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壊れた教員について、またしてもJOBANS--交友の記録(58)

2010/09/19

壊れた教員について、またしてもJOBANS--交友の記録(58)

昨夜、9月18日(土)、またしてもJOBANSの集まり(その1その2)があった。単なる、定年前後のおっさんの飲み会と言ってもよいが、共通項は技術者教育に関係している人々ということである。
19時集合ということだったが、私はバスの都合で少し遅れた。19時1分、携帯が鳴って私以外は揃っているぞという、申し訳ない、すぐゆきま~す、と電話を切る。
19時5分、会場に到着。先着3名はかなり杯も進んでいるらしい。
Yさんはすでにお顔が真っ赤っか、SさんやKさんはいくら飲んでも顔色が変わらない人たちなので、頬(ほほ)の緩み具合で見るしかない。どれどれ、ちょっと緩みがちの顔。じゃ、私も乾杯~。
先日の名古屋の発表も、このメンバーにそそのかされてやったもの。つまるところ、「共犯関係」はますます強くなって親密度も高い。
Kさんは海自出身なので根っからの戦争屋さん、私も"やむなくば戦うことに躊躇なし"の立場、でも残り二人は基本的には平和主義者である。一人は核兵器はいかんという立場、もう一人は戦争はどれもダメという立場だそうだ。飲み会に政治と宗教はご法度だが、皆さんの本音もボロボロと出てくる。
飲むほどにボルテージは上がるし人によってはトイレに立つ回数が増えてくる。意識混濁状態になったころ、いつの間にか、話題は学校教員の資質の話になっていた。私は、かねてから教員にメンタルテストを実施すべきであると主張してきた。いやいや、教育の管理体制が悪くて、正常な教師を病気にさせてしまうことが問題ではないかと原発反対氏はいう。
消防士も警察も採用されるにはメンタルテストで所定の成績を取らなければならない。小中高の教師だけがメンタルテストを受けずに教員になってしまうのである。精神疾患は職業人となってから発症することもあるが、多くの場合、高校生のころ、遅くとも思春期の終わりまでには発症したり、兆候が見られるのである。
私が経営してきたシステムハウスでも確認できた発症者は20名弱と少なくはなかった。追跡しえた限りでは1名を除いて全員が当社に勤務する以前(多くは高校生の時に)、発症し医師にかかっているか、少なくともおかしいという自覚症状を持っていた。残りの1名も、本人はかたくなに過去を語らない(本人は肯定も否定もしない)だけで、実際は以前からの発症が自覚されていた疑いが濃いのである。当社の職員はもとより公務員ではないが、ありふれた中小企業の姿ではないだろうか。
若者にとって公務員になるのは憧れである。活躍を心に期して公務員を目指すものも多いが、一度就職すれば仕事をしてもしなくとも尻を叩かれず、やめさせられないということだけに魅力を感じている不心得者もいないではない。数ある公務員の職種のうちの教員だけがメンタルテストがないと知られているのだから、発症した子を持つ親も医師も教員にならば君もなれると勧めることは容易に推測が出来るのである。
本人も丸暗記だけは得意ということならばペーパーテストは通るし、教員なんて簡単な仕事だからふんぞり返っているだけでお金がもらえると勘違いしてしまう傾向があるに違いない。しかし、教員と言う仕事はそんなに簡単な仕事ではない。成長期で有り余る肉体と精神のエネルギーをぶつけあい、そのままの勢いで教師にもぶつかってくる子どもたちと接するのは、何事にも代えがたい楽しみが、筆舌しがたい心の負担にもなるのである。そのうえ、同僚教師、父兄、教育委員会などとの軋轢は絶え間がない。健康で正常な精神の持ち主でもめげてしまいそうな環境なのに、もともと心に傷のある人間に耐えられる環境ではない。壊れかけた心の亀裂はますます大きく広がり、ある瞬間にはばらばらに壊れてしまうのである。
私がかつて担当した社会人コース50名×5クラスの約半分を占めていた東京都の高校の教師(「要再教育」と判定され教育委員会預かりとなった方々)のうちの70名ほどは、「病的」ではなくて「病気」と推測される方々であった。「病的」と見える人々は50名ほど見られた。全受講者のうち、1名は全く勉強せずに課題は他人任せで暴力で単位を強要するような教師だったので学習成果が認められず、この人には単位があげられなかった。その他の人たちには懇切丁寧に教えて私の単位はかろうじて取れたが、病気は病気のままで、治ったわけではない。私の単位を持って皆さんは教壇に戻ったはずだが、生徒と目を合わせられない、コミュニケーションが取れないという状態は改善されたとは思えない。苦痛からは開放されないはずである。再教育のプログラムの中にメンタルテストがなぜないのだろうか、精神疾患があるならば治療に専念させ、治癒あるいは緩解を持って教壇に復帰させる手厚いプログラムが必要だろうと私は思うのである。
原発反対氏の発言は、職場環境を良くして重傷化させないようにしようという趣旨だったと思う。研究会などの場でじっくり議論してみたいところだ。
言いたい放題のことが言えるというのは、食も進むし酒もうまい。
JOBANSの次の会はいつになるのだろう。楽しみではある。

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琵琶


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増え続ける小学生の暴力--心理、教育、社会性の発達(82)

2010/09/15
増え続ける小学生の暴力--心理、教育、社会性の発達(82)

昨日(9月14日)、文部科学省から、「平成21年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果(暴力行為、いじめ、高等学校不登校等)について」という報道発表が行われた。
この発表は、「データを集めてみました」という実にそっけないもので、論評らしいものは何も含まれていない。この報道発表に付随する公表資料(pdf)がデータの集計結果となっている。
(公表資料)平成21年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について
これを見ると、相変わらず中学生の暴力行為が多いが横ばい傾向になっていること、高校生の暴力行為は減少を続けていること、小学生の暴力行為は中学高校ほど多くはないが、ますます増加しているということが分かる。
前年とのデータの比較をしていないので詳細は語れないが、対教師暴力も増加しているが今回の調査では子供同士の暴力のほうが増加率が高いようである。被害者が病院で治療を受けた率も増加しており、暴力が人に向けられ過激になっていることがうかがわれる。

