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創造性と神かがり(「憑依」)の間--独創力の創り方(26)

2010/09/09
創造性と神かがり(「憑依」)の間--独創力の創り方(26)

「独創力」という言葉には、ずいぶんと誤解がついて回っている。もっとも、「独創力」と「独創性」にも意味の違いはある。ましてや「独創力」に似た言葉に「創造力」というものがあり、2つの言葉には随分と隔たりがある。
もちろん「創造力」と「創造性」の間にも大きな違いがある。
すべてをいっぺんに説明しようとすると言葉遊びのようになってしまうので、今回は、創造性と神かがりの間の違いについてだけフォーカスしたい。

1.「神がかり」と「憑依」
「はぁ~、と思いつくんだ」と言う人がいる。思いつくことが大したことはない人もいるが、結構大したことのある人もいる。「はぁ~、と思いつくんだ」ということには随分といろいろなケースが混じっている。
統合失調症の人のように、誰かが耳元で囁いてくれたと言う人もいる。正常な精神活動の場合と異常な精神活動の場合の区別は、なかなか難しい。昔の人は「××××と天才は紙一重」などと言ったりもした。「紙一重だが、天才は××××とは違う」という意味なのか、「天才といわれる人はほとんど××××なのだ」という僻み根性の言葉なのか、微妙な表現ではある。
創造とは、確かに「はぁ~、と思いつく」というように見える。これを「天から降りてくる」と表現する人もいる。単に「降りてくる」とか「きたっ」とか言う人もいる。このあたりになると、憑依(キツネツキなど)と変わらない。創造の能力を「憑依」のように思っている限り、創造は他力本願であり、努力の外に置かれているものである。他人にも教えることはできない。
学校教育が暗記ばかり(知性なき丸暗記)を進めて創造力や独創力を育ててこなかったのは、創造力や独創力をもたない教員ばかりだったからだと言ってしまえば簡単だが、教員になるべき人たちに創造力や独創力を育てる方法を教えてこなかった大学(主として教育学部)に問題があると思う。教育学部ばかりではないが、大学教官の多くは、正直、独創力とか創造力をキツネツキと同等のもの(憑依)のように考えいるのではあるまいか。
実は、教育学部を含めて大学の教官の多くは、元来、創造力の塊である。例外はどこにでもいるが、多くは創造性に富んでいることが認められて大学の教員となっているのである。どちらかと言えばこの方面では達人の集団である。達人は、自分の能力を説明できるかと言えばできないのがふつうである。すでに専門家は自分ではできてしまっているし、苦労は感じていないのだから、どうしたらそんな能力が身につくのかどんなふうにやればその能力が発揮できるのか普通は考えたこともないのである。どこでも専門家と言うものはそんなもので、他人が横で客観的に観察しない限り、その人の遣っていることを解析することも説明することもできない。
私のホームグラウンドである人工知能の世界には、エキスパートシステムというものがあるが、どのアプリケーションもたいていは非専門家が専門家の遣っていることをシニカルに観察して、その有様を記述して実現しているのである。他人が観察して得た専門家のやり方を知識として与えてあげるとコンピュータシステムであるエキスパートシステムは専門家ならばこうしているに違いないという動きをしてくれる。専門家本人は、多くの場合、否、ほとんどの場合、自分が何をしているのかさっぱり分かっていないのである。
創造性に富んだ専門家は、創造力は勝手にどこかからやってくるもののように感じているのである。だから「憑依」と区別がつかない。「憑依」は、勝手にやってくるものであり、努力して獲得するものではない。だから、教えてあげられないというわけである。
私は、それは間違いであると思う。創造力豊かな大学教官の皆さんは、誰もかれも統合失調症ではないだろう。いつも幻聴や幻覚が聞こえているという人ばかりではないと思う(少しはいると思うが)し、いたとしても適切に医療機関での指導に従って治療していればほとんど聞こえなくなってくるものである。
私の個人的体験だか、ゆっくりと病気が進んだのか、あるときから幻聴や幻覚を自分の独創性であると確信していた教授の方としばらく交流があったが、教授のもとについた博士課程の学生は悲惨だった。結局は、学生たちの知恵と努力で別の教授のもとで研究し論文も書くことになったのだが、ご本人(教授)がその事態を納得し受け入れるまでには相当な紆余曲折があったようである。今ではその教授も教授職と言う重圧からも解放され病気を適切にコントロールしており、健常者と変わらない生活をされている。
古来「神かがり」や「憑依」と言われているものの大半は病魔や薬物の影響、または激しい乱舞(頭の震盪)の結果による幻聴や幻覚、あるいは意識の混濁である。
幻聴や幻覚には、通常の考えとは違う荒唐無稽な内容が混入しているが、所詮は本人の思考を超えるものではない。本人が正常な状態で素晴らしい思考の成果を持っていればそれが表出することもあるだろうが、たいていは本人が空想する範囲であり、図抜けた思考の成果などもともと持っていないので憑依しても出てくるものは大したものはない。昔は身分違いでものが言えない際に、「憑依」を装って、物言いをする演技もあっただろうが、今時の世にははやらないに違いない。
創造性とは、「神かがり」や「憑依」とは関係がない。

