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ヒトには「借脳」の力がある--独創力の創り方(25)

2009/09/29
ヒトには「借脳」の力がある--独創力の創り方(25)

1.尊敬する佐伯胖教授と状況論(社会的構成主義)

ヒトは、言葉や図形という道具を用いて自分の知能の発達を助けてゆく。ヒトが成熟するとは道具を媒介として共同体が成熟してゆくことである。という議論は、これまでも行われてきた。
私が、最も尊敬する心理学の研究者の一人、佐伯胖(青山学院大学)教授は、「学習」について、次のように述べている。表向きは児童心理学がご専門だが、発達心理学-教育心理学を主にカバーしていると勝手に推測させていただいている。

佐伯胖、「学び」を育てるコラボレーション環境、2009.08.26最終更新日、http://www.unisys.co.jp/renandi/topics/3.pdf(2009.09.28確認)
スライドNo.2、「学習」論が変わった! ~「できる」、「わかる」から「学ぶ」へ~
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◆「学習」とは何か
•「できる」ようになること←行動主義心理学
•「わかる」ようになること←認知心理学
•「学び」が深まり拡張すること←社会的構成主義
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佐伯胖教授は、できて、わかって、「学び」が深まり拡張することが「学習」であるとしている。
この並べ方をみても、彼が深く関心を寄せて、一番実現に力を入れているのは、"「学び」が深まり拡張すること←社会的構成主義" であることは一目瞭然である。もっとも、佐伯胖教授の言う社会的構成主義はアメリカ学派の状況埋没論ともすこし違うように思われる。両者を同一に論ずることができないことは、私もよく理解しているつもりだが、読者の皆さんにも注意を喚起しておきたい。
上の資料全体は、最近の彼の基本的なアイディアをまとめたスライドで、たまたまネットに公開されているものである。上に引用したスライドNo.2は、内容を伴うトップのスライドである。
このページに呼応する最後のスライドには望ましい教育とは次のようなものであると述べている。

佐伯胖、「学び」を育てるコラボレーション環境、2009.08.26最終更新日、http://www.unisys.co.jp/renandi/topics/3.pdf(2009.09.28確認)
スライドNo.25、高度教育のコラボレーション環境
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◆行動主義・認知主義・状況論(社会構成主義的)の学習の適切な混合(ブレンディッド・ラーニング)
◆現実問題解決と、「現実離れ(遊び)」の併存
◆鑑識眼的評価の育成と発展
◆創発的な対話環境(ズレをおもしろがる)
◆異質な組織を「統合」するのではなく、「併存」させつつ、多様な関係をもたせる。
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ここに登場する状況論(社会的構成主義)は、主にアメリカで発展をした考え方である。Michael Cole、Barbara Rogoff、Jean Lave、Lucy Suchman、Edwin Hutchinsなどの一群の流れを指している。
ひどく単純化していうと、おおむね、個体は共同体の中の役割を演じながら共同体の成熟に寄与するのだから、共同体を離れた「個体の成熟」はないという考えである。
私は、佐伯胖教授の大学の講義に出席したこともなく、弟子入りを許されたわけでもないが、好んで彼の本を読み、彼が発表する研究会には極力出かけてお話を聞いた。いつお話を伺っても感動的で、得るところが多い。私は、門前の小僧で、単なる"追っかけ"の一人といってもよい。
私が担いている社会的学習理論(Albert Bandura など)に近いものがあり、なるほどと思いつつ、読み入ったり、聞き入ったりしてしまうのである。
最近、佐伯胖教授の思考の背後にLev Semenovich Vygotskyの思想があることに気がついた。見当違いならばお叱りを甘んじて受けるつもりである。このスライドにも、Vygotskyは登場する。