公表資料の中のグラフから
(クリックすると拡大します)
Photo

この問題は、以前から関心を持って観察している。大人の毅然たる対応が対教師暴力を抑制する方向に向かっているようであるが、子供同士の暴力を有効に抑止できていないようである。
 急増する小学生の教師への暴力
      --心理、教育、社会性の発達(9)

 さらに増加する小学生の対教師暴力
      --心理、教育、社会性の発達(26)

このような問題について、子供たちのコミュニケーション不足と言う人もいるようだが、このような言い方は誤解を呼びやすい。まず、原因が子供たちにあるかのように聞こえてしまうが、子供たちの責任ではないことを指摘したい。問題の子供たちは主として大人の生産物である。大人が原因で生まれた子供たちが加害者となって立ち現われるのである。次に、「コミュニケーション」という言葉が正しく理解されていないので、"しゃべくり"があればいいという誤解を呼ぶのである。"しゃべり"も必要だが、問題は人の活動の目的に沿って関係する人びととが交流し目的に沿った有機的な行動をする能力が必要なのである。ここまでの能力を含めてコミュニケーション能力というのであれば間違いではないが、生半可の専門家は"しゃべくり"であると喧伝してしまいそうである。誤解を恐れずに言えば、必要なことは"しゃべくり"ではなく、"社会性"である。言いかえれば真のコミュニケーション能力と言うことになるだろう。
この問題の解決は、小学校、中学校でのグループ学習、グループ活動の指導強化でかなり前進するはずである。
グループ学習、グループ活動の学習効果や学生たちのメンタル不全の改善効果については、このシリーズでは何度も取り上げてきた。子供たちの暴力抑止にも効果は大きいと思う。
もちろん、子供たちの暴力の「原因除去」を取り上げればきりはない。母子分離分娩、離婚や両親の不仲などの家庭の崩壊、「友達はライバル」的な大人たちの干渉、など原因はたくさん挙げられるだろう。

ミニシリーズ: 日本の成育環境(全6回)
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1.胎児は母の言葉を聴いている、母語を大切に-日本の成育環境(1)
 --心理、教育、社会性の発達(73)

2.なぜ母子同室優先か、心の芽をつぶすな-日本の成育環境(2)
 --心理、教育、社会性の発達(74)

3.見て覚える脳、共感する脳-日本の成育環境(3)
 --心理、教育、社会性の発達(75)

4.良識は勝ったか?-日本の成育環境(4)
 --心理、教育、社会性の発達(76)

5.教室は「社会シミュレータ」-日本の成育環境(5)
 --心理、教育、社会性の発達(77)

6.成功する単位組織-日本の成育環境(6)
 --心理、教育、社会性の発達(78)

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しかし、困難な中をすでに小学校・中学校・高校に入るまでになった子供に分娩時まで戻って治療を施すわけにはゆかない。長い目で見れば原因除去は必須だが、今いる子供たちによりよい成長を願うのであれば、まずは、困難な環境の結果心に負っている傷をいやす方法を与えてあげるのが教育者というものではないだろうか。
「心理、教育、社会性の発達」シリーズ1
「心理、教育、社会性の発達」シリーズ2
「心理、教育、社会性の発達」シリーズ3
「心理、教育、社会性の発達」シリーズ4
「心理、教育、社会性の発達」シリーズ5
グラフを眺めれば、心が乱れる思いである。

△次の記事: 心理、教育、社会性の発達(83)
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琵琶


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頭は使わなければ良くならない--心理、教育、社会性の発達(81)

2010/09/13
頭は使わなければ良くならない--心理、教育、社会性の発達(81)

「頭は使わなければ良くならない」というごく当たり前の事実がどうやらはっきりしてきた。
もっとも、記事によれば研究の趣旨は、脳を活発に働かせればボケ防止に役立つというもののようである。
それはもっともなことで、すでに、多くの老人が「脳を鍛える」本に取り組んだり、碁や将棋に熱中したり、和歌や短歌に力を注いだりしている。「じっとしているだけじゃボケるよ」「家に引きこもっていたらすぐにボケがくる」は古来からの常識である。
しかし、古来からの常識は、ニセ脳科学者が自分が初めて解明したかのように言いたてて重大知見だと囃したてる一方、彼らのあまりのいかがわしさに迷信に違いないと切り捨てる人もいる。真偽をはっきりすることは急務になっている。常識を科学で裏付けることがこの研究だとすれば、完全な証明にはまだ遠いが、タイムリーな研究成果ではある。