2.坊さんの洞察力
抹香臭いと思われるかもしれないが、坊さんの話をしたい。彼らは良く物事を考える。物事をあれこれと考える名人である。坊さんたちが習得する「考える方法」がインド哲学の真髄なのである。ヨーガという名で、仏教以前から、インドの地には物事を考える方法が存在し流布していた。生活の知恵のようなものであったのだろう。その後、各種の宗教に取り入れられて、座禅や瞑想、ヨガなどと呼ばれるようになった。
私も母親がお寺の娘であったので、小さい頃は座禅もさせられたものである。遊びのような座禅だったが、びりびりと心が震えるような体験もした。生理的に物事が考えやすいような姿勢と精神状態を作ることにヨーガの主眼はあるのだが、長年の経験にみかがれた手法に従うと確かに物事がよく考えられる。ヨガや座禅は神かがりでも神秘的行為でもない。生理的・科学的なものであり、行動科学そのものである。私の従弟で高僧と呼ばれる坊さん(元大正大学学部長)もそう言っていたので間違いはないだろう。
広い知識がないと考えは深まらない。しかし、広い知識があれば深い知識に直結するかと言えばそうとは言えない。たくさんの原初的知識(知識の断片)をそうっと頭に抱えたまま、それらの相互のつながりや因果関係を考えてみる。類似性のあるものをまとめてみたり、上位概念(抽象概念)を創ってみては、その具体例がそれに当てはまるのかどうかを考えてみたりする。上位概念と下位概念の間を上に行ったり下に行ったりと忙しい。連想(ネットワーク、リンク)をたどって、とんでもなく離れた事柄なのに、この事例に似ていることの意味を考えてみたりする。ぼんやりと考えていると頭の中ではめまぐるしく、言葉ではいちいち説明できないスピードで、物事の整理、再構築が行われてゆく。本当にボンヤリしているわけではない。寝てしまっているわけでもない。身体の存在も忘れて、「考えること」に専念している状態が続く。それが座禅をしている間続くのである。座禅を終えるとおなかがとてもすいていることに気がつく。目いっぱい頭を使っているのだから糖分を消耗しつくしているのである。粥やふかしイモがうまかった。
ぼんやりと考えていると、自分の死が怖くなったり、人は何のために生きているのかとか、自分は生きている価値があるのかなど、さまざまな思いが巡ってくる。それは相当に本能的なものだろうと思う。生半可な私でさえ、体がバラバラになったかと思うくらいに考えてしまうことがたびたびだった。
長期記憶は側頭葉にあるだけではなく、頭頂葉にも前頭葉にもある。脳内各所にあるそれらの知識の有機的組み合わせが長期記憶である。ぼんやり考えているときには、これらの記憶が次々に海馬に引き出せれて保守されている状態になる。想起される脳内の動作は早く、考えはめまぐるしく進化する。
坊さんは、「ぼんやりと考えること」の訓練を受け、その達人となっている。そのうえ、大変なおしゃべりである。経も読むから声も出る。問答も欠かさないので議論好きである。頭を鍛える上で、良いことばかりしているのである。彼らと話していて、彼らの持つ何気ない言葉一つ一つに優れた洞察力を感ずる。何事に対しても一家言持っているのである。座禅は彼らの考える力の源と無関係ではないに違いない。どこにでも例外はあるので、駄目坊主もいるだろうが、少なくとも私の周囲の坊さんには優れて洞察力のある方が多い。
私は超常現象を信じたり吹聴することは大嫌いである。坊さんたちは超能力によってそうなったのではない。努力してその能力を獲得したのである。
洞察力と創造性が同じとは言わないが、洞察力がなければ創造性は生まれない。
知識の断片を集めて、それを階層的知識の構造に組み立てること。その構造をますます高く、ますます盤石なものにすること、その構造に矛盾がないかどうか、細部をたえず確かめてこそ、いや、それだけではなく、絶えず追加される知識の断片を自分の持つ知識の構造の中に矛盾なく取り入れられるかどうかを常に検証し、矛盾が生ずればその知識の断片の真偽を検証したり潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす勇気を持っていない限り、洞察力は生まれないのではないだろうか。これらに加えて、整理された知識のほかにもとんでもなく離れた知恵の間に類似性や生起した時間的関連性や地上の位置関係や聞いた話の場で聞いた音楽が同じだったりするだけで、なんとなく結びついている危うい連想の糸も知識の海の中にはたくさん埋もれている。これらの連想の糸を手繰ったり切り離したりしながら知識は深められ構築され、まれには破壊され再構築される。構築された知識のピラミッドの上にもピラミッドは積み上げられているし、連想の先にも連想はある。連想の糸(知識のリンクやネットワーク)は基本的には構造を持たないのでめったに再構成されることはないが、ピラミッドのように高く高く構築された知識の概念構造は固く強固なものでなければならないが時としてもろくも崩れて再構築が必要になる。
あっ、これはあれのことだっ! と感ずる瞬間とは、その自分が持つ広大な知識の構造物の端のほうに触れた新しい知識の断片が、無矛盾性が保障された知識の構造の遠いところにある別の知識と一瞬のうちに結びついた瞬間であるように私には思われる。このことによって、新しい概念が突如として必要になったり、古い概念がガラガラと崩れたりする。その結果、以前の常識が壊されて新しい考えが浮かび上がってくる。これが創造性と呼ばれるものであると私は思うのである。創造性が発揮されるための必要な条件とは、以前にえられている知識の構造物のどの部分もできるだけ矛盾のないようにつながれていることである。そうでないならば、つまり、得られた新しい知識の断片は、無矛盾性の糸や柱や壁、配管や電線を伝って遠くの知識と瞬時の付き合わせが可能でなければ、このようなことは全く起こらない。ガラクタのように断片的に知識を集めてあるだけならば、単に新しい断片が入ってくるだけのことで、新しい概念も生まれない。創造性は何一つ存在しないのである。知性なき丸暗記は創造性を生まないのである。

