が書いてない」(?!)--心理、教育、社会性の発達(11)
個人ブログ: 「心理、教育、社会性の発達」シリーズ
私の授業は、毎日が反省、毎日が改善である。
今回は、少し意識して授業を計画し、その成果を探ってみることにしたのである。
(1)常識のウソ
「独創性なんて教えられない」「独創性は自分で身につけるものだ」という声がある。新任の大学教員が先輩教員からそう聞かされる人もいるはずである。
本当に、「独創性なんて教えられない」のだろうか。それならば、私が毎日のようなしている悪戦苦闘は無駄な努力というものである。
しかし、適切な学習戦略(学びのデザイン)があれば、「独創性の学び」もありうると、どうしても思いたいのである。(図1)
「独創性なんて勝手に身につけるもの」というのは常識のウソとしてしまいたいところである。
「独創性の学びはある」という仮定を設けて今回は、その検証に取り組んだ。
(2)レポートのテーマの選択とレポートの構成
さて、今回、検証授業の対象に選んだ課題は、「レポートの作成」である。
学生が、それぞれレポートのテーマを選択するというのは、なかなか厄介なものである。教師があらかじめ決めれば、そんなテーマは面白くない、別のテーマにしたいという学生が必ず登場する。それじゃ、とばかり、「テーマは自由」とすると、テーマを決められないで、ずるずると提出期限を超えてしまう学生が続出する。
どちらも良いテーマの与え方ではないのである。
そこで、私は、レポート作成の課題に限って(レポートの内容に焦点があるのではななく、レポートというものを身につけさせる場合に)、教師側からテーマを2-3提示し、それらのどれかに取り組んでもよいが、それらよりももっと関心のあるテーマがあれば自由に選んでよいとするのである。
ところで、私は社会的学習の推進者である。「レポートの作成」であっても、個人に任せることはしない。個人バラバラにレポートを書かせれば、大半が「感想文」に堕してしまう。
とりわけ新しい概念を導入する際には、学生らの中に正統的周辺参加というプロセスが見られるので、学習進度がばらばらの学生が集まってワイワイとやることが最も効果的なのである。
学習の社会性について--心理、教育、社会性の発達(18)
教室は「社会シミュレータ」--日本の成育環境(5)--心理、教育、社会性の発達(77)
したがって、完成するレポートは、個人別だが、テーマは学習グループ(=学習コミュニティ、3~7名)でそれぞれ1つとするのである。テーマの選択の時こそ、学生たちが好き嫌いをむき出しにして一番賑やかに話が弾む。意見が割れると、「しょうがない、先生の出したテーマにしよう、などとお仕着せのテーマに落ち着くことも多い。
今回のレポート作成では、次のようなテーマを提案した。
・日本語の起源
・10年後石油の価格はどうなっているか
・その他自由テーマ
与えたテーマ(「日本語の起源」と「石油の価格」)は、現時点では学会でも定説や結論があるわけではない。ない方が好都合である。自分で考えなければ結論はないのだから。
レポートのテーマが決まったら、レポートは感想文ではないということを説明して、レポートの構成を示す。レポートの構成の仕方には様々な流儀があるが、私の場合、レポートの構成は 故 木下是雄 学習院大学元教授の提案に準拠している。
学生たちは、小中高と一貫して、感想文ばかり書いていて、レポートというものを本質的に知らないのである。生活綴り方の影響を汲んで、小学校ではまず生活感想文を書かされる。クラス旅行などの際には旅行感想文が求められる。小学校高学年から高校にかけては、読書感想文が主流を占めてくる。たとえ、それがレポートという名前であっても、実際は感想文なのである。過去に私が行ったアンケートでは、大学初年生の約99%がレポートの書き方を学んでいないことが分かっている。逆に100人に一人程度は、心ある高校の教員によってレポートの書き方を学んでいる程度なのである。この状況は、アメリカ、ヨーロッパ、中国、ベトナム、フィリピンなどと比較して、極めて特異な状況といってよいと思う。生活綴り方運動の成功体験から日本の教育界がまったく抜け切れていないということに違いない。