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2010/09/10Yahooニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100911-00000322-yom-sci
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脳には学習・運動が不可欠…ホルモンを取り込み
読売新聞 9月11日(土)14時15分配信
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 細胞の成長や保護に重要な栄養素となるホルモンが、脳の活動が活発な部分だけに血液中から取り込まれることを、征矢(そや)英昭・筑波大教授と西島壮(たけし)・首都大学東京助教らのグループが発見した。
 脳機能を維持するのに学習や運動などが不可欠であることを実証したもので、将来、認知症予防など脳を健康に保つためのプログラム開発につながると期待される。科学誌ニューロン最新号に掲載された。グループは、筋肉の新生や機能の維持に重要な役割を持つホルモン「IGF―1」が脳神経にも作用することに注目。しかし、血管と脳の間には「血液脳関門」という関所があり、このホルモンが脳に取り込まれる仕組みは謎だった。
 ラットの実験で、ヒゲを刺激すると神経活動が活発になる脳の部分だけに、血中からIGF―1が移動することを確認。神経活動が高まり、脳の血流量が増えることが引き金となり、特殊な酵素がIGF―1の分子を小さくして、脳の関所を通りやすくすることも突き止めた。征矢教授は「脳の神経活動そのものが強力な栄養素を取り込み、さらに脳機能が強化される好循環を生む」としている。 .
最終更新:9月11日(土)14時15分
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しかし、この研究は、ボケ防止の問題にだけ関係しているのではない。使われたラットは老ラットに限っていたわけではなさそうだからである。
若いこれから学習してこれがに生きてゆかねばならない世界に適合してゆかなければならない若いラットにだって同じ現象が起きているはずである。
とすれば、「使わなければ頭は良くならない」というごく当たり前の結論が正当化されることになるだろう。「人はすべて同じ脳の力を持って生まれてくるのだ」とその潜在的能力をひとまず信ずることは悪いことではないが、教育と本人の努力によって脳を使うか使わないかで、成長する脳の到達点は天と地ほども違ってしまうことをはっきりとさせておくことは良いに違いない。こういうからと言って詰め込み教育がいいと私は言うつもりはない。むしろ「ゆとり教育」は駄目ということははっきりしている。成長期に頭は使うべきである、今よりももっと。たくさんの知識も必要だが、それをもとに頭の中に知恵を育てる教育も必要である。「ぼんやり」と考える時間と方法とそのために教師が徹底的に伴走してあげるやさしさとが必要である。「ぼんやりと考える」とは本当にぼんやりしてしまうことではない。惰眠にふけることでもない。これについては、過去に何度か書いた(12)が、身体の存在も忘れて考えることに熱中することである。「考えずに身体を動かせ」という言葉があるが、その反対には「身体を忘れて考える」という活動も人間にはあるのである。人は、いつも心身両方を50%ずつ働かせるというようなことはできないのである。あるときは体を120%働かせて心を休ませて、あるときは心を120%働かせて体を休ませることも必要である。いつも中間にいることは人間らしくはない。振り子のようにあるときはこちらの極にいて、次の瞬間には対極に振れている、真中にいることはほんの一瞬の通過点しかないというのが人間というものである。振り子のように振れながら、いつもトータルでは真中から外れないというのが大人の人間である。
子供たちの心(脳)を120%働かせる瞬間をいかにうまく作り出せるか、それが教育者あるいは大人たちの能力というものだろうと思うのである。
「ニューロン」の最新刊、早く手に入れたいところである。

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琵琶


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創造性と神かがり(「憑依」)の間--独創力の創り方(26)

2010/09/09
創造性と神かがり(「憑依」)の間--独創力の創り方(26)

「独創力」という言葉には、ずいぶんと誤解がついて回っている。もっとも、「独創力」と「独創性」にも意味の違いはある。ましてや「独創力」に似た言葉に「創造力」というものがあり、2つの言葉には随分と隔たりがある。
もちろん「創造力」と「創造性」の間にも大きな違いがある。
すべてをいっぺんに説明しようとすると言葉遊びのようになってしまうので、今回は、創造性と神かがりの間の違いについてだけフォーカスしたい。

1.「神がかり」と「憑依」
「はぁ~、と思いつくんだ」と言う人がいる。思いつくことが大したことはない人もいるが、結構大したことのある人もいる。「はぁ~、と思いつくんだ」ということには随分といろいろなケースが混じっている。
統合失調症の人のように、誰かが耳元で囁いてくれたと言う人もいる。正常な精神活動の場合と異常な精神活動の場合の区別は、なかなか難しい。昔の人は「××××と天才は紙一重」などと言ったりもした。「紙一重だが、天才は××××とは違う」という意味なのか、「天才といわれる人はほとんど××××なのだ」という僻み根性の言葉なのか、微妙な表現ではある。
創造とは、確かに「はぁ~、と思いつく」というように見える。これを「天から降りてくる」と表現する人もいる。単に「降りてくる」とか「きたっ」とか言う人もいる。このあたりになると、憑依(キツネツキなど)と変わらない。創造の能力を「憑依」のように思っている限り、創造は他力本願であり、努力の外に置かれているものである。他人にも教えることはできない。
学校教育が暗記ばかり(知性なき丸暗記)を進めて創造力や独創力を育ててこなかったのは、創造力や独創力をもたない教員ばかりだったからだと言ってしまえば簡単だが、教員になるべき人たちに創造力や独創力を育てる方法を教えてこなかった大学(主として教育学部)に問題があると思う。教育学部ばかりではないが、大学教官の多くは、正直、独創力とか創造力をキツネツキと同等のもの(憑依)のように考えいるのではあるまいか。
実は、教育学部を含めて大学の教官の多くは、元来、創造力の塊である。例外はどこにでもいるが、多くは創造性に富んでいることが認められて大学の教員となっているのである。どちらかと言えばこの方面では達人の集団である。達人は、自分の能力を説明できるかと言えばできないのがふつうである。すでに専門家は自分ではできてしまっているし、苦労は感じていないのだから、どうしたらそんな能力が身につくのかどんなふうにやればその能力が発揮できるのか普通は考えたこともないのである。どこでも専門家と言うものはそんなもので、他人が横で客観的に観察しない限り、その人の遣っていることを解析することも説明することもできない。
私のホームグラウンドである人工知能の世界には、エキスパートシステムというものがあるが、どのアプリケーションもたいていは非専門家が専門家の遣っていることをシニカルに観察して、その有様を記述して実現しているのである。他人が観察して得た専門家のやり方を知識として与えてあげるとコンピュータシステムであるエキスパートシステムは専門家ならばこうしているに違いないという動きをしてくれる。専門家本人は、多くの場合、否、ほとんどの場合、自分が何をしているのかさっぱり分かっていないのである。
創造性に富んだ専門家は、創造力は勝手にどこかからやってくるもののように感じているのである。だから「憑依」と区別がつかない。「憑依」は、勝手にやってくるものであり、努力して獲得するものではない。だから、教えてあげられないというわけである。
私は、それは間違いであると思う。創造力豊かな大学教官の皆さんは、誰もかれも統合失調症ではないだろう。いつも幻聴や幻覚が聞こえているという人ばかりではないと思う(少しはいると思うが)し、いたとしても適切に医療機関での指導に従って治療していればほとんど聞こえなくなってくるものである。
私の個人的体験だか、ゆっくりと病気が進んだのか、あるときから幻聴や幻覚を自分の独創性であると確信していた教授の方としばらく交流があったが、教授のもとについた博士課程の学生は悲惨だった。結局は、学生たちの知恵と努力で別の教授のもとで研究し論文も書くことになったのだが、ご本人(教授)がその事態を納得し受け入れるまでには相当な紆余曲折があったようである。今ではその教授も教授職と言う重圧からも解放され病気を適切にコントロールしており、健常者と変わらない生活をされている。
古来「神かがり」や「憑依」と言われているものの大半は病魔や薬物の影響、または激しい乱舞(頭の震盪)の結果による幻聴や幻覚、あるいは意識の混濁である。
幻聴や幻覚には、通常の考えとは違う荒唐無稽な内容が混入しているが、所詮は本人の思考を超えるものではない。本人が正常な状態で素晴らしい思考の成果を持っていればそれが表出することもあるだろうが、たいていは本人が空想する範囲であり、図抜けた思考の成果などもともと持っていないので憑依しても出てくるものは大したものはない。昔は身分違いでものが言えない際に、「憑依」を装って、物言いをする演技もあっただろうが、今時の世にははやらないに違いない。
創造性とは、「神かがり」や「憑依」とは関係がない。