余談:
たった今、私は、「絶えず追加される知識の断片を自分の持つ知識の構造の中に矛盾なく取り入れられるかどうかを常に検証し、矛盾が生ずれば潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす勇気を持っていない限り、洞察力は生まれないのではないだろうか」と書いた。書きながら思い当たることがあった。私も、最近は、この「潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす勇気」がときどきくじけそうになるのである。年をとったのであろう。年寄りが頑固で自説にこだわって、新しいことに柔軟に対応できないとよく言われるが、それはまさしくこのような事態のことである。「潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす」には、膨大な時間と労力が必要である。まずは心のエネルギーが必要で、若くないと手をつけることさえためらわれることになるのである。しかし、これが出来なくなったら、まずは第一線から引退すべきだろう、、、潔く。逆に第一線に立っている以上は、これまで通り、いつでも「潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす」ことにする。トホッ。

3.クリエイターの極意
私の友人にはクリエイターと呼ばれる職種にいる/いた人たちがいる。彼らの職業も過酷なもので、とにかく、新しいものをクリエイトしなければ生活費がいただけないのである。
クリエイタさんとは何をクリエイトしているのか、ご存知だろうか。
クリエイタさんたちの答えを聞いてみよう。一言で言うとご商売では何を「クリエイト」しているのでしょうか?
田中さん=「新しい価値」
鈴木さん=「目新しい絵」
佐藤さん=「新しい広告」
関さん=「新しい生活スタイル」
鈴木さん=「ちょっと補足しますが、クリエイタという言葉は、広くはアーティスト全般のことで、広告業界・IT業界などで使われる言葉です。服飾デザイナ、グラフィックデザイナ、コンピュータグラフィックスの制作者、ゲーム制作者など。たいていは貧乏でよく働く人です」
じゃ、広告業界・IT業界の下職さんのことかい? 鈴木さん=「まぁ、そんなものかな」
関さん=「まってくれよ。そんな俗説でクリエイタをくくっちゃおかしいよ。クリエイタというのは、新しい商品やサービスを:現代においてどんな具合に使うことが出来るのか、新しい生活のスタイルを提案することのできる人のことだぜ」
じゃ、広告の企画屋さんのことかい?
関さん=「おまんまを食べてゆくためには、確かに広告企画をやっているよ。でも、企業にあっては部や課などの改廃や活動規範を創ることもクリエイタの大事な仕事なんだ。最近は商業地域内にあたらしい考え方のお寺をひとつ創ったよ。街そのものをどう作り変えてゆくべきなのかも提案するのはクリエイタなんだぜ」
というわけで、人によって定義は様々で、定まらないが、私の友人たちは、関さんのような立場をとっている/いた。新しい生産活動のスタイルや消費生活のスタイルを提案し、実際にやって見せたりする職人たちである。私も彼らからはかなり影響を受けているし、同じような仕事をしてしまったことも少くない。
彼らの創造(クリエイション)活動はどんな風なのかを少し紹介してみよう。
彼らはまず、たくさんの記憶のポケットを持っているのである。成功事例や失敗事例はもちろん、雑誌や書籍で知らされている事例など、とにかくたくさんの事例とそれぞれの"わけ"を記憶しているのである。もちろん、雑誌や書籍などのハードウエアのデータぺースも巨大である。しかし、ハードとして持っているだけではクリエイションに役立たない。記憶のポケットの中に置くことが大事である。