佐伯胖、「学び」を育てるコラボレーション環境、2009.08.26最終更新日、http://www.unisys.co.jp/renandi/topics/3.pdf(2009.09.28確認)
スライドNo.11 思考の領域固有性→文化によって思考の発達は異なる。
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「わかる」のは、「個人のアタマの中」か
◆思考とは、社会的関係の内化である(L. S. Vygotsky; 1896-1934 )。
◆思考は道具(含、シンボル)に媒介されている。
◆学習も、社会的であり、媒介された行為である
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Vygotskyは、ロシアの心理学者であり、文化論者であり、社会学者であり、・・・、万能の才能をキラ星のごとく持ちあわせた人だったようだが、天才は夭折するのである。37歳という若さでなくなってしまう。私がこの人物の存在に気付いたのはごく最近で、アメリカの状況論の人々の引用にしばしば登場する人名であることからだった。佐伯胖教授は、ずうっと以前から、おそらく学生のころからこの夭折した天才を知っていて、その理論を心の基底においてきたのに違いない。
Vygotskyは、まず、ヒトは道具を用いて己の知能を発達させるということを初めて喝破した人である。この場合、道具とは言葉や図形のことである。続いて彼は、道具を介在させて、ヒトは他の人と媒介することで学習することに気づくのである。この着想は、彼の映画論や絵画論にも展開されてゆく。長生きしていたら、もっとたくさんの、あるいはもっと深い理論が彼の頭からほとばしり出て、人々に広く深く影響を与えただろうにと残念である。若くして死んだこともあって、ロシアでは注目されることが少なく、次第に忘れ去られる存在になりつつあったが、冷戦時代が終わり、アメリカ国内でロシアの学問を取り上げても、「赤」呼ばわりされなくなると、なぜかアメリカでVygotskyを称賛する声が広がり、彼の後継者となる人たちが次々に登場するようになった。Michael Cole、Barbara Rogoff、Jean Lave、Lucy Suchman、Edwin Hutchinsなどの一群の研究者である。
佐伯胖教授は、これらの人々の一人ひとりをどのように評価しているのか、寡聞にして私は知らない。

私が、浅学菲才を顧みずに、これらアメリカ学派の皆さんの主張を見る限りでは、George Armitage Miller のような「行動はプランの実行にすぎない」というような単純化しすぎた認知モデルに対する強烈なカウンターパンチにはなっているが、「子供の発達とは共同体に埋め込まれた状況の成熟にすぎない」としてしまうことは、行き過ぎた没個性論であるように感ずる。
私の実感からいえば、私自身の子供のころは、未成熟な共同体に押しつぶされそうになりつつ、これに抵抗しようといい子としての面従腹背の演技をつづけ、お馬鹿な失敗を常に故意に演じてみせて、大人たちよりも優れていないことをわざわざ公式に証明しつつ、隠れて勉強し、思い悩み、成熟しない状況を少しでも乗り越えようとあがいたのである。それは、私の子供から青年期まで続いた実態だったように思う。いな、わたくしだけではなく、団塊の世代の多くがかいくぐってきた共通の発達過程ではないだろうか。子供の発達が状況の成熟に帰結するなどといわれては、たまらない思いがするのである。旧世代の成熟の殻を破る次世代がいるからこそ、社会も発展進化するのである。旧世代の成熟の殻に埋没するばかりの新世代しか生まれないのであれば社会は衰退の一途のはずである。
音楽の世界に優れた若き才能があり、絵画の世界にも別の若い才能がある。これらの世界でやっと認められる程度の並みの芸術家もいるが、我々のようなその他大勢の凡人のほうが圧倒的に多いだろう。学問の世界にも高い能力を示す者も、並みの人も並み以下の人もいるのである。
状況論の皆さんは、凡人を育て上げるのでさえ大変なのだから、それ以上のことは言わないほうが花と思っていらっしゃるのかもしれないが、少しばかり物足りない。世界を革新させる新しい独創的な力は、状況論の中からは見いだせないと思う。
状況論(社会的構成主義)は、学習共同体での学習効果を肯定する意味で、画期的な役割を果たしたと私高く評価している。しかし、そこでとどまってはいけないようである。その先も必要なのではあるまいか。