2.坊さんの洞察力
抹香臭いと思われるかもしれないが、坊さんの話をしたい。彼らは良く物事を考える。物事をあれこれと考える名人である。坊さんたちが習得する「考える方法」がインド哲学の真髄なのである。ヨーガという名で、仏教以前から、インドの地には物事を考える方法が存在し流布していた。生活の知恵のようなものであったのだろう。その後、各種の宗教に取り入れられて、座禅や瞑想、ヨガなどと呼ばれるようになった。
私も母親がお寺の娘であったので、小さい頃は座禅もさせられたものである。遊びのような座禅だったが、びりびりと心が震えるような体験もした。生理的に物事が考えやすいような姿勢と精神状態を作ることにヨーガの主眼はあるのだが、長年の経験にみかがれた手法に従うと確かに物事がよく考えられる。ヨガや座禅は神かがりでも神秘的行為でもない。生理的・科学的なものであり、行動科学そのものである。私の従弟で高僧と呼ばれる坊さん(元大正大学学部長)もそう言っていたので間違いはないだろう。
広い知識がないと考えは深まらない。しかし、広い知識があれば深い知識に直結するかと言えばそうとは言えない。たくさんの原初的知識(知識の断片)をそうっと頭に抱えたまま、それらの相互のつながりや因果関係を考えてみる。類似性のあるものをまとめてみたり、上位概念(抽象概念)を創ってみては、その具体例がそれに当てはまるのかどうかを考えてみたりする。上位概念と下位概念の間を上に行ったり下に行ったりと忙しい。連想(ネットワーク、リンク)をたどって、とんでもなく離れた事柄なのに、この事例に似ていることの意味を考えてみたりする。ぼんやりと考えていると頭の中ではめまぐるしく、言葉ではいちいち説明できないスピードで、物事の整理、再構築が行われてゆく。本当にボンヤリしているわけではない。寝てしまっているわけでもない。身体の存在も忘れて、「考えること」に専念している状態が続く。それが座禅をしている間続くのである。座禅を終えるとおなかがとてもすいていることに気がつく。目いっぱい頭を使っているのだから糖分を消耗しつくしているのである。粥やふかしイモがうまかった。
ぼんやりと考えていると、自分の死が怖くなったり、人は何のために生きているのかとか、自分は生きている価値があるのかなど、さまざまな思いが巡ってくる。それは相当に本能的なものだろうと思う。生半可な私でさえ、体がバラバラになったかと思うくらいに考えてしまうことがたびたびだった。
長期記憶は側頭葉にあるだけではなく、頭頂葉にも前頭葉にもある。脳内各所にあるそれらの知識の有機的組み合わせが長期記憶である。ぼんやり考えているときには、これらの記憶が次々に海馬に引き出せれて保守されている状態になる。想起される脳内の動作は早く、考えはめまぐるしく進化する。
坊さんは、「ぼんやりと考えること」の訓練を受け、その達人となっている。そのうえ、大変なおしゃべりである。経も読むから声も出る。問答も欠かさないので議論好きである。頭を鍛える上で、良いことばかりしているのである。彼らと話していて、彼らの持つ何気ない言葉一つ一つに優れた洞察力を感ずる。何事に対しても一家言持っているのである。座禅は彼らの考える力の源と無関係ではないに違いない。どこにでも例外はあるので、駄目坊主もいるだろうが、少なくとも私の周囲の坊さんには優れて洞察力のある方が多い。
私は超常現象を信じたり吹聴することは大嫌いである。坊さんたちは超能力によってそうなったのではない。努力してその能力を獲得したのである。
洞察力と創造性が同じとは言わないが、洞察力がなければ創造性は生まれない。
知識の断片を集めて、それを階層的知識の構造に組み立てること。その構造をますます高く、ますます盤石なものにすること、その構造に矛盾がないかどうか、細部をたえず確かめてこそ、いや、それだけではなく、絶えず追加される知識の断片を自分の持つ知識の構造の中に矛盾なく取り入れられるかどうかを常に検証し、矛盾が生ずればその知識の断片の真偽を検証したり潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす勇気を持っていない限り、洞察力は生まれないのではないだろうか。これらに加えて、整理された知識のほかにもとんでもなく離れた知恵の間に類似性や生起した時間的関連性や地上の位置関係や聞いた話の場で聞いた音楽が同じだったりするだけで、なんとなく結びついている危うい連想の糸も知識の海の中にはたくさん埋もれている。これらの連想の糸を手繰ったり切り離したりしながら知識は深められ構築され、まれには破壊され再構築される。構築された知識のピラミッドの上にもピラミッドは積み上げられているし、連想の先にも連想はある。連想の糸(知識のリンクやネットワーク)は基本的には構造を持たないのでめったに再構成されることはないが、ピラミッドのように高く高く構築された知識の概念構造は固く強固なものでなければならないが時としてもろくも崩れて再構築が必要になる。
あっ、これはあれのことだっ! と感ずる瞬間とは、その自分が持つ広大な知識の構造物の端のほうに触れた新しい知識の断片が、無矛盾性が保障された知識の構造の遠いところにある別の知識と一瞬のうちに結びついた瞬間であるように私には思われる。このことによって、新しい概念が突如として必要になったり、古い概念がガラガラと崩れたりする。その結果、以前の常識が壊されて新しい考えが浮かび上がってくる。これが創造性と呼ばれるものであると私は思うのである。創造性が発揮されるための必要な条件とは、以前にえられている知識の構造物のどの部分もできるだけ矛盾のないようにつながれていることである。そうでないならば、つまり、得られた新しい知識の断片は、無矛盾性の糸や柱や壁、配管や電線を伝って遠くの知識と瞬時の付き合わせが可能でなければ、このようなことは全く起こらない。ガラクタのように断片的に知識を集めてあるだけならば、単に新しい断片が入ってくるだけのことで、新しい概念も生まれない。創造性は何一つ存在しないのである。知性なき丸暗記は創造性を生まないのである。