レポートの構成の仕方を一通り、板書をしつつ、教えると、学生たちは、わかったような顔をする。しかし、そのまま「さぁ、書いてごらん」といったら、たいへん、ほとんどの学生は、目次すら描けないし、だらだらと感情表現ばかりが続く感想文を書いてくる。これをダメというと次には、どこかのホームページに上がっている小論文をそのままコピーして持ってくるのが関の山である。「だって、~、レポートの書き方なんてだれも教えてくれなかったし、入試にも出ないし、知らないんだからっ、コピペ以外にやりようがないよ」というのが学生らの言い分である。教えてもらえていないんだからできない!って・・・、そりゃ、もっともだ、とわたくしは思う。だから、入念にレポートの書き方を教えるのである。
図2 テーマの選択とレポートの構成
(図をクリックすると拡大表示されます)

(3)社会的脳モデルとレポートの作成
社会の基本的な構造と知識の基本的な構造はよく似ている。約60万年前、ヒトは社会を造るヒトと、社会を作らないヒトに分かれた。前者の一部はクマニヨン人と呼ばれており、我々現生人類は、ヒトは社会を造るヒトの子孫である。後者ではクロマニヨン人と同時代を生きたネアンデルタール人が有名である。前者はムレだけではなくムラを作った。
社会を造るヒトたちは、血縁のない人たちとも一緒に暮らして共同作業や分業と協業によって生産性を高め、外敵と闘って、生存の効率を高めた。ムラでのヒトたちは、社会を作りその中で融和してゆくだけの知能を持たなければ、ムラから排除され、生存不能となったに違いない。指揮命令を効率よく行う縦型組織も、ムラの中の情報共有のための人のネットワークも、ヒトが脳内世界にモデル化して構築しない限り対応が難しい。シミュレートできる脳の力(ミラーニューロン)の力は大いに発揮されただろう。
結果として、ヒトは「社会的脳」を獲得したといわれている。しかし、私は、寡聞にして「社会的脳」とは何なのかを説明した文献に出会ったことはない。「社会的脳」と言ってしまえば説明が済んだような気になってしまうのかもしれない。
私は、「社会的脳」モデルの前に、情報コミュニケーションのモデルを説明するために「社会モデル」を提案している。この社会モデルは、単位組織の存在と上位組織と下位組織の関係(メタ関係、参加の権利と服従の義務の関係)と、縦割りの組織や上下関係を越えてつながってゆく、ヒトのリンク関係(ネットワーク関係)が、縦糸と横糸のように社会を織りなしている様を示している。国民国家の時代に沿ったモデルという意味で時代限定的であるが、60万年前に成立したムラの構造も、基本形においては大差がないはずであり、最上位が「国民国家」ではなくて、ムラ長か長老会議という違いがあるにとどまるだろう。よく見れば、現代の単位組織は家族だけではない社会的単位組織(グループ)が、家族の数よりもはるかにたくさんになっている。太古の昔も、ムラであれば家族だけではない社会的単位組織(狩りのチーム、果物狩りのチームなど)が混在するが、その数は、家族の数ほどが限度であり、通常は家族の数よりは少なかったに違いない。
図3 社会の飯箸モデル
(図をクリックすると拡大表示されます)

図3の社会モデルとは独立して提案された社会的脳モデルは、図4に示した。同一人物の提案だから当然かもしれないが、酷似している。社会モデルの単位組織を単位知識に置き換えて、「階層化した知識(メタ知識関係、構造化知識=頭頂葉の知識)」と「知識が階層のもつディレクトリ構造の縦割りや上下関係を無視してつながるリンク(ネットワーク関係、意味知識=側頭葉の知識)」から構成されていることが示される。
脳の能力は社会成立以前に獲得された部分も内包されているし、その後獲得された(特にアフリカのイブ、Y染色体アダムなど)能力もあるが、社会の構造を理解し社会的行動をそつなくこなすことができるようになるためには、社会的脳モデルにある能力が必須条件である。
現生人の知識の分類については、前回の記事(「新しい"記憶の分類"の提案」情報コミュニケーション学会--感性的研究生活(45))を参照されたい。
レポート作成の課題は、側頭葉のネットワーク(意味ネットワーク)を縦横にめぐらせて、頭頂葉のメタ知識関係を冷静に育て上げることができると考えられる。逆に、今どきの学生はほとんど丸暗記しか経験していないので、側頭葉のネットワーク(意味ネットワーク)を縦横にめぐらせたり、頭頂葉のメタ知識関係を辿ってみたり再構築したりという、まことにアクロバティックな知能活動の荒業を体験したことがないのである。彼らは、私の授業で、この荒業を単位を落とすかもしれないという崖っぷちで体験することになるのである。