2.「べてるの家」の視察と「借脳」の発見

私は、この夏、視察で訪れた北海道日高支浦河町の「べてるの家」で、ほぼ一昼夜、彼らと行動をともにして、一つの発見をしたと感じている。
SIGEDU & 第63回SH情報文化研究会ジョイントフォーラム in滝野川会館--感性的研究生活(52)
北海道、べてるの人々への訪問--その他、シリーズ外の記事
べてるの家の人々--人生に詩歌あり(15)
北海道の海--人生に詩歌あり(14)
その発見とは、ヒトには「借脳」の力がある、ということである。
「べてるの家」とは、浦河日赤病院精神科の医師の投薬管理を受けている精神障害を持つ人たちのためのリハビリ共同体組織である。
ここでは、つぎの3つの共同が行われている。
・リハビリの共同
・共同労働
・共同生活
そして、ユニークなのは、「幻覚妄想大会」(誰の幻覚妄想が一番面白いかを競う年に一度の大会)や、1か月に1度開催を目標にしている「当事者研究」(精神障害を持つ当事者が自分の病態を皆の見ている前で分析して語るというもの)がある。まずは、「幻覚妄想大会」に出場しようとする人は、自分のところに現れた「お客さん(とべてるの皆さんは言う)」が、神様でも悪魔でもなく、自分の想念の一部であることを自覚して、対処法を身につけてゆくのである。そのために長く「幻覚妄想大会」が有効だった。近年、一歩進めて「当事者研究」を始めた。壇上に立つ当事者は、自分の病態を他人に説明しようと悪戦苦闘する。聴衆は、やんやの突っ込みをいれる。飾った言葉や、言い訳はすぐに化けの皮がはがされる。当事者が病気を自覚するだけでは済まなくなってくるのである。聴衆のつっこみで、自分の少しゆがんだ想念が否応なしに矯正の力を受けるのである。傷を負ったり、発達しなかったために生活上の不都合を生じたいた心理的弱点などが、次々に白日のもとにさらされ、他の多くの患者からの矯正の力を受けるのである。精神科の医師による3分間診療のついでに行われるカウンセリングに比べればはるかに濃密な精神疾患の矯正(治療)が行われれていることになる。
実はそれだけではないのである。
べてるの家の作業場を訪れると、壁一杯に張り出してある標語が目に入ってくる。その中に「手を動かすよりも口を動かせ」というものがある。普通の職場では逆の標語「口を動かすよりも手を動かせ」が書かれているかもしれないが、「手を動かすよりも口を動かせ」はないだろう。
作業しながら、実に皆さんはおしゃべりをする。いつもではないが、「お客さん」の話も出てくる。気軽に、ボランティアの人に対する非難の言葉も出てくる。即座に、大向かいのほうから、「そいつは、お客さんだよ。神様の声なんかじゃないぞ」と声がかかる。「えー、あの人はそんな悪い人じゃないぞ。君の妄想じゃないのか」と隣の人がいう。
障害者の人がたくさん集まってみると、同じ病名が付いている人たちであっても、同じ個所に不具合を生じているということはめったにない。障害者は損失している部分やゆがんでいる部分は確かにあるが、それはその人の脳の働きの一部にすぎない。つまり脳の働きの全部が駄目ということはない。一人ひとり異なる小さな部分がそれぞれに損傷を受けているのである。いろいろな病名の人がたくさん集まると、一人のヒトの足りていない機能部分は他の人は十分正常である。一人のヒトの足りない部分は、多分他のすべての人が補ってあげられるに違いない。ここの人たちは、他の人たちの脳の働きを借りて自分の足りない部分を補っているのだと思い知らされたのである。素晴らしい。
「三度のメシよりミーティング」と書かれた標語の紙もある。これも、互いに補い合う作用を期待して行われているのだろう。素晴らしい。
実践のほうが学問よりも先に進んでしまうことはしばしば起こるのである。
ここで、私は考えた。健常な人でも、100%完全な人というものはいないだろう。足りない部分もあれば、他の人よりすぐれた部分もある、というのが普通の状態だろう。足りない部分は他の人の力を借りて、他の人が困っている部分は手助けしてあげるというのはごく普通の社会人のありようである。もちろん、単なる肉体的な力の過不足だけではない。脳の働きの長短、過不足についてこそ頻繁に行われているのではあるまいかと考えたのである。
この考え方は、状況論(社会構成主義的)によく似ているが、実はかなり違っていることにも気がついた。何か言葉を見つけようと模索した。その結果、私は、この様子を「借脳」ということにした。ひとは「借脳」の力を持っている、と。