余談:
たった今、私は、「絶えず追加される知識の断片を自分の持つ知識の構造の中に矛盾なく取り入れられるかどうかを常に検証し、矛盾が生ずれば潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす勇気を持っていない限り、洞察力は生まれないのではないだろうか」と書いた。書きながら思い当たることがあった。私も、最近は、この「潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす勇気」がときどきくじけそうになるのである。年をとったのであろう。年寄りが頑固で自説にこだわって、新しいことに柔軟に対応できないとよく言われるが、それはまさしくこのような事態のことである。「潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす」には、膨大な時間と労力が必要である。まずは心のエネルギーが必要で、若くないと手をつけることさえためらわれることになるのである。しかし、これが出来なくなったら、まずは第一線から引退すべきだろう、、、潔く。逆に第一線に立っている以上は、これまで通り、いつでも「潔く自分の持つ知識の構造を根底から覆して構築しなおす」ことにする。トホッ。

3.クリエイターの極意
私の友人にはクリエイターと呼ばれる職種にいる/いた人たちがいる。彼らの職業も過酷なもので、とにかく、新しいものをクリエイトしなければ生活費がいただけないのである。
クリエイタさんとは何をクリエイトしているのか、ご存知だろうか。
クリエイタさんたちの答えを聞いてみよう。一言で言うとご商売では何を「クリエイト」しているのでしょうか?
田中さん=「新しい価値」
鈴木さん=「目新しい絵」
佐藤さん=「新しい広告」
関さん=「新しい生活スタイル」
鈴木さん=「ちょっと補足しますが、クリエイタという言葉は、広くはアーティスト全般のことで、広告業界・IT業界などで使われる言葉です。服飾デザイナ、グラフィックデザイナ、コンピュータグラフィックスの制作者、ゲーム制作者など。たいていは貧乏でよく働く人です」
じゃ、広告業界・IT業界の下職さんのことかい? 鈴木さん=「まぁ、そんなものかな」
関さん=「まってくれよ。そんな俗説でクリエイタをくくっちゃおかしいよ。クリエイタというのは、新しい商品やサービスを:現代においてどんな具合に使うことが出来るのか、新しい生活のスタイルを提案することのできる人のことだぜ」
じゃ、広告の企画屋さんのことかい?
関さん=「おまんまを食べてゆくためには、確かに広告企画をやっているよ。でも、企業にあっては部や課などの改廃や活動規範を創ることもクリエイタの大事な仕事なんだ。最近は商業地域内にあたらしい考え方のお寺をひとつ創ったよ。街そのものをどう作り変えてゆくべきなのかも提案するのはクリエイタなんだぜ」
というわけで、人によって定義は様々で、定まらないが、私の友人たちは、関さんのような立場をとっている/いた。新しい生産活動のスタイルや消費生活のスタイルを提案し、実際にやって見せたりする職人たちである。私も彼らからはかなり影響を受けているし、同じような仕事をしてしまったことも少くない。
彼らの創造(クリエイション)活動はどんな風なのかを少し紹介してみよう。
彼らはまず、たくさんの記憶のポケットを持っているのである。成功事例や失敗事例はもちろん、雑誌や書籍で知らされている事例など、とにかくたくさんの事例とそれぞれの"わけ"を記憶しているのである。もちろん、雑誌や書籍などのハードウエアのデータぺースも巨大である。しかし、ハードとして持っているだけではクリエイションに役立たない。記憶のポケットの中に置くことが大事である。
まず何かのきっかけでことが始まるとしよう。そのきっかけがクライアントの依頼の形である場合もあるし、自分が顧客から謝金をせしめようと仕掛ける場合もあるし、お金とは無関係に遣りたくなってしまったなどのこともある。彼らの心の中には、何かをしなければならないという目的意識が生まれる。目的のためには、現状を変えなければならない。どこをどう変えると目的に達するのか。その手順はどうか。待てよ、人と金と材料はどうやって手配するのか。悩むことばかりであるが、とりあえず頼りになるのは、記憶のポケットにある膨大な事例の記憶データベースである。近い事例が見つかる場合もないとは言えないが、一つの事例では目的に到達しえないことも多い。いくつかの事例のいいところ取りをして道筋を考えてみるのである。記憶のポケットをたどってゆくときにただの事例を見るだけでは利用はできない。成功の理由、失敗の理由。なぜその時そのクリエーターはそれを選んだのかという「わけ」がそれらを探索するときの大きな手かがりである。「たぶんこうすれば、こんな結果になって、こんな効果が見込める」という思いを抱いて、顧客に説明したりする段階となる。しかし、顧客の前でしゃべってみたり(プレゼンテーションという場合もあるが、資料を創って開示してお話しする場合に限ってそう呼ぶことが多い)、現場に行ってみると何かが違う。