・・・補足: 側頭葉のネットワーク(意味ネットワーク)を縦横にめぐらせて、頭頂葉のメタ知識関係を育てることがおろそかになっているのが、ニートや引きこもりの大きな原因になっていると思う。
図4 社会的脳モデル
(図をクリックすると拡大表示されます)

(4)実践計画
レポート作成の課題の進め方は、大きく分けて2段階である。
第一段階 文献調査(大量の新しい知識を獲得する)
第二段階 レポートを組み立てる(知識の構造化=メタ化・ネットワーク化を進化させる)
第一段階の文献調査はグループ内で分担して行う。
第二段階は基本的には個人の作業だが、一度作成したレポートをグループ内で相互点検する。点検結果をもとに更にレポートを書きなおして完成となる。
世間には、「考える力」をつけると称する授業はいろいろあるようだが、知識の獲得だけだったり、ありあわせの知識をつなぎ合わせるだけだったり、ひどいケースでは反射神経を鍛えるだけのものだったりする。反射神経を鍛えるのはもちろん賛成だが、「考える力」をつける授業とは別に行ってほしいと思うところである。
実際のところ、メタ型の知識、ネットワーク型の知識を再構築しようとすれば、新しい知識もたくさん補充しなければたいていは無理というものである。両者(第一段階と第二段階)は切り離すことができないのである。
(5)授業計画と実践プロセス
春学期と秋学期では、カリキュラムは同じだが、学生は全員入れ替わる。毎日が反省、毎日が改善という授業スタイルなので、春学期で見つけた反省点は、秋学期の進め方で変更が加わる。
赤い波線で囲まれた部分は、春学期ではなかった部分であり、秋学期で加えられたものである。
レポートの課題に取り組む前、この課題は90分授業2回ですます予定だった。3日目は予備日として発表と講評にあてようという心づもりだった。
実際に取り組んでみると、実に4回もかかってしまった。学生たちは相互点検をする前のレポートの下書きの段階での出来が悪かったのである。感想文との違いをあれほど口酸っぱく言ったのに、ほとんどが感想文の域をでないものであった。感想文なので、木下是雄先生流の目次立てなどお構いなしである。つまり、高校までに書いてきた読後感想文のスタイルのままで、レポートとは程遠いシロモノである。相互点検させようも、点検する役割に回っても学生の頭には判断基準の自分なりの論点がないのだから、評価もできないのである。下書きのやり直しとモタモタの相互点検で時間を浪費したのである。なんとか教室としては最後にたどりついたものの、見切り完成品の成果物の評点も低いものにならざるを得ない。私は、内心かなり傷ついて反省した。振り返れば、これまでやってきたレポート指導でも結果は似たようなものであったが、準備万端して取り組んた今回のケースでもこんなものか、と思うと悔しかった。
そこで考えた。学生たちの行動を見れば、他人の考えを無批判に取り入れているだけなのだから、感想以外に書きようがないのではないか、と思い当った。批判的に読め、と言っても、本意は伝わらないだろう。おそらく彼らに「批判」と「批難」、「批判」と「反論」などの区別を教えるのには、1回の授業を追加したくらいでは済まないに違いない。ともかく現代の青少年は「批判」がタブーの時代を育っている。情けないとは思いながら、「批判」という言葉はグッと飲み込んで、「論評を書け」ということにしたのである。
秋学期、レポートの課題の最初の授業で、論文の書き方と手順を説明する。文献調査は新しいが、続く要約作成についてはほとんど心配がない。最近では「考える力」をつける授業という位置づけで高校でも練習する。大学入試にも「長文要約」が出ることが知られているので予備校でもかなり良く学習がされている。
続いて「感想」と「論評」の違いを説明する。
「君たちが高校生または予備校生までに習った作文やレポートといわれるものは、ほとんどすべてが感想文である。生活感想文、旅行感想文、読書感想文などがそれだ。感想というのは、事物や出来事、書物などを自分の感情・情念に照らして思うところを述べることだよね。これと違って、論評とは、自分の理念・論理に照らして思うことを述べることなんだよ。だから論評にはうれしかった、かなしいことだ、怒りを感ずるなどの感情表現はあってはならないよ。ひとつでも感情表現があったらレイテン(零点)だからね」(私)