3.「借脳」の効用
精神障害を持つ人にとっての「借脳」は、他の人の脳の働きの力を借りて、自分の脳の働きが歪んだり、欠落してしまっている部分を発見したり矯正を受けたりして、社会復帰できるまでにリハビリを続けるために極めて有効である。「借脳」によって、共同体の成熟度が上がるとか上がらないとかは全く関係がない。個人がリハビリに成功すれば、その方は「べてるの家」をめでたく卒業してゆく、障害者が回復しかけるとボランティア支援要員になるのがここのルールである。すっかり回復して健常なボランティアメンバーになったら、すぐにいなくなってしまう宿命なのである。共同体には、障害に苦しむ新しいメンバーがやってくる。共同体としての成熟度は高くなっているとも、足踏みしているとも一時的には下がるともいえるのである。べてるの家は、それでいいのである。共同体として限りなく成熟度を高めてゆかなければならないという使命感とは、別の次元の問題である。
「借脳」の効用にあずかるのは、あくまでも当事者本人である。
面白いことに、「借脳」は「借金」に似ている。借りてばかりいると誰も貸してくれる人がいなくなる。借りたら返す、または前回自分が借りたら今回は自分から他人に貸す元気がなければ、貸してくれなくなってしまう。つまり、「借脳」も「借金」に似て、「お互いさま」が貫かれなければ成立しないということである。
さて、健常者の場合はどうだろうか。社会生活の中では「借脳」が当たり前である。共同体の中で他の人の考えや知識や知恵をお借りして自分の脳の力を強めてゆく。教室の中でも、教師の脳みそはもちろん、学習共同体の仲間の一人ひとりの脳を借りて、知恵や知識や考え方を真似し理解し自分のものにしてゆく。ここに見られる成果は本人の能力のアップである。状況の改善や共同体の成熟度を上げてゆくという課題でもない。仲間から得た知恵は、党外の共同体の成熟度をアップすることには何ら役に立たない場合もある。学習共同体の場合はほとんどそうである。獲得する能力は卒業後社会に入ってこそ発揮される能力であるかも知れない。それこそが学習のせいかであったりする。
「借脳」は状況論(社会的構成主義)では解釈できない「人の行動」である。
もちろん、共同体内部で行われる相互の「借脳」によって、すべての人が等しい能力に到達することもあるかもしれないが、貸し手ばかりではなくて、借り手の素質や心構えによって、得られる成果はまちまちだろうから、均質化するというのは空想にすぎないだろう。個人の能力の成熟は、状況の成熟に結果するにとどまるのではなく、「借脳」によって得た個人の能力は、別の共同体にその個人が移動すれば、前の共同体で強化された能力が移動した先の新しい共同体でも生きてくるのである。このような現実的な説明のほうが、状況論のような説明よりも実際的である。ここでは、ポエティな感傷じみた「解釈」よりも現実をよく説明できるアイディアを大切にしておきたい。感傷じみた言説は、私からみると詩歌の世界だけで十分である。

ところで、かく言う私も「借脳」の力を目いっぱい借りて今日をようやく迎えているのである。多少は借りも返さなければならないし、恩返しもしなければならない。
そのためには、30近い教員生活で持てるものはさらけ出し、学生のみなさんに多くを貸し出している。私が小中高大で借りた他人の脳の力の万分の一程度は返したかなと思えるこの頃である。研究会や学会では、おそらく類似の先行発表は皆無という分野で、ささやかな研究成果を開示して、おおいに借り手を募っている。借りてゆく人も少なくないようで、類似発表がそのあとに続いてくるのである。大変うれしい。引用に私の名前を見付けるとこそばゆいが、とても幸せである。
誰かが、そのうちこの「借脳」という言葉も使い始めるときがくるだろう。「借脳」は、わけがあって、私が創った言葉である。「人は"借脳"の力を持っている」と私は述べた。この言葉を使用する際には、私の名が引用されていることを期待している。じじいの楽しみである。

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琵琶


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