思うような結果が出ないような気がしてくるのも、クリエイタの能力のうちである。問題に対する鼻が利くのである。そこで、いろいろな妄想を巡らせることになる。こうしたら誰がどうするだろうか。顧客である50歳代の男性の反応はどんなだろうか。また記憶のポケットを探したり、足りなければ図書館に通ったりする。妄想を巡らすと言ったが、実際はシミュレーションである。仮説を立てて、思考実験を繰り返す。実験材料として利用するのは、記憶のポケットにある知識だったり、現場で見た何かだったりする。現場には、本からは得られない100万倍の知識の源泉がある。現場に行かなければものは考えられない。現場や関係者の言葉は矛盾に満ちているし、記憶のポケットにある事例からはかなりはみ出している。一つ一つこれらの矛盾を論理だててつぶしてゆく。顧客の言葉に矛盾を感ずるとそれを問いただしたり、修正を求めたりもする。ここで顧客から嫌われてしまうクリエーターもいないわけではない。しつこいとか、細かいことまで聞くなとか、矛盾するったって両方ともほしいんだよとか、顧客はわがままいっぱいに言ってくる。これらのハードルを乗り越えて、一つの矛盾にない道筋が描けて、実践した結果の成果も見込めることになったら、自らがプロジューサに変身して後を続けるか、別のプロジューサに後を託すことになるのである。
矛盾をつぶしてゆく過程は、長くて気が遠くなるような作業である。この作業が楽しくて楽しくて仕方がないというのがクリエータさんなのである。矛盾をつぶす過程で、過去には誰も遭遇したことのない困難が待ち受けていたりする。そんな経験はクリエーターにとってはまれなことではない。「これぞ、私の仕事だ」と燃え上がるのがクリエータというものである。クリエーターは一生懸命に考える、何かいい事例はないか・・・ないなァ、類例はないのか・・・ないなァ。組み合わせは解決に役立たないのか・・・駄目だコリャ。まてよ、こうやったらどうだ、・・・うまくないなァ。じゃ、こんなのではどうだ、・・・ウン、うまくゆきそう、、、でもだめだなァ。結局これはかなわぬ夢なのか、、、。いったん寝ることにしよう。うとうと、・・・、あっ、そうだ、こんな方法があるぞ。こりぁいけるぞ。俳優を使うのはやめて白いワンちゃんで行こう、やったァ。
という具合である。
目的については十分に考えた、目的にまつわる登場要素の本質についてもそれぞれによく考えてみた、外的な条件についても考えつくした、過去の事例も調べつくした、突破すべき場所ははっきりしている。もはや漫然としたものではないのである。うとうととしたその瞬間、脳内の隠れていた知識が海馬に戻されてメンテされる。その時、必要としていたはめ絵の欠けていた一ピースが見つかるのである。海馬に出てきたのは、この場合、芸達者な白い色のワンちゃんのことだったのである。
こうして、前人未到の広告が出来上がる。クリエータの創造性は高く評価されるのである。クリエータは、「いやいや、そんなぁ、ほめないでくださいよ。うとうと居眠りしているときに思いついただけですから。ものぐさが成功の秘訣ですかね」などと言うかもしれない。クリエータはクリエーションの過程のことを正確に説明する能力を持たないのである。人は、悪戦苦闘しているときのことは忘れてしまうものである。
この場合の創造性とは、地道な知識のポケットの整理や現場の混乱を整理する気の遠くなる作業の果てにあるものである。整理して整理して、なお、埋まらない最後の鎖の輪が見つかった時、その快感はえも言われないものである。しかし、気をつけなければならないのは、最後の輪が最初からあっても何も創造はなかったということである。知識や現実を整理して整理してという苦闘の成果がなければ、最後の輪は意味がないのである。
また、最後の輪が自分の頭の中から見つかるとは限らない。飲み屋で仲間と一杯やっているときに仲間がふと口にしたそれが最後の輪になる場合もある。人には借脳の力があるのだから、それは当り前である。最後の輪を仲間からもらったからと言って、その創造の勲章はその仲間のものだろうか。最後の輪を見出すために悪戦苦闘した本人にこそ大きな勲章をあげるべきである。でもお仲間にもビールの一杯くらいはおごってやるべきだろうけれど。
本人に認めてあげなければならないのは、複雑で膨大な矛盾のかたまりを解きほぐして整理し、目的のために矛盾を解決し続けた努力である。
えっ、目的はどこから来るのかって? 「顧客から来る」と答えるクリエータが多いだろうが、自分でやりたくなることだってある。顧客も自分も、何かの必要性にぶつかって目的を発見するのである。創造の母も「必要性」である。これまでにない必要を発見すれば、その解決には多くの場合は多大な創造性が要求される。

ところで、「最後の輪」が複数あった場合には、なかなか解決が得られない。そんな時は、問題を切り分けてサブ問題を創り、一つのサブ問題には探すべき輪を一つまたは二つになるようにするのである。人は3つ以上の問題を同時に考えるのは下手である。1つまたは2つであれば何とか考えられるのだから。