まず何かのきっかけでことが始まるとしよう。そのきっかけがクライアントの依頼の形である場合もあるし、自分が顧客から謝金をせしめようと仕掛ける場合もあるし、お金とは無関係に遣りたくなってしまったなどのこともある。彼らの心の中には、何かをしなければならないという目的意識が生まれる。目的のためには、現状を変えなければならない。どこをどう変えると目的に達するのか。その手順はどうか。待てよ、人と金と材料はどうやって手配するのか。悩むことばかりであるが、とりあえず頼りになるのは、記憶のポケットにある膨大な事例の記憶データベースである。近い事例が見つかる場合もないとは言えないが、一つの事例では目的に到達しえないことも多い。いくつかの事例のいいところ取りをして道筋を考えてみるのである。記憶のポケットをたどってゆくときにただの事例を見るだけでは利用はできない。成功の理由、失敗の理由。なぜその時そのクリエーターはそれを選んだのかという「わけ」がそれらを探索するときの大きな手かがりである。「たぶんこうすれば、こんな結果になって、こんな効果が見込める」という思いを抱いて、顧客に説明したりする段階となる。しかし、顧客の前でしゃべってみたり(プレゼンテーションという場合もあるが、資料を創って開示してお話しする場合に限ってそう呼ぶことが多い)、現場に行ってみると何かが違う。思うような結果が出ないような気がしてくるのも、クリエイタの能力のうちである。問題に対する鼻が利くのである。そこで、いろいろな妄想を巡らせることになる。こうしたら誰がどうするだろうか。顧客である50歳代の男性の反応はどんなだろうか。また記憶のポケットを探したり、足りなければ図書館に通ったりする。妄想を巡らすと言ったが、実際はシミュレーションである。仮説を立てて、思考実験を繰り返す。実験材料として利用するのは、記憶のポケットにある知識だったり、現場で見た何かだったりする。現場には、本からは得られない100万倍の知識の源泉がある。現場に行かなければものは考えられない。現場や関係者の言葉は矛盾に満ちているし、記憶のポケットにある事例からはかなりはみ出している。一つ一つこれらの矛盾を論理だててつぶしてゆく。顧客の言葉に矛盾を感ずるとそれを問いただしたり、修正を求めたりもする。ここで顧客から嫌われてしまうクリエーターもいないわけではない。しつこいとか、細かいことまで聞くなとか、矛盾するったって両方ともほしいんだよとか、顧客はわがままいっぱいに言ってくる。これらのハードルを乗り越えて、一つの矛盾にない道筋が描けて、実践した結果の成果も見込めることになったら、自らがプロジューサに変身して後を続けるか、別のプロジューサに後を託すことになるのである。
矛盾をつぶしてゆく過程は、長くて気が遠くなるような作業である。この作業が楽しくて楽しくて仕方がないというのがクリエータさんなのである。矛盾をつぶす過程で、過去には誰も遭遇したことのない困難が待ち受けていたりする。そんな経験はクリエーターにとってはまれなことではない。「これぞ、私の仕事だ」と燃え上がるのがクリエータというものである。クリエーターは一生懸命に考える、何かいい事例はないか・・・ないなァ、類例はないのか・・・ないなァ。組み合わせは解決に役立たないのか・・・駄目だコリャ。まてよ、こうやったらどうだ、・・・うまくないなァ。じゃ、こんなのではどうだ、・・・ウン、うまくゆきそう、、、でもだめだなァ。結局これはかなわぬ夢なのか、、、。いったん寝ることにしよう。うとうと、・・・、あっ、そうだ、こんな方法があるぞ。こりぁいけるぞ。俳優を使うのはやめて白いワンちゃんで行こう、やったァ。