「レイテン!!!」という言葉に学生たちは敏感である。しかし、一方、はじめてのことに武者ぶるいのような小さな歓声(ヨッシャ、・・・)も上がる。後述するが、実際は、「論評」は効果がきわめて高かったのであるが、学生らにとってはかなりハードルも高かったようである。
いまどきの大学のホームページには、図書館システムがアップされている。学生らは、ネットを使って必要な文献を探す。目指す文献が自分たちのキャンパス内の図書館にあるのか、貸出中なのか、他のキャンパスの図書館なのか、否、他大学の図書館にあるのか、国会図書館に行けば読めるのかが素早く検索できるのである。自分たちのキャンパス内の図書館にあるものが一番便利なので最優先である。図書館に行けは、他から取り寄せることもILLシステム(インターローンライブラリシステム)を利用してほとんど手間なしにできる。
文献の書き方を教えて、グループ内で、手分けして対象となる文献のリストを作り上げゆく。図書×3件、論文誌×3件、その他(ネット・新聞・一般雑誌など)×3件が最低義務という縛りをつけておく。全員分を合わせてブログに書く。次には、手分けして文献を読んで要約を書くのである。担当を決める段階になるとワイワイと賑やかさが増してくる。このワイワイがよいのである。ワイワイの輪に参加できない子はこのあとたいてい脱落してしまう。
要約を書くことには、学生らは自信がある。しかし、驚いたことに図書館にはいったことがないというものが多数なので、教室に残ってネット上の文献を検索している学生の面倒と図書館への引率をTAさんと手分けする。図書館では、司書の先生方が大忙しになってしまうが、多くの学生たちはここでも元気いっぱいである。物珍しさで目が輝いている。他方、ここで、一緒に行動できない学生も少数いて、たいていは脱落してしまう。新しい環境に好奇心がわくというよりも恐怖心が出てくるようである。
ここまでで「文献のリスト」、「要約と論評」が出来上がる。「文献リスト」はレポートの最後の項目にそのまま転記されるものである。グループ全員分の「要約と論評」に文献リストとのつながりを示す引用記号を挿入すれば、ほとんどそのままで本文が出来上がる。
本文は、結論を証明する部分なので、そのつもりで書き直せばよい。「結論を証明する」とは、刑事モノや弁護士モノのテレビ番組で、裁判の場面があったのを思い出せ、判事が被告がうその反論をするのに対して、言い逃れできないように証拠を次々に突きつけながらお前こそが犯人だと断定するだろう。本文は「刑事の論告求刑」のように書けばいい。その上で、ここで使用した「論評」全部を自分の考えに沿うようにまとめれば、「結論」が記述できる。と教えるのである。
そして、「はじめに」は最後に書くものだ、と教えるのである。「はじめに」は自分にとっての初めにではない、読み手にはじめに知ってもらいたいことを書くのである。「はじめに」には、「結論の予告」と「証明の方法」を書け。「結論の予告」は結論の欄に自分が書いた文章を読んで書けばできる。「推論の方法」は本文に書いた「論告求刑もどき」の証明の方法やエッセンスを書けばよい。と教えるのである。
レポートという構造物を教えるのに、建築素材の手に入れ方を教えなければならないというのが、最近の私の考えである。文献調査と要約だけでは足りないと気づかされたのが、今回の計画的な授業だった。キーポイントは「論評」であった。このおかげで、レポート作成時間は1日分縮まって3日となり、最終作品の評価点も高くなった。
図6 授業計画と実践プロセス
(図をクリックすると拡大表示されます)

(6)前期と後期の成果の比較
図7の表を見ると、前期と後期で、日数が異なること、最終成果物の平均点が異なることがわかる。評点はいずれも教師の主観的評価なのだから、どこまで客観的な指標になるかは疑問ではあるが、目安にはなるものと思う。春学期は平均62点で、秋学期は78点である。平均62点とは、合格点(60点)を下回る学生も少なくなかったことを意味しているが、他方の平均点78点にはほぼ満点に近い(95点)の学生もいたのである。