本稿の最後に、一言。まれには矛盾の解決のためにだけ興味を覚えて目的を忘れてしまう人もいるがクリエータどころか生活人としては失格である。目的に沿った解決とは、実用的に不便でない限りそれもよしとする解決である。必ずしも理論上の細部にわたる整合性を要求されないことを補足しておくことにしよう。「兵は拙速を聞くも、いまだ巧久なるを睹ず」(孫子の兵法)である。拙速を持って始めたことであっても、「助長補短(良い点を伸ばして、短所を補う)」に努めるのが達人の力である。
現実世界での解決の多くは「ヒューリスティックス(経験的解)」である。解析的整合性のある解決はその中のごく一部であることを忘れてはならない。

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琵琶


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地域(地元)の同窓会--交友の記録(57)

2010/09/05
地域(地元)の同窓会--交友の記録(57)

9月4日(土)、今年も地元の地域同窓会(千駄堀同窓会)が開かれた。幹事は地元でタイヤ販売業を営む安蒜弘氏と大農家の主の高橋弘氏の二人である。
二十四、五回目になる同窓会なのだが、初めて聞く人には少し説明がいる。集まる人がすべてどこかの学校で同窓だったというわけではない。もともとは松戸市立高木小学校の出身者でかつ千駄堀に在住する者たちの同窓会だったらしいが、十数年前に私が加わってからはそうとはいえなくなった。
私は馬橋小学校の出身であるが、1980年、市内の前田地区から千駄堀に引っ越してきた。前田地区には父の家があったのでその周辺に住んでいたのだが、父の持ち物だった千駄堀の畑を埋め立てて宅地にしたので、ここに移り住んだのである。ここには、私の弟の家族と姉の家族もそれぞれに家を建てて今も暮らしている。こうしては、私は晴れて千駄堀同窓会の資格を得たのである。とはいえ、千駄堀の同窓会なるものがあると知るのは、もっと後になり、参加したのは1990年代の半ばだったと思う。
私が千駄堀の同窓会のメンバーになったのは「千駄堀に住んでいるから」であって「高木小学校の出身者だったから」ではない。実は、幹事の安蒜弘氏にしても高橋弘氏にしても私にとっては松戸第三中学校(松戸三中)の同級生なのである。こうして、「千駄堀同窓会」は「高木小学校出身者で千駄堀に在住する」という条件を「高木小学校または松戸三中出身者で千駄堀に在住する」というように緩めたのである。「高木小学校の出身者」は、松戸三中、松戸四中、松戸六中にわかれて進学する。「高木小学校の出身者」は必ずしも松戸三中の出身者ではない。今でも、少し離れた地区の出身者になると子供のときにはどんな人だったかよくわからない人もいるのだが、要は、この界隈に子供のころから住んでいる人たちの同窓会なのである。
皆さんはすでに63歳または64歳である。しかし、歌って踊って、しゃべってととにかくみなさん元気である。もっと驚くことに、末永先生という当時の女性の恩師が毎年参加してくださっている。80歳を超えていらっしゃる。いつもニコニコとやさしい先生だったが、今でもその人柄は変わらない。よく飲み、よく食べて話題の中心にいてにぎやかである。「先生、先生」と皆が甘えるのだが、なかなか自分に振り向いてくれないと肩をゆすったり手をひっぱったりする昔の悪ガキがいる。「おい、こら。マサ。うるさすぎるぞ。そこに立っていなさい」などと先生に冗談を言われて、当時の悪ガキだった64歳の爺さんは、直立不動で嬉しそうにしている。
会場はいつものスナック「萩」。ママの料理は、田舎仕込みの煮込み料理が中心である。大きなシイタケ、鶏肉、ニンジン、こんにゃくを煮込んだ煮込みは最高である。一口では口に入りきれないほど大きなレバーと鳥ももの串焼きも圧巻。ヤマメの南蛮漬けは骨まで軟らかい。枝豆も地元でとれた大粒のとびきりおいしい奴である。参加者が作ってきたかき餅などもテーブルには乗って出る。特大のエビと白身魚のフライもうまい。
私のすぐあとにやってきたのはヨーコである。数年ぶりだが、生まれた家が近くて、生まれたての首が据わっていないころからのお遊び仲間の一人である。ヨーコはすっかり地元の名士で、ボランティア活動や地元の各学校の公式の同窓会の幹部などを兼ねている。ヨーコは私の姿を見つけると横にやってきて、座り込むと安心したように私を含む周りの連中とおしゃべりして飲んで、歌う。ヨーコは私とは同い年だが、オシャマで、いつも私のお姉さん役をやっていた。久しぶりに弟分を見つけてうれしかったに違いない。私に向かって、「あんた、太りすぎじゃない。痩せなさいよ」「運動ちゃんとやってる?」「仕事忙しくても体が大事なんだからね」などと、すぐにお姉さん風を吹かせていた。すいませ~ん、と素直になっている私がそこにはいた。
そうこうするうちに、現役農家の皆さんが連れだって遅れてやってきた。今年は暑くて稲の稔りが早くて、もう稲刈りだったのだ。いやー、今日も暑かったね、と口ぐちに叫ぶようにしながらそれぞれが席に着く。まずは、ジョッキを何と2杯ずつ飲みほしてから、つまみ類に手を伸ばす。冷たいビールがうまいよ、と、皆さんの声には実感がこもっている。
末永先生とお世話になっているスナックのママさんに、花束贈呈。幹事たちの心づかいである。拍手、拍手。・・・、やっと、カラオケの解禁。待っていましたと歌自慢、のど自慢が舞台に殺到する。我先に歌う。歌いつつ舞台で踊る人もいる。うまい下手は関係ないが、プロ級の人が数名いるので、うかつにしていると有線放送を聞いているような気になって、ふと振り返ると生歌と気づくような人もいる。女性では、かつて、歌手デビューを目指して本格的にレッスンを積みレコードを出した人もいるのだから、当然かもしれない。「これからという時に、早く嫁になってくれって今の亭主にせがまれてあきらめたのよ」とはその元お嬢さんのご説明でした。「ヒェ、ヒェー」とはやし立てる声が上がる。男性ももともとの職業は何だったの? と聞きたくなるほどうまい人がいる。私は、もっぱら聞き役で、拍手で盛り上げる。
あっという間に、夜9時。息子が迎えに来て、真っ先に帰る。皆さんはこれからが本番とばかりに盛り上がっている。仕方がないか、明日も職場では朝8時からの早朝会議が待っている・・・。
皆さんを残して、外に出ると、暗闇の中から乗用車のヘッドライトが近づいてきて聞き覚えのある犬の声が響く。同乗してきた我が家の愛犬様が遠くから私の姿を発見して呼んでいるのである。はいはい、お父さんは一緒に帰りますよ。