という具合である。
目的については十分に考えた、目的にまつわる登場要素の本質についてもそれぞれによく考えてみた、外的な条件についても考えつくした、過去の事例も調べつくした、突破すべき場所ははっきりしている。もはや漫然としたものではないのである。うとうととしたその瞬間、脳内の隠れていた知識が海馬に戻されてメンテされる。その時、必要としていたはめ絵の欠けていた一ピースが見つかるのである。海馬に出てきたのは、この場合、芸達者な白い色のワンちゃんのことだったのである。
こうして、前人未到の広告が出来上がる。クリエータの創造性は高く評価されるのである。クリエータは、「いやいや、そんなぁ、ほめないでくださいよ。うとうと居眠りしているときに思いついただけですから。ものぐさが成功の秘訣ですかね」などと言うかもしれない。クリエータはクリエーションの過程のことを正確に説明する能力を持たないのである。人は、悪戦苦闘しているときのことは忘れてしまうものである。
この場合の創造性とは、地道な知識のポケットの整理や現場の混乱を整理する気の遠くなる作業の果てにあるものである。整理して整理して、なお、埋まらない最後の鎖の輪が見つかった時、その快感はえも言われないものである。しかし、気をつけなければならないのは、最後の輪が最初からあっても何も創造はなかったということである。知識や現実を整理して整理してという苦闘の成果がなければ、最後の輪は意味がないのである。
また、最後の輪が自分の頭の中から見つかるとは限らない。飲み屋で仲間と一杯やっているときに仲間がふと口にしたそれが最後の輪になる場合もある。人には借脳の力があるのだから、それは当り前である。最後の輪を仲間からもらったからと言って、その創造の勲章はその仲間のものだろうか。最後の輪を見出すために悪戦苦闘した本人にこそ大きな勲章をあげるべきである。でもお仲間にもビールの一杯くらいはおごってやるべきだろうけれど。
本人に認めてあげなければならないのは、複雑で膨大な矛盾のかたまりを解きほぐして整理し、目的のために矛盾を解決し続けた努力である。
えっ、目的はどこから来るのかって? 「顧客から来る」と答えるクリエータが多いだろうが、自分でやりたくなることだってある。顧客も自分も、何かの必要性にぶつかって目的を発見するのである。創造の母も「必要性」である。これまでにない必要を発見すれば、その解決には多くの場合は多大な創造性が要求される。

ところで、「最後の輪」が複数あった場合には、なかなか解決が得られない。そんな時は、問題を切り分けてサブ問題を創り、一つのサブ問題には探すべき輪を一つまたは二つになるようにするのである。人は3つ以上の問題を同時に考えるのは下手である。1つまたは2つであれば何とか考えられるのだから。

本稿の最後に、一言。まれには矛盾の解決のためにだけ興味を覚えて目的を忘れてしまう人もいるがクリエータどころか生活人としては失格である。目的に沿った解決とは、実用的に不便でない限りそれもよしとする解決である。必ずしも理論上の細部にわたる整合性を要求されないことを補足しておくことにしよう。「兵は拙速を聞くも、いまだ巧久なるを睹ず」(孫子の兵法)である。拙速を持って始めたことであっても、「助長補短(良い点を伸ばして、短所を補う)」に努めるのが達人の力である。
現実世界での解決の多くは「ヒューリスティックス(経験的解)」である。解析的整合性のある解決はその中のごく一部であることを忘れてはならない。

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琵琶


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