「論評」の威力は大きかった。しかし、最終成果物を出した学生の歩留まり率を比較すると、春学期は22名/32名=約69%、秋学期は9名/17名=約53%であり、歩留まり率は下がっている。「額じゃなくて、脳ミソに汗をかけ」というのが私の口癖だが、「論評」という「脳ミソに汗」の部分が加わったことで、脱落率が増えたということである。この点は次の授業のための大いなる反省点である。
図7 前期と後期の成果の比較
(図をクリックすると拡大表示されます)

(7)図8 レポートの相互点検表
学生たちが、相互にレポートを点検しあうための点検表というものを用意している。初日に点検表を配っておくのである。機転の利く学生は、素早くどんな点検項目があるから見てとると、効率よく点検を通過できるようにと考える。これは教師の思うつぼである。シメシメ、学習グループの中に一人でも先読みする学生がいると全体が引っ張られてゆく。
実は、このような点検表は、全ての課題で私は用意している。学生らの学習効果をいやがうえにも高める私流の小道具なのである。
発表の最後には、こう言い添えた。
「高校や小中学校の先生方は、教授法をしっかり習ってから教壇に立っていますね。大学の教員は教授法を全く知らずに教壇に立ちます。授業計画を立てる習慣もない大学教員は多いですし、そうする義務もありません。私のような発表が大学教員の皆さんからたくさん出るようになるとうれしいと思っています。大学における教授法がオープンに真剣に議論される日が来ることを期待しています」
詰めかけていた方には教育学部の先生も多いようにお見受けされたからである。
大きくうなづく人が多かった。
図8 レポートの相互点検表
(図をクリックすると拡大表示されます)

(8)質問! びっくり、俵木君が手をあげた
発表が終わると、質問の時間である。しかし、発表が終わるといささか本人は気が抜けている。ぼんやりした瞬間、ハイと手を挙げる男性がいる。視線をやる前に、聞き覚えのある声であることを感じた。どこにいるのか、誰っ?とややあわてた。
その男性は、座長から指名されると立ち上がって、「東京大学前博士課程の××です」という。
××の部分がややかすれて聞こえたが、まぎれもない、「俵木」君だった。びっくり仰天した。前日の懇親会にはいなかったので、本日早朝に日帰りのつもりで大阪までやってきたのだろう。
その昔、彼と出会ったのは彼がまだ学部の2年生の頃であった。彼は学生からアンケートを集めていた。私のゼミでも別の種類のアンケートを集めていた。意見交換を求めてゼミの部屋を訪ねてきたのが最初だった。その年の年度末に行われた情報コミュニケーション学会の大会では彼の発表と私の発表が連続して行われたりもした。次の年、私が担当する「情報システム論」と「情報デザイン論」の講義に出席し1年間、我慢強く、熱心に私の講義に付き合ってくれた。3年生の時もそれ以降も彼は情報コミュニケーション学会の大会の常連発表者であった。私は、ずうっとこの学会では発表しなかったので、久しぶりなのだが、彼は今年もいるだろうと思ってプロクラムを見ると今年に限ってその名はなかったのである。そのため、いささか残念に思っていた。会えない、と思っていた彼が目の前にいた。びっくりした。そしてうれしかった。
俵木君のホームページ「Dream Square(ドリスク)」
「ヒョウキクン?!」とわたくしは頓狂に声をあげた。
「はい。俵木です」といつも通りのクールな声である。
「論評をやらせたおかげで、成績は良くなってよかったとは思いますが、学生が出てこなくなってしまうというのは今後どうすべきだと思いますか?」(俵木君)
さすがに、鋭い。きっと、誰かが質問するだろうと思って用意しておいた予備のスライドを表示しながら、私は答えた。
「選択科目なので、つらい授業をやると学生はどんどん減ってゆきます。また、つらい課題が終って、別のテーマに移ると、また出席してくる学生もいますね。今回は、確かに、論評を課題に加えたことで歩留まり率が下がりました。脱落者はどちらの学期の場合もいますが、グループ活動が上手でない学生と脱落学生はほぼ同一人物であることが観察されています。学期の最初に自己紹介やじゃんけん遊びなどグループ活動を促進す工夫を次回からは加えたいと思います。子供じゃあるまいにという批判はあると思いますが、今の学生はそのくらいグループで行動することが苦手です。グループに参加できないから、聞き逃した一言を仲間にちょっと聞いてみるということができなくて脱落しているよう見受けられるので、来年の実践では、試してみたいと思っています」(私)