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第66回SH情報文化研究会&SIGEDU ジョイントフォーラム--感性的研究生活(54)

2010/09/04
第66回SH情報文化研究会&SIGEDU ジョイントフォーラム--感性的研究生活(54)

9月3日(金)、北区滝野川会館で第66回SH情報文化研究会&SIGEDU ジョイントフォーラムが開かれた。SIGEDUの平野正喜さんとのご縁で、年に一度開かれるジョイントフォーラムである。
今回も、平野正喜さんには大変なお世話になった。
私も発表者になったが、いろいろな準備が整わず、先日の名古屋の会の発表資料をそのまま使用しての二番煎じの発表となった。
それでも、君島さん以外は初めて聞く聴衆なので、良いことにさせていただいた。

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第66回SH情報文化研究会&SIGEDU ジョイントフォーラム
納涼特別企画~ビール片手に~
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「教育と技術の最前線2010」

今年の9月月例会は、昨年に続き、以前から参加者どうしの交流が多かった
SH情報文化研究会とのジョイントフォーラムを企画しました。
双方からの登壇者が話題を提供する形式で、
それぞれの立場から、教育と技術の最前線における話題を俎上に乗せ、
秋の夜長のクロス・ディスカッションが広がることを狙っています。
納涼を兼ねて、最初からビールとつまみをご用意いたします。
飲み物とおつまみは持ち込み大歓迎です。
奮ってご参加ください。

■ 日時: 2009年9月3日(金) 18:15-20:30
■ 場所: 滝野川会館内「滝野川文化センター」
       集会室 301
 〒114-0024 東京都北区西ヶ原1-23-3(滝野川会館内)
         tel.03-5394-1230 /fax 03-5394-1231
 JR京浜東北線「上中里駅」下車 徒歩7分
 地下鉄南北線「西ヶ原駅」下車 徒歩7分
 http://www2.wagamachi-guide.com/kita/apps/map.asp?it=0&id=76
 http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/facility/052/005224.htm
■ 話題提供者とテーマ(発表順未定・敬称略):
 SIGEDU
  若山昇「クリティカルシンキングにおけるICTの活用」
   帝京大学
 SH情報文化研究会
  飯箸泰宏「"衝撃"と"セクシーアクション"」
   慶応義塾・法政・明治大学 講師、サイエンスハウス代表
■ SH情報文化研究会幹事: 飯箸泰宏・貴美子
■ ビール片手に、口から泡の議論を予定しています。
■ 参加費: ¥1,000(SEA会員、学生の割引はありません)
■ 懇親会: 有志で、ご自由に。

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SIGEDUを代表して、帝京大学の若山昇先生が「クリティカルシンキングにおけるICTの活用」と題する発表をされた。内容は、ネットでテストを実施してみましたという意欲的な活動の報告で、興味深いものだった。
実は、ネットを介する授業やテストについては、ずいぶん昔から試みられているのだが、実際の事例を詳細にわたって聞く機会はまれで、思わず聞きいってしまった。
案の定、なり済まし・替え玉受験に対する対策で困難があるという。
平野正喜さんからは全国の大学が相互に提携して、地方の学生が受験する時には地方の大学の情報教室に集まって試験を受けるなどの解決策があるのではないかとの提案があった。企業研修や採用試験などではこの方法が一番の解決策になっているという報告がされた。
続いて、私も、北海道情報大学の成功例(経営難で撤退済み)、放送大学の学習センター方式の成功事例をお話して、他方ではサイバー大学の苦戦、信州大学のネット授業からスクーリング重視への回帰の実態などをお話して、ネットだけで授業をすることの困難性とある程度の解決策のお話をした。
また、日米の医学教育の違いを例に、日本ではFACE to FACEの教育以外は定着しにくいことも指摘した。
日本では、ネット教育にかかるコスト(時間と労力)をどういうわけか教員個人が相当程度負担しなければならない現状がブレーキをかけている事情も説明した。
続く私の報告「"衝撃"と"セクシーアクション"」は、SH情報文化研究会側の発表だが、名古屋での発表とほぼ同一なので、ここでの紹介は省く。ただし、SH情報文化研究会のメンバーや東京のSIGEDUのみなさんにとっては初めての話なので、それなりのインパクトはあったようである。

この後は、第二部となり、飛び入りの発言が2つあった。
1つ目は、中本浩之氏(彩考電算システム)による「内需拡大」のお話。2つ目は矢ヶ部一之先生(東洋大学)による「大学教育における悲しむべき現状」であった。いずれも喧々諤々の議論となったが、いずれも時間切れとなった。
もっと話したいねと、次回を期して、散会となった。
ビールは少し残ったが、肉団子やキムチセット、あられの類などのおつまみ、おにぎりなどはほぼ完売。ずいぶんと賑やかな研究フォーラムは終わった。
SIGEDU関係では、森泉さんの参加、SH情報文化研究会の関係では数独の藤原さん、松本さんの参加があった。藤原さん(タイムインターメディア)は、自作の数独パズル自動生成ソフトをノートパソコンに入れて来ていたので、皆に披露してもらいたかったのだが、時間が足りなかった。松本直樹さんは、アフリカ向けの自動車販売業(http://www.logan.jp)を始められたばかりということで、これも皆さんにご披露できればよかったのにとまことに残念だった。


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