「ありがとうございます」(俵木君)
質疑の時間も終って、座長先生が散会を表明してお開きとなった。パソコンの後始末をしながら、早く、俵木君のあとを追って近況などを聞こうとあせった。荷物を持って立ち上がったところに、最初に質問してくれた女子学生さんが、駆け寄ってきた。この学生が発表した時に私は大人げない発言(「おる」と「いらっしゃる」の違い)をしたお相手でもある。
「ちょっとよろしいですか?」 女子学生さんの質問を断われる教師はほとんどいないだろう。
「まず、討議すると長期記憶になるという点ですが、・・・」
「はい、長期記憶にするには、十分な睡眠や座禅や瞑想も効果的です。討議すると、話題になっていることが自分の別の記憶としっかり結びついて安定した記憶になるという効果がありますね。座禅や瞑想、夢などではヒトは自問自答している状態ですから、覚醒していて自問自答することも効果があると思います」(私)
「そうですね。私もよく自問自答します」(質問者)
「それから、私、秘書クラブにも属していて秘書検定も目指しているんです。言葉づかいを指摘されましたが、どうしたら正しい言葉づかいを身につけることができるでしょうか」(質問者)
「その道の専門家ではないので、適切かどうかはわかりませんが、年長者のいる研究会や会議に積極的に出ることがよいかもしれませんね」(私)
やり取りをしているうちに、会場からどんどん人がいなくなってゆく。
「機会があったら、また、どこかでお目にかかりましょう」(私)と述べて、女子学生さんとお別れすると、一生懸命に俵木君の姿を探したが、見つからない。次の特別講演の会場に行けば会えるかもしれないと思いなおして、息子とともに別の会場に向かう。山本恒 園田学園女子大学教授の特別講演は、最終講義を兼ねるもので、面白くて、楽しくて、いろいろと考えさせられた。
しかし、どこを眺めても俵木君の姿はなかった。帰ったのだろうか。
東京から日帰りで来たら、私の2つ目の発表時間に間に合うのがやっとかもしれない。私は、一つめの発表時間に間に合わせるために前日から近くの宿に泊まったのである。その上、俵木君は私の発表が終わると同時に帰ったとすれば、私の発表を聞くためだけに来たのかもしれない。うれしいが、直接にお話ができなかったことが心残りだった。
俵木君、ありがとう。何かあったら、メールをください。お互いに都内にいるのだから、いつでも会えるよね。
参考文献(口頭発表含む)
1.飯箸泰宏、情報コミュニケーション学会第6回全国大会発表論文集、pp.92-93(2009)
2.飯箸泰宏、情報コミュニケーション学会第6回全国大会口頭発表資料(2009.03.01)
[1] 木下是雄, レポートの組み立て方, 269pp. 筑摩書房(1994)
[2] 飯箸泰宏、情報コミュニケーション学会第4回研究会, 発表資料(2008.11.08)
[3] 飯箸泰宏、情報コミュニケーション学会研究報告、5(2)、pp.14-15(2008)より不備訂正して引用
次の記事: 感性的研究生活(47)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2009/04/--47-1011.html
前の記事: 感性的研究生活(45)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2009/03/--45-d76f.html
琵琶
(補1)「鐘の声 ブログ」はリンクフリーです。ただし、「鐘の声 ブログ」の記事の一部または全部を引用または翻案して、公的に発言または発表される場合は、事前にメール等でお知らせください。[→連絡先]
(補2)この記事が含まれるシリーズの記事の一覧は下記(別サイト)のとおりです。
感性的研究生活シリーズの記事一覧 (GO!)
(補3)ブログ「鐘の声」には、10個ほどのシリーズとシリーズ以外の一般記事があります。シリーズの全体構成やシリーズ別の記事一覧は下記(別サイト)にあります。
☆「鐘の声」の全体構成(「鐘の声 ブログ」記事マップ)☆ (GO!)
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)










最近のコメント
-知能を育てる(その3)--心理、教育、社会性の発